また、大楼記又大樓記
夫在陽則舒。在陰則慘。處高則快。處卑則鬱。是人所以受之天而固常有者也。老子曰。雖有榮觀。燕處超然。月令曰。可以居高明處臺榭。蓋謂是也。雖然。樓臺觀榭之大小繁簡。亦沿人之勢而各有當焉。雖於位同貴均者。顧人所屬望則異矣。人心所不當大而大之。則人不以爲可。而皆謂之過矣。至如功豐德鉅。望壓萬人。處一國奔走瞻望之地者。雖極其大也。人不以爲侈。而猶以爲隘也。是今承制崔公之所以作大樓於居室之南偏者也。上可以坐客千人。下可以方車百乘。高則橫絶鳥道。大則蔽虧日月。碧瑤瑩柱。玉舃承跋。陽馬負阿。矯首軒挐。飛禽走獸。因木生姿。自棟宇已來未之有也。按仙經。神仙有玉樓十二。然世無眼覩者。不知其制度何如。而其中有何等奇觀。嘗以此爲恨。及觀是樓。雖天之玉樓。想不能侈玆也。其東偏安佛龕。有營佛事。則邀桑門衲子。多至數百人。恢恢有餘地。直樓之南。闢毬場無慮四百許步。平坦如砥。繚以周墻。連亘數里。公嘗以暇日召賓客。開瓊筵命玉觴。及于目倦乎姿色之靡曼。耳厭乎絲行之激越。則顧可以壯其觀暢其氣者。莫若擊毬走馬之戲也。於是乎命善馭如王良,造父之輩。乘十影之足。跨千里之蹄。翕忽揮霍。星奔電掣。將東復西。欲走反駐。人相叢手。馬相攢蹄。爭毬於跳轉滅沒之中。譬若群龍揚鬣奮爪。爭一箇眞珠於大海之裏。吁可駭也。大抵擊毬走馬。非以平衢廣陌。則疑若不可。而公獨不爾。使戲於周墻環廡之間者。何哉。凡廣陌也平衢也。雖立標樹柱。要不出其限。猶有不守關禁。逸而過之者。此直由地不束心不撿故爾。不若置之於墻廡之間。觀其廻環宛轉。不離其域。地束而枝有餘。心檢而巧愈出。此公之所以爲樂也。噫。樓雖欲不邀。而萬景之效於玆樓者如彼。公雖欲不受。而樓之供於公者如此。凡勝特之觀。皆聚於玆樓。則予恨左右好事者之無有以聚勝。請於公而暑其額也。
およそ日なたにいれば伸び、陰にいれば心が沈み、高い所にいれば快く、低い所にいれば塞がる。これは人が天から受けて、まことに常に持つものである。老子は「栄えある眺めがあっても、閑かに処して抜きん出ている」と言い、「月令」に「高く明るい所に居て、台や榭に処するに足る」とあるのは、おおむねこれを言ったのである。
とはいえ、楼や台や亭の大小、繁簡もまた、人の勢いに従ってそれぞれふさわしさがある。位が同じく、貴さが等しい人であっても、振り返って人が望むところは違う。人の心が大きくすべきでないものを大きくすれば、人は良しとせず、みな行き過ぎだと言う。功が豊かで徳が大きく、望みが万人を圧して、一国が駆け寄って仰ぐ地位にある人に至っては、その大きさを尽くしても、人は贅やかだとは思わず、かえって狭いと思う。これが、いま承制の崔公が住まいの南の端に大きな楼を建てたわけである。
上は客千人が座るに足り、下は車百台を並べるに足る。高さは鳥の道を横切って断ち、大きさは日と月を覆う。碧玉で柱を輝かせ、玉の履で台座とし、陽馬が丘を背負って頭を上げて高く伸びている。飛ぶ鳥と走る獣が木に沿って姿を成したから、棟と軒ができて以来なかったものである。
仙人の経典を見ると、仙人に玉楼が十二あるという。しかし世に目で見た者がないので、その造りがどうであり、その中にどんな珍しい眺めがあるのか分からない。かつてこれを心残りに思っていたが、この楼を見ると、天の玉楼でも、思うにこれより贅やかにはできないようである。
その東の端に仏龕を置いて、仏事を営むことがあれば僧を招き、多いときは数百人に至っても、ゆったりと余る場所がある。楼のすぐ南に毬打の場を開いたが、およそ四百歩ほどで、平らなことは砥石のようであり、めぐらした垣が連なって数里に伸びている。
公はかつて暇な日に客を招き、玉のような宴を開き玉の杯を命じた。目が美しくあでやかな姿に疲れ、耳が弦の音の激しさに飽きるようになれば、振り返ってその眺めを雄々しくし、その気を晴らすものとしては、毬を打ち馬を走らせる戯れに及ぶものがない。
そこで王良や造父のような者に上手に御させ、十の影の足に乗り千里の蹄にまたがらせる。ふいに素早く、星が走り電が走るように、東へ行こうとしてまた西へ行き、走ろうとしてかえって止まる。人が互いに手を集め、馬が互いに蹄を集めて、跳ね転がり、消えては現れるなかで毬を争う。たとえれば、多くの龍がたてがみを振り爪を振るって、大海のなかで真珠一粒を争うようだから、ああ、驚くばかりである。
おおよそ毬を打ち馬を走らせるのは、平らな街や広い路でなければできないようであるのに、公だけはそうでなく、めぐらした垣と囲んだ廊のあいだで戯れさせるのは、なぜか。およそ広い路や平らな街は、標を立て柱を植えても、要はその限りを出させないためなのに、それでも関門や禁を守らず、抜け出して越える者がいる。これはただ、地が縛らず心が引き締まらないからである。垣と廊のあいだに置いて、めぐり曲がるのがその境を離れないのを見るに越したことはない。地が縛れば技が余り、心が引き締まれば巧みさがいよいよ出てくる。これが公が楽しみとするわけである。
ああ、楼が迎えまいとしても、あらゆる景色がこの楼に差し出すものはあのとおりであり、公が受けまいとしても、楼が公に差し出すものはこのとおりである。およそすぐれて特別な眺めがみなこの楼に集まったのだから、私は、左右に物好きな者がいて、すぐれたものを集めて公に願い、その額に名を書いて掲げる者がないことを心残りに思う。