いにしえの文 › 桂苑筆耕集(桂の苑で筆を耕した集) › 巻6 唐狀

侍中と実封を加えられたことに謝する堂状謝加侍中兼實封狀

桂苑筆耕集(桂の苑で筆を耕した集) 桂苑筆耕集 · 崔致遠(チェ・チウォン) · 886年(唐・中和6年 · 新羅・憲康王12年) · 段落 1 · 漢字 306字 · 朗読 1.2分

桂苑筆耕集(桂の苑で筆を耕した集) 巻6 唐狀 崔致遠が唐の淮南節度使・高駢の幕府で四年のあいだ書いた文章のうちから自ら選び、二十巻に編んで886年に新羅の憲康王に奉った文集。皇帝に奉った表と状、黄巣を責めた檄文、諸々の節度使に送った手紙、部下に下した委曲と挙牒、道教の斎詞と仏教の斎文、祭文、成都の羅城と安南の絵に付けた記、そして高駢に奉った啓と詩まで366編が収められている。「臣は新羅の人です」で始まる最初の啓と、「天下の人がおまえを殺そうとするだけでなく、地の底の鬼神までもおまえを斬ることを議した」という討黄巣檄文がここにあり、最後の巻は十二歳で離れた故郷へ帰る船路で作った詩である。今に伝わる韓国人の文集のうち最も古いもので、1834年に洪奭周と徐有榘が活字で刷るにあたり「我が東方の文章の根本であり始まりである」と述べた。その二つの序文も併せて訳した。

1七たび師の壇を移りながら功もなく

右得進奏院狀報。伏奉十一月十一日恩制。加授侍中。仍加食實封一百戶者。伏以某材輸美箭。業紹良弓。早勤式遏之規。敢怠聿修之訓。遂得一分戎閫。七換師壇。提漢法之重權。陟秦官之極品。恩榮獨盛。績効何申。況自蠆尾之徒。蝟毛而起。神州傾陷。御輦巡遊。不能踊躍用兵。有類遷延之役。雖進退惟命。不敢爭功。而行藏相時。豈無懷愧。而又積山煑海。瓜剖豆分。莫成贍國之權。徒竊經邦之位。唯甘廢棄。永見沈淪。敢期渥澤之無私。俯念涓埃之有效。許登玉署。高戴金璫。仍忝眞封。式加懋賞。且如講能奪席。諫切引裾。方升鸞渚之榮。俾稱鳳池之望。豈伊孱劣。所可貪叨。此皆相公仰贊萬機。俯安九牧。無使怨乎不以。能令可者與之。唯當三命益恭。一辭無退。入則撫安疆圉。出則誓掃氛雺。佇成滅寇之功。冀贖曠官之責。戎鎭有限。不獲陳謝。下情無任感恩兢懼之至。謹奉狀陳謝。謹錄狀上。

右のとおり、進奏院の状報を受け取りますに、十一月十一日の恩制を伏して奉じて、侍中を加え授けられ、さらに食実封百戸を加えられました。伏して思いますに、某は材が美しい箭に輸り、業は良い弓の家を紹いで、早くから防ぎ止める規に勤めましたので、どうして聿に修めよという訓えを怠りましょう。ついに一たび戎の閫を分け担い、七たび師の壇を換えて、漢の法の重い権を提げ、秦の官の極まる品に陟りましたので、恩と栄えはひとり盛んですが、績と効は何を述べたでしょう。まして蠆の尾のような徒が蝟の毛のように起こり、神州が傾き陥ち、御の輦が巡り遊ばれてからは、踊り躍って兵を用いることができず、遷り延ばす役に類するところがありますので、進退はただ命に従ってあえて功を争わなかったとはいえ、行いと蔵れを時に合わせようとすると、どうして愧じを懐かずにいられましょう。そのうえ山を積み海を煑る事は、瓜のように剖かれ豆のように分かれて、国を贍す権を成せず、いたずらに邦を経める位を竊みましたので、ただ廃て棄てられることを甘んじて、長く沈み淪むものと思っていました。どうして渥い沢が私なく、俯して涓や埃ほどの効があることを念われて、玉の署に登ることを許し、金の璫を高く戴かせ、さらに真の封を忝なくさせて厚い賞を加えられると期しましたでしょう。講じて席を奪うことができ、諫めが切で裾を引くほどの人であってこそ、はじめて鸞の渚の栄えに升って鳳の池の望みに称うのであり、どうしてあの孱く劣るものが貪り忝なくすべきことでしょう。これはみな相公が仰いで万機を贊け、俯して九牧を安んじられ、「用いられない」と怨まれることなく、「可き者に与える」と言えるようにされたからです。ただ三たび命を受けるほどいよいよ恭しく、一言も退くことなく、入っては疆と圉を撫で安んじ、出ては氛と雺を掃うことを誓って、賊を滅ぼす功の成るのを待ち、官を曠しくした責めを贖うことを冀います。戎の鎮に限りがあって謝を陳べられませんので、下の情は恩に感じおののき懼れる至りに堪えません。謹んで状を奉り謝を陳べます。謹んで状を録して上げます。