いにしえの文 › 韓非子(韓非の書)

人主

韓非子(韓非の書) 韓非子 · 韓非と後学 · 紀元前3世紀 · 段落 2 · 漢字 753字 · 朗読 3.0分

韓非子(韓非の書) 法家が一堂に集まった書である。商鞅の法と申不害の術と慎到の勢を、韓非が受け継いで一つに編んだ。人は善だから善なのではなく、悪をなしえないから善であると見て、君主が頼るべきは仁ではなく法と術と勢であると説く。 矛盾がここから出た。貫けない盾と貫けないものがない矛を一緒に売る楚の人の話で、堯と舜をともに称えることはできないことを示し、難勢でもう一度、仁と勢をめぐって同じたとえを挙げる。切り株を守って兎を待った宋の人(守株待兎)と、足を二度切られてはじめて玉と認められた和氏の璧も、この書の話である。 語ることの難しさを扱った説難には、龍の喉の下に逆さに生えた鱗の話がある。君主にもそのような鱗があり、触れれば死ぬというのだが、当の韓非自身が秦で獄に捕らわれて死んだ。 存韓には、韓非が秦王に奉った文と、そのすぐ後に李斯が「韓非は韓のために来た者なので、帰してはならない」と奉った文が並べて収められている。一人を死に追いやった文書が、その人の書に一緒に残った。

人主之所以身危國亡者,大臣太貴,左右太威也。所謂貴者,無法而擅行,操國柄而便私者也。所謂威者,擅權勢而輕重者也。此二者,不可不察也。夫馬之所以能任重引車致遠道者,以筋力也。萬乘之主、千乘之君所以制天下而征諸侯者,以其威勢也。威勢者,人主之筋力也。今大臣得威,左右擅勢,是人主失力;人主失力而能有國者,千無一人。虎豹之所以能勝人執百獸者,以其爪牙也;當使虎豹失其爪牙,則人必制之矣。今勢重者,人主之爪牙也;君人而失其爪牙,虎豹之類也。宋君失其爪牙於子罕,簡公失其爪牙於田常,而不蚤奪之,故身死國亡。今無術之主皆明知宋、簡之過也,而不悟其失,不察其事類者也。

君主がその身を危うくし国を滅ぼす原因は、大臣があまりに貴く、側近があまりに威を持つことにある。いわゆる貴いとは、法によらず勝手にふるまい、国の権柄を握って私事に都合よくする者である。いわゆる威があるとは、権勢を勝手にして事を軽くも重くもする者である。この二つは察しないでいられない。そもそも馬が重い物を負い車を引いて遠い道に至ることができるのは、筋と力によってである。万乗の主や千乗の君が天下を制して諸侯を征することができるのは、その威と勢によってである。威と勢とは君主の筋と力である。いま大臣が威を得、側近が勢を勝手にするのは、君主が力を失うことである。君主が力を失ってなお国を保ちえた者は、千人に一人もない。虎や豹が人に勝ち百獣を捕らえることができるのは、その爪と牙によってである。もし虎や豹にその爪と牙を失わせたなら、人は必ずこれを制するであろう。いま勢と重みとは君主の爪と牙である。人の君となってその爪と牙を失えば、虎や豹の類と同じである。宋の君は子罕にその爪と牙を失い、簡公は田常にその爪と牙を失ったが、早くにこれを奪い返さなかったため、身は死に国は滅びた。いま術のない君主は皆、宋の君と簡公の過ちをはっきり知っていながら、自分の失を悟らない。物事が同じ類に属することを察しない者である。

且法術之士與當途之臣,不相容也。何以明之?主有術士,則大臣不得制斷,近習不敢賣重;大臣、左右權勢息,則人主之道明矣。今則不然,其當途之臣得勢擅事以環其私,左右近習朋黨比周以制䟽遠,則法術之士奚時得進用,人主奚時得論裁?故有術不必用,而勢不兩立,法術之士焉得無危?故君人者非能退大臣之議而背左右之訟,獨合乎道言也,則法術之士安能蒙死亡之危而進說乎?此世之所以不治也。明主者,推功而爵祿,稱能而官事,所舉者必有賢,所用者必有能,賢能之士進,則私門之請止矣。夫有功者受重祿,有能者處大官,則私劒之士安得無離於私勇而疾距敵,游宦之士焉得無撓於私門而務於清潔矣?此所以聚賢能之士而散私門之屬也。今近習者不必智,人主之於人也或有所知而聽之,入因與近習論其言,聽近習而不計其智,是與愚論智也。其當途者不必賢,人主之於人或有所賢而禮之,入因與當途者論其行,聽其言而不用賢,是與不肖論賢也。故智者決策於愚人,賢士程行於不肖,則賢智之士奚時得用,而人主之明塞矣。昔關龍逄說桀而傷其四肢,王子比干諫紂而剖其心,子胥忠直夫差而誅於屬鏤。此三子者,爲人臣非不忠,而說非不當也,然不免於死亡之患者,主不察賢智之言,而蔽於不肖之患也。今人主非肯用法術之士,聽愚不肖之臣,則賢智之士孰敢當三子之危而進其智能者乎?此世之所以亂也。

また、法と術の士と、要路にある臣とは、互いに相容れない。何によってこれを明らかにするか。君主に術のある士があれば、大臣は思うままに裁断することができず、側近の馴れ親しんだ者は重みを売ることができない。大臣と側近の権勢がやめば、君主の道は明らかになる。いまはそうではない。その要路にある臣が勢を得て事を勝手にし自分の私事をめぐらし、側近の馴れ親しんだ者が朋党を結んで組み、遠く疎い者を抑える。それでは法と術の士はいつ進んで用いられることができ、君主はいつ論じて裁くことができようか。だから術があっても必ず用いられるわけではなく、勢は二つ並び立たない。法と術の士がどうして危うくないでいられよう。だから人の君たる者が大臣の議を退け側近の訴えに背き、ひとり道の言に合うことができるのでなければ、法と術の士がどうして死と滅びの危うさを蒙ってまで進み出て説くことができようか。これが世の治まらない理由である。明君は功を推して爵と禄を与え、能に見合わせて官の事を任せる。挙げる者は必ず賢く、用いる者は必ず能がある。賢く能のある士が進めば、私門の請託はやむ。そもそも功のある者が重い禄を受け、能のある者が大きな官に処すれば、私剣の士がどうして私の勇を離れて急ぎ敵を防がないでいられよう。遊説して仕える士がどうして私門に屈せず清く潔いことに努めないでいられよう。これが賢く能のある士を集め、私門の徒を散らす所以である。いま側近の馴れ親しんだ者は必ずしも智があるわけではないのに、君主は人について何か知るところがあってその言を聴き、奥に入ってから側近の馴れ親しんだ者とその言を論じる。側近の言を聴いてその智を計らないのは、愚か者と智を論ずることである。要路にある者は必ずしも賢いわけではないのに、君主は人について賢いと思って礼遇し、奥に入ってから要路にある者とその行いを論じる。その言を聴いて賢者を用いないのは、不肖の者と賢を論ずることである。だから智者が愚人に策を決められ、賢士が不肖の者に行いを測られるなら、賢く智のある士はいつ用いられることができようか。そして君主の明は塞がれる。昔、関龍逄は桀に説いて四肢を傷つけられ、王子比干は紂に諫めて心臓を割かれ、子胥は夫差に忠直であったのに属鏤の剣で誅された。この三人は人の臣として忠でなかったのではなく、その説が当たらなかったのでもない。それでも死と滅びの患を免れなかったのは、主君が賢く智ある者の言を察せず、不肖の者に蔽われる患があったからである。いま君主が法と術の士を用いようとせず、愚かで不肖な臣の言を聴くなら、賢く智のある士のうち誰が敢えてあの三人の危うさに当たってその智と能を差し出そうか。これが世の乱れる理由である。