いにしえの文 › 東国李相国集(東国の李相国の文集) › 前集 巻35

金紫光禄大夫・参知政事・上将軍の金公の夫人印氏の墓誌銘金紫光祿大夫參知政事上將軍金公夫人印氏墓誌銘

東国李相国集(東国の李相国の文集) 東國李相國集 · 李奎報(イ・ギュボ) · 1241年(高麗・高宗28年)編 · 1251年に改め補う · 段落 1 · 漢字 325字 · 朗読 2.9分

東国李相国集(東国の李相国の文集) 前集 巻35 高麗の李奎報が生涯に作った文章を、子の李涵が1241年に編んで刻み、孫の李益培が1251年に改め補った文集。詩と賦、王に奉った表と箋、寺と塔に付けた記、碑銘と墓誌銘、手紙と序文、そしてモンゴルが攻め入った時に行き交った国書までが収められている。高句麗の始祖を歌った「東明王篇」が前集の巻3にあり、酒と琴と詩を友として自ら白雲居士と名のった人の一日一日が後集に残っている。書は、彼が目を病んで筆を置く最後の詩と、彼が死んだ後に他の人が作って付けた誄書・墓誌銘で閉じる。

夫人姓印氏某縣人也某官某之孫。左右衛大將軍諱榮寶之第二女。而今參政相國金諱元義之配也。旣笄。歸于金公。夫人自在家。事父母甚篤。友兄弟甚穆。及嫁。移所以事父母者。事舅姑有禮而加敬焉。移所以穆兄弟。而惇夫之族加厚焉。其御婢妾寬重不苛細。故下雖畏而不厭。參政公起自將官。凡征戍裝齎及隨例酺醵宴飮之費。煩浩不細。夫人皆手親之。無不精辦。略無倦容。公之歷位至宰相。夫人有內助焉。家本饒財。然不以富故手離女工。子姓諫止之。夫人曰。紡績蠶織。婦職也。類若輩之文書筆硯。烏可須吏離也。及公之至相位。然後輟而不親。一委妾侍。晚節奉佛尤精。嘗讀金剛經。生子曰公粹。進士登第。今爲入內侍監門衛錄事參軍事。兼直翰林院。次曰某。爲將官備宿衛。女子適劉昌緖。今爲將軍。公粹以與予同寮內翰。故來乞銘。銘曰。肥其家不係財。秉德之靜專。功於國不必身。有子之才賢。嗚呼。男子之無羡。夫人其有焉。

夫人は姓を印氏といい、某県の人である。某官某の孫娘であり、左右衛大将軍の諱栄宝の次女であって、今の参政相国である金元義の妻である。笄を挿す年になると金公に嫁いだ。

夫人は実家にいたころから父母に仕えることがきわめて篤く、兄弟と睦むことがきわめて和やかであった。嫁いでからは父母に仕えたその心を移して、舅姑に礼をもって仕え、しかも敬いを加えた。兄弟と睦んだその心を移して、夫の一族を篤く遇し、しかも厚さを加えた。婢や妾を使うにあたっては寛やかで重々しく、細かく咎めなかったので、下の者は恐れながらも嫌がらなかった。

参政公は武官から身を起こした。出征や守りの備えの支度、しきたりどおりの宴や酒の寄り合いの費えは、煩わしく大きくて些細ではなかったが、夫人はみな自ら手を下し、念入りに調えぬものがなく、少しも疲れた顔を見せなかった。公が官を経て宰相に至ったのには、夫人の内助があったのである。

家はもともと財が豊かであったが、富んでいるからといって手から機織りを離さなかった。子や孫が止めると、夫人は言った。「糸を紡ぎ蚕を飼い布を織るのは婦人の職である。お前たちの書物や筆や硯のようなものだ。どうしてしばしでも離れていられようか。」 公が宰相の位に上ってからようやくやめて自らは手を下さず、すべて妾や侍女に任せた。晩年には仏を奉ることがいっそう篤く、「金剛経」を読んだ。

生んだ子は公粋といい、進士で及第して、今は入内侍・監門衛録事参軍事兼直翰林院である。次は某といい、武官となって宿衛についている。娘は劉昌緒に嫁いだが、今は将軍である。公粋は私と翰林で同僚であった縁から、来て銘を乞うた。銘に言う。

その家を肥やすのは財によるのではなく、静かで専らな徳を執ることにあった。 国に功を立てるのは必ずしも我が身によるのではなく、賢く才ある子があった。 ああ、男子でも羨むところのないものを、夫人は持っていたのだ。