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李平章の虔州八景の詩に次韻する次韻李平章虔州八景詩

東国李相国集(東国の李相国の文集) 東國李相國集 · 李奎報(イ・ギュボ) · 1241年(高麗・高宗28年)編 · 1251年に改め補う · 段落 1 · 漢字 96字 · 朗読 1分

東国李相国集(東国の李相国の文集) 後集 巻6 高麗の李奎報が生涯に作った文章を、子の李涵が1241年に編んで刻み、孫の李益培が1251年に改め補った文集。詩と賦、王に奉った表と箋、寺と塔に付けた記、碑銘と墓誌銘、手紙と序文、そしてモンゴルが攻め入った時に行き交った国書までが収められている。高句麗の始祖を歌った「東明王篇」が前集の巻3にあり、酒と琴と詩を友として自ら白雲居士と名のった人の一日一日が後集に残っている。書は、彼が目を病んで筆を置く最後の詩と、彼が死んだ後に他の人が作って付けた誄書・墓誌銘で閉じる。

伏蒙相國閤下和晉陽公門客所賦虔州八景詩示予曰。子嘗著此八景詩耶。予曰。古今詩人。賦者多矣。未嘗不撑雷裂月。爭相爲警策者。予懼不及。故不敢爾。公固督予賦之。卽次韻各成二首奉寄。但未覩諸賢所賦。焉知不有犯韻者耶。此獨所恐耳。

謹んで相国閤下が、晋陽公の門客が作った虔州八景の詩に和されたものをわたしにお見せになり、「君はかつてこの八景の詩を作ったことがあるか」とお尋ねになった。わたしは「昔から今まで詩人でこれを詠んだ者は多く、雷を支え月を裂くように、競って警策の句を作ろうとしない者はありませんでした。わたしは及ばないのを恐れて、あえて作りませんでした」と申し上げた。

公がしきりにわたしに作れと督促されたので、ただちに次韻してそれぞれ二首ずつ作り、奉り寄せる。ただ、諸賢の作ったものを見ていないので、韻を犯したものがないとどうして分かろう。これだけが、ひとり恐ろしいところである。

夾注 2

仁植

仁植である。

幷序

序を併せて付す。