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浙西の周宝司空へ送る書浙西周寶司空書

桂苑筆耕集(桂の苑で筆を耕した集) 桂苑筆耕集 · 崔致遠(チェ・チウォン) · 886年(唐・中和6年 · 新羅・憲康王12年) · 段落 1 · 漢字 675字 · 朗読 2.7分

桂苑筆耕集(桂の苑で筆を耕した集) 巻11 書 崔致遠が唐の淮南節度使・高駢の幕府で四年のあいだ書いた文章のうちから自ら選び、二十巻に編んで886年に新羅の憲康王に奉った文集。皇帝に奉った表と状、黄巣を責めた檄文、諸々の節度使に送った手紙、部下に下した委曲と挙牒、道教の斎詞と仏教の斎文、祭文、成都の羅城と安南の絵に付けた記、そして高駢に奉った啓と詩まで366編が収められている。「臣は新羅の人です」で始まる最初の啓と、「天下の人がおまえを殺そうとするだけでなく、地の底の鬼神までもおまえを斬ることを議した」という討黄巣檄文がここにあり、最後の巻は十二歳で離れた故郷へ帰る船路で作った詩である。今に伝わる韓国人の文集のうち最も古いもので、1834年に洪奭周と徐有榘が活字で刷るにあたり「我が東方の文章の根本であり始まりである」と述べた。その二つの序文も併せて訳した。

1こちらの叛兵を受け入れたことを問い詰めて

昨奉公牒。云當道臨淮叛卒。過江來投。集衆廣場。已受降訖。三復來示。言難不酬。且降之爲名。其理甚大。虞舜之七旬苗格。晉侯之三日原歸。此皆以干紀亂常。起兵動衆。緩之則稔成患害。急之則橫致殺傷。遂假小慈。終施大信。能敷德化。俾革奸兇。若有偶聚萑苻。敢爲榛梗者。共須撲滅。勿使晏安。今相公幸此隣災。樂其軍禍。莫能嫉惡。翻欲惠奸。恐乖杖鉞之威。虛衒倒戈之捷。且如去年。陳儒徒伴。唐突貴鎭。封疆僅有六萬餘人。宣州日告危急。此時相公何不招諭。致令侵凌。却見瑣瑣頑兇。卽自勤勤誘引。莫測高旨。實辜衆心。傳不云乎。召□外盜。書不云乎。爲逋逃主。稍詳至理。無信虛詞。昔漢朝匈奴叛黨來附。景帝便欲與之封。周亞夫曰。彼背其主而見賞。何以責人臣之節。以小喩大。可量事情。況臨淮一郡。早從淝上行營。及淮邊戰敵。每有優賞。曾無偏頗。自是臨財則競起貪心。遇賊則皆無鬪志。旋爲逗撓。猶與矜寬。昨又請換都頭。已依衆請。殊不知犬易興於狂瘈。豕難制於喧豗。未盡誅擒。便謀奔竄。幸且未離近境。固合同塞奸源。在此旣已不忠。於彼亦應非利。石祁子所云。天下之惡一也。惡於宋而保於我。保之何補。其在玆乎。況凡隣府事宜。一彼一此。互相救援。同致安寧。是以。前年六月中。貴鎭有天平潞府元從兵士背叛奔逃。數僅百人。爲患非小。遂蒙移牒。請爲追擒。當使羌都將梁楚部領馬軍。所在討襲。並各帖管內諸州令差精兵。同力捕逐。尋卽諸鎭及東塘遊奕。使相次收獲三十八人。纔見擒來。便令押送。續得梁楚狀報。到濠州界。趁及殘孼。殺得三十餘人。其餘漏網之徒。盡以傷弓而走。所生擒之兇黨。皆就戮於貴藩。能致彼之快心。實賴此之勞力。今則却見臨淮叛卒。特向沿江招呼。便稱受降。仍詩補職。累牒咨請。不送過江。蒐慝何多。養奸斯甚。敢言以怨報德。實。恐在安忘危。詩云投我以木瓜。報之以瓊琚。匪報也。永以爲好。此乃國風遺訓。昭晣可觀。相公通仁。略賜詳度。無自賈天下之戮笑也。其他已具廻牒。伏惟俯賜照察。

先ごろ公の文書をいただきますと、「当道の臨淮の叛いた兵卒が江を渡って投じて来たので、人々を広場に集め、すでに降伏を受け終えた」とありました。お寄せの書を三たび読み返しますと、言葉を返さずにはいられません。さて降伏という名は、その理がきわめて大きなものです。虞舜が七旬で苗を服させ、晋侯が三日で原を帰服させたのは、いずれも相手が綱紀を犯し常を乱して、兵を起こし人を動かしたため、緩めれば患害を育て、急げば殺傷を招くので、ついに小さな慈しみを借りて、最後には大きな信を施し、徳の教化を広げて姦凶を改めさせたのです。もしたまたま萑苻の沢に集まって、敢えて茨の障りとなる者があれば、ともに打ち滅ぼすべきで、安らかにさせてはなりません。それを今、相公はこの隣の災いを幸いとし、その軍の禍を喜んで、悪を憎むことができず、かえって姦に恩を施そうとされるのですから、鉞を執る威に背き、戈を逆さにして降る勝利をむなしく誇ることになりはしないかと恐れます。また去る年、陳儒の徒党が貴鎮に突きかかり、封疆にわずか六万余りの人がいて、宣州が日々危急を告げたとき、相公はどうして招き諭されず、侵されるままにさせたのですか。それでいて、かえって些細な頑なな凶徒を見ると、すぐみずから懇ろに誘い入れられるのですから、高いお旨を測りかねますし、まことに人々の心を裏切るものです。『春秋伝』に言っていないでしょうか、「□外の盗を召く」と。『書経』に言っていないでしょうか、「逃亡者の主となる」と。いささか至極の理を詳らかにし、むなしい言葉を信じないでください。昔、漢の朝廷に匈奴の叛いた徒党が来て附いたとき、景帝がすぐ封じようとされると、周亜夫は「彼らが自分の主に背いて賞を受けるなら、何をもって人臣の節を責められましょうか」と言いました。小さなものによって大きなものを喩えれば、事情を量ることができます。まして臨淮の一郡は、早くから淝水のほとりの行営に従い、淮辺の戦に至るまで、常に厚い賞があって、かつて偏りはありませんでした。それがこのかた、財に臨めば争って貪る心を起こし、賊に遇えばみな闘う志がなく、すぐに逡巡しても、なお寛大に扱い、先ごろまた都頭を替えることを請うので、すでに人々の請いに従いました。犬は狂い出しやすく、豕は騒ぎを制しがたいことをまったく知らず、すべてを誅し捕らえないうちに、すぐ逃げることを図ったのです。幸い、まだ近い境を離れていないのですから、まことにともに姦の源を塞ぐのがふさわしいでしょう。ここですでに不忠であったのですから、そちらでも当然、利にはならないはずです。石祁子が言った「天下の悪は一つである。宋で憎んで我が国で庇うなら、庇うことに何の益があろうか」というのが、ここに当たります。まして、およそ隣の府の事は、あちらが一つ、こちらが一つと、互いに救援して、ともに安寧を成すものです。それゆえ、前の年の六月中に、貴鎮で天平・潞府の元従の兵士が叛いて逃げ、数はわずか百人でしたが患いは小さくなく、ついに牒をお寄せになって追い捕らえることを請われました。当使は羌都将の梁楚に馬軍を率いさせ、所々で討ち襲わせ、あわせて管内の諸州にそれぞれ帖を下して精兵を出させ、力を合わせて捕らえ追わせたところ、ほどなく諸鎮および東塘の遊奕使が次々と三十八人を捕らえ、捕らえて来るのを見るとすぐ押送させました。続いて梁楚の報告の書状を受けますと、濠州の境に至って残る者どもに追いつき、三十余人を殺し、その他、網を漏れた徒は、みな弓に傷ついて逃げたとありました。生け捕った凶党はみな貴藩で誅されましたので、あちらの胸が晴れたのは、まことにこちらの労力に拠るものでした。それが今はかえって、臨淮の叛いた兵卒を、わざわざ沿江で招き呼んで、すぐに降伏を受けたと称し、さらに許して職を補され、重ねて牒で問い合わせても、江を渡して送り返されません。邪を蒐めることが何と多く、姦を養うことがここに甚だしいのです。敢えて怨みで徳に報いるとは申しませんが、まことに、安んじていて危うきを忘れておられるのではないかと恐れます。『詩経』に「われに木瓜を投げれば、瓊琚で返す。返礼ではない、長くよしみとするためだ」とあります。これは国風の遺した教えで、明らかに見るに足るものです。相公は仁ある方に通じておられますから、おおよそ詳らかにお量りになり、みずから天下の誅と笑いを買われないでください。その他はすでに返牒に記しました。伏して思いますに、俯して照らしお察しください。

夾注 1

底本は「詩」だが、「許」の誤りと見て読み改めた。前の「羌都将」も、姓なのか底本が誤っているのか判じがたいので、そのままにした。 ― 訳者