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『唐書』杜甫伝に付けた史臣の賛についての議論唐書杜甫傳史臣贊議

東国李相国集(東国の李相国の文集) 東國李相國集 · 李奎報(イ・ギュボ) · 1241年(高麗・高宗28年)編 · 1251年に改め補う · 段落 1 · 漢字 351字 · 朗読 3.2分

東国李相国集(東国の李相国の文集) 前集 巻22 高麗の李奎報が生涯に作った文章を、子の李涵が1241年に編んで刻み、孫の李益培が1251年に改め補った文集。詩と賦、王に奉った表と箋、寺と塔に付けた記、碑銘と墓誌銘、手紙と序文、そしてモンゴルが攻め入った時に行き交った国書までが収められている。高句麗の始祖を歌った「東明王篇」が前集の巻3にあり、酒と琴と詩を友として自ら白雲居士と名のった人の一日一日が後集に残っている。書は、彼が目を病んで筆を置く最後の詩と、彼が死んだ後に他の人が作って付けた誄書・墓誌銘で閉じる。

予讀唐書杜子美傳。史臣作贊。美其詩之汪涵萬狀。固悉矣。其末繼之曰。韓愈於文章愼許可。至歌詩獨推曰。李杜文章在。光焰萬丈長。予以爲此則褒之不若不褒也。何則。士有潛德內朗。不大震耀於世者。史臣於直筆之際。力欲揚暉發華。以信於後世。而猶恐人之有以爲譽之過當。則引名賢之辭。憑以爲固可也。至如李杜則其詩如熊膰豹胎。無有不適於人口者。其名固已若雷霆星斗。世無不仰其光駭其響者。非必待昌黎詩之一句。然後益顯者也。宋公何苦憑證其句。自示史筆之弱耶。引其詩或可。其曰愼許可。甚矣。凡言某人愼許可人。而獨許可某人者。猶有慊之之意也。愈若不許可。而無此一句。則史臣其不贊之耶。嗚呼。史臣之言弱也。此贊亦引元稹所謂自詩人已來未有如子美者。此則微之所以直當杜甫切評。而論之者雖引之或可矣。若退之之一句。則將贈友人而偶發於章句者。而非特地論杜公者也。然韓愈。大儒也。雖一句非妄發者。引之或可也。如不言愼許可。則宋公之言。免於弱也。

私が『唐書』の杜子美の伝を読むと、史臣が賛を作り、その詩が万の姿を広く含んでいることを称えて、まことに行き届いていた。その末に続けて言う。「韓愈は文章について認めることを慎んだが、歌や詩に至ってはただ一人、「李白と杜甫の文章があって、輝く炎は万丈の長さだ」と推した。」

私は、これこそ褒めるのが褒めないのに及ばないものだと思う。なぜか。士のなかに、隠れた徳が内に明るいが、世に大きく鳴り響いていない者がいて、史臣がまっすぐな筆を執るとき、力を尽くしてその輝きを広め花を咲かせ、後の世に信じさせようとしながら、それでも人が褒めすぎだと思うことを恐れるのであれば、名高い賢人の言葉を引いて、それに寄りかかって固めるのが良い。

李白や杜甫のような者に至っては、その詩は熊の掌や豹の胎のようで、人の口に合わないものがなく、その名はまことにすでに雷や星のようで、世にその光を仰ぎその響きに驚かない者はない。必ずしも昌黎の詩の一句を待ってはじめて、いよいよ現れるものではない。宋公は何を苦しんで、その句を引いて証とし、みずから史筆の弱さを示すのか。

その詩を引くのは、まだ良い。しかし「認めることを慎んだ」と言ったのは言い過ぎである。およそ、ある人が他人を認めることを慎むのに、ただ某だけを認めたと言うのは、なおその人を不満に思う意味がある。韓愈がもし認めず、この一句がなかったなら、史臣は彼を賛しなかったのか。ああ、史臣の言葉は弱い。

この賛はまた、元稹のいわゆる「詩人があってから、杜子美のような者はいない」という言葉を引いている。これは元稹がまっすぐに杜甫を切実に評したものだから、論ずる者がこれを引くのはまだ良い。しかし韓退之の一句は、友人に贈ろうとしてたまたま文句に出たものであって、特に杜公を論じたものではない。とはいえ韓愈は大儒であり、一句であってもみだりに出したものではないから、これを引くのはまだ良い。もし「認めることを慎んだ」と言わなかったなら、宋公の言葉は弱さを免れたであろう。