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銀青光禄大夫・尚書左僕射を退いた庾公の墓誌銘銀靑光祿大夫尙書左僕射致仕庾公墓誌銘

東国李相国集(東国の李相国の文集) 東國李相國集 · 李奎報(イ・ギュボ) · 1241年(高麗・高宗28年)編 · 1251年に改め補う · 段落 1 · 漢字 1,058字 · 朗読 9.6分

東国李相国集(東国の李相国の文集) 前集 巻36 高麗の李奎報が生涯に作った文章を、子の李涵が1241年に編んで刻み、孫の李益培が1251年に改め補った文集。詩と賦、王に奉った表と箋、寺と塔に付けた記、碑銘と墓誌銘、手紙と序文、そしてモンゴルが攻め入った時に行き交った国書までが収められている。高句麗の始祖を歌った「東明王篇」が前集の巻3にあり、酒と琴と詩を友として自ら白雲居士と名のった人の一日一日が後集に残っている。書は、彼が目を病んで筆を置く最後の詩と、彼が死んだ後に他の人が作って付けた誄書・墓誌銘で閉じる。

觀自古士大夫。其始未嘗不以廉恥操心滿盈爲戒。而及富貴方酣。率翫惜日月。恬不知退者多矣。我僕射府君。大異於是。年六十有四。已登端揆。則其去台鉉。能有幾級而未踐其地耶。但先六載引退。求避溢寵耳。不然。久已升極秩而猶有餘矣。此易所謂知進退存亡。不失其正者歟。庾氏源于錦城之茂松。在版籍爲甲。而公其出也。公諱資諒。字湛然。曾祖諱某皇。檢校太子詹事。祖諱某皇。檢校大子大師。考諱某皇。配某廟功臣門下侍中修文殿大學士判吏部事贈恭肅公。母張氏尙衣奉御諱贊之女。此公之世系也。公爲人。中和毓粹。莊重寡言。仁信足以感人。淸儉足以律世。此公之受之天也。方毅廟時。山東寢盛。公年十六。與貴門子弟約爲交契。公欲引虎官御牽龍行首吳光陟李光挺等與焉。衆莫肯之。公挺然議曰。雖私遊中。文虎俱備。亦得矣。何有不可乎。後必有悔矣。衆咸以爲然。於是使之參焉。未幾庚寅亂。文臣幾蕩盡。凡入交契者皆得免。以吳李二將營救甚力故也。此公之自少。已有知幾之量也。年若干。以宰相子。直補守宮署丞。尋遷大樂署丞。俄出爲龍岡縣令。其爲政。諳練理體。摘發如神。一方稱之。此公之始莅郡也。累歷御史尙衣奉御侍御史戶部郞中御史雜端。賜金紫大府少卿兵刑部侍郞大府卿知三司事判大府司宰事大子詹事判閣門知茶房事。階皆正議。尙書右僕射。階光祿。此公之所歷官序也。其或廉察東南。秉鉞東北。則威風所及。無不股弁。然濟以仁信。故民便之。此公之奉使延譽也。夫三品正秩。入相可冀。而公之判司宰也。反乞郡痛切。以戶部尙書。出知南京留守。此公之辭滿忌盈也。公常以選軍使聽軍政。其廳事上欹柱自立。時譁傳以爲異事。此公之公平無私所感也。其帥關東也。到洛山禮觀音。俄有二靑鳥含花落衣上。又海水一掬許。湧灌其項。世傳此地有靑鳥。凡謁聖者非其人則不見。此公之惇德至信所致然也。越崇慶二年癸酉。引年乞退甚篤。上不得已允之。以銀靑光祿大夫尙書左僕射。得謝家居。與當時卿相之退逸者。爲耆老會。時或置酒盡歡。凡優游養性十有七年。此公之懸車閑適之樂也。歲己丑八月七日。詣耆老會。從容宴飮。還于第。明日方午。忽覽八戒文。夜盥浴。尙安然就寢。及日。呼家人問時。然後翛然而化。享年八十。此公之終也。先是。人有死復生者。自言死至一處。宮觀甚嚴。守者曰。此庾僕射至處也。其說雖荒唐。考公之行。已無愧。及其終如此。則其言亦不可不信。公之生善處也必矣。娶左承宣金諱存中女。凡生子三女二。長曰某。爲國學學諭。早卒。次曰某。今爲判大僕事知御史臺事寶文閣直學士知制誥。季曰某。爲內侍某官。亦先公卒。女長適某官某。早寡。季適某官某。今寡。方葬也。知臺君具公之行錄。託予以銘。予奉書泣。且日。嗚呼。古之遺直也歟。吾不復見仁人君子之若公者矣。銘其敢辭乎。遂銘曰。顯允端揆。惟邦之紀。民方注心。遽釋其位。位不至極。公所自避。公則自避。人歉其意。黃髮壽考。公所不蘄。公雖不蘄。天固相之。正直感神。柱立鳥馴。於公爲常。怪者維人。嗚呼。舊德云亡。模範疇倚。有山巖巖。水灌其趾。是公之宮。吉祥止止。鑱石納竁。眉目萬祀。

昔から士大夫を見るに、そのはじめは廉恥で心を保ち、満ち溢れることを戒めなかった者はない。ところが富貴がまさに酣になると、おおむね歳月を惜しんで楽しみ、安んじて退くことを知らぬ者が多かった。我が僕射府君はこれと大きく違っていた。

六十四歳ですでに尚書の長の地位に上ったのであるから、宰相の座まで幾段を残してその地を踏めなかったというのか。ただ六年早く退いて、溢れる恩寵を避けようとしただけである。そうでなければ、とうに最も高い位に上って、なお余りがあったであろう。これこそ「易」にいう、進退存亡を知ってその正しさを失わない、ということであろうか。

庾氏は錦城の茂松に始まり、戸籍では第一の家柄であって、公はその家に生まれた。公の諱は資諒、字は湛然である。曾祖の某は亡き検校太子詹事、祖父の某は亡き検校太子太師である。父の某は某廟に配された功臣で、門下侍中・修文殿大学士・判吏部事であり、恭粛公と諡された。母の張氏は尚衣奉御の諱賛の娘である。これが公の家系である。

公の人となりは、偏りなく和やかで清らかさを育み、重々しく口数が少なかった。仁と信は人を動かすに足り、清さと倹しさは世を正すに足りた。これが公の天から受けたものである。

毅宗のころ、山東がしだいに盛んになった。公は十六で貴い家の子弟たちと約して交わりの契りを結んだが、公は武官である御牽龍行首の呉光陟・李光挺らを引き入れて加えようとした。衆はこれを承知しなかった。公は毅然として論じて言った。「私の遊びの集まりであっても、文と武をともに備えればやはりよい。何の不都合があろうか。後にきっと悔いることがあろう。」 衆はみなもっともだとして、そこで彼らを加えた。いくらもたたぬうちに庚寅の乱が起こり、文臣はほとんど洗い流されたが、その契りに入っていた者はみな免れた。呉・李の二将がきわめて力を尽くして救ったからである。これは公が若いころからすでに機微を知る度量があったということである。

いくつの年であったか、宰相の子としてそのまま守宮署丞に補され、ついで大楽署丞に移り、ほどなく出て龍岡県令となった。その政は治めの筋道に通じ、摘み出すことは神のようであったので、一方の地が称えた。これが公のはじめて郡に臨んだことである。

いくつもの官を次々に経た。御史・尚衣奉御・侍御史・戸部郎中・御史雑端を務め、金紫を賜って大府少卿・兵部侍郎・刑部侍郎・大府卿・知三司事・判大府司宰事・太子詹事・判閣門知茶房事を務めたが、階はみな正議大夫であった。尚書右僕射に至っては階は光禄大夫であった。これが公の経てきた官の順である。

あるいは東南を按察し、東北に鉞を執ると、威の風が及ぶところ、足を震わさぬ者はなかった。けれども仁と信で救ったので、民は安んじた。これが公が命を奉じて名誉を広めたことである。

そもそも三品の正しい位であれば宰相に入ることも望める。それなのに公は判司宰であったとき、かえって郡務を切に請い、戸部尚書として出て南京留守を預かった。これが公が満ちることを辞し、溢れることを忌んだということである。

公がかつて選軍使として軍政を執ったとき、その庁舎の傾いた柱がひとりでに立った。当時は騒がしく伝えられて不思議な事とされた。これは公の公平で私のないことが感じさせたものである。

公が関東を帥いたとき、洛山に至って観音に礼を捧げた。ほどなく青い鳥二羽が花をくわえて衣の上に降りた。また海の水が一掬ばかり湧き上がってその項に注いだ。世に伝えるところでは、この地には青い鳥がいて、聖を拝みに来た者もその人でなければ見えないという。これは公の篤い徳と至れる信が致したところである。

崇慶二年の癸酉に至って、年齢を引き合いに退くことをきわめて切に請うた。王はやむを得ず許し、銀青光禄大夫・尚書左僕射として職を辞して家にいることになった。当時、退いて閑かに過ごしていた卿相たちと耆老会をつくり、ときおり酒を設けて楽しみを尽くした。ゆったりと遊んで性を養うこと十七年であった。これが公が車を懸けて閑かに過ごした楽しみである。

己丑の年八月七日、耆老会に出て、くつろいで宴し飲み、邸に帰った。翌日の真昼、ふと八戒文を読み、夜に身を清め湯浴みしてから、やはり安らかに床についた。夜が明けると家の者を呼んで時刻を尋ね、そののちさらりと亡くなった。享年八十である。これが公の終わりである。

これより先、死んで生き返った人がいた。自ら言うには、死んである所に至ると宮観がたいそう厳かで、守る者が「ここは庾僕射の至る所である」と言ったという。その話は荒唐ではあるが、公の行いを考えればすでに恥じるところがなく、その終わりがこのようであったのだから、その言葉もまた信じないわけにはいかない。公が善い所に生まれたのは確かである。

左承宣の金諱存中の娘を娶り、男子三人、女子二人を生んだ。長男の某は国学の学諭となったが早く亡くなった。次の某は今、判太僕事・知御史台事・宝文閣直学士・知制誥である。末の某は内侍の某官であったが、これも公より先に亡くなった。長女は某官某に嫁いだが早く寡婦となり、下の娘は某官某に嫁いだが今は寡婦である。

葬るころ、御史台を預かる子息が公の行録を整えて私に銘を託した。私は書を奉じて泣き、そして言った。「ああ、古えの遺した直き人である。私は公のような仁人・君子を二度と見ることはあるまい。銘をどうして辞退できようか。」 ついに銘に言う。

顕らかで誠ある端揆よ ただ国の綱である 民がまさに心を注いでいるのに にわかにその位を手放した 位が極みに至らなかったのは 公が自ら避けたからである 公は自ら避けたけれども 人々はその心を物足りなく思う 黄ばんだ髪まで長く生きたのは 公の求めなかったところである 公は求めなかったけれども 天はまことにこれを助けた 正しく直きことが神を動かし 柱が立ち鳥が馴れた 公には当たり前のことなのに 怪しんだのはただ人であった ああ、旧い徳が去ってしまった 手本を誰に頼ろうか 山があって巌々とそびえ 水がその裾を潤す これが公の宮である 吉く祥いことがここに留まる 石に刻んで墓に納める その面影は万年に及ぶであろう