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第二十五章 — 象元象元

道徳経(道と徳を説く経典) 道德經 · 老子、注釈 王弼・河上公 · 紀元前4〜3世紀(王弼の注は3世紀) · 段落 12 · 漢字 86字 · 朗読 0.3分

道徳経(道と徳を説く経典) 道経 八十一章、五千字。墓から出た帛書本は今日用いる版本と字が異なり、同じ句をめぐって読みの分かれる箇所が多い。王弼は哲学として、河上公は治めと養生として読む。

1混じり合って成ったものがある

有物混成,先天地生。

混じり合って成ったものがあり、天地より先に生じた。

注 2
王弼

混然不可得而知,而萬物由之以成,故曰混成也。不知其誰之子,故先天地生。

混じり合っていて知ることができないが、万物はこれによって成る。だから、混じり合って成った、といった。誰の子なのか知れないので、天地より先に生じた。

河上公

謂道無形,混沌而成萬物,乃在天地之前。

道は形がなく、混沌としたままで万物を成すので、天地より前にあるという意味である。

2ひとり立って変わらない

寂兮寥兮,獨立而不改,

静かでうつろであり、ひとり立って変わらず、

注 2
王弼

寂寥,無形體也。無物之匹,故曰獨立也。返化終始,不失其常,故曰不改也。

寂寥とは、形も体もないことである。並ぶ物がないので、ひとり立つといった。めぐり変わって終わり始まりながら、その常なるものを失わないので、変わらないといった。

河上公

寂者,無音聲。寥者,空無形。獨立者,無匹雙。不改者,化有常。

寂とは音も声もないことであり、寥とはうつろで形がないことである。ひとり立つとは並ぶものがないことであり、変わらないとは、変化していくうちに常なるものがあることである。

3天下の母となることができる

周行而不殆,可以為天下母。

あまねくめぐって危うくならないので、天下の母となることができる。

注 3
王弼

周行無所不至而免殆,能生全大形也,故可以為天下母也。

あまねくめぐって至らないところがないのに危うさを免れ、大きな形を生んで全うすることができる。だから天下の母となることができる。

河上公

道通行天地,無所不入,在陽不焦,託蔭不腐,無不貫穿,而不危怠也。

道は天地をあまねくめぐって入らないところがなく、日なたにあっても焦げず、陰に宿っても朽ちず、貫き通さないものがなく、危うくも怠くもならない。

河上公

道育養萬物精氣,如母之養子。

道が万物の精気を育て養うのは、母が子を養うのと同じである。

4私はその名を知らない

吾不知其名,

私はその名を知らないので、

注 2
王弼

名以定形,混成無形,不可得而定,故曰,不知其名也。

名は形を定めるものだが、混じり合って成ったものには形がなく、定めることができない。だから、その名を知らない、といった。

河上公

我不見道之形容,不知當何以名之,見萬物皆從道所生,故字之曰道。

私は道の姿を見ないので何と名づけるべきか分からないが、万物がみな道から生じるのを見たので、字を道といった。

5字をつけて道という

字之曰道,

字をつけて道といい、

注 1
王弼

夫名以定形,字以稱可言,道取於無物而不由也。是混成之中,可言之稱最大也。

そもそも名は形を定め、字は言うことのできるものを呼ぶ。道とは、物がないのにこれによらないものがない、というところから取った。これは混じり合って成ったもののうちで、言うことのできる呼び名として最も大きい。

6しいて名づけて大という

強為之名曰大。

しいて名づけて大という。

注 2
王弼

吾所以字之曰道者,取其可言之稱最大也。責其字定之所由,則繫於大,大有繫,則必有分,有分則失其極矣。故曰,强為之名曰大。

私が字をつけて道といったのは、言うことのできる呼び名のうちで最も大きいものを取ったのである。その字を定めた理由を問い詰めれば、大に繋がれる。大に繋がれるものがあれば必ず分かれがあり、分かれがあればそのきわまりを失う。だから、しいて名づけて大という、といった。

河上公

不知其名,強曰大者,高而無上,羅而無外,無不包容,故曰大也。

その名を知らないのにしいて大といったのは、高くてその上がなく、広がってその外がなく、容れないものがないので、だから大といったのである。

7大であれば行き

大曰逝,

大であれば行き、

注 2
王弼

逝,行也。不守一大體而已。周行無所不至,故曰逝也。

逝とは行くという意味である。一つの大きな体だけを守りはしない。あまねくめぐって至らないところがないので、行くといった。

河上公

其為大,非若天常在上,非若地常在下,乃復逝去,無常處所也。

その大きさは、天のように常に上にあるのでもなく、地のように常に下にあるのでもなく、また行き去って、常に留まる場所がない。

8行けば遠ざかり、遠ざかれば返る

逝曰遠,遠曰反。

行けば遠ざかり、遠ざかれば返る。

注 3
王弼

遠,極也。周無所不窮極,不偏於一逝,故曰遠也。不隨於所適,其體獨立,故曰反也。

遠とはきわまりである。あまねくめぐって突き詰めないところがなく、一度の行きに偏らないので、遠いといった。行く先に従わず、その体がひとり立つので、返るといった。

河上公

言遠者,窮乎無窮,布氣天地,無所不通也。

遠いとは、果てのないところまで突き詰め、気を天地に広げて通じないところがないという意味である。

河上公

言其遠不越絕,乃復反在人身也。

その遠さは断ち切れて離れてしまうのではなく、また返って人の身にあるという意味である。

9王もまた大きい

故道大,天大,地大,王亦大。

だから道は大きく、天は大きく、地は大きく、王もまた大きい。

注 2
王弼

天地之性,人為貴,而王是人之主也。雖不職大亦復為大與三匹,故曰,王亦大也。

天地の性のうちで人が貴く、王は人の主である。大を司るわけではないが、やはり大とされて三つと並ぶ。だから、王もまた大きい、といった。

河上公

道大者,包羅天地,無所不容也。天大者,無所不蓋也。地大者,無所不載也。王大者,無所不制也。

道が大きいとは、天地を包み込んで容れないものがないことである。天が大きいとは覆わないものがないことであり、地が大きいとは載せないものがないことであり、王が大きいとは治めないものがないことである。

10域の中に四つの大きなものがある

域中有四大,

域の中に四つの大きなものがあり、

注 2
王弼

四大,道、天、地、王也。凡物有稱有名,則非其極也,言道則有所由,有所由然後謂之為道,然則是道,稱中之大也,不若無稱之大也。無稱不可得而名曰域也,道天地王皆在乎無稱之內,故曰,域中有四大者也。

四つの大きなものとは、道と天と地と王である。そもそも物に呼び名があり名があれば、それはそのきわまりではない。道といえば由るところがあり、由るところがあって後にこれを道という。とすればこの道は、呼び名のうちで大きいものであって、呼び名のない大きさには及ばない。呼び名がなければ名づけることができないので域といった。道と天と地と王はみな呼び名のないもののうちにある。だから、域の中に四つの大きなものがある、といった。

河上公

四大,道、天、地、王也。凡有稱有名,則非其極也。言道則有所由,有所由然後謂之為道,然則是道稱中之大也,不若無稱之大也,無稱不可而得為名,曰域也。天地王皆在乎無稱之內也,故曰域中有四大者也。

四つの大きなものとは、道と天と地と王である。そもそも呼び名があり名があれば、それはその至りのものではない。道といえば始まるところがあり、始まるところがあって後にそれを道と呼ぶ。とすればこれは呼び名のあるもののうちで大きいものであり、呼び名のない大きさには及ばない。呼び名のないものは名づけられないので域といった。天と地と王はみな呼び名のないもののうちにあるので、だから域の中に四つの大きなものがある、といった。

11王はその一つを占める

而王居其一焉。

王はその一つを占める。

注 2
王弼

處人主之大也。

人の主であるという大に身を置く。

河上公

八極之內有四大,王居其一也。

八方の果ての内に四つの大きなものがあり、王はその一つを占める。

12道はおのずからそうであることを手本とする

人法地,地法天,天法道,道法自然。

人は地を手本とし、地は天を手本とし、天は道を手本とし、道はおのずからそうであることを手本とする。

注 5
王弼

法,謂法則也。人不違地,乃得全安,法地也。地不違天,乃得全載,法天也。天不違道,乃得全覆,法道也。道不違自然,乃得其性,法自然者。在方而法方,在圓而法圓,於自然無所違也。自然者,無稱之言,窮極之辭也。用智不及無知,而形魄不及精象,精象不及無形,有儀不及無儀,故轉相法也。道順自然,天故資焉。天法於道,地故則焉。地法於天,人故象焉。所以為主其一之者,主也。

法とは手本とするという意味である。人が地に背かなければ全く安らかでいられるので、地を手本とするのである。地が天に背かなければ全く載せることができるので、天を手本とするのである。天が道に背かなければ全く覆うことができるので、道を手本とするのである。道がおのずからそうであることに背かなければその性を得るので、おのずからそうであることを手本とするのである。四角いところにあれば四角さを手本とし、丸いところにあれば丸さを手本として、おのずからそうであることに背くところがない。おのずからそうであることとは、呼び名のない言葉であり、突き詰めきった言葉である。知恵を用いることは知るところのないことに及ばず、形と魄は精なる象に及ばず、精なる象は形のないことに及ばず、立ち居があることは立ち居のないことに及ばない。だから順に互いを手本とするのである。道がおのずからそうであることに従うので天はこれを元手とし、天が道を手本とするので地はこれを手本とし、地が天を手本とするので人はこれにならう。その一つを主とするのは、主であるからである。

河上公

人當法地安靜和柔也,種之得五穀,掘之得甘泉,勞而不怨也,有功而不置也。

人はまさに地の安らかで静かで和らかなところを手本とすべきである。植えれば五穀を得、掘れば甘い泉を得、労しても怨まず、功があっても誇らない。

河上公

天澹泊不動,施而不求報,生長萬物,無所收取。

天は淡々として動かず、施しても報いを求めず、万物を生み育てながら、取り上げるものがない。

河上公

道清靜不言,陰行精氣,萬物自成也。

道は清く静かで言葉がなく、ひそかに精気を働かせるので、万物はおのずから成る。

河上公

道性自然,無所法也。

道の性はおのずからそうであって、手本とするものがない。