柳子厚の「守道論」に反駁する反柳子厚守道論
柳子厚著論曰。守道不如守官。是非聖人之言。傳之者誤也。皮冠者。虞人之物也。物者。道之準也。守其物由其準。而後其道存焉。苟舍之。是失道也。官者。道之器。未有守道而失官者。而曰守道不如守官。蓋亦喪其本矣。柳子之此說。誠然矣。然予以爲此特極於上智者而論之耳。非聖人所以汎爲人而論之者也。何則。苟曰守官不如守道。則其若上智之人。能知道之爲守官之本。官之爲行道之器。而得守其本。則所謂器者。亦從而不喪。如柳子之說矣。若中下人者。未知道之爲守官之本。妄求道之所在。自以爲能守其道。而忽於守官。因以隳職喪局。則不旋踵蹈其禍矣。官可守歟。是喩人而陷於不義。烏在其爲聖人之言耶。苟以爲守道不如守官。而努力恪謹。能守其官。則亦庶幾於道矣。道豈不存乎。聖人言守道不如守官。是乃言守道者也。但言有先後耳。其意未始不同矣。是聖人所以優而柔之。使自求之之義也。何謂傳之者誤歟。
柳子厚は論を書いて言った。「道を守るのは官を守るに及ばない」というのは聖人の言葉ではなく、伝えた者が誤ったのである。皮の冠は虞人の持ち物である。物は道の基準である。その物を守り、その基準に従ってはじめて、その道が存する。もしこれを捨てれば、それは道を失うことである。官は道の器である。道を守って官を失った者はいない。それなのに「道を守るのは官を守るに及ばない」というのは、やはりその根本を失ったものである。
柳子のこの言葉はまことにそのとおりである。しかし私が思うに、これはただ、きわめて賢い者に限って論じただけであって、聖人が広く人のために論じたものではない。なぜか。もし「官を守るのは道を守るに及ばない」と言うなら、きわめて賢い人は、道が官を守る根本であり、官が道を行う器であることを知って、その根本を守れるのだから、いわゆる器もまた、それに従って失われない。柳子の言うとおりである。
しかし中くらいの人や下の人は、道が官を守る根本であることを知らず、みだりに道のある所を求め、みずからその道を守れると思って、官を守ることをおろそかにする。そのために職務を崩し、立場を失えば、踵を返すひまもなくその禍を踏む。官を守れようか。これは人を諭して不義に陥れるものであり、どこに聖人の言葉たるところがあろうか。
もし「道を守るのは官を守るに及ばない」として、力を尽くして慎み、その官を守ることができるなら、それもまた道に近いだろう。道がどうして存しないことがあろうか。聖人が「道を守るのは官を守るに及ばない」と言ったのは、すなわち道を守ることを言ったのである。ただ言葉に先と後があるだけで、その意味ははじめから違わない。これは聖人がゆるやかにやわらかく導いて、みずから求めさせようとする意味である。どうして伝えた者が誤ったといえようか。