登仕郎・検校尚書戸部侍郎・行尚書都官員外郎として紫金魚袋を賜った尹公の墓誌銘登仕郞檢校尙書戶部侍郞行尙書都官員外郞賜紫金魚袋尹公墓誌銘
予爲文。至碑碣銘誌。苟不誠其人信其實。固拒而不受。心竊道曰。南山之石。其有何辜。忍雕損貞姿。書溢美之辭耶。及尹公之卒也。旣得誠其人。又得其實。故不可以不敍。公諱承解。字子長。樹州守安縣人也。三韓功臣內史令明義公尹逢之七世孫也。曾祖檢校大子詹事諱衡。皇祖大樂署丞諱壽。皇考檢校戶部尙書行尙書戶部郞中賜紫金魚袋諱裕延。皇公實尙書府君第二子也。少力學。年十八。中司馬試一科。再擧春官不捷。以門蔭從仕。調補知水州事判官。水州號俗阜。率爲人求得。故鮮克淸廉。政皆姑息。吏狃成習。頗緩弛無紀。公到官。一切以法繩之。吏畏憚莫敢正視。凡約束一如條禁。無敢犯者。以政異聞。秩滿。除玄德宮錄事。尋遷左右衛錄事參軍事。俄出爲珍島縣令。淸約一如水州所理。威愛則加焉。縣在海中。腥陋有蠻䝤風。凡應對賓客。不似沿路他郡。奉使者苦之。公悉更革。使如巨官大邑。又民恃魚鹽。不甚力農。公督令歸畝。始也民有憚色。及得其入。然後顧樂趨之。雖歲儉不匱。入爲神虎衛錄事參軍事。癸巳歲。輦下兵起。衣冠搢紳。無不逃竄。公獨守官確固。神色自若。上聞而嘉之。召見面奬曰。昔聞若之忠勇。今見其實。改授神虎衛別將。公以虎職非本情。故不受。後拜閣門祗侯。旋擢監察御史。出爲西北道分臺。先是。成州豪儻。擅殺官妓。前後奉使者。初欲窮理其狀。延及平民。無不械縛。闔郡騷擾。未幾置而不問。由是常爲貨賂之藪。公入州。鞫按詳審。得首謀與手殺者誅之。餘悉不理。一州安之。內外俱慶。入爲尙食奉御。賜緋魚袋。又遷尙書都官員外郞。賜金紫。上嘗遣諫官宋端南。方採訪十年來前後典郡者之政績優劣。水州以公所理擧爲最。凡三十年矣。宋公曰。朝旨以十年爲界。此甚遼遠。恐違詔條之意。吏民曰。天子所以遣使臣。弟求異政耳。尹公遺愛。至今未嘗去民心。尙如前日。故擧之。豈論遠近耶。皆伏地叩頭。其請至痛切。宋公頷而奏之。上益嘉嘆。有司亦不敢訾焉。某年月日。得疾卒于第。年若干。某月日。葬于某山。夫人張氏。大府卿諱忠義女也。生子男二人。曰松筠曰松竹。松筠嘗倅密城。以淸苦嚴毅聞。松竹尙爲散官。女一人。未適人。公爲人資端直敢言。所至率淸素。家無甔石之儲。凡不問家事。怡怡如也。旦夕但以奉官守職爲志。眞朝廷之正人也。而官不過員郞。惜哉。子松筠等。敍公之世系官爵。因人之與予有舊者。來請銘於予。予不敢拒者。以予先君嘗與公同寮。每見訪。衮衮接話言。予雖未測淵源。頗窺畔岸。又所書遺迹。則皆播在人口。而非其嗣之列以來請者。是非誠其人信其實者耶。故執筆而銘之云。遺子百金。惟禍之召。公獨以淸。萬世之寶。有鬱斯岡。𡪡安宅兆。公保於此。迺子孫之保。刻銘納竁。爲後之考。
私は文を作るにあたって、碑碣や銘誌となると、その人を誠と認めその事実を信じられなければ、固く拒んで引き受けなかった。心ひそかに思っていた。「南山の石に何の咎があって、むごくもその貞しい姿を彫り損ない、過分に褒めそやす言葉を刻めようか。」 尹公が亡くなったときには、その人を誠と認めることができ、またその事実も得られたので、記さないわけにはいかなかった。
公の諱は承解、字は子長、樹州守安県の人である。三韓功臣・内史令・明義公の尹逢の七世の孫である。曾祖は検校太子詹事の諱衡、祖父は大楽署丞の諱寿、父は検校戸部尚書・行尚書戸部郎中として紫金魚袋を賜った諱裕延である。公はまことに尚書府君の第二子である。
若くして学に励み、十八で司馬試の一科に合格した。二度、礼部の科挙を受けたが及第せず、門蔭によって仕えに出て、知水州事判官に任じられた。水州は風俗が豊かだと言われ、おおむね人が求めて得たがる任地であった。それゆえ清廉な者は少なく、政はみな目先を繕うばかりで、吏はそれが癖になり、かなりたるんで紀綱がなかった。公は赴任すると、いっさいを法で縛ったので、吏は恐れはばかって正面から見ることもできなかった。取り締まりはすべて条目と禁令のとおりで、あえて犯す者はなかった。政が格別だと聞こえた。
任期が満ちると玄徳宮録事に任じられ、ついで左右衛録事参軍事に移った。ほどなく出て珍島県令となったが、清く倹しいことは水州で治めたときと変わらず、威と愛はさらに加わった。県は海の中にあって、生臭く粗末で、蛮族のような風俗があった。賓客を迎えもてなすことが街道沿いの他郡とは違ったので、使いを奉じた者は苦しんだ。公はことごとく改めて、大きな官衙や大邑のようにした。また民は魚と塩を頼みにして農に力を入れなかった。公が督して田に帰らせると、はじめ民は渋る顔つきであった。その収穫を得てからは、かえって喜んで従い、凶年でも足りないことがなかった。
入って神虎衛録事参軍事となった。癸巳の年、都で兵乱が起こり、冠を戴く者で逃げ隠れぬ者はなかったが、公だけは独り官を固く守り、顔色は平然としていた。王は聞いて嘉し、召し見て面と向かって褒めた。「かつてそなたの忠勇を聞いたが、今その実を見た。」 神虎衛別将に改め授けたが、公は武官の職はもとの志ではないとして受けなかった。
のちに閣門祗候に任じられ、まもなく監察御史に抜かれ、出て西北道の分台となった。これより先、成州の豪家の者が勝手に官妓を殺した。前後に使いを奉じた者は、はじめその有様を究めようとして平民にまで及び、縛り上げられぬ者はなく、郡じゅうが騒がしかったが、いくらもたたぬうちに捨て置いて問わなくなった。それゆえ常に賄賂の巣となっていた。公は州に入ると、取り調べを詳しく審らかにし、首謀した者と手を下して殺した者を見つけ出して誅し、残りはすべて咎めなかった。州じゅうが安んじ、内外ともに喜んだ。
入って尚食奉御となり、緋魚袋を賜り、また尚書都官員外郎に移って金紫を賜った。王はかつて諫官の宋端南を遣わして、十年来、前後に郡を預かった者の治績の優劣を調べさせた。水州では公の治めたことを挙げて第一とした。実に三十年も前のことである。宋公は言った。「朝廷の旨は十年を限りとしている。これはあまりに遠く、詔の条の意に背くのではないかと恐れる。」 吏と民は言った。「天子が使臣を遣わされたのは、ただ格別の政を求めるためだけでしょう。尹公の遺された愛は今日まで民の心を離れたことがなく、なお昔の日のとおりです。それゆえ挙げたのです。どうして遠い近いを論じましょうか。」 みな地に伏して額をつき、その願いはきわめて切実であった。宋公はうなずいて奏したので、王はいよいよ嘉し嘆じ、有司もあえて謗ることができなかった。
某年某月某日、病を得て邸で亡くなった。年はいくつであった。某月某日、某山に葬った。夫人は張氏、大府卿の諱忠義の娘である。男子二人を生んだ。松筠と松竹という。松筠はかつて密城の次官となり、清く苦しさに耐え、厳しく毅いことで知られた。松竹はまだ散官である。娘一人は、まだ嫁いでいない。
公の人となりは、生まれつき端正で正直、思うところを憚らず言い、赴く先ごとに清く質素で、家には一石の蓄えもなかった。家の事は問わず、和やかであった。朝夕ただ官を奉じ職を守ることを志とした。まことに朝廷の正しい人である。それなのに官は員郎に過ぎなかった。惜しいことである。
子の松筠らが公の家系と官爵を記し、私と旧い交わりのある人を通じて来て、私に銘を請うた。私があえて拒まなかったのは、私の亡き父がかつて公と同じ役所にいて、訪ねて来るたびに尽きることなく語り合ったので、私はその淵源こそ測れないまでも、その岸辺ばかりは覗き見ていたからである。また記した遺された事跡は、みな人の口に広まっているもので、その嗣子が並べ立てて来て請うたものではない。これこそその人を誠と認め、その事実を信じるということではないか。それゆえ筆を執って銘を作る。
子に百金を遺すのは、ただ禍を招くだけである。 公は独り清らかさをもってした、万世の宝である。 この鬱蒼とした岡に、墓所を安らかに定めた。 公がここに保たれるのは、すなわち子孫の保たれることである。 銘を刻んで壙に納め、後の世の考えとする。