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『唐書』が崔致遠の列伝を立てなかったことについての議論唐書不立崔致遠列傳議

東国李相国集(東国の李相国の文集) 東國李相國集 · 李奎報(イ・ギュボ) · 1241年(高麗・高宗28年)編 · 1251年に改め補う · 段落 1 · 漢字 336字 · 朗読 3分

東国李相国集(東国の李相国の文集) 前集 巻22 高麗の李奎報が生涯に作った文章を、子の李涵が1241年に編んで刻み、孫の李益培が1251年に改め補った文集。詩と賦、王に奉った表と箋、寺と塔に付けた記、碑銘と墓誌銘、手紙と序文、そしてモンゴルが攻め入った時に行き交った国書までが収められている。高句麗の始祖を歌った「東明王篇」が前集の巻3にあり、酒と琴と詩を友として自ら白雲居士と名のった人の一日一日が後集に残っている。書は、彼が目を病んで筆を置く最後の詩と、彼が死んだ後に他の人が作って付けた誄書・墓誌銘で閉じる。

按唐書藝文志。載崔致遠四六一卷又桂苑筆耕二十卷。自注云。高麗人。賓貢及第。爲高騈淮南從事。予讀之。未嘗不嘉其中國之曠蕩無外。不以外國人爲之輕重。而旣令文集行於世。又載史如此者。然於文藝列傳。不爲致遠特立其傳。予未知其意也。若以爲其行事不足以立傳。則崔孤雲年十二。渡海入中華游學。一擧甲科及第。遂爲高騈從事。檄黃巢。巢頗沮氣。後官至都統巡官侍御史。及將還本國。同年顧雲贈儒仙歌。其略曰。十二乘船過海來。文章感動中華國。其迹章章如此。以之立傳。則固與文藝所載沈佺期,柳幷,崔元翰,李頻輩之半紙列傳有間矣。若以外國人。則已見于志矣。又於藩鎭虎勇。則李正己,黑齒常之等。皆高麗人也。各列其傳。書其事備矣。奈何於文藝。獨不爲孤雲立其傳耶。予以私意揣之。古之人於文章。不得不相嫌忌。況致遠以外國孤生入中朝。躪躒時之名輩。是近於中國之嫌者也。若立傳直其筆。恐涉其嫌。故略之歟。是予所未知者也。

『唐書』の芸文志を見ると、崔致遠の『四六』一巻と、また『桂苑筆耕』二十巻が載っていて、みずから注して「高麗の人である。賓貢科に及第して高騈の淮南従事となった」とある。私はこれを読んで、中国の広く大きいことが外を置かず、外国の人だからといって軽んじたり重んじたりせず、すでに文集を世に行わせ、また史にこのように載せたことを、立派だと思わないことはなかった。

しかし文芸列伝に、崔致遠のために別にその伝を立てなかったのは、私にはその意図が分からない。もしその行いが伝を立てるに足りないと考えたのなら、崔孤雲は十二歳で海を渡って中国に入って学び、一度で甲科に及第し、ついに高騈の従事となった。黄巣に檄を送ると、黄巣はかなり気をくじかれた。後に官は都統巡官侍御史に至った。本国に帰ろうとしたとき、同年の顧雲が「儒仙歌」を贈り、その大略に「十二で船に乗って海を渡って来て、文章が中華の国を感動させた」とある。その跡はこのようにはっきりしている。

これで伝を立てるなら、まことに文芸に載った沈佺期・柳幷・崔元翰・李頻らの半紙ほどの列伝とは差があろう。もし外国の人だからというのなら、すでに志に見えている。また藩鎮の勇猛な者としては、李正己や黒歯常之などがみな高麗の人であるのに、それぞれその伝を並べ、その事を備えて書いている。それなのに、どうして文芸においてだけ、孤雲のためにその伝を立てなかったのか。

私が私の考えで推し量ってみると、昔の人は文章について互いに嫌い妬まずにはいられなかった。まして崔致遠は外国の孤独な書生として中国の朝廷に入り、その時の名高い人々を踏み越えたのだから、これは中国の嫌うところに近い。もし伝を立ててその筆をまっすぐにすれば、その嫌うところに触れるのを恐れて、それで省いたのか。これが私には分からないところである。