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唐の史で諫める臣を殺したことを論ずる唐史殺諫臣論

東国李相国集(東国の李相国の文集) 東國李相國集 · 李奎報(イ・ギュボ) · 1241年(高麗・高宗28年)編 · 1251年に改め補う · 段落 1 · 漢字 331字 · 朗読 3.3分

東国李相国集(東国の李相国の文集) 後集 巻12 高麗の李奎報が生涯に作った文章を、子の李涵が1241年に編んで刻み、孫の李益培が1251年に改め補った文集。詩と賦、王に奉った表と箋、寺と塔に付けた記、碑銘と墓誌銘、手紙と序文、そしてモンゴルが攻め入った時に行き交った国書までが収められている。高句麗の始祖を歌った「東明王篇」が前集の巻3にあり、酒と琴と詩を友として自ら白雲居士と名のった人の一日一日が後集に残っている。書は、彼が目を病んで筆を置く最後の詩と、彼が死んだ後に他の人が作って付けた誄書・墓誌銘で閉じる。

予見唐紀拾遺侯昌業以僖宗不親政事。專務遊戲。上疏極諫。帝殺之。又補闕常濬上書諫藩鎭大甚。猶未之窹。宜振典刑。以威四方。上怒又殺之。二臣之言。可謂切直。而其不從亦足矣。殺之何甚。其前後君之殺諫臣。往往多有。今適見僖宗紀。故此獨擧耳。且桀紂之殺諫臣也。暴其惡於百世之下。凡有口者無有不深譏顯刺者。後之君之殺諫臣。雖載之書史。鮮有暴露其虐如桀紂者。予未知其故。夫熊虎之咥人。人不以爲怪。而餘則人皆甚以爲異也。以此觀之。無道之君之殺諫臣。不足爲怪也。若其惡不至如桀紂者。則是可怪已。僖宗。唐季之主也。力弱權微。雖欲如桀紂之惡。不可得也。而猶殺諫臣。原其狀。不曰異乎。噫。漢光武之於韓韶。惡其言切直。旣放歸田里。又追責逼殺。又何甚耶。古今多以光武爲聖。名聖尙爾。餘何足言哉。司馬光以爲仁明之累而不大言者。豈以聖而諱之耶。予謂惡莫大於殺諫臣。其惡可掩大德。而何謂聖乎。謂之賢君。亦足矣。

私が唐の記録を見ると、拾遺の侯昌業が、僖宗が政事をみずから見ず、ひたすら遊びにばかり力を入れていると言って、上疏して極めて諫めたところ、帝はこれを殺した。また補闕の常濬が書を上げて「藩鎮があまりにひどいのにまだお悟りになりませんので、法に定められた刑を振るって四方に威を示されるべきです」と諫めたところ、上は怒ってまたこれを殺した。

二人の臣の言葉は、切実でまっすぐだと言える。その言葉に従わないだけでも足りるのに、殺したのはどうしてそれほどひどいのか。前後に君が諫める臣を殺したことは往々にして多くあるが、いま、ちょうど僖宗の記録を見たので、これだけを挙げたのである。

また、桀と紂が諫める臣を殺したことは、その悪が百世の後まで現れて、およそ口を持つ者であれば、深く咎め、現しに責めない者はない。ところが後の世の君が諫める臣を殺したことは、たとえ書や史に載っていても、その暴さを桀や紂のように現したものが稀であり、私はその理由がわからない。

およそ熊や虎が人を噛むことは人々が怪しまないが、それ以外の獣がそうすれば、人々はみな非常に異なことと思う。これによって見れば、道のない君が諫める臣を殺すことは怪しむに足りず、その悪が桀や紂にまで至らない者がそうするのであれば、これこそ怪しむべきことである。僖宗は唐の末年の君である。力が弱く権勢が微かで、たとえ桀や紂のような悪をしようとしてもできなかった。それでもなお諫める臣を殺したのであるから、その実を探ってみれば、異なことだと言わないであろうか。

ああ。漢の光武帝は韓歆について、その言葉が切実でまっすぐなことを憎んで、すでに田舎に追い出しておきながら、さらに後を追って責め立て、死に追い込んだのであるから、これもまたどうしてそれほどひどいのか。昔も今も光武帝を聖だとする者が多い。聖と名のある者さえなおこのようであるから、その他については何を言うことがあろうか。司馬光がこれを仁と明の瑕であるとだけ言って大きく言わなかったのは、どうして聖であるとして憚ったのでないことがあろうか。

私はこう言う。悪は諫める臣を殺すことより大きいものはなく、その悪は大きな徳を覆い隠すに足るのであるから、どうして聖だと言えようか。賢い君だと言うだけでも十分である。

夾注 1

底本は「韓韶」だが「韓歆」の誤りと見る。