秦の始皇が周易を焼かなかったことを論ずる秦始皇不焚周易論
傳有秦始皇欲愚天下黔首。坑儒生焚詩書。而以周易爲卜筮之書。獨不焚之。予以爲此天之意也。非秦皇之意也。何以言之。秦皇旣欲愚黔首。而焚詩書坑儒士。則五經莫智莫神於羲易也。豈獨置此書。乃反神其人智其民耶。若要其卜筮。則卜筮者。惟深於易者。然後能之也。深於易則儒之流也。然則向之坑儒之意左矣。若存其人而亡其書。則他經亦爾。然則向之焚詩書之意戾矣。且天生神物曰蓍龜。申之以河圖洛書。繼之以聖人。聖人受命而生。演八卦定乾坤。以通神明之德。於是乎有易焉。經不云乾坤成則易立乎其中。易不可見則乾坤幾乎息矣。由此觀之。易者。生於天者也。天欲廢之。則如勿生。苟不廢焉。則寧不勝一秦皇而使焚之。於以滅天地之道耶。予是以。曰是天之意。非秦皇之意也。不然。與他書同矣。烏在爲神明之書。天地之用歟。
伝えるところでは、秦の始皇が天下の民を愚かにしようとして儒生を埋め、詩と書を焼きながら、周易は卜筮の書であるとして、ひとり焼かなかったという。私はこれは天の意であって、始皇の意ではないと思う。
何によってそう言うのか。始皇がすでに民を愚かにしようとして詩と書を焼き、儒生を埋めたのであれば、五経のうち羲の易より智であり神であるものはない。どうしてひとりこの書だけを残して、かえってその人を神にし、その民を智にするであろうか。
もし卜筮が必要であったのなら、卜筮とは、ただ易に深い者だけができることである。易に深ければ、すなわち儒の流れである。そうであれば、先に儒生を埋めた意が食い違う。もしその人は残してその書だけを無くすというのなら、他の経も同じである。そうであれば、先に詩と書を焼いた意が背く。
また、天が神なる物を生んだのが蓍と亀であり、これを河図と洛書で重ね、聖人で継いだ。聖人が命を受けて生まれ、八卦を演べ、乾と坤を定めて神明の徳に通じたので、ここに易があることになった。経に言わなかったか。「乾と坤が成れば易はその中に立ち、易が見られなければ乾と坤はほとんど息む」と。
これによって見れば、易は天から生まれたものである。天がこれを廃そうとしたのなら、はじめから生まなかったであろう。まことに廃さないのであれば、どうして一人の始皇に勝てずに、彼に焼かせ、それによって天地の道を滅ぼさせることがあろうか。
私はこのために、これは天の意であって始皇の意ではない、と言う。そうでなかったなら、他の書と同じであったことになり、神明の書であり天地の用であるという所がどこにあろうか。