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難言

韓非子(韓非の書) 韓非子 · 韓非と後学 · 紀元前3世紀 · 段落 2 · 漢字 601字 · 朗読 2.4分

韓非子(韓非の書) 法家が一堂に集まった書である。商鞅の法と申不害の術と慎到の勢を、韓非が受け継いで一つに編んだ。人は善だから善なのではなく、悪をなしえないから善であると見て、君主が頼るべきは仁ではなく法と術と勢であると説く。 矛盾がここから出た。貫けない盾と貫けないものがない矛を一緒に売る楚の人の話で、堯と舜をともに称えることはできないことを示し、難勢でもう一度、仁と勢をめぐって同じたとえを挙げる。切り株を守って兎を待った宋の人(守株待兎)と、足を二度切られてはじめて玉と認められた和氏の璧も、この書の話である。 語ることの難しさを扱った説難には、龍の喉の下に逆さに生えた鱗の話がある。君主にもそのような鱗があり、触れれば死ぬというのだが、当の韓非自身が秦で獄に捕らわれて死んだ。 存韓には、韓非が秦王に奉った文と、そのすぐ後に李斯が「韓非は韓のために来た者なので、帰してはならない」と奉った文が並べて収められている。一人を死に追いやった文書が、その人の書に一緒に残った。

臣非非難言也,所以難言者,言順比滑澤,洋洋纚纚然,則見以爲華而不實;敦祗恭厚,鯁固慎完,則見以爲掘而不倫;多言繁稱,連類比物,則見以爲虚而無用;㹅微說約,徑省而不飾,則見以爲劌而不辯;激急親近,探知人情,則見以爲譖而不讓;閎大廣博,妙遠不測,則見以爲夸而無用;家計小談,以具數言,則見以爲陋;言而近世,辭不悖逆,則見以爲貪生而諛上;言而遠俗,詭躁人間,則見以爲誕;捷敏辯給,繁於文采,則見以爲史;殊釋文學,以質信言,則見以爲鄙;時稱詩書,道法往古,則見以爲誦。此臣非之所以難言而重患也。

臣非(韓非)は語ることを厭うのではありません。語りにくい理由は次のとおりです。言葉が素直につながって滑らかで、とうとうと続けば、華やかだが中身がないと見られます。篤実で恭しく重々しく、骨太で慎み深く整っていれば、ぶこつで筋が通らないと見られます。言葉が多く引用が込み合い、似たものを並べ物事を比べれば、空疎で役に立たないと見られます。要点をつかんで短く言い、まわりくどさを省いて飾らなければ、鋭いが弁が立たないと見られます。激しく急いで近づき、人の情をさぐり当てれば、そしりがましくて譲ることを知らないと見られます。大きく広く、妙にして遠く測りがたければ、誇るばかりで役に立たないと見られます。家の暮らしのような細々した話で条々をそろえて言えば、卑しいと見られます。言葉が世間に近く、物言いが逆らわなければ、生を惜しんで上にへつらうと見られます。言葉が世俗から遠く、人のあいだで風変わりでせわしなければ、でたらめだと見られます。すばやく弁が足り、文のあやが多ければ、史官の文のようだと見られます。学問をまったく措いて、質朴に真実を語れば、粗野だと見られます。ときに『詩』や『書』を引き、いにしえの法を説けば、受け売りだと見られます。これが臣非が語ることを難しく思い、重く憂える理由です。

故度量雖正,未必聽也;義理雖全,未必用也。大王若以此不信,則小者以爲毁訾誹謗,大者患禍災害死亡及其身。故子胥善謀而吳戮之,仲尼善說而匡圍之,管夷吾實賢而魯囚之。故此三大夫豈不賢哉?而三君不明也。上古有湯,至聖也;伊尹,至智也。夫至智說至聖,然且七十說而不受;身執鼎爼爲庖宰,昵近習親,而湯乃僅知其賢而用之。故曰:以至智說至聖,未必至而見受,伊尹說湯是也;以智說愚必不聽,文王說紂是也。故文王說紂而紂囚之;翼侯炙;鬼侯腊;比干剖心;梅伯醢;夷吾束縛;而曹羈奔陳;伯里子道乞;傅說轉鬻;孫子臏腳於魏;吳起抆泣於岸門,痛西河之爲秦,卒枝解於楚;公叔痤言國器反爲悖,公孫鞅奔秦;關龍逄斬;萇弘分胣;尹子穽於棘;司馬子期死而浮於江;田明辜射;宓子賤、西門豹不鬬而死人手;董安于死而陳於市;宰予不免於田常;范雎折脅於魏。此十數人者,皆世之仁賢忠良有道術之士也,不幸而遇悖亂闇惑之主而死。然則雖賢聖不能逃死亡避戮辱者,何也?則愚者難說也,故君子難言也。且至言忤於耳而倒於心,非賢聖莫能聽,願大王熟察之也。

ですから、はかりが正しくても必ず聞かれるわけではなく、義と理が全うされていても必ず用いられるわけではありません。大王がもしこのために信じられないなら、小さくはそしり誹謗していると思われ、大きくは災いと死がその身に及びます。ですから子胥(伍子胥)は謀にすぐれていたのに呉は彼を殺し、仲尼(孔子)は説くことにすぐれていたのに匡の地で囲まれ、管夷吾はまことに賢かったのに魯は彼を捕らえました。この三人の大夫がどうして賢くなかったでしょうか。三人の君が明らかでなかったのです。遠い昔に湯があり、きわまった聖人でした。伊尹はきわまって智のある人でした。きわまった智の人がきわまった聖人に説いたのに、七十度説いてやっと受け入れられました。みずから鼎とまな板を取って料理人となり、近く親しんで慣れてから、湯はようやくその賢さを知って用いたのです。ですから、きわまった智の人がきわまった聖人に説いても必ず届いて受け入れられるわけではない、伊尹が湯に説いたのがそれです。智の人が愚かな者に説けば必ず聞かれない、文王が紂に説いたのがそれです。ですから文王が紂に説くと、紂は彼を捕らえました。翼侯は焼かれ、鬼侯は干し肉にされ、比干は心臓を割かれ、梅伯は塩漬けにされました。夷吾は縛られ、曹羈は陳へ逃げ、百里子は道で物乞いをし、傅説は売られて渡りました。孫子は魏で膝の骨を断たれ、呉起は岸門で涙をぬぐい、西河が秦のものとなるのを痛み、ついに楚で手足を裂かれました。公叔痤は国の器たる人を言ったのにかえって道に外れた者とされ、公孫鞅は秦へ去りました。関龍逄は斬られ、萇弘は腹を裂かれ、尹子は茨の穴に落とされました。司馬子期は死んで川に浮かべられ、田明は裂かれて射られました。宓子賤と西門豹は争わなかったのに人の手で死にました。董安于は死んで市にさらされ、宰予は田常の手を逃れられず、范雎は魏であばら骨を折られました。この十数人はみな世の仁にして賢く、忠良で道術のある士でしたが、不幸にして道に外れた乱れた暗く惑った主に出会って死んだのです。では、賢く聖であっても死を逃れ辱めを避けられないのはなぜか。愚かな者には語りにくいからで、だから君子は語ることを難しく思うのです。そのうえ至極の言葉は耳に逆らい心に逆さに刺さるので、賢く聖なる人でなければ聞くことができません。どうか大王はこれを熟く見極めてください。

夾注 1

底本は田常・田恆・田成恆・田成常と分かれて書かれている。一つの名「田常」にそろえた。― 訳者