いにしえの文 › 東国李相国集(東国の李相国の文集) › 前集 巻22

詩のなかの微かな趣をおおまかに論ずる論詩中微旨略言

東国李相国集(東国の李相国の文集) 東國李相國集 · 李奎報(イ・ギュボ) · 1241年(高麗・高宗28年)編 · 1251年に改め補う · 段落 1 · 漢字 616字 · 朗読 5.7分

東国李相国集(東国の李相国の文集) 前集 巻22 高麗の李奎報が生涯に作った文章を、子の李涵が1241年に編んで刻み、孫の李益培が1251年に改め補った文集。詩と賦、王に奉った表と箋、寺と塔に付けた記、碑銘と墓誌銘、手紙と序文、そしてモンゴルが攻め入った時に行き交った国書までが収められている。高句麗の始祖を歌った「東明王篇」が前集の巻3にあり、酒と琴と詩を友として自ら白雲居士と名のった人の一日一日が後集に残っている。書は、彼が目を病んで筆を置く最後の詩と、彼が死んだ後に他の人が作って付けた誄書・墓誌銘で閉じる。

夫詩以意爲主。設意尤難。綴辭次之。意亦以氣爲主。由氣之優劣。乃有深淺耳。然氣本乎天。不可學得。故氣之劣者。以雕文爲工。未嘗以意爲先也。蓋雕鏤其文。丹靑其句。信麗矣。然中無含蓄深厚之意。則初若可翫。至再嚼則味已窮矣。雖然。凡自先押韻。似若妨意。則改之可也。唯於和人之詩也。若有險韻。則先思韻之所安。然後措意也。至此寧且後其意耳。韻不可不安置也。句有難於對者。沈吟良久。想不能易得。則卽割棄不惜。宜矣。何者。計其間儻足得全篇。而豈可以一句之故。至一篇之遲滯哉。有及時備急則窘矣。方其搆思也。深入不出則陷。陷則着。着則迷。迷則有所執而不通也。惟其出入往來。左之右之。瞻前顧後。變化自在。而後無所礙而達于圓熟也。或有以後句救前句之弊。以一字助一句之安。此不可不思也。純用淸苦爲體。山人之格也。全以姸麗裝篇。宮掖之格也。惟能雜用淸警雄豪姸麗平淡然後備矣。而人不能以一體名之也。詩有九不宜體。是予所深思而自得之者也。一篇內多用古人之名。是載鬼盈車體也。攘取古人之意。善盜猶不可。盜亦不善。是拙盜易擒體也。押強韻無根據處。是挽弩不勝體也。不揆其才。押韻過差。是飮酒過量體也。好用險字。使人易惑。是設坑導盲體也。語未順而勉引用之。是強人從己體也。多用常語。是村父會談體也。好犯語忌。是凌犯尊貴體也。詞荒不删。是莨莠滿田體也。能免此不宜體格。而後可與言詩矣。人有言詩病者。在所可喜。所言可則從之。否則在吾意耳。何必惡聞。如人君拒諫終不知其過耶。凡詩成。反覆視之。略不以己之所著觀之。如見他人及平生深嫉者之詩。好覓其疵失。猶不知之。然後行之也。凡所論。不獨詩也。文亦幾矣。況古詩者。如以美文句斷押韻者佳矣。意旣優閑。語亦自在。得不至局束也。然則詩與文。亦一揆歟。

およそ詩は意を主とするから、意を立てることが最も難しく、言葉を連ねることはその次である。意もまた気を主とするから、気の優劣によって深さ浅さが生じる。しかし気は天に根ざすので、学んで得られない。だから気の劣る者は、文を彫ることを巧みさとして、意を先に立てたことがない。おおむね、その文を彫り刻み、その句を赤や青に彩れば、まことに美しくはある。しかし内に含み蓄えた深く厚い意がなければ、初めは楽しめるようでも、二度噛むころには味がもう尽きている。

とはいえ、およそみずから先に韻を付けたものが意を妨げるようであれば、改めるのがよい。ただ人の詩に和するときに、もし険しい韻があれば、まず韻の落ち着く所を考えてから意を付ける。ここに至っては、むしろその意を後にしても、韻は落ち着けて置かないわけにはいかない。

句に対を合わせにくいものがあって、長く口ずさんでも容易に得られそうにないなら、すぐ切り捨てて惜しまないのが当然である。なぜか。その間を数えれば、あるいは一編まるごとを得るに足りるのに、どうして一句のために一編が滞るところまで至ろうか。時に間に合わせて急ぎ整えなければならない事があれば、行き詰まる。

まさに思いを組み立てるときは、深く入って出られなければ落ち込み、落ち込めば粘りつき、粘りつけば迷い、迷えばとらわれる所があって通じない。ただ出入りし行き来して、左にし右にし、前を眺め後ろを顧みて、変化が自在であってはじめて、妨げる所なく円熟に至る。あるいは後の句で前の句の難を救うことがあり、一字で一句の落ち着きを助けることがある。これは考えないわけにはいかない。

もっぱら清くつらいものを体とするのは山人の格であり、すべて美しく華やかなもので一編を飾るのは宮中の格である。ただ、清らかさ、驚かすもの、雄々しさ、豪放さ、美しさ、華やかさ、平淡さを混ぜて用いることができてはじめて備わり、人が一つの体で名づけられなくなる。

詩にふさわしくない九つの体がある。これは私が深く考えてみずから得たものである。一編のうちに昔の人の名を多く使うのは、「鬼を車に満載する体」である。昔の人の意を盗むのは、上手に盗んでもなお良くないのに、盗むことさえ上手でないのは、「拙い盗人がすぐ捕まる体」である。強い韻を押さえながら拠るところがないのは、「弩を引いて引ききれない体」である。その才を量らずに韻を使いすぎるのは、「酒を量を超えて飲む体」である。険しい字を使うのを好んで人をたやすく惑わせるのは、「穴を掘って目の見えない人を導く体」である。言葉が通らないのに無理に引いて使うのは、「人に無理に自分に従わせる体」である。ありふれた言葉を多く使うのは、「村の老人が寄り合って話す体」である。言葉の忌みを好んで犯すのは、「高く貴い人を侮る体」である。言葉が荒いのに削らないのは、「雑草が畑に満ちた体」である。このふさわしくない体と格を免れてはじめて、ともに詩を語ることができる。

人が詩の難を言ってくれるのは、喜ぶべきことである。言ったことが正しければ従い、そうでなければ自分の考えによるだけである。どうして聞くのを嫌って、君主が諫めを退けて最後までその過ちを知らないようなことをしようか。

およそ詩ができあがれば、繰り返して見るのに、少しも自分の作ったものとして見ず、他人や、一生深く憎んでいる人の詩を見るようにして、その傷や誤りを探すのを好め。それでも見つからなくなってから世に出す。

およそ論じたことは詩だけでなく、文もまたほぼそうである。まして古詩というものは、美しい文句を切って韻を付けたようにすれば良い。意がすでにゆるやかで閑かであり、言葉もまた自在であって、縛られるところまで至らなくなる。であれば、詩と文もまた一つの理であろうか。