いにしえの文 › 韓非子(韓非の書)

制分

韓非子(韓非の書) 韓非子 · 韓非と後学 · 紀元前3世紀 · 段落 5 · 漢字 673字 · 朗読 2.7分

韓非子(韓非の書) 法家が一堂に集まった書である。商鞅の法と申不害の術と慎到の勢を、韓非が受け継いで一つに編んだ。人は善だから善なのではなく、悪をなしえないから善であると見て、君主が頼るべきは仁ではなく法と術と勢であると説く。 矛盾がここから出た。貫けない盾と貫けないものがない矛を一緒に売る楚の人の話で、堯と舜をともに称えることはできないことを示し、難勢でもう一度、仁と勢をめぐって同じたとえを挙げる。切り株を守って兎を待った宋の人(守株待兎)と、足を二度切られてはじめて玉と認められた和氏の璧も、この書の話である。 語ることの難しさを扱った説難には、龍の喉の下に逆さに生えた鱗の話がある。君主にもそのような鱗があり、触れれば死ぬというのだが、当の韓非自身が秦で獄に捕らわれて死んだ。 存韓には、韓非が秦王に奉った文と、そのすぐ後に李斯が「韓非は韓のために来た者なので、帰してはならない」と奉った文が並べて収められている。一人を死に追いやった文書が、その人の書に一緒に残った。

夫凡國博君尊者,未嘗非法重而可以至乎令行禁止於天下者也。是以君人者分爵制祿,則法必嚴以重之。夫國治則民安,事亂則邦危。法重者得人情,禁輕者失事實。且夫死力者,民之所有者也,情莫不出其死力以致其所欲;而好惡者,上之所制也,民者好利祿而惡刑罰。上掌好惡以御民力,事實不宜失矣,然而禁輕事失者,刑賞失也。其治民不秉法爲善也,如是,則是無法也。

そもそも国が広く君主が尊いのは、法が重くて天下に令が行われ禁が止むに至ることができたのでないものはない。このため人の君たる者が爵を分け禄を制するときは、法を必ず厳しくして重くする。そもそも国が治まれば民は安らかであり、事が乱れれば国は危うい。法が重い者は人の情を得、禁が軽い者は事の実を失う。また、そもそも死ぬほどの力は民が持っているものであり、情としてはその死ぬほどの力を出して望むところに至らせない者はない。そして好むことと憎むことは上が制するところであり、民は利ある禄を好んで刑罰を憎む。上が好悪を握って民の力を御すれば、事の実を失わないのが当然であるのに、それでも禁が軽く事を失うのは、刑と賞を誤るからである。民を治めるのに法を執らず善を行うとするなら、このようであれば、これは法がないことである。

故治亂之理,宜務分刑賞爲急。治國者莫不有法,然而有存有亡;亡者,其制刑賞不分也。治國者,其刑賞莫不有分:有持異以爲分,不可謂分;至於察君之分,獨分也。是以其民重法而畏禁,願毋抵罪而不敢胥賞。故曰:不待刑賞而民從事矣。

だから治と乱の理は、まさに刑と賞を分けることに努めるのを急ぐべきである。国を治める者に法のない者はないが、それでも存する国があり亡ぶ国がある。亡ぶ国は、その刑と賞の制が分かれていないのである。国を治める者には、その刑と賞に分けがない者はない。異なるものを持ってこれを分けとするのは、分けとは言えない。察する君の分けに至っては、ひとり分けである。このためその民は法を重んじて禁を畏れ、罪に触れないことを願って敢えて賞を待たない。だから、刑と賞を待たずに民が事に従う、と言うのである。

是故夫至治之國,善以止姦爲務。是何也?其法通乎人情,關乎治理也。然則去微姦之道奈何?其務令之相規其情者也。則使相闚奈何?曰:蓋理相坐而已。禁尚有連於己者,理不得不相闚,惟恐不得免。有姦心者不令得忘,闚者多也。如此,則慎己而闚彼,發姦之密。告過者免罪受賞,失姦者必誅連刑。如此,則姦類發矣。姦不容細,私告任坐使然也。

このため、そもそも極めて治まった国は、姦を止めることを務めとする。これはなぜか。その法が人の情に通じ、治める理に関わっているからである。それならば微かな姦を無くす道はどうするのか。彼らに互いにその情を窺わせることに努めるのである。では互いに窺わせるにはどうするのか。言う、おおむね理として互いに連座させるだけである、と。禁がなお自分に連なっていれば、理として互いに窺わないわけにはいかず、ただ免れられないことを恐れる。姦の心のある者が忘れていられないのは、窺う者が多いからである。このようであれば、自分を慎んで相手を窺い、姦を暴くことが密になる。過ちを告げた者は罪を免れ賞を受け、姦を見逃した者は必ず誅せられて連座の刑を受ける。このようであれば姦の類は暴かれる。姦が細かいものも容れられないのは、私かに告げさせ連座を負わせることがそうさせるのである。

夫治法之至明者,任數不任人。是以有術之國,不用譽則毋適,境内必治,任數也。亡國使兵公行乎其地,而弗能圉禁者,任人而無數也。自攻者人也,攻人者數也,故有術之國去言而任法。

そもそも法による治が極めて明らかな者は、数に任せて人に任せない。このため術のある国は、誉を用いなくても敵対するものがなく、境内が必ず治まる。数に任せるからである。亡ぶ国は、兵がその地を勝手に行き来しても防ぎ禁ずることができない。人に任せて数がないからである。自らを攻めるものは人であり、人を攻めるものは数である。だから術のある国は言を捨てて法に任せる。

凡畸功之循約者難知,過刑之於言者難見也,是以刑賞惑乎貳。所謂循約難知者,姦功也;臣過之難見者,失根也。循理不見虚功,度情詭乎姦根,則二者安得無兩失也?是以虚士立名於内,而談者爲畧於外,故愚、怯、勇、慧相連而以虚道屬俗而容乎世。故其法不用,而刑罰不加乎僇人。如此,則刑賞安得不容其二?實故有所至,而理失其量,量之失,非法使然也,法定而任慧也。釋法而任慧者,則受事者安得其務?務不與事相得,則法安得無失,而刑安得無煩?是以賞罰擾亂,邦道差誤,刑賞之不分白也。

そもそも偏った功が約束に従っているものは知りにくく、過った刑が言に繋がれているものは見えにくい。このため刑と賞は二つの間で惑う。いわゆる約束に従って知りにくいものとは姦しい功であり、臣の過ちが見えにくいものとは根を失うことである。理に従えば虚しい功は見えず、情を度れば姦の根に背く。それならば二つがどうして両方とも失わないでいられよう。このため虚しい士が内で名を立て、談ずる者が外で謀をめぐらす。だから愚かな者、臆病な者、勇ましい者、智い者が互いに連なり、虚しい道によって俗に属して世に容れられる。だからその法は用いられず、刑罰は殺すべき人に加えられない。このようであれば、刑と賞がどうしてその二つを容れないでいられよう。実は本より至るところがあるのに、理がその度りを失う。度りの失は法がそうさせたのではなく、法が定まっているのに智に任せるからである。法を放って智に任せるなら、事を受けた者がどうしてその務めを得られよう。務めが事と相合わなければ、法がどうして失わないでいられ、刑がどうして煩わしくないでいられよう。このため賞と罰は擾れ乱れ、国の道は誤る。刑と賞が白黒に分かれていないからである。