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難勢

韓非子(韓非の書) 韓非子 · 韓非と後学 · 紀元前3世紀 · 段落 7 · 漢字 1,476字 · 朗読 5.9分

韓非子(韓非の書) 法家が一堂に集まった書である。商鞅の法と申不害の術と慎到の勢を、韓非が受け継いで一つに編んだ。人は善だから善なのではなく、悪をなしえないから善であると見て、君主が頼るべきは仁ではなく法と術と勢であると説く。 矛盾がここから出た。貫けない盾と貫けないものがない矛を一緒に売る楚の人の話で、堯と舜をともに称えることはできないことを示し、難勢でもう一度、仁と勢をめぐって同じたとえを挙げる。切り株を守って兎を待った宋の人(守株待兎)と、足を二度切られてはじめて玉と認められた和氏の璧も、この書の話である。 語ることの難しさを扱った説難には、龍の喉の下に逆さに生えた鱗の話がある。君主にもそのような鱗があり、触れれば死ぬというのだが、当の韓非自身が秦で獄に捕らわれて死んだ。 存韓には、韓非が秦王に奉った文と、そのすぐ後に李斯が「韓非は韓のために来た者なので、帰してはならない」と奉った文が並べて収められている。一人を死に追いやった文書が、その人の書に一緒に残った。

慎子曰:飛龍乘雲,騰蛇遊霧,雲罷霧霽,而龍蛇與螾螘同矣,則失其所乘也。賢人而詘於不肖者,則權輕位卑也;不肖而能服於賢者,則權重位尊也。堯爲匹夫,不能治三人;而桀爲天子,能亂天下,吾以此知勢位之足恃而賢智之不足慕也。夫弩弱而矢高者,激於風也;身不肖而令行者,得助於衆也。堯教於隸屬而民不聽,至於南面而王天下,令則行,禁則止。由此觀之,賢智未足以服衆,而勢位足以屈賢者也。

慎子が言った。飛ぶ龍は雲に乗り、騰蛇は霧に遊ぶが、雲が退き霧が晴れれば、龍も蛇も蚯蚓や蟻と同じになる。乗っていたものを失うからである。賢い人が不肖の者に屈するのは、権が軽く位が低いからである。不肖の者が賢い者を服させられるのは、権が重く位が尊いからである。堯が匹夫であったときは三人も治められず、桀は天子であったから天下を乱すことができた。私はこれによって、勢と位は頼みにするに足り、賢と智は慕うに足りないことを知る。そもそも弩が弱いのに矢が高く飛ぶのは風に乗るからであり、身が不肖なのに令が行われるのは衆の助けを得るからである。堯が下僕たちに教えたときは民が聞かなかったが、南面して天下に王となってからは、令すれば行われ、禁ずれば止まった。これから見れば、賢と智は衆を服させるに足らず、勢と位は賢い者を屈させるに足るのである。

應慎子曰:飛龍乘雲,騰蛇遊霧,吾不以龍蛇爲不託於雲霧之勢也。雖然,夫釋賢而專任勢,足以爲治乎?則吾未得見也。夫有雲霧之勢而能乘遊之者,龍蛇之材美也;今雲盛而螾弗能乘也,霧醲而螘不能遊也,夫有盛雲醲霧之勢而不能乘遊者,螾螘之材薄也。今桀、紂南面而王天下,以天子之威爲之雲霧,而天下不免乎大亂者,桀、紂之材薄也。

慎子に応えて言う。飛ぶ龍は雲に乗り、騰蛇は霧に遊ぶというが、私は龍や蛇が雲霧の勢に拠っていないと考えるのではない。しかしながら、そもそも賢を捨てて勢だけに任せて、治めとなるに足るだろうか。私はそれを見たことがない。そもそも雲霧の勢があってそれに乗り遊べるのは、龍蛇の素材が優れているからである。いま雲が盛んでも蚯蚓は乗ることができず、霧が濃くても蟻は遊ぶことができない。そもそも盛んな雲と濃い霧の勢があっても乗り遊べないのは、蚯蚓や蟻の素材が薄いからである。いま桀と紂は南面して天下に王となり、天子の威を雲霧としながら、天下が大乱を免れなかったのは、桀紂の素材が薄かったからである。

且其人以堯之勢以治天下也,其勢何以異桀之勢也、亂天下者也?夫勢者,非能必使賢者用之而不肖者不用之也。賢者用之則天下治,不肖者用之則天下亂。人之情性,賢者寡而不肖者衆,而以威勢之利濟亂世之不肖人,則是以勢亂天下者多矣,以勢治天下者寡矣。夫勢者,便治而利亂者也。故《周書》曰:「毋爲虎傅翼,將飛入邑,擇人而食之。」夫乘不肖人於勢,是爲虎傅翼也。桀、紂爲高臺深池以盡民力,爲炮烙以傷民性,桀、紂得成肆行者,南面之威爲之翼也。使桀、紂爲匹夫,未始行一而身在刑戮矣。勢者,養虎狼之心而成暴亂之事者也,此天下之大患也。勢之於治亂,本未有位也,而語專言勢之足以治天下者,則其智之所至者淺矣。

しかもその人は堯の勢で天下を治めると言うが、その勢は何によって天下を乱した桀の勢と違うのか。そもそも勢とは、必ず賢い者に用いさせて不肖の者に用いさせないようにできるものではない。賢い者が用いれば天下は治まり、不肖の者が用いれば天下は乱れる。人の情と性は賢い者が少なく不肖の者が多いのに、威勢の利で乱世の不肖の人を渡してやれば、それは勢で天下を乱す者が多く、勢で天下を治める者が少ないということになる。そもそも勢とは、治めに便であり乱れにも利するものである。だから『周書』に「虎に翼を付けてはならない。やがて飛んで邑に入り、人を択んで食うだろう」とある。そもそも不肖の人を勢に乗せるのは、虎に翼を付けることである。桀と紂は高い台と深い池を造って民の力を使い果たし、炮烙を造って民の性を傷つけた。桀紂が恣にふるまえたのは、南面の威が翼となったからである。もし桀紂が匹夫であったなら、一つも行わないうちに身は刑と誅に遭っていたであろう。勢とは、虎狼の心を養って暴虐と乱れの事を成すものであり、これは天下の大きな患いである。勢は治めと乱れに対してもともと定まった位置がないのに、論ずる者がもっぱら勢だけで天下を治めるに足ると言うのだから、その智の及ぶところは浅い。

夫良馬固車,使臧獲御之則爲人笑,玉良御之而日取千里。車馬非異也,或至乎千里,或爲人笑,則巧拙相去遠矣。今以國位爲車,以勢爲馬,以號令爲轡,以刑罰爲鞭筴,使堯、舜御之則天下治,桀、紂御之則天下亂,則賢不肖相去遠矣。夫欲追速致遠,不知任王良;欲進利除害,不知任賢能,此則不知類之患也。夫堯、舜亦治民之王良也。

そもそも良馬と堅い車でも、奴僕に御させれば人の笑いものとなり、王良が御せば日に千里を取る。車馬は別物ではないのに、あるときは千里に至り、あるときは人の笑いものとなる。巧みと拙さの隔たりは遠い。いま国の位を車とし、勢を馬とし、号令を手綱とし、刑罰を鞭として、堯舜が御せば天下は治まり、桀紂が御せば天下は乱れる。それなら賢と不肖の隔たりは遠い。そもそも速く追い遠くへ至りたいと思いながら王良に任せることを知らず、利を進め害を除きたいと思いながら賢能の者に任せることを知らない。これは類を知らない弊害である。そもそも堯と舜もまた民を治める王良である。

夾注 1

底本は玉良だが、王良の誤りと見た。 ― 訳者

復應之曰:其人以勢爲足恃以治官;客曰「必待賢乃治」,則不然矣。夫勢者,名一而變無數者也。勢必於自然,則無爲言於勢矣。吾所爲言勢者,言人之所設也。夫堯、舜生而在上位,雖有十桀紂不能亂者,則勢治也;桀、紂亦生而在上位,雖有十堯舜而亦不能治者,則勢亂也。故曰:「勢治者則不可亂,而勢亂者則不可治也。」此自然之勢也,非人之所得設也。若吾所言,謂人之所得設也而已矣,賢何事焉?何以明其然也?客曰:「人有鬻矛與楯者,譽其楯之堅:『物莫能陷也。』俄而又譽其矛曰:『吾矛之利,物無不陷也。』人應之曰:『以子之矛,陷子之楯,何如?』其人弗能應也。」以爲不可陷之楯,與無不陷之矛,爲名不可兩立也。夫賢之爲道不可禁,而勢之爲道也無不禁,以不可禁之賢與無不禁之勢,此矛楯之說也。夫賢勢之不相客亦明矣。

さらに応えて言う。その人は勢で官を治めるに足ると頼みにし、客は「必ず賢者を待ってはじめて治まる」と言うが、そうではない。そもそも勢とは、名は一つでも変化が数えきれないものである。勢が必ず自然から出るのなら、勢について語ることはない。私が勢と言うのは、人が設けるものを言うのである。そもそも堯舜が生まれながら上の位にあれば、十人の桀紂がいても乱すことはできない。それは勢が治まっているということである。桀紂もまた生まれながら上の位にあれば、十人の堯舜がいてもやはり治めることはできない。それは勢が乱れているということである。だから「勢が治まっていれば乱すことはできず、勢が乱れていれば治めることはできない」と言う。これは自然の勢であって、人が設けられるものではない。私が言うのは、人が設けられるものを言うだけである。賢が何の役をするのか。何によってそれを明らかにするか。客が言った。「人に矛と盾を売る者があり、その盾の堅さを誉めて『何物も貫けない』と言い、ほどなくまたその矛を誉めて『私の矛の鋭さは、貫けないものがない』と言った。人が応えて『あなたの矛であなたの盾を貫いたら、どうなるのか』と言うと、その人は答えられなかった。」貫けない盾と貫けないものがない矛とは、名として両立しないと考えたのである。そもそも賢が道となれば禁じられないものであり、勢が道となれば禁じないものがない。禁じられない賢と、禁じないものがない勢とは、これが矛と盾の話である。そもそも賢と勢が互いに容れないことも、また明らかである。

且夫堯、舜、桀、紂千世而一出,是比肩隨踵而生也。世之治者不絶於中,吾所以爲言勢者,中也。中者,上不及堯、舜,而下亦不爲桀、紂。抱法處勢則治,背法去勢則亂。今廢勢背法而待堯、舜,堯、舜至乃治,是千世亂而一治也。抱法處勢而待桀、紂,桀、紂至乃亂,是千世治而一亂也。且夫治千而亂一,與治一而亂千也,是猶乘驥、駬而分馳也,相去亦遠矣。夫弃隱栝之法,去度量之數,使奚仲爲車,不能成一輪。無慶賞之勸,刑罰之威,釋勢委法,堯、舜户說而人辨之,不能治三家。夫勢之足用亦明矣,而曰「必待賢」,則亦不然矣。

しかもそもそも堯・舜・桀・紂は千世に一度しか出ない。それでは肩を並べ踵を接して生まれるようなものだと言うに等しい。世の治める者は中ほどのところで絶えることがない。私が勢を言うのは、その中ほどについてである。中ほどとは、上は堯舜に及ばず、下もまた桀紂にはならない者である。法を抱いて勢に身を置けば治まり、法に背いて勢を捨てれば乱れる。いま勢を廃し法に背いて堯舜を待ち、堯舜が来てはじめて治まるというのなら、それは千世が乱れて一度治まることである。法を抱いて勢に身を置いて桀紂を待ち、桀紂が来てはじめて乱れるというのなら、それは千世が治まって一度乱れることである。しかもそもそも千治まって一乱れるのと、一治まって千乱れるのとでは、驥と駬に乗って反対向きに駆けるようなもので、隔たりもまた遠い。そもそも矯め木の法を捨て、度量の数を放り出せば、奚仲に車を作らせても一つの輪さえ仕上げられない。祝いや賞の励ましも刑罰の威もなく、勢を手放し法を委ねてしまえば、堯舜が家ごとに説いて人ごとに弁じても、三軒の家さえ治められない。そもそも勢が用いるに足ることもまた明らかなのに、「必ず賢者を待たねばならない」と言うのは、やはりそうではない。

且夫百日不食以待粱肉,餓者不活;今待堯、舜之賢乃治當世之民,是猶待粱肉而救餓之說也。夫曰「良馬固車,臧獲御之則爲人笑,王良御之則日取乎千里」,吾不以爲然。夫待越人之善海遊者以救中國之溺人,越人善遊矣,而溺者不濟矣。夫待古之王良以馭今之馬,亦猶越人救溺之說也,不可亦明矣。夫良馬固車,五十里而一置,使中手御之,追速致遠,可以及也,而千里可日致也,何必待古之王良乎?且御,非使王良也,則必使臧獲敗之;治,非使堯、舜也,則必使桀、紂亂之。此味非飴蜜也,必苦萊、亭歴也。此則積辯累辭,離理失術,兩末之議也,奚可以難夫道理之言乎哉?客議未及此論也。

しかもそもそも百日食べずに上等の飯と肉を待てば、飢えた者は生きられない。いま堯舜の賢を待って当世の民を治めようというのは、上等の飯と肉を待って飢えを救おうという説と同じである。そもそも「良馬と堅い車でも、奴僕が御せば人の笑いものとなり、王良が御せば日に千里を取る」という言を、私はそうだとは思わない。そもそも海で泳ぎの上手な越の人を待って中原の溺れた人を救おうとすれば、越の人は泳ぎが上手でも、溺れた者は助からない。そもそも古の王良を待って今の馬を御そうとするのも、やはり越の人で溺れた者を救おうという説と同じで、成り立たないことはまた明らかである。そもそも良馬と堅い車を五十里ごとに一つずつ置き、中ほどの腕の者に御させれば、速く追い遠くへ至ることに追いつけ、千里も日ごとに達せられる。どうして必ず古の王良を待たねばならないのか。しかも御するのに王良にさせないなら必ず奴僕にさせて壊すことになり、治めるのに堯舜にさせないなら必ず桀紂にさせて乱すことになるというのは、この味は飴や蜜でなければ必ず苦菜か亭歴だというようなものである。これは弁を積み言葉を重ねたもので、理を離れ術を失った両極端の議論である。どうしてあの道理の言を論駁できようか。客の議論はこの論に及んでいない。