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江西の王尚書に答える書答江西王尙書書

桂苑筆耕集(桂の苑で筆を耕した集) 桂苑筆耕集 · 崔致遠(チェ・チウォン) · 886年(唐・中和6年 · 新羅・憲康王12年) · 段落 1 · 漢字 1,058字 · 朗読 4.2分

桂苑筆耕集(桂の苑で筆を耕した集) 巻11 書 崔致遠が唐の淮南節度使・高駢の幕府で四年のあいだ書いた文章のうちから自ら選び、二十巻に編んで886年に新羅の憲康王に奉った文集。皇帝に奉った表と状、黄巣を責めた檄文、諸々の節度使に送った手紙、部下に下した委曲と挙牒、道教の斎詞と仏教の斎文、祭文、成都の羅城と安南の絵に付けた記、そして高駢に奉った啓と詩まで366編が収められている。「臣は新羅の人です」で始まる最初の啓と、「天下の人がおまえを殺そうとするだけでなく、地の底の鬼神までもおまえを斬ることを議した」という討黄巣檄文がここにあり、最後の巻は十二歳で離れた故郷へ帰る船路で作った詩である。今に伝わる韓国人の文集のうち最も古いもので、1834年に洪奭周と徐有榘が活字で刷るにあたり「我が東方の文章の根本であり始まりである」と述べた。その二つの序文も併せて訳した。

1周宝・景虔貞と隙が生じた経緯

十二月六日。某白。閤下遠捐長書。深貽善諭。一覽而發皇耳目。再窺而驚越神魂。是何詞彩之彬彬。能致言端之懇懇。旣知約我以禮。方信起予者商。況乃事徵於羑里聖人。道媲於首陽義士。切磋雖至。刻畫何勝。敬佩良箴。專銘鄙抱。然慮虛聲易應。眞寶難知。弄唇吻以鑠金。衆皆妙手。拭瞳眸而辨玉。多是淸盲。苟非原始要終。則必唱予和汝。是以。略陳梗槩。用察根源。匪欲廣援古今。所希暫曉左右。僅同伐善。豈免興慙。君其審之。僕所望也。僕與浙帥周司空。早於鳳里相識。亦爲鴒原往還。接載笑載言之時。展如兄如弟之分。況作建旟交代。眞爲結綬相知。旣睦比隣。罷扃外戶。江南江北。祗鬪行春。三楚三吳。盡喧來暮。方謂憑我友歲寒之節。解吾君宵旰之憂。豈料蒼烏高飛。翠華遠狩。僕以久叨重寄。便決專征。偶緣兵力未加。人心尙懾。遂於春首。先發羽書。仍請都統判官顧雲協律。議共成之事。謀相見之期。固非閱被廬之軍。徵夾谷之會。實欲親謀歃血。方寫痛心。若能接濟師徒。粗得振揚聲勢。而乃周司空却自棄同卽異。不能捨短從長。忽疑惑於澠池。謂矜誇於踐土。便見戒嚴城壁。阻塞津途。搆猜嫌而信有小人。遺故舊而曾無大過。僕雖逢彼怒。但守吾眞。及至中夏出軍。外方多事。冀安弊鎭。旁倚近隣。又合幕客過江。請爲都統副使。豈衒弓旌之禮。邀辟元戎。祗憑鈇鉞之威。撫綏近境。周司空確乎阻意。莞爾興譏。不從固請之言。自惜有餘之刃。頻移曩顧。但積沈猜。見此初屯下瀨之師。未設中流之誓。猶淹水道。久候天風。軍聲旣振於四隣。人意自防於兩岸。偶有背軍官健趙公約者。走投浙西。釣以巧言。搆爲細作。便移長牒。妄說異端。其書云。位極上公。權尊都統。別興異見。遽起他謀。以何悔尤。欲爲燒劫。僕以趙襄子之忍辱念玆在玆。藺相如之愼微有始有卒。遂馳書牒。具述事情。聞司空尙發怨言。自懷怍色。與宣護景虔貞,徐帥時溥者。暗資積釁。相應密謀。各興梗路之兵戈。遍告沿江之郡邑。以至練成戰陣。鎖斷征途。僕若不辭險阻之虞。必致殺傷之患。坐甲而未期破竹。廻車而用待負荊。尋屬繼奉絲綸。不令離鎭。遂驅組練。却已班師。雖云帝命斯遵。實乃隣兵所阻。彼宣州者。亦有所因。春初寇犯黟州。勢侵旬水。況値前廉已去。新帥未來。旣無禦捍之權。恐落奸兇之便。遂差押衙馮綬。暫令安撫郡城。蓋緣曾奉詔書。特許便宜從事。凡於制置。得以指麾。景虔貞常侍菽麥不分。蘭蕕莫辨。謂言專輒。遽有侵凌。殺害軍人。劫掠財物。馮綬幾臨死所。劣得生還。自此隋國怨興。謝城信絶。將投彼鼠。其如有礙之時。欲僨於豚。又是無端之事。且爲含忍。未及通和。必知橫被織羅。巧成貝錦。傳之于遠。誰曰不然。噫。滔滔者天下皆同。君子所恥。泛泛如水中自樂。壯夫不爲。但問事之若何。則知曲之在彼。今則特垂敎督。益驗奬憐。自緣有理可申。豈便無辭以對。固非飾過。不敢憑虛。莊生不云乎。其智適足以知人之過。而不知其所以過。若非辱殷勤之旨。何以息睚眦之詞。僕也不能嫉惡如讎。唯以用和爲貴。但以賢愚共惑。本末未彰。復書而不覺詞繁。比事而終慙理短。身修三省。勉尋曾子之規。心敬一言。永荷伯陽之惠。幸垂鑒志。某頓首。

十二月六日、某、申し上げます。閤下は遠く長い書をお寄せくださり、深く良いお諭しをくださいました。ひとたび拝見すれば耳目が明るく開き、ふたたびうかがえば魂が驚き躍ります。これは何という文の彩りの美しさ、言葉の端々の切なさでありましょうか。すでに私を礼によって束ねてくださるのを知り、まさに私を奮い立たせるのは子夏のような方だと信じます。まして、事は羑里の聖人に徴され、道は首陽の義士に比べられて、切磋がきわまっているとはいえ、刻み描くようなお言葉にどうして及びましょうか。謹んで良いお戒めを身に帯び、ひとえに拙い胸に刻みます。しかし憂えますに、むなしい声は応じられやすく、まことの宝は知られがたいもので、唇を弄んで金を溶かすことは人がみな巧みな手並みであり、瞳を拭って玉を弁えることは、たいてい明るく見えて盲いているのです。もし始めを原ねて終わりを要めなければ、必ず私が唱えればあなたが和するだけになってしまいます。そこで、おおよその大筋を申し述べて、根源をお察しいただきたいのです。広く古今を援くつもりはなく、しばらく左右を悟っていただきたいだけで、かろうじて自慢に等しく、どうして恥じる思いを免れましょうか。あなたはそれを見極めてください。それが私の願うところです。私と浙江の帥・周司空とは、早くに鳳の里で互いに知り合い、また鴒の原のように往き来して、笑い語らった時に接し、兄のよう弟のような分を広げました。まして旗を立てる交代をしたのですから、まことに綬を結んで互いを知る仲であり、すでに近い隣として睦み、外の戸を閉ざすことをやめて、江南と江北では春の巡行を競うばかり、三楚と三呉ではみな「おいでが遅い」と騒ぐほどでした。まさに我が友の歳寒の節に頼って、我が君の夜も昼も休まぬ憂いを解こうと思っていたのです。それがどうして、蒼い烏が高く飛び、翠の華が遠く狩りに出られるとは思ったでしょうか。私は長く重い託しをかたじけなく預かって、すぐに専征を決しましたが、たまたま兵力がまだ加わらず、人心がなお怯えていましたので、ついに春の初めに、まず羽の書を発し、さらに都統判官の顧雲協律に請うて、ともに成すべき事を議し、相見える期を図らせました。まことに被廬の軍を閲し、夾谷の会を徴そうというのではなく、実は親しく血を酌むことを図って、痛む心を書き記そうとしたのです。もし軍勢を繋ぎ送って、おおよそ声勢を揚げることができていればよかったのですが、周司空はかえって、みずから同じきを捨てて異なるに就き、短きを捨てて長きに従うことができず、にわかに澠池のことで疑い、践土のことで誇っているなどと言って、すぐに城壁を戒厳し、津の道を塞いだのです。猜みと嫌疑を組み立てることにはまことに小人がおり、旧い友を捨てることには、かつて大きな過ちもなかったのです。私は彼の怒りに遭っても、ただ自分の真を守り、真夏に軍を出して外に事が多くなったときには、この弊鎮を安んじたいと願って、近い隣に傍らから頼り、さらに幕客を江を越えて遣わし、都統副使となってくださるよう請いました。どうして弓と旌の礼を誇って、元帥を招こうとしたでしょうか。ただ鈇鉞の威に頼って、近い境を撫し安んじようとしたのです。周司空は確として意を閉ざし、にやりと嘲って、固く請う言葉に従わず、みずから余りある刃を惜しんで、しばしば以前のお心づかいを移し、ただ深い猜みを積むばかりでした。この水路の軍が初めて駐まって、まだ中流の誓いを立てず、なお水の道に留まって長く天の風を待っているのを見て、軍の声がすでに四方の隣に響いたので、人の意はおのずから両岸で防ぎに回ったのです。たまたま軍に背いた官健の趙公約という者が、浙西へ走って投じ、巧みな言葉で釣られて、細作に仕立てられました。すると長い牒を寄せて、妄りに異端を説いたのです。その書には「地位は上公に極まり、権は都統として尊いのに、別に異なる見方を起こし、にわかに他の謀を立てている。どのような悔いによって焼き奪おうとするのか」とありました。私は、趙襄子が辱めを忍んだことをここに思いここに思い、藺相如が微かなことを慎んだことに始めも終わりもあるようにして、ついに書と牒を馳せて、事情をつぶさに述べました。ところが聞くところでは、司空はなお怨み言を発し、みずから恥じる色を抱いて、宣州の護軍・景虔貞、徐州の帥・時溥と、ひそかに積もった隙を資として、互いに密謀に応じ、各々道を塞ぐ兵戈を起こし、あまねく沿江の郡邑に告げて、戦陣を練り整え、出征の路を鎖し断つに至ったといいます。私がもし険阻の憂いを辞さなかったなら、必ず殺傷の患いを招いたでしょうから、甲を敷いて座したまま竹を割くことを期せず、車を返して荊を背負うのを待つことになりました。ほどなく続けて綸言を奉じて、鎮を離れぬようお命じがありましたので、ついに甲の軍を駆って、かえってすでに軍を還しました。帝の命に従ったとはいえ、まことには隣の兵が妨げたのです。あの宣州の件にも、また理由があります。春の初めに賊が黟州を犯し、勢いが旬水を侵したのですが、まして前の廉使はすでに去り、新しい帥はまだ来ず、防ぎ護る権がないままに、姦凶の便に落ちることを恐れて、ついに押衙の馮綬を遣わし、しばらく郡城を安撫させました。これは、かつて詔書を奉じて、特に便宜に従って事を処することをお許しいただき、およそ制置において指図することができたからです。景虔貞常侍は、豆と麦を分けられず、蘭と臭草を弁えられず、勝手な振る舞いだと言って、にわかに侵しかかり、軍人を殺害し、財物を奪いました。馮綬はほとんど死ぬところまで行って、やっと生きて帰りました。これより隋国の怨みが起こり、謝城の信が絶えました。あの鼠に物を投げようとしても障りがある時で、豚に向かって倒れようとしても、また糸口のない事ですから、ひとまず忍んで、まだ和を通じていません。しかし必ず、横から織り絡められて、巧みに貝錦を成し、遠くへ伝わるでしょう。それを誰が「そうではない」と言いましょうか。ああ、流れに身を任せるのは天下がみな同じで、君子の恥じるところ、水に浮かんで自ら楽しむのは、壮んな男のしないところです。ただ、事はどうであったかと問えば、曲がりがあちらにあることが分かります。今、わざわざお教えとお励ましを垂れてくださり、いよいよお引き立てとお憐れみを確かめました。みずから申し述べる理がありますので、どうして答える言葉がないままでいましょうか。まことに過ちを飾るのではなく、敢えて虚ろに拠るのでもありません。荘子が言っていないでしょうか。「その智は人の過ちを知るには足るが、その過ちの理由は知らない」と。懇ろなお旨をかたじけなく頂かなければ、何によって睨み合う言葉を止められましょうか。私は悪を仇のように憎むことができず、ただ和を用いることを貴びますが、賢い人も愚かな人もともに惑って、本末が明らかにならないので、お返事に言葉が繁くなるのに気づかず、事を並べながら、ついに理の短いことが恥ずかしくなります。身は三たび省みて、曾子の法を努めて尋ね、心は一言を敬して、長く伯陽の恵みを頂きます。どうかお志をお察しください。某、頭を下げて申し上げます。