いにしえの文 › 桂苑筆耕集(桂の苑で筆を耕した集) › 巻3 狀

徐州の次第を詔でお示しくださったことに謝する状謝詔示徐州事宜狀

桂苑筆耕集(桂の苑で筆を耕した集) 桂苑筆耕集 · 崔致遠(チェ・チウォン) · 886年(唐・中和6年 · 新羅・憲康王12年) · 段落 1 · 漢字 261字 · 朗読 1.0分

桂苑筆耕集(桂の苑で筆を耕した集) 巻3 狀 崔致遠が唐の淮南節度使・高駢の幕府で四年のあいだ書いた文章のうちから自ら選び、二十巻に編んで886年に新羅の憲康王に奉った文集。皇帝に奉った表と状、黄巣を責めた檄文、諸々の節度使に送った手紙、部下に下した委曲と挙牒、道教の斎詞と仏教の斎文、祭文、成都の羅城と安南の絵に付けた記、そして高駢に奉った啓と詩まで366編が収められている。「臣は新羅の人です」で始まる最初の啓と、「天下の人がおまえを殺そうとするだけでなく、地の底の鬼神までもおまえを斬ることを議した」という討黄巣檄文がここにあり、最後の巻は十二歳で離れた故郷へ帰る船路で作った詩である。今に伝わる韓国人の文集のうち最も古いもので、1834年に洪奭周と徐有榘が活字で刷るにあたり「我が東方の文章の根本であり始まりである」と述べた。その二つの序文も併せて訳した。

1時溥の誣告について

右臣先奉詔旨。據時溥奏。卿本道羌兵侵境殺傷。令務止遏者。臣遂具時溥誣謗事由申奏。伏奉二月二十五日詔旨。今則寇孼不日勦除。藩方務息爭競。所宜和叶。各保封疆者。臣伏以天德旣高。側管者固難窺測。日恩至廣。戴盆者自阻照臨。是以。遠竭愚誠。動違聖慮。時溥旣銜睿獎。得縱兵威。早成熊據之謀。更展鯨呑之勢。累興師旅。來犯封疆。焚郭邑於山陽。掠資財於淮上。臣遂令捍禦。略挫兇狂。而乃時溥奸計已成根株。巧言頗有枝葉。不思已過。敢惑宸聰。今者再奉絲綸。仰遵徽纏。唯期寬則得衆。粗可和而不同。臣分閫無功。戢兵爲務。至於草寇。猶許歸降。況是隣藩。豈謀侵擾。彼無此詐。此無彼虞。臣限拘鎭守。不獲稱謝行在。無任感激屛營之至。謹奉狀陳謝以聞。謹奏。

右のとおり、臣がさきに詔旨を奉じますに、時溥が奏したところによれば、卿の本道の羌の兵が境を侵して殺し傷つけているので、止め遏えることに務めよ、とのことでした。臣はそこで時溥が誣い謗った事の由を具さに申し奏しましたところ、二月二十五日の詔旨を伏して奉じますに、いまは賊の孼も日ならず勦い除かれるであろうから、藩方は争い競うことを息めるのに務め、和らぎ叶って、それぞれ封疆を保つのがよい、とのことです。臣が伏して思いますに、天の徳はすでに高いので、管を側てて窺う者にはまことに測りがたく、日の恩は至って広いので、盆を戴く者は自ら照らし臨まれるのを阻みます。ですから遠くで愚かな誠を竭くしながら、動けば聖上の慮りに違ってしまいました。時溥はすでに聖上の奨めを銜んで、兵の威を縦にすることができ、早くから熊が拠る謀を成し、さらに鯨が呑む勢いを示して、たびたび師旅を興して封疆を犯しに来て、山陽で郭や邑を焚き、淮上で資財を掠めましたので、臣はそこで捍ぎ禦がせて、ほぼ凶く狂ったものを挫きました。ところが時溥は姦しい計がすでに根と株を成し、巧みな言葉にはかなり枝と葉があって、自分の過ちは思わず、あえて宸のお耳を惑わしました。いま、ふたたび糸綸を奉じて、美しい命を仰ぎ遵いますので、ただ寛ければ衆を得るということを期し、ほぼ和らいでも同じくはならずにいられましょう。臣は閫の外を分け担って功がなく、兵を戢めることを務めとするばかりです。草の賊にさえなお帰り降ることを許すのに、まして隣の藩をどうして侵し擾すことを謀りましょう。あちらにこういう詐りがなければ、こちらにあのような虞りはありません。臣は鎮め守ることに限られて、行在所で謝を申し上げられませんので、感激し恐れおののく至りに堪えません。謹んで状を奉り謝を申し上げます。謹んで奏します。