壁上三韓大匡・金紫光禄大夫・守太保・門下侍郎・同中書門下平章事・修文殿大学士・判吏部事を退いた琴公の墓誌銘壁上三韓大匡金紫光祿大夫守大保門下侍郞同中書門下平章事修文殿大學士判吏部事致仕琴公墓誌銘
大抵天之報施。與其角者。不傳之翼。故凡士之得龍頭選。而能遠到者鮮矣。公則不爾。旣首登金榜之科。又極踐黃扉之貴。加之壽考。哀榮終始。俱無缺焉。則此豈無得而然哉。蓋必有天所不得不厚者。而雖取之多焉。天與之不猒者歟。公諱儀。字節之。舊諱克儀。後改爲儀。系出三韓功臣諱容式之世譜。而桂陽之金浦縣。卽其桑梓也。曾祖諱某皇。神虎衛散員贈上將軍。祖諱某皇。檢校大子少保贈左僕射。考諱某皇。昌安宅衙典。以公故贈左僕射。母徐氏皇。檢校軍器監諱淑之女也。以公故贈利川郡大夫人。公少力學工屬文。乙未。入大學。連赴擧。方未第。出理淸道郡。痛礪節淸廉。以剛正不撓爲政。一方號淸道鐵相公。秩滿。旋補入開寶判官。明年。擧春場擢第一。遂籍內侍。上器使之。積官至將作注簿堂後官。遂除拜閣門祗侯。其淸華權要之任。則歷閱尙書吏部員外郞直寶文閣左司郞中起居舍人知制誥刑部郞中大子司經國學直講御史雜端中書舍人史館修撰兵部侍郞翰林侍講學士東宮侍講學士尙書右承右諫議大夫大子贊善大夫。公嘗帶雙學士。至是又兼三大夫。朝廷榮之。公之居諫職也。有非其人而受參官者。公與諸郞執不可。當國者不悅。悉出省郞補他官。公亦例出爲將作監知閣門事執禮。號最難。公雖始試斯任。其進止詳華。踰舊爛熟者。才之無施不可如此。未幾。又拜爲左諫議大夫判祕書省。尋除樞密院右承宣。皆仍諫職制誥學士。循資知奏事知吏部。公累載管喉舌。凡奏對應奉。甚稱上旨。上倚以爲重。政事多所咨。逮壬申。大金使介至。欲入自正門。我朝不許。使重舌人往復詰難。客人猶不肯之。是日大雨。群臣皆霑服立待。上命公往諭。公先問曰。天子之巡狩侯甸。自古有焉。若你國皇帝枉蹕小國。則當入自何門耶。曰。天子所出入。捨中門何自耶。曰。然則人臣而欲入自君之正門可乎。彼大服其言。遂入自西門。其臨機設方略。出人意表皆類此。上大嘉賞之。癸酉。進拜銀靑光祿大夫簽書樞密事左散騎常侍翰林學士承旨。乙亥。入相。金紫光祿大夫政堂文學左僕射寶文閣大學士修國史。丁丑。守太尉中書侍郞平章事。戊寅。門下侍郞修文殿大學士。嘗於八關會。其獸臺之輾動有不如法者。憲臺椽往扼隊正喉衿折辱之。於是軍將呼噪狂顧。遂擲瓦礫于御史臺宴幕。有飛石或過宰相幕次。公大怒。遽下庭特立。厲聲大號曰。若等在君臣上下俱備之國。敢爾耶。苟爲亂。先殺老僕可也。如是者再三。然後軍情稍沮。亂遂不作焉。其臨危不懼亦此類也。公凡廉察春州道。繩吏甚嚴。一切皆革民弊。百姓賴焉。嘗典司馬試及三掌禮闈。所得皆當世聞人。玉筍之盛。近古未有也。庚辰。以壁上三韓大匡守大保門下平章事修文殿大學士判吏部事。解位家居。與舊德元老爲耆老會。日相從宴遨。以遂揮金之樂。庚寅正月二十六日。稍有微恙。然是日使子姓圍棋。觀之至夕。尙從容談笑。及夜寂然而化。雖傍侍者。亦不之覺也。是豈偶然者乎。享年七十八。上聞訃甚悼。命有司襄事。葬于鳳凰山之麓。贈諡曰某公。公之爲人。美風彩。莊重峻整。方妙齡。宋客莊天覺善相人。視之曰後必到宰相矣。果一如其言。性剛果。與人面折無所諱。以是人多憚之。或相謗毀。然心地坦夷。雖當時詬罵。後皆棄之。略不芥滯。故卒能保其身。可謂豁達大度君子也。娶樞密事金諱光軾之女。凡生男子五人女子三人。男曰耆。戶部員外郞。先公歿。曰揆。工部員外郞。曰心正。剃度爲禪師。曰暉。左右衛大將軍。先公歿。曰禧。閤門祗候。亦先沒。曰祺。雜織署令。女一適內侍保勝中郞將尹惟孝。二適戶部郞中李德載。先歿。三適閣門祗候咸景均。子揆等具公之行狀。乞銘甚切。故受而銘之。銘曰。
そもそも天が報い施すのは、角を与えたものには翼を与えない。それゆえ士で首席の及第を得ながら遠くまで至る者はまれである。公はそうではなかった。すでに金榜の科に首席で上り、また宰相の貴さを極めるまで踏んだ。その上に長生きし、哀しみも栄えも初めから終わりまで、どれも欠けるところがなかった。とすれば、これがどうして理由なくそうなろうか。おそらく必ず、天が厚くせずにいられないものがあって、多くを取っても天が与えるのを厭わなかったのであろうか。
公の諱は儀、字は節之である。旧い名は克儀であったが、のちに儀と改めた。家系は三韓功臣の諱容式の世譜から出ており、桂陽の金浦県がその故郷である。曾祖の某は亡き神虎衛散員で上将軍を贈られ、祖父の某は亡き検校太子少保で左僕射を贈られた。父の某は亡き昌安宅の衙典であったが、公のゆえに左僕射を贈られた。母の徐氏は亡き検校軍器監の諱淑の娘であるが、公のゆえに利川郡大夫人を贈られた。
公は若くして学に励み、文を綴ることに秀でた。乙未の年に大学に入り、続けて科挙に臨んだがまだ及第しなかった。出て清道郡を治めたが、節を激しく磨いて清廉であり、剛く正しく屈しないことで政を行ったので、一方の地は「清道の鉄の相公」と呼んだ。任期が満ちると、すぐ開寶判官として入り補された。翌年、春の科場に臨んで第一に抜かれ、ついに内侍に名を列ねた。
王は器量ある者として用いた。官を重ねて将作注簿・堂後官に至り、ついに閣門祗候に任じられた。清らかで華やかな、権を帯びた要の職としては、尚書吏部員外郎・直宝文閣・左司郎中・起居舎人知制誥・刑部郎中・太子司経・国学直講・御史雑端・中書舎人・史館修撰・兵部侍郎・翰林侍講学士・東宮侍講学士・尚書右丞・右諫議大夫・太子賛善大夫を次々に務めた。公はかつて二つの学士を併せ帯び、ここに至ってまた三つの大夫を兼ねたので、朝廷は栄えあることとした。
公が諫官の職にあったとき、その器でないのに参官を授かった者があった。公は諸々の郎官とともに、いけないと言い張った。国政を執る者が喜ばず、省郎をみな出して他の官に補した。公も例に従って出て、将作監・知閣門事となった。礼を執る務めは最も難しいと言われる。公はこの任にはじめて就いたのに、その進退は細やかで華やかで、長く慣れた者をも超えた。才というものは、施して成らぬところがないとは、このようである。
ほどなくまた左諫議大夫・判秘書省に任じられ、ついで枢密院右承宣に任じられたが、いずれも諫官と知制誥と学士はそのまま帯びていた。順を追って知奏事・知吏部となった。公は幾年も王の喉と舌を預かり、奏し答え奉り応ずることが、きわめて王の旨にかなった。王は頼みとして重んじ、政事を多く諮った。
壬申の年に至り、大金の使いが来て、正門から入ろうとした。我が朝廷は許さず、通訳を立てて行き来して詰め寄ったが、客人はなお承知しなかった。この日は大雨で、群臣はみな衣を濡らして立ち待っていた。王は公に命じて行って諭させた。公はまず問うた。「天子が諸侯の地を巡狩されることは昔からございます。もしあなたの国の皇帝が小国へ車を枉げて来られるなら、どの門からお入りになりましょうか。」「天子の出入りに、中門を措いてどこからであろう。」「それならば、臣下の身で君主の正門から入ろうとするのが正しいでしょうか。」 相手はその言葉に大いに服し、ついに西の門から入った。公が機に臨んで方略を立て、人の思いの外に出ることは、みなこの類であった。王は大いに嘉し賞した。
癸酉の年、銀青光禄大夫・簽書枢密事・左散騎常侍・翰林学士承旨に進み任じられた。乙亥の年、宰相に入り、金紫光禄大夫・政堂文学・左僕射・宝文閣大学士・修国史となった。丁丑の年、守太尉・中書侍郎平章事となり、戊寅の年、門下侍郎・修文殿大学士となった。
かつて八関会で、獣をかたどった台車の転がし方が法どおりでないことがあった。御史台の属吏が行って隊正の喉元を掴み、折り辱めた。そこで軍の将たちが叫び騒いで気を荒らげ、ついに御史台の宴の幕に瓦や礫を投げた。飛ぶ石が宰相の幕の席を越えることもあった。公は大いに怒り、急いで庭に下りて独り立ち、声を張り上げて大きく叫んだ。「お前たちは君臣上下のそろった国にありながら、よくもそんな真似をするのか。本当に乱を起こすのなら、まずこの老いた僕を殺すがよい。」 こうすること二度三度に及んで、ようやく軍の気勢がくじけ、乱はついに起こらなかった。危うきに臨んで恐れないことも、またこの類である。
公はかつて春州道を按察したが、吏を縛ることきわめて厳しく、民の弊をことごとく改めたので、百姓はこれに頼った。かつて司馬試を掌り、三度にわたって礼闈を主宰したが、得た者はみなその時代の名の知れた人であった。玉の筍のように人材の並び立つ盛んさは、近い昔になかったことである。
庚辰の年、壁上三韓大匡・守太保・門下平章事・修文殿大学士・判吏部事として位を解き、家にいた。旧い徳のある元老たちと耆老会をつくり、日々連れ立って宴し遊び、金を撒く楽しみを遂げた。
庚寅の年正月二十六日、少し軽い病があった。けれどもこの日、子や孫たちに碁を打たせ、夕方までそれを見て、なお静かに談笑していた。夜になると音もなく亡くなったが、そばに侍っていた者さえ気づかなかった。これがどうして偶然であろうか。享年七十八である。王は訃を聞いて深く悼み、有司に命じて葬儀を行わせ、鳳凰山の麓に葬り、某公と諡を贈った。
公の人となりは、風采が美しく、重々しく厳めしく整っていた。若い年のころ、宋の客である荘天覚は人相をよく見たが、公を見て「後に必ず宰相に至るであろう」と言った。果たしてその言葉のとおりであった。性は剛く果断で、人と面と向かって言い折るのに憚るところがなかった。このため人は多く恐れはばかり、互いに謗ることもあった。けれども心根は平らかで、そのときは罵り合っても、後にはみな捨てて、少しも胸にわだかまらせなかった。それゆえついに我が身を保つことができた。からりと度量の大きな君子と言ってよい。
枢密事の金諱光軾の娘を娶り、男子五人、女子三人を生んだ。男子の耆は戸部員外郎で公より先に亡くなり、揆は工部員外郎、心正は髪を落として禅師となり、暉は左右衛大将軍で公より先に亡くなり、禧は閣門祗候でこれも先に亡くなり、祺は雑織署令である。長女は内侍・保勝中郎将の尹惟孝に嫁ぎ、次女は戸部郎中の李徳載に嫁いだが先に亡くなり、三女は閣門祗候の咸景均に嫁いだ。
子の揆らが公の行状を整え、銘をきわめて切に乞うた。それゆえ受けて銘を作る。銘に言う。
2銘
孰相皇朝兮大鳴一國。猗我大保兮寔人之特。步驟臺閣兮奮髥正色。奸吏屛氣兮顚倒蒲北。正門言言兮人莫敢廁。戎使迹穢兮欲蹈其閾。公則往諭兮一言中的。彼雖獸心兮豁然自釋。廟謀密勿兮以手指畫。綠野歸來兮任性閑適。霞輧安往兮雲路遐逖。舊德云亡兮于誰取則。鳳凰之山兮有騫其翼。土肥泉甘兮灌木植植。於焉相攸兮是公之宅。納銘隧道兮流耀罔極。
誰が朝廷を輔けて一国に大きく鳴り響いたか ああ我が太保よ、まことに人のうちの傑れた人であった 台閣で歩みを運び、髯を振るい顔色を正すと 姦しい吏は息をひそめ、転び倒れて逃げ去った 正門は高く高く、人があえて割り込めぬのに 夷の使いが足跡を汚してその敷居を踏もうとした 公が行って諭すと、ひと言が的を射て 彼らは獣の心ながら、からりと自ら解けた 朝廷の謀に勤め励み、手で指し示し図を引いた 緑の野に帰ってきて、性に任せて閑かに過ごした 霞の車はどこへ行ったか、雲の路は遥かに遠い 旧い徳が去ってしまった、誰に手本を取ろうか 鳳凰の山がその翼を掲げ 土は肥え泉は甘く、木々が茂り立つ ここに地を相れば、これこそ公の宅である 銘を墓道に納めれば、輝きの流れは果てがない