同じ年に及第した者のうち宰相になった者の名を記す同年宰相書名記
予於大定三十年之庚戌。登進士第。同年凡三十人而已。後皆跨騰振拔。官至相府及華資顯列者。無若我同年之盛也。以兩府言之。趙相國冲以相門子。早從仕。至守太尉金紫光祿大夫門下侍郞同中書門下平章事修文殿大學士修國史上將軍判禮部事。卒年五十。兪相國升旦起自寒門。至金紫光祿大夫參知政事集賢殿大學士修國史判禮部事。卒年六十五。韓樞密光衍亦以宰相子。累官至銀靑光祿大夫樞密院使禮部尙書寶文閣大學士致仕。今尙無恙。年八十三。陳樞密湜歷官至銀靑光祿大夫樞密院副使御史大夫翰林學士。卒年五十八。予亦承乏。至守太尉金紫光祿大夫參知政事修文殿大學士監修國史判戶祁事太子太保。雖微分已足。亦未知終至何官也。噫。於一同年中。宰相之至於五人者。雖國朝全盛之時。想未之多也。其餘或登三品四品。或躡制誥臺諫郞官者。凡十一人。雖未至參官。或至七品八九品凡六人。以此數之。其終於散官者。餘有幾人耶。凡以文鳴世者。亦多出於我同年。世言同年者。必以我同年爲稱首。是年。李政堂諱知命主盟。任承宣諱濡副焉。世亦服兩公之取人如此。是實士林盛事。而若不記以示于後。則百世之下。誰復知之耶。聊誌之以爲後之標識也。嗚呼。四十七年之間。皆已爲鬼錄。唯韓公與予存焉耳。可不哀乎。時乙未某月日。記。
私は大定三十年の庚戌に進士に及第した。同じ年に及第した者は、およそ三十人だけであった。後にみな飛び上がり奮い立って、官が宰相の府や華やかな資格、現れた列に至った者が、わが同年ほど盛んであったことはない。
両府で言えばこうである。趙相国冲は宰相の家の子として早く仕え、守太尉・金紫光禄大夫・門下侍郎・同中書門下平章事・修文殿大学士・修国史・上将軍・判礼部事に至り、五十歳で没した。
兪相国升旦は貧しい家から起こって、金紫光禄大夫・参知政事・集賢殿大学士・修国史・判礼部事に至り、六十五歳で没した。
韓枢密光衍も宰相の子として官を重ね、銀青光禄大夫・枢密院使・礼部尚書・宝文閣大学士に至って官を退いた。いまもなお障りなく、八十三歳である。
陳枢密湜は官を経て、銀青光禄大夫・枢密院副使・御史大夫・翰林学士に至り、五十八歳で没した。
私もまた空席を埋めて、守太尉・金紫光禄大夫・参知政事・修文殿大学士・監修国史・判戸部事・太子太保に至った。取るに足らぬ身の分には十分すぎるが、やはり最後にどの官に至るかは分からない。
ああ、一つの同年のなかで宰相に至った者が五人なのだから、国が盛りであった時でも、おそらく多くはなかったであろう。そのほか、三品や四品に上り、あるいは制誥・台諫・郎官を踏んだ者がおよそ十一人である。参官に至らなくても、七品や八品・九品に至った者がおよそ六人である。これで数えれば、官なしに終えた者は、残って何人であろうか。
およそ文で世に名を響かせた者も、わが同年から多く出た。世で同年を言う者は、必ずわが同年を第一に挙げる。この年は李政堂知命が試験を主宰し、任承宣濡が助けた。世もまた、二公の人の採り方がこのようであったことに感服した。
これはまことに士の世の盛んな事である。もし書き留めて後の人に見せなければ、百代の後に誰がまた知ろうか。そこで書き留めて、後の日の目印とする。
ああ、四十七年のあいだに、みなもう冥土の名簿に入り、ただ韓公と私だけが残っているだけである。悲しくないであろうか。ときは乙未の年某月某日に記す。