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安南録異図を補う記補安南錄異圖記

桂苑筆耕集(桂の苑で筆を耕した集) 桂苑筆耕集 · 崔致遠(チェ・チウォン) · 886年(唐・中和6年 · 新羅・憲康王12年) · 段落 1 · 漢字 878字 · 朗読 3.5分

桂苑筆耕集(桂の苑で筆を耕した集) 巻16 記 崔致遠が唐の淮南節度使・高駢の幕府で四年のあいだ書いた文章のうちから自ら選び、二十巻に編んで886年に新羅の憲康王に奉った文集。皇帝に奉った表と状、黄巣を責めた檄文、諸々の節度使に送った手紙、部下に下した委曲と挙牒、道教の斎詞と仏教の斎文、祭文、成都の羅城と安南の絵に付けた記、そして高駢に奉った啓と詩まで366編が収められている。「臣は新羅の人です」で始まる最初の啓と、「天下の人がおまえを殺そうとするだけでなく、地の底の鬼神までもおまえを斬ることを議した」という討黄巣檄文がここにあり、最後の巻は十二歳で離れた故郷へ帰る船路で作った詩である。今に伝わる韓国人の文集のうち最も古いもので、1834年に洪奭周と徐有榘が活字で刷るにあたり「我が東方の文章の根本であり始まりである」と述べた。その二つの序文も併せて訳した。

1交趾の風俗と、燕公が安南を鎮めた事

交趾四封。圖經詳矣。然而管多生䝤。境邇諸蕃。略採俚譚。用標方誌。安南之爲府也。巡屬一十二郡羇縻五十八州。府城東至南溟四百餘里。有山橫亘千里而遙。邃穴深巖。爲䝤窟宅。蠻蜑之衆六種。星居隣諸蕃二十一區。管生䝤二十一輩。水之西南則通闍婆大食之國。陸之西北則接女國烏蠻之路。曾無亭堠。莫審塗程。跂履者計日指期。沈浮者占風定信。二十一國鷄犬傳聲。服食所宜。大較相類。管內生䝤。多號山蹄。或被髮鏤身。或穿胸鑿齒。詭音嘲哳。姦態睢盱。其中尤異者。臥使頭飛。飮於鼻受。豹皮裹體。龜殼蔽形。擣木絮而爲裘。編竹苫而作翅。生養則夫妻代患。長成則父子爭雄。縱時有傳譯可通。亦俗無桑蠶之業。唯織雜彩狹布。多披短襟交衫。或有不縫而衣。不粒而食。死喪無服。嫁娵不媒。戰有排刀。病無藥餌。固恃險阻。各稱酋豪。遠自漢朝。迄于隋季。荐興邊患。頗役遐征。馬將軍標柱歸時。寸分地界。史摠管倒碑過後。略靜海隅。洎咸通初。驃信挺災。元戎喪律。鴟嘯於跕鳶之地。豕豗於束馬之塗。摧兇欲快於摏喉。拯溺唯思於援手。先帝以今淮海太尉燕公。威宣大漠。政洽上都。乃請出鎭龍編。立身豹略。剗彫題而卵碎。活黔首以肌豐。復壁壘於一麾。拔封疆於萬里。有蠹皆削。無冤不伸。然後使電母雷公。鑿外域朝天之路。山靈水若。偃大洋沃日之波。遂得絶蠻諜之北窺。紆漢軍之南戍。乃鳳傳徵詔。鷁泛歸程。至於洞䝤海蠻。莫不醉恩飽義。遠投聖闕。請建生祠。則知善政所行。殊方可誘。旣見馬如羊而不取。縱令蟻若象而何虞。足以驗四夷之時或不賓。九牧之任不得所也。有柔遠軍從事吳降嘗集是圖。名曰錄異。叙云。久切□□□觀遐蕃。目擊殊形。手題本事。然則信以傳信。斯焉取斯□□□閱前詞。退而嘆曰。愚之所以爲異者。其諸異乎人之所異。曰六合之內。何物則棄。至如鼠肉萬斤。鰕鬚一丈。旣知南北所産。永釋古今之疑。則彼獸性群分。鳥聲類聚。誠不足異也。頃太尉燕公受三顧恩。用六奇計。使獷悍歸服。邊陲晏然。今聖上省方。蒙王獻款。不敢弄吠堯之口。永能除猾夏之心。皆由燕公收交州鎭蜀郡。威振於犇魑走魅。功成於金壘湯池。所謂蘊先見之能。察未來之事。呼吸而陰陽不測。指蹤而神鬼交馳。實爲天工人其代之。斯實可爲異矣。聊補所闕。敢貽將來。時翠華幸蜀之三載也。

交趾の四方の封は、図経に詳しい。しかし管内には生䝤が多く、境は諸蕃に近いので、ひとまず里の譚を採って、方の誌に標す。安南が府となってからは、巡属が十二郡、羈縻が五十八州である。府城の東は南の溟まで四百余里、山が千里を横たわって遥かに亘り、邃い穴と深い巖が䝤の窟宅となっている。蛮と蜑の衆は六種で、星のように居り、隣る諸蕃は二十一区、管する生䝤は二十一輩である。水の西南は闍婆・大食の国に通じ、陸の西北は女国・烏蛮の路に接するが、かつて亭も堠もなく、塗と程を審らかにできない。跂いて履く者は日を計って期を指し、沈み浮かぶ者は風を占って信を定める。二十一国は鶏と犬が声を伝えるほどで、服と食の宜しきは、おおむね相似ている。管内の生䝤は、多く山蹄と号し、あるいは髪を被り身を鏤り、あるいは胸を穿ち歯を鑿つ。詭しい音で嘲哳り、姦しい態で睢り盱る。その中でもとりわけ異なるのは、臥せば頭を飛ばし、飲むのに鼻で受け、豹の皮で体を裹み、亀の殻で形を蔽い、木の絮を擣いて裘とし、竹の苫を編んで翅とすることである。生み養うときは夫婦が代わる代わる患い、長じ成れば父子が雄を争う。ときに伝え訳して通じることはあっても、俗に桑と蚕の業はなく、ただ雑な彩りの狭い布を織り、多くは短い襟の交わる衫を披る。あるいは縫わずに衣、粒らずに食い、死して喪に服さず、嫁ぎ娵るのに媒がなく、戦いには排刀があり、病には薬も餌もない。まことに険阻を恃んで、おのおの酋と豪を称する。遠く漢の朝から隋の季まで、しきりに辺の患いを興し、かなり遐い征に役した。馬将軍が柱を標して帰った時に、寸ばかり地の界を分け、史総管が碑を倒して過ぎた後に、ほぼ海の隅が静まった。咸通の初めに至って、驃信が災いを挺き、元戎は律を喪い、鴟が跕鳶の地で嘯き、豕が馬を束ねる塗で豗った。凶を摧いて喉を舂くことを快くしようとし、溺れる者を拯うのにただ手を援べることを思った。先帝は、いまの淮海太尉燕公が、威を大漠に宣べ、政が上都に洽きわたったとして、そこで請うて龍編に出でて鎮めさせられた。公は豹の略で身を立て、彫った題を剗って卵のように砕き、黔首を活かして肌を豊かにし、一たび麾って壁と塁を復し、万里に封と疆を抜いた。蠹があればみな削り、冤しさで伸べられぬものはなかった。そののち、電母と雷公に、外域が天に朝する路を鑿たせ、山霊と水若に、大洋の日を沃す波を偃せた。ついに蛮の諜が北をうかがうのを絶ち、漢の軍の南の戍りを紆めることができた。そこで鳳が徴す詔を伝え、鷁が帰る程に泛んだが、洞の䝤や海の蛮に至るまで、恩に酔い義に飽いて、遠く聖なる闕に身を投じ、生祠を建てることを請わぬものはなかった。善い政の行われるところ、殊なる方も誘くことができると知られる。すでに馬が羊のようであっても取らぬことを見せたのだから、たとい蟻が象のようであっても何を虞れよう。四夷が時に賓わないことがあるのは、九牧の任が所を得ていないからだと験すに足る。柔遠軍従事の呉降が、かつてこの図を集めて「録異」と名づけ、叙に「久しく□□□遐かな蕃を観ることに切であり、目で殊なる形を撃き、手で本の事を題した」と言っている。それならば、信ずべきものによって信ずべきものを伝えたのであり、ここからそれを取る。□□□前の詞を閲し、退いて嘆じて言った。「愚かな私が異とするところは、人が異とするところとは異なる。」そして言う。「六合の内に、どの物を棄てよう。鼠の肉が万斤、鰕の鬚が一丈というたぐいに至って、すでに南北の産するところを知り、永く古今の疑いを釈くなら、あの獣の性が群れで分かれ、鳥の声が類で聚まることなど、まことに異とするに足りない。」さきに太尉燕公は三顧の恩を受け、六奇の計を用いて、獷く悍しい者を帰服させ、辺の陲を晏らかにした。いま聖上が方を省られると、蒙王が款を献じ、あえて堯に吠える口を弄せず、永く夏を猾す心を除くことができた。みな燕公が交州を収め蜀郡を鎮めて、威が犇る魑や走る魅にまで振るい、功が金の塁と湯の池に成ったからである。いわゆる先を見る能を蘊え、未だ来ない事を察し、呼吸すれば陰陽も測りがたく、蹤を指せば神も鬼も交わり馳せる。まことに天の工を人がこれに代わるものである。これこそ異とするに足る。ひとまず闕けたところを補って、あえて将来に貽す。時は翠の華が蜀に幸された三年目である。

夾注 5

峯驩演愛陸長郡諒武定武安蘇茂虞林

峯・驩・演・愛・陸・長・諒・武定・武安・蘇茂・虞林の郡である。

䝤子多衣木皮。熟擣有如纖纊。

䝤の人は多く木の皮を着るが、よく擣つと細い綿のようになる。

時公防禦秦城。剗平醜虜。才歸輦下。出鎭安南。

このとき公は秦城を防禦して醜い虜を剗り平らげ、やっと輦下に帰ったところで、安南に出て鎮めた。

朱道古稔姦於外。杜存凌恣虐於內。皆爲安南巨患。公乃誅滅無遺。故褚令公遂良竄歿日南。子孫彫零。公時表洗雪。

朱道古は外で姦を稔らせ、杜存凌は内で虐をほしいままにして、いずれも安南の大きな患いであったが、公はこれを誅滅して残さなかった。また褚令公遂良が日南に竄されて歿し、子孫が彫み零ちていたのを、公はこのとき表して雪いだ。

安南經岝口。天威神功所開。播在遠邇。

安南が岝口を経る路は、天威神功が開いたもので、遠近に広く知られている。