いにしえの文 › 東国李相国集(東国の李相国の文集) › 前集 巻22

韓愈が雲と龍を論じた雑説の後に書く書韓愈論雲龍雜說後

東国李相国集(東国の李相国の文集) 東國李相國集 · 李奎報(イ・ギュボ) · 1241年(高麗・高宗28年)編 · 1251年に改め補う · 段落 1 · 漢字 288字 · 朗読 2.7分

東国李相国集(東国の李相国の文集) 前集 巻22 高麗の李奎報が生涯に作った文章を、子の李涵が1241年に編んで刻み、孫の李益培が1251年に改め補った文集。詩と賦、王に奉った表と箋、寺と塔に付けた記、碑銘と墓誌銘、手紙と序文、そしてモンゴルが攻め入った時に行き交った国書までが収められている。高句麗の始祖を歌った「東明王篇」が前集の巻3にあり、酒と琴と詩を友として自ら白雲居士と名のった人の一日一日が後集に残っている。書は、彼が目を病んで筆を置く最後の詩と、彼が死んだ後に他の人が作って付けた誄書・墓誌銘で閉じる。

愈之說曰。龍噓氣成雲。雲亦靈怪矣。龍之使能爲靈也。若龍之靈。非雲之所使靈也。然龍不乘雲。無以神其靈。異乎。其所憑依。乃所自爲也。韓之說如此。予謂之曰。非獨龍也。人亦猶爾。言龍而不及人。何也。詳味韓之意。以龍而喩人。喩人而不及人。欲令意有所蓄而不直洩也。夫粲乎文章。鬱乎詞氣。皆人之所自吐也。絢焉爲錦繡羅縠。峭焉爲高峯絶岸。舒也卷也彤也靑也。皆類雲之紛紜翕霍千狀萬態也。則可謂靈怪矣。其靈也。乃人之所自爲。而非文章才藝之能靈人也。然人不憑文章才藝。亦無以神其靈也。且乖龍不能興雲。唯神龍然後興之。則非雲之靈其龍審矣。然龍不乘雲。無以神其靈。庸人不能吐文章詞氣。唯奇人然後吐之。則文章之不能靈人亦審矣。然人不憑文章。亦無以神其靈。則神龍與詩人之變化一也。請以此洩韓之微也。

韓愈の言葉はこうである。「龍が気を吐いて雲を成す。雲もまた霊妙で怪しい。龍がそれを霊妙にできるようにしたのである。龍の霊妙さは、雲が霊妙にしたのではない。しかし龍が雲に乗らなければ、その霊妙さを神妙にする手だてがない。不思議なことだ。その頼るところが、すなわちみずから作ったものである。」

韓愈の言葉はこのようである。私は言う。龍だけではなく、人もまたそうである。龍を言いながら人に及ばなかったのはなぜか。韓愈の意をよく味わえば、龍で人をたとえたのである。人をたとえながら人に及ばなかったのは、意に蓄えるところを持たせて、まっすぐに漏らすまいとしたのである。

およそきらめく文章と、こもる言葉の気は、みな人がみずから吐き出したものである。美しくは錦や綾や薄絹となり、険しくは高い峰や切れた崖となり、伸び、巻き、赤く、青くなるのは、みな雲が乱れ集まり散って千の形、万の姿となるのと同じであるから、霊妙で怪しいといえる。その霊妙さは、すなわち人がみずから作ったものであって、文章や才芸が人を霊妙にできるのではない。しかし人が文章や才芸に頼らなければ、やはりその霊妙さを神妙にする手だてがない。

また、くじけた龍は雲を起こせず、ただ神妙な龍であってはじめて起こすのだから、雲がその龍を霊妙にするのではないことは明らかである。しかし龍が雲に乗らなければ、その霊妙さを神妙にする手だてがない。凡庸な人は文章や言葉の気を吐き出せず、ただ優れた人であってはじめて吐き出すのだから、文章が人を霊妙にできないこともまた明らかである。しかし人が文章に頼らなければ、やはりその霊妙さを神妙にする手だてがない。であれば、神妙な龍と詩人の変化は一つである。これによって韓愈のひそかな意を明かしたい。