精神訓
古未有天地之時,惟像無形,窈窈冥冥,芒芠漠閔,澒濛鴻洞,莫知其門。有二神混生,經天營地,孔乎莫知其所終極,滔乎莫知其所止息,於是乃別為陰陽,離為八極,剛柔相成,萬物乃形,煩氣為蟲,精氣為人。是故精神,天之有也;而骨骸者,地之有也。精神入其門,而骨骸反其根,我尚何存?是故聖人法天順情,不拘於俗,不誘於人,以天為父,以地為母,陰陽為綱,四時為紀。天靜以清,地定以寧,萬物失之者死,法之者生。夫靜漠者,神明之定也;虛無者,道之所居也。是故或求之於外者,失之於內;有守之於內者,失之於外。譬猶本與末也,從本引之,千枝萬葉,莫不隨也。
古、天地のまだなかった時には、ただ象だけがあって形がなく、奥深く暗く、ぼうっと果てしなく、混じり合ってがらんとひろがり、その門を知る者はなかった。二つの神が混じって生まれ、天を経め地を営んだが、深くてその終わり極まるところを知る者はなく、溢れてその止まり息むところを知る者はなかった。そこで分かれて陰陽となり、離れて八つの極となり、剛と柔が互いに成して万物が形をなし、煩わしい気は虫となり、精らかな気は人となった。そのため精神は天の有つものであり、骨や骸は地の有つものである。精神がその門に入り、骨や骸がその根へ返れば、私にどこが残るだろうか。そのため聖人は天に法り情に順って、俗に拘われず、人に誘われず、天を父とし、地を母とし、陰陽を綱とし、四季を紀とする。天は静かであって清く、地は定まって寧かであるから、万物はこれを失えば死に、これに法れば生きる。そもそも静かに寂しいことは神明の定まりであり、虚しく無いことは道の居るところである。そのため、外に求める者は内で失い、内に守る者は外で失う。たとえば本と末のようなもので、本から引けば千の枝、万の葉が、随わないものはない。
夫精神者,所受於天也;而形體者,所稟於地也。故曰:一生二,二生三,三生萬物。萬物背陰而抱陽,沖氣以為和。故曰:一月而膏,二月而胅,三月而胎,四月而肌,五月而筋,六月而骨,七月而成,八月而動,九月而躁,十月而生。形體以成,五臟乃形。是故肺主目,腎主鼻,膽主口,肝主耳,外為表而內為裡,開閉張歙,各有經紀。故頭之圓也象天,足之方也象地。天有四時、五行、九解、三百六十六日,人亦有四支、五藏、九竅、三百六十六節。天有風雨寒暑,人亦有取與喜怒。故膽為雲,肺為氣,肝為風,腎為雨,脾為雷,以與天地相參也,而心為之主。是故耳目者,日月也;血氣者,風雨也。日中有踆烏,而月中有蟾蜍。日月失其行,薄蝕無光;風雨非其時,毀折生災;五星失其行,州國受殃。
そもそも精神は天から受けたもの、形と体は地から受けたものである。だからこういう。一が二を生み、二が三を生み、三が万物を生む。万物は陰を背にし陽を抱き、沖なる気によって和をなす。だからこういう。一月で膏となり、二月で肉塊となり、三月で胎となり、四月で肌となり、五月で筋となり、六月で骨となり、七月で成り、八月で動き、九月で騒ぎ、十月で生まれる。形と体が成って、五臓が形をなす。そのため肺は目を主り、腎は鼻を主り、胆は口を主り、肝は耳を主って、外は表となり内は裏となり、開き閉じ張り縮めることに、それぞれ経と紀がある。だから頭の円いのは天に象り、足の方なのは地に象る。天に四季・五行・九解・三百六十六日があり、人にもまた四肢・五臓・九竅・三百六十六節がある。天に風雨寒暑があり、人にもまた取ることと与えること、喜びと怒りがある。だから胆は雲となり、肺は気となり、肝は風となり、腎は雨となり、脾は雷となって、天地と相参わり、心がその主となる。そのため耳目は日と月であり、血と気は風と雨である。日のなかに踆烏があり、月のなかに蟾蜍がある。日月がその運行を失えば、食まれて光を失い、風雨がその時でなければ、壊れ折れて災いが生じ、五星がその運行を失えば、州や国が災いを受ける。
夫天地之道,至紘以大,尚猶節其章光,愛其神明,人之耳目曷能久熏勞而不息乎?精神何能久馳騁而不既乎?是故血氣者,人之華也,而五藏者,人之精也。夫血氣能專于五藏而不外越,則胸腹充而嗜欲省矣;胸腹充而嗜欲省,則耳目清、聽視達矣。耳目清,聽視達,謂之明。五藏能屬於心而乖,則㪍志勝而行不僻矣;㪍志勝而行之不僻,則精神盛而氣不散矣。精神盛而氣不散則理,理則均,均則通,通則神,神則以視無不見,以聽無不聞也,以為無不成也。是故憂患不能入也,而邪氣不能襲。故事有求之于四海之外而不能遇,或守之於形骸之內而不見也。故所求多者所得少,所見大者所知小。夫孔竅者,精神之戶牖也,而氣志者,五藏之使候也。耳目淫于聲色之樂,則五藏搖動而不定矣;五藏搖動而不不定,則血氣滔蕩而不休矣;血氣滔蕩而不休,則精神馳騁於外而不守矣;精神馳騁於外而不守,則禍福之至,雖如丘山,無由識之矣。使耳目精明玄達而無誘慕,氣志虛靜恬愉而省嗜欲,五藏定寧充盈而不泄,精神內守形骸而不外越,則望於往世之前,而視於來事之後,猶未足為也,豈直禍福之間哉?
そもそも天地の道は、きわめて広く大きいのに、それでもなおその輝きを節し、その神明を惜しむ。人の耳目がどうして長く労して息まずにいられよう。精神がどうして長く馳せて尽きずにいられよう。そのため血と気は人の華であり、五臓は人の精である。そもそも血と気が五臓にひとすじになって外へ越えなければ、胸と腹は充ちて嗜みと欲は省かれる。胸と腹が充ちて嗜みと欲が省かれれば、耳目は清らかになり、聴くことと視ることが達する。耳目が清らかで聴き視ることが達するのを明という。五臓が心に属して違わなければ、志が勝って行いは偏らない。志が勝って行いが偏らなければ、精神は盛んで気は散らない。精神が盛んで気が散らなければ理まり、理まれば均しく、均しければ通じ、通じれば神となり、神であれば視て見えないものがなく、聴いて聞こえないものがなく、為して成らないものがない。そのため憂いと患いは入ることができず、邪な気も襲うことができない。だから事には、四海の外に求めても出会えないものがあり、形骸の内に守っていても見えないものがある。だから求めるところの多い者は得るところが少なく、見るところの大きい者は知るところが小さい。そもそも孔や竅は精神の戸と窓であり、気と志は五臓の使いと見張りである。耳目が声と色の楽しみに溺れれば、五臓は揺れ動いて定まらない。五臓が揺れ動いて定まらなければ、血と気は溢れ動いて休まらない。血と気が溢れ動いて休まらなければ、精神は外へ馳せて守らない。精神が外へ馳せて守らなければ、禍福の至ることが丘や山のようであっても、それを識る手立てがない。耳目を精らかに明るく玄かに達して誘いや慕いがないようにし、気と志を虚しく静かに安らかに楽しくして嗜みと欲を省き、五臓を定め寧んじ充ち満ちて漏れないようにし、精神を内に形骸を守って外へ越えないようにすれば、過ぎた世の前を望み、来る事の後を視ることすらまだ足らないほどで、どうしてただ禍福のあいだのことだけだろうか。
故曰:其出彌遠者,其知彌少。以言乎精神之不可使外淫也。是故五色亂目,使目不明;五聲嘩耳,使耳不聰;五味亂口,使口爽傷;趣舍滑心,使行飛揚。此四者,天下之所養性也,然皆人累也。故曰:嗜欲者,使人之氣越;而好憎者,使人之心勞;弗疾去,則志氣日耗。
だからこういう。その出かたが遠いほど、その知は少ない。精神を外に溢れさせてはならないことをいったのである。そのため五色が目を乱して目を明るくなくし、五声が耳に騒がしくて耳を聡くなくし、五味が口を乱して口を損ない、進み退きが心を乱して行いを飛び散らせる。この四つは天下が性を養うものとされているが、みな人の煩いである。だからこういう。嗜みと欲は人の気を越えさせ、好みと憎みは人の心を労させる。早く去らなければ、志と気は日ごとに減る。
夫人之所以不能終其壽命,而中道夭于刑戮者,何也?以其生生之厚。夫惟能無以生為者,則所以修得生也。夫天地運而相通,萬物總而為一。能知一,則無一之不知也;不能知一,則無一之能知也。譬吾處於天下也,亦為一物矣,不識天下之以我備其物與?且惟無我而物無不備者乎?然則我亦物也,物亦物也,物之與物也,又何以相物也?雖然,其生我也,將以何益?其殺我也,將以何損?夫造化者既以我為坯矣,將無所違之矣。吾安知夫刺灸而欲生者之非惑也?又安知夫絞經而求死者之非福也?或者生乃徭役也?而死乃休息也?天下茫茫,孰知之哉?其生我也不強求已,其殺我也不強求止。欲生而不事,憎死而不辭,賤之而弗憎,貴之而弗喜,隨其天資而安之不極。吾生也有七尺之形,吾死也有一棺之土。吾生之比於有形之類,猶吾死之淪於無形之中也。然則吾生也物不以益眾,吾死也土不以加厚,吾又安知所喜憎利害其間者乎?夫造化者之攫援物也,譬猶陶人之埏埴也,其取之地而已為盆盎也,與其未離於地也無以異,其已成器而破碎漫瀾而複歸其故也,與其為盆盎亦無以異矣。夫臨江之鄉,居人汲水以浸其園,江水弗憎也;苦洿之家,決洿而注之江,洿水弗樂也。是故其在江也,無以異其浸園也;其在洿也,亦無以異其在江也。是故聖人因時以安其位,當世而樂其業。
そもそも人がその寿命を終えられずに、中途で刑や殺しによって若死にする理由は何か。その生を生きることが厚すぎるからである。そもそも生を目的としないことのできる者だけが、生を修めて得るのである。そもそも天地はめぐって互いに通じ、万物は総べられて一つとなる。一を知ることができれば、一つも知らないものはない。一を知ることができなければ、一つも知りえるものがない。たとえば、私が天下に居ることも一つの物であって、天下が私によってその物を備えるのだろうか。それとも、私がないことによって物が備わらないことがないのだろうか。それなら私も物であり、物も物であって、物と物が、また何によって互いを物とするのか。そうであっても、それが私を生むことは何を益すのか。それが私を殺すことは何を損なうのか。そもそも造化する者はすでに私を土くれとしたのだから、それに違うところはない。私はどうして、鍼や灸をして生きようとする者が惑いでないと分かろう。また、首をくくって死を求める者が福でないと分かろう。あるいは生は徭役であって、死は休息なのだろうか。天下はぼうぜんとして、誰がこれを知ろう。それが私を生むのを無理に止めようとせず、それが私を殺すのを無理に止めようとしない。生きようとしても事とせず、死を憎んでも辞さず、賤しめられても憎まず、貴ばれても喜ばず、その天の資に随って安らぎ、極めようとしない。私は生きて七尺の形があり、私は死んで一棺の土がある。私の生が形あるたぐいに比べられることは、私の死が形なきもののなかに沈むのと同じである。それなら私が生きても物が増えて多くなるわけではなく、私が死んでも土が厚くなるわけではない。私はまた、そのあいだに喜び憎み利し害するところを、どうして知ろう。そもそも造化する者が物を掴み引くことは、たとえば陶人が粘土をこねるようなもので、それを地から取ってすでに盆や甕となっていても、まだ地から離れていないのと異なるところはなく、それがすでに器となってから壊れ砕け散り崩れてまた元へ帰るのも、それが盆や甕であったのと異なるところはない。そもそも江に臨む郷では、住人が水を汲んでその園を潤しても、江の水は憎まない。溜まり水に苦しむ家が、溜まりを切って江へ注いでも、溜まり水は喜ばない。そのため、それが江に在ることは、それが園を潤すことと異なるところがなく、それが溜まりに在ることも、それが江に在ることと異なるところがない。そのため聖人は時に従ってその位に安らぎ、世に当たってその業を楽しむ。
夫悲樂者,德之邪也;而喜怒者,道之過也;好憎者,心之暴也。故曰:其生也,天行;其死也,物化。靜則與陰俱閉,動則與陽俱開。精神澹然無極,不與物散,而天下自服。故心者,形之主也;而神者,心之寶也。形勞而不休則蹶,精用而不已則竭。是故聖人貴而尊之,不敢越也。夫有夏後氏之璜者,匣匱而藏之,寶之至也。夫精神之可寶也,非直夏後氏之璜也。是故聖人以無應有,必究其理;以虛受實,必窮其節;恬愉虛靜,以終其命。是故無所甚疏,而無所甚親。抱德煬和,以順於天。與道為際,與德為鄰,不為福始,不為禍先,魂魄處其宅,而精神守其根,死生無變於己,故曰至神。所謂真人者也,性合於道也。故有而若無,實而若虛;處其一不知其二,治其內不識其外。明白太素,無為複樸,體本抱神,以游于天地之樊。芒然仿佯於塵垢之外,而消搖於無事之業。浩浩蕩蕩乎,機械之巧弗載於心。
そもそも悲しみと楽しみは徳の邪であり、喜びと怒りは道の過ちであり、好みと憎みは心の暴れである。だからこういう。その生は天の運行であり、その死は物の変化である。静かであれば陰とともに閉じ、動けば陽とともに開く。精神が淡々として極まりなく、物とともに散らなければ、天下は自ずと服する。だから心は形の主であり、神は心の宝である。形が労して休まなければ躓き、精が用いられて止まなければ尽きる。そのため聖人はこれを貴び尊んで、敢えて越えない。そもそも夏后氏の璜を持つ者は、匣や櫃に入れて蔵める。宝とすることの極みである。そもそも精神が宝とするに足ることは、ただ夏后氏の璜どころではない。そのため聖人は、無によって有に応じて必ずその理を究め、虚によって実を受けて必ずその節を窮め、安らかに楽しく虚しく静かにして、その命を終える。そのため、ひどく疎いところもなく、ひどく親しいところもない。徳を抱き和を温めて、天に順う。道と境を接し、徳と隣り合い、福の始めとならず、禍の先とならず、魂魄はその宅に居り、精神はその根を守り、死生が自分を変えることがない。だから至神という。いわゆる真人であって、性が道に合った者である。だから有りながら無いようであり、実でありながら虚しいようであり、その一に居てその二を知らず、その内を治めてその外を識らない。明らかに白い太素のままに、無為にして朴へ返り、本を体とし神を抱いて、天地の垣のなかに遊ぶ。ぼうっと塵垢の外をさまよい、事なき業に逍遥する。ひろびろとおおらかで、機械の巧みさを心に載せない。
是故死生亦大矣,而不為變。雖天地覆育,亦不與之摟抱矣。審乎無瑕,而不與物糅;見事之亂,而能守其宗。若然者,正肝膽,遺耳目,心志專于內,通達耦于一,居不知所為,行不知所之,渾然而往,逯然而來,形若槁木,心若死灰。忘其五藏,損其形骸。不學而知,不視而見,不為而成,不治而辯,感而應,迫而動,不得已而往,如光之耀,如景之放,以道為紃,有待而然。抱其太清之本,而無所容與,而物無能營。廓惝而虛,清靖而無思慮。大澤焚而不能熱,河、漢涸而不能寒也。大雷毀山而不能驚也,大風晦日而不能傷也。是故視珍寶珠玉,猶石礫也;視至尊窮寵,猶行客也;視毛嬙、西施,猶䫏醜也。以死生為一化,以萬物為一方,同精於太清之本,而游于忽區之旁。有精而不使,有神而不行,契大渾之樸,而立至清之中。
そのため死生も大きなことなのに、それによって変わらない。たとえ天地が覆い育てても、それと抱き合うことはない。瑕のないことを見定めて物と混じらず、事の乱れを見ながらその宗を守ることができる。このような者は、肝と胆を正し、耳目を捨て、心と志は内にひとすじで、通り達して一に組み、居ても為すところを知らず、行っても行く先を知らず、おぼろに往き、ゆるやかに来て、形は枯れ木のようで、心は死んだ灰のようである。その五臓を忘れ、その形骸を減らす。学ばずに知り、視ずに見え、為さずに成り、治めずに分かれ、感じて応じ、迫られて動き、やむを得ずして往き、光が照らすように、影が差すように、道を糸として、待つものがあってそうなる。その太清の本を抱いて、与するところがないので、物が営むことができない。がらんとひろく虚しく、清らかに静かで思い巡らしがない。大きな沢が焼けても熱くできず、河や漢が涸れても寒くできない。大きな雷が山を壊しても驚かせられず、大風が日を暗くしても傷つけられない。そのため珍しい宝や珠や玉を見ることは石や礫のようであり、至って尊く極まった寵を見ることは行き過ぎる客のようであり、毛嬙や西施を見ることは醜い者のようである。死生を一つの変化とし、万物を一つの方とし、太清の本において精を同じくし、おぼろな境のかたわらに遊ぶ。精があっても使わず、神があっても行わず、大いなる混じりの朴に契って、至って清らかなもののなかに立つ。
是故其寢不夢,其智不萌,其魄不抑,其魂不騰。反覆終始,不知其端緒,甘暝太宵之宅,而覺視於昭昭之宇,休息於無委曲之隅,而游敖於無形埒之野。居而無容,處而無所,其動無形,其靜無體,存而若亡,生而若死,出入無間,役使鬼神。淪于不測,入於無間,以不同形相嬗也,終始若環,莫得其倫。此精神之所以能登假於道也。是故真人之所游。若吹呴呼吸,吐故內新,熊經鳥伸,鳧浴蝯躩,鴟視虎顧,是養形之人也,不以滑心。使神滔蕩而不失其充,日夜無傷而與物為春,則是合而生時於心也。
そのため眠って夢を見ず、その知は芽ばえず、その魄は抑えられず、その魂は騰らない。終わりと始めを往き復りして、その端緒を知らず、太宵の宅に心地よく眠り、昭々たる宇で覚めて視、曲がり込みのない隅で休み息み、形も境もない野に遊び戯れる。居ても姿がなく、処っても所がなく、その動きに形がなく、その静まりに体がなく、存りながら亡いようであり、生きながら死んだようであり、隙なきところを出入りして、鬼神を使い役する。測れないものに沈み、隙なきところに入り、同じでない形で互いに移り変わり、終わりと始めは環のようで、その順序を得ることができない。これが精神が道へ登り至りうるゆえんである。そのため真人の遊ぶところである。あの吹き呼び息をして、古いものを吐き新しいものを納め、熊のように懸かり鳥のように伸び、鳧のように浴び猿のように跳ね、鴟のように視て虎のように顧みるのは、形を養う人であって、それで心を乱すことはしない。神が溢れ動きながらその充ちを失わず、日夜傷むことなく物とともに春となれば、これは合して心に時を生むことである。
且人有戒形而無損於心,有綴宅而無耗精。夫癩者趨不變,狂者形不虧,神將有所遠徙,孰暇知其所為!故形有摩而神未嘗化者,以不化應化,千變萬化,而未始有極。化者,複歸於無形也;不化者,與天地俱生也。夫木之死也,青青去之也。夫使木生者豈木也?猶充形者之非形也。故生生者未嘗死也,其所生則死矣;化物者未嘗化也,其所化則化矣。輕天下,則神無累矣;細萬物,則心不惑矣;齊死生,則志不懾矣;同變化,則明不眩矣。眾人以為虛言,吾將舉類而實之。
また人には、形を損なわれても心に損なわれるところがなく、宅を繋ぎ替えても精を減らさないということがある。そもそも癩の者は走り方が変わらず、狂った者は形が欠けない。神がまさに遠くへ移ろうとしているときに、誰がその為すところを知る暇があろうか。だから形に磨り減りがあっても神がいまだ変わらない者は、変わらないことによって変わることに応じ、千変万化してもまだ極まりがない。変わるものはまた形なきものへ帰り、変わらないものは天地とともに生きる。そもそも木が死ぬのは、青々としたものがそれを去るからである。そもそも木を生かしているものが、どうして木だろうか。形を充たしているものが形でないのと同じである。だから生を生むものはいまだ死んだことがなく、それが生んだものは死ぬ。物を変化させるものはいまだ変化したことがなく、それが変化させたものは変化する。天下を軽んじれば神に煩いはない。万物を細かいものとすれば心は惑わない。死生を等しくすれば志は怯えない。変化を同じとすれば明るさは眩まない。多くの人はこれを空言だと思うので、私はたぐいを挙げて実だと示そう。
人之所以樂為人主者,以其窮耳目之欲,而適躬體之便也。今高臺層榭,人之所麗也;而堯樸桷不斫,素題不枅。珍怪奇異,人之所美也;而堯糲粢之飯,藜藿之羹。文繡狐白,人之所好也;而堯布衣掩形,鹿裘禦寒。養性之具不加厚,而增之以任重之憂。故舉天下而傳之於舜,若解重負然。非直辭讓,誠無以為也。此輕天下之具也。禹南省方,濟于江,黃龍負舟,舟中之人五色無主,禹乃熙笑而稱曰:「我受命於天,竭力而勞萬民,生寄也,死歸也,何足以滑和?」視龍猶蝘蜓,顏色不變,龍乃弭耳掉尾而逃。禹之視物亦細矣。鄭之神巫相壺子林,見其徵,告列子。列子行泣報壺子。壺子持以天壤,名實不入,機發於踵。壺子之視死生亦齊矣。子求行年五十有四,而病傴僂,脊管高於頂,〈月曷〉下迫頤,兩脾在上,燭營指天。匍匐自窺于井,曰:「偉哉!造化者其以我為此拘拘邪?」此其視變化亦同矣。故睹堯之道,乃知天下之輕也;觀禹之志,乃知天下之細也;原壺子之論,乃知死生之齊也;見子求之行,乃知變化之同也。
人が君主となることを楽しむ理由は、耳目の欲を窮め、身体の便に適うからである。いま高い台や層をなす榭は、人が麗しいと思うものだが、堯は垂木を削らず、白木の柱頭に枡を置かなかった。珍しく怪しく奇しいものは、人が美しいと思うものだが、堯は粗い粟の飯と、藜や藿の羹を食べた。文の繡や狐の白い毛衣は、人が好むものだが、堯は布の衣で身を覆い、鹿の皮衣で寒さを防いだ。性を養う備えは厚くならず、重い任の憂いだけが増した。だから天下を挙げて舜に伝えたことは、重い荷を解くようであった。ただ辞し譲ったのではなく、まことに目的とするものがなかったのである。これが天下を軽んじる備えである。禹が南へ巡り、江を渡るとき、黄色い龍が舟を背負ったので、舟中の人は顔色を失ったが、禹はにこやかに笑っていった。「私は天から命を受け、力を尽くして万民のために労している。生は寄せられたもの、死は帰ることだ。どうして和を乱すに足ろう。」龍を見ることが蝘蜓のようで、顔色が変わらなかったので、龍は耳を伏せ尾を振って逃げた。禹が物を見ることもまた細かかった。鄭の神なる巫が壺子林を相して、その徴を見て列子に告げた。列子は行って泣きながら壺子に報せた。壺子は天と壌をもって持ちこたえ、名も実も入らず、機は踵から発した。壺子が死生を見ることもまた等しかった。子求は年五十四で背の曲がる病となり、脊の管が頂より高く、〈月曷〉は下へ頤を圧し、両の腿が上に在り、燭営が天を指した。這って自ら井に映して見て、いった。「偉いものだ。造化する者は、私をこんなに屈め縮めたのか。」これはその変化を見ることもまた同じだったのである。だから堯の道を見て天下の軽さを知り、禹の志を観て天下の細かさを知り、壺子の論を推して死生の等しさを知り、子求の行いを見て変化の同じさを知る。
夫至人倚不拔之柱,行不關之塗,稟不竭之府,學不死之師。無往而不遂,無至而不通。生不足以掛志,死不足以幽神,屈伸俯仰,抱命而婉轉。禍福利害,千變萬化,孰足以患心!若此人者,抱素守精,蟬蛻蛇解,游於太清,輕舉獨往,忽然入冥。鳳凰不能與之儷,而況斥鷃乎!勢位爵祿,何足以概志也!晏子與崔杼盟,臨死地而不易其義。殖、華將戰而死,莒君厚賂而止之,不改其行。故晏子可迫以仁,而不可劫以兵;殖、華可止以義,而不可縣以利。君子義死,而不可以富貴留也;義為,而不可以死亡恐也。彼則直為義耳,而尚猶不拘於物,又況無為者矣。
そもそも至人は抜けない柱に倚り、閉ざされない道を行き、尽きない府から受け、死なない師に学ぶ。往って遂げないことがなく、至って通じないことがない。生も志に掛けるに足らず、死も神を幽くするに足らず、屈み伸び俯き仰いで、命を抱いてしなやかにめぐる。禍福や利害が千変万化しても、何が心を患わせるに足ろう。このような人は、素を抱き精を守り、蝉が脱け蛇が解けるように、太清に遊び、軽やかに挙がって独り往き、ふっと暗みに入る。鳳凰でもこれと並ぶことはできない。まして斥鷃などどうということがあろうか。勢いや位、爵や禄が、どうして志に気がかりとなるに足ろう。晏子は崔杼と盟うとき、死の地に臨んでもその義を易えなかった。殖と華がまさに戦って死のうとしたとき、莒の君が厚く賂って止めさせようとしたが、その行いを改めなかった。だから晏子は仁によって迫ることはできても、兵によって脅すことはできず、殖と華は義によって止めることはできても、利によって引き留めることはできない。君子は義によって死に、富貴によって留めることができず、義によって為し、死によって怖れさせることができない。彼らはただ義を行っていただけなのに、それでもなお物に拘われなかった。まして無為の者ならなおさらである。
堯不以有天下為貴,故授舜。公子劄不以有國為尊,故讓位。子罕不以玉為富,故不受寶。務光不以生害義,故自投於淵。由此觀之,至貴不待爵,至富不待財。天下至大矣,而以與佗人;身至親矣,而棄之淵;外此,其餘無足利矣。此之謂無累之人,無累之人,不以天下為貴矣!上觀至人之論,深原道德之意,以下考世俗之行,乃足羞也。故通許由之意,《金滕》、《豹韜》廢矣;延陵季子不受吳國,而訟間田者慚矣;子罕不利寶玉,而爭券契者愧矣;務光不汙於世,而貪利偷生者悶矣。故不觀大義者,不知生之不足貪也;不聞大言者,不知天下之不足利也。
堯は天下を有つことを貴いとしなかったので、舜に授けた。公子札は国を有つことを尊いとしなかったので、位を譲った。子罕は玉を富とはしなかったので、宝を受けなかった。務光は生によって義を害さなかったので、自ら淵に身を投げた。これから見れば、至って貴いことは爵を待たず、至って富むことは財を待たない。天下は至って大きいのに他人に与え、身は至って親しいのに淵に棄てた。この外には、残りに利とするに足るものはない。これを煩いなき人という。煩いなき人は天下を貴いとはしない。上に至人の論を観、道徳の意を深く推し、下に世俗の行いを考えれば、恥じるに足る。だから許由の意に通じれば『金滕』や『豹韜』は廃れ、延陵の季子が呉の国を受けなかったことを知れば、ひと区画の田を争う者は慚じ、子罕が宝玉を利としなかったことを知れば、証文を争う者は愧じ、務光が世に汚れなかったことを知れば、利を貪り生に偸む者は悶える。だから大いなる義を観ない者は、生が貪るに足らないことを知らず、大いなる言を聞かない者は、天下が利とするに足らないことを知らない。
今夫窮鄙之社也,叩盆拊瓴,相和而歌,自以為樂矣。嘗試為之擊建鼓,撞巨鐘,乃性仍仍然,知其盆瓴之足羞也。藏《詩》、《書》,修文學,而不知至論之旨,則拊盆叩瓴之徒也。夫以天下為者,學之建鼓矣。尊勢厚利,人之所貪也;使之左據天下圖,而右手刎其喉,愚夫不為。由此觀之,生尊於天下也。聖人食足以接氣,衣足以蓋形,適情不求餘,無天下不虧其性,有天下不羨其和。有天下,無天下,一實也。今贛人敖倉,予人河水,饑而餐之,渴而飲之,其入腹者不過簞食瓢漿,則身飽而敖倉不為之減也。腹滿而河水不為之竭也。有之不加飽,無之不為之饑,與守其篅𥫱、有其井,一實也。人大怒破陰,大喜墜陽,大憂內崩,大怖生狂。除穢去累,莫若未始出其宗,乃為大通。清目而不以視,靜耳而不以聽,鉗口而不以言,委心而不以慮。棄聰明而反太素,休精神而棄知故,覺而若昧,以生而若死,終則反本未生之時,而與化為一體。死之與生,一體也。
いま、辺境の鄙びた里の社では、盆を叩き瓶を打ち、互いに和して歌い、自分たちで楽しいと思っている。ためしにそこで建鼓を撃ち、巨きな鐘を撞いてみれば、心は気落ちして、その盆や瓶が恥ずべきものだと知る。『詩』や『書』を蔵め、文学を修めながら、至上の論の旨を知らなければ、盆を打ち瓶を叩くたぐいである。そもそも天下を目的としない者は、学びの建鼓である。高い勢いと厚い利は人が貪るものだが、左手で天下の図を押さえ、右手でその喉を刎ねさせるなら、愚かな者でもしない。これから見れば、生は天下より尊い。聖人は食が気を継ぐに足り、衣が形を覆うに足り、情に適って余りを求めないので、天下がなくてもその性を欠かさず、天下があってもその和を溢れさせない。天下があることと天下がないことは、一つの実である。いま人に敖倉を与え、人に河の水を与えても、飢えれば食い、渇けば飲むので、腹に入るものは一つの竹の飯と一つの瓢の水に過ぎず、身は満ちても敖倉はそれで減らず、腹は満ちても河の水はそれで尽きない。有っても満腹が増すのではなく、無くてもそれで飢えるのではないので、小さな囲いの倉を守り、一つの井を有つのと、一つの実である。人は大いに怒れば陰を破り、大いに喜べば陽を落とし、大いに憂えば内が崩れ、大いに怖れれば狂いが生じる。穢れを除き煩いを去ることは、まだその宗から出ていないことに及ばず、それが大通となる。目を清くして視ず、耳を静かにして聴かず、口を閉ざして語らず、心を委ねて思い巡らさない。聡明を捨てて太素へ返り、精神を休ませて知と作為を棄て、覚めていても暗いようで、生きていても死んだようで、終われば本であるまだ生まれない時へ返って、造化と一体となる。死と生は一体である。
今夫繇者揭钁臿,負籠土,鹽汗交流,喘息薄喉。當此之時,得茠越下,則脫然而喜矣。岩穴之間,非直越下之休也。病疵瘕者,捧心抑腹,膝上叩頭,踡跼而諦,通夕不寐。當此之時,噲然得臥,則親戚兄弟歡然而喜,夫修夜之寧,非直一噲之樂也。故知宇宙之大,則不可劫以死生;知養生之和,則不可縣以天下;知未生之樂,則不可畏以死;知許由之貴於舜,則不貪物。牆之立,不若其偃也,又況不為牆乎!冰之凝,不若其釋也,又況不為冰乎!自無蹠有,自有蹠無,終始無端,莫知其所萌,非通於外內,孰能無好憎?無外之外,至大也;無內之內,至貴也;能知大貴,何往而不遂!衰世湊學,不知原心反本,直雕琢其性,矯拂其情,以與世交。故目雖欲之,禁之以度;心雖樂之,節之以禮。趨翔周旋,詘節卑拜,肉凝而不食,酒澄而不飲,外束其形,內總其德,鉗陰陽之和,而迫性命之情,故終身為悲人。達至道者則不然,理情性,治心術,養以和,持以適,樂道而忘賤,安德而忘貧。性有不欲,無欲而不得;心有不樂,無樂而不為。無益情者不以累德,而便性者不以滑和。故縱體肆意,而度制可以為天下儀。
いま、徭役に出る者は鋤や鋤先を担ぎ、土の籠を背負い、塩のような汗が流れ交じり、息が喉に迫る。このとき、木陰の下に休めれば、ほっとして喜ぶ。岩穴のあいだは、ただ木陰の休みどころではない。腹の病を患う者は、胸を抱え腹を押さえ、膝の上に頭をうずめ、うずくまって呻き、夜通し眠れない。このとき、ほっと臥すことができれば、親戚や兄弟は喜び合う。そもそも長い夜の寧らぎは、ただひと息の楽しみどころではない。だから宇宙の大きさを知れば、死生によって脅すことができず、養生の和を知れば、天下によって引き留めることができず、まだ生まれていないことの楽しみを知れば、死によって畏れさせることができず、許由が舜より貴いことを知れば、物を貪らない。牆が立っていることは、それが倒れていることに及ばない。まして牆にならないことならなおさらである。氷が凝っていることは、それが解けていることに及ばない。まして氷にならないことならなおさらである。無から有へ行き、有から無へ行って、終始に端がなく、それが芽ばえたところを知る者はないのだから、外と内に通じないで、誰が好みと憎みをなくせよう。外のない外は至って大きく、内のない内は至って貴い。大きさと貴さを知ることができれば、どこへ往っても遂げられないことがあろうか。衰えた世の寄せ集めの学びは、心を推して本へ返ることを知らず、ただその性を彫り刻み、その情を曲げ逆らわせて、世と交わる。だから目が欲しても、度によってこれを禁じ、心が楽しんでも、礼によってこれを節する。走りめぐり、節を屈めて低く拝し、肉が固まっても食わず、酒が澄んでも飲まず、外ではその形を束ね、内ではその徳を締めつけ、陰陽の和に銜を噛ませ、性命の情を追い立てるので、生涯にわたって悲しい人となる。至上の道に達した者はそうではなく、情と性を理め、心の術を治め、和によって養い、適いによって保ち、道を楽しんで賤しさを忘れ、徳に安らいで貧しさを忘れる。性に欲しないものがあって、欲がなくても得られないことがなく、心に楽しまないものがあって、楽しみがなくても為さないことがない。情に益のないものによって徳に煩いを加えず、性に便なものによって和を乱さない。だから体を放ち意を伸ばしても、その度と制は天下の儀とすることができる。
今夫儒者不本其所以欲,而禁其所欲;不原其所以樂,而閉其所樂。是猶決江河之源,而障之以手也。夫牧民者,猶畜禽獸也,不塞其囿垣,使有野心,系絆其足,以禁其動,而欲修生壽終,豈可得乎!夫顏回、季路、子夏、冉伯牛,孔子之通學也,然顏淵夭死,季路菹于衛,子夏失明,冉伯牛為厲。此皆迫性拂情,而不得其和也。故子夏見曾子,一臞一肥。曾子問其故,曰:「出見富貴之樂而欲之,入見先王之道又說之。兩者心戰,故臞;先王之道勝,故肥。」推其志,非能貪富貴之位,不便侈靡之樂,直宜迫性閉欲,以義自防也。雖情心鬱殪,形性屈竭,猶不得已自強也。故莫能終其天年。
いま儒者は、人が欲するそのゆえんに本づかずに、その欲するものを禁じ、人が楽しむそのゆえんを推さずに、その楽しむものを閉ざす。これは江や河の源を切り開いて、手でそれを遮るようなものである。そもそも民を牧することは、禽獣を飼うのと同じで、その囿の垣を塞がずに野の心を持たせておきながら、その足を繋いでその動きを禁じ、それで生を修め寿を終えさせようとして、どうして思い通りになろうか。そもそも顔回・季路・子夏・冉伯牛は孔子の通じた弟子であったが、顔淵は若死にし、季路は衛で塩漬けにされ、子夏は目を失い、冉伯牛は癩となった。これはみな性を追い立て情に逆らって、その和を得なかったからである。だから子夏が曾子に会ったとき、あるときは痩せ、あるときは肥えていた。曾子がその理由を問うと、こういった。「外へ出て富貴の楽しみを見て、それを欲しました。内に入って先王の道を見て、またそれを喜びました。二つが心で戦ったので痩せ、先王の道が勝ったので肥えました。」その志を推せば、富貴の位を貪りえず、奢り靡く楽しみを便としないのではなく、ただ性を追い立て欲を閉ざして、義によって自ら防いだのである。たとえ情と心が鬱して塞ぎ、形と性が屈んで尽きても、なおやむを得ず自ら強いた。だからその天の年を終えられる者がなかった。
若夫至人,量腹而食,度形而衣,容身而遊,適情而行,餘天下而不貪,委萬物而不利,處大廓之宇,遊無極之野,登太皇,馮太一,玩天地於掌握之中。夫豈為貧富肥臞哉!故儒者非能使人弗欲,而能止之;非能使人勿樂,而能禁之。夫使天下畏刑而不敢盜,豈若能使無有盜心哉!越人得髯蛇,以為上肴,中國得之而棄之無用。故知其無所用,貪者能辭之;不知其無所用,廉者不能讓也。夫人主之所以殘亡其國家,損棄其社稷,身死於人手,為天下笑,未嘗非為非欲也。夫仇由貪大鐘之賂而亡其國,虞君利垂棘之璧而禽其身,獻公豔驪姬之美而亂四世,桓公甘易牙之和而不以時葬,胡王淫女樂之娛而亡上地。使此五君者適情辭餘,以己為度,不隨物而動,豈有此大患哉!
あの至人は、腹を量って食べ、形を測って着、身を容れて遊び、情に適って行い、天下を余して貪らず、万物を委ねて利とせず、大きくがらんとした宇に居り、極まりなき野に遊び、太皇に登り、太一に倚り、天地を掌のうちで玩ぶ。どうして貧富や肥痩のために何かをしようか。だから儒者は人に欲させないようにはできないが、止めることはできる。人に楽しませないようにはできないが、禁じることはできる。そもそも天下に刑を畏れさせて敢えて盗ませないようにすることが、どうして盗む心をなくさせることに及ぼう。越の人は髯のある蛇を得れば上等の肴とするが、中国で得れば棄てて用いない。だからそれが用のないものだと知れば、貪る者でも辞することができ、それが用のないものだと知らなければ、清廉な者でも譲ることができない。そもそも君主がその国家を損ない亡ぼし、その社稷を捨て棄て、身は人の手に死んで天下の笑いものとなるのは、いまだ誤った欲のためでなかったことはない。そもそも仇由は大きな鐘の賂を貪ってその国を亡ぼし、虞の君は垂棘の璧を利としてその身を捕えられ、献公は驪姫の美しさに溺れて四代を乱し、桓公は易牙の味つけを甘いとして時に葬られず、胡の王は女楽の娯しみに溺れて上地を失った。この五人の君が情に適って余りを辞し、自分を度として、物に随って動かなかったなら、どうしてこのような大きな患いがあったろうか。
故射者非矢不中也,學射者不治矢也;禦者非轡不行,學禦者不為轡也。知冬日之箑、夏日之裘無用於己,則萬物之變為塵埃矣。故以湯止沸,沸乃不止,誠知其本,則去火而已矣。
だから射る者は矢がなければ中らないが、射を学ぶ者は矢を手入れするのではない。御する者は手綱がなければ行けないが、御を学ぶ者は手綱を作るのではない。冬の日の扇、夏の日の皮衣が自分に用のないものだと知れば、万物の変わりようは塵埃となる。だから湯によって沸きを止めれば、沸きは止まらない。まことにその本を知れば、火を取り除くだけのことである。