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巻二卷二

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 懲毖錄 · 柳成龍(リュ・ソンリョン) · 1633年刊行(壬辰倭乱の後に著す) · 段落 25 · 漢字 12,795字 · 朗読 115.8分

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 巻2 壬辰倭乱が終わった後、領議政の柳成龍が自らの目で見たものを記して残した記録。「過ぎたことを懲らして後の憂いを慎む」という意で名を付けた。戦争がどのように始まり、朝廷が何を見落としたかを言い逃れなく記した。李舜臣を推挙したこと、明の軍とのいざこざ、民が経た惨状がそのまま収められている。

十二月,天朝大發兵以兵部右侍郞宋應昌爲經略兵部員外郞劉黃裳主事袁黃爲賛畫軍務駐遼東提督李如松爲大將率三營將李如柏張世爵楊元及南將駱尙志吳惟忠王必廸等渡江兵數四萬餘先是沈惟敬旣去倭果歛兵不動旣而過五十日惟敬不至倭疑之聲言歲時將飲馬鴨綠江自賊中逃回者皆言賊大修攻城之具人以益懼十二月初惟敬又至再入城中留數日更相約誓而去所言不聞至是兵至安州下營於城南旌旗器械整肅如神余請見提督白事提督在東軒許入乃欣然丈夫也設椅相對余袖出平壤地圖指示形勢兵所從入之路提督傾聽輒以朱筆點其處且曰倭但恃鳥銃耳我用大炮皆過五六里賊何可當也余旣退提督於扇面題詩寄余云提兵星夜渡江干爲說三韓國未安,明主日懸旌節報微臣夜釋酒杯歡春來殺氣心猶壯此去妖氛骨已寒談笑敢言非勝算夢中常憶跨征鞍時城中漢兵皆滿余在百祥樓夜半忽有唐人持軍中密約三條來示問其姓名不告而去提督使副總兵查大受先往順安紿倭奴曰,天朝已許和沈遊擊且至倭喜玄蘇獻詩曰扶桑息戰服中華四海九州同一家喜氣忽消寰外雪乾坤春早太平花時癸巳春正月初吉也使其小將平好官領二十餘倭出迎沈遊擊于順安查總兵誘與飲酒伏起縱擊之擒平好官斬戮從倭幾盡三人逸馳去賊中始知兵至大擾時大軍已到肅川日暮方下營做飯報至提督彎弓鳴弦卽以數騎馳赴順安諸營陸續進發翌日朝進圍平壤攻普通門七星門賊登城上列堅紅白旗拒戰。天兵以大砲火箭攻之炮聲震地數十里間山岳皆動火箭布空如織烟氣蔽天箭入城中處處火起林木皆焚駱尙志吳惟忠等率親兵蟻附登城前者墜後者升莫有退者賊刀槊下垂城堞如蝟毛。天兵戰益力賊不能支退入內城斬戮焚燒死者甚衆。天兵入城攻內城賊於城上爲土壁多穿孔穴望之如蜂窠從穴中銃丸亂發。天兵多傷提督慮竆寇致死收軍城外以開走路其夜賊乘氷過江遁去先是余在安州聞大兵將出密報黃海道防禦使李時言金敬老使邀其歸路戒之曰兩軍沿道設伏俟賊過躡其後賊飢困遁走無心戀戰可盡就縛時言卽至中和敬老辭以他事余又遣軍官姜德寬督之敬老不得已亦來中和賊退前一日因黃海道巡察使柳永慶關還走載寧時永慶在海州欲自衛而敬老憚與賊戰避去賊將平行長平義智玄蘇平調信等率餘衆連夜遁還氣乏足蠒跛躃而行或匍匐田間指口乞食我國無一人出擊。天兵又不追之獨李時言尾其後不敢逼但斬飢病落後者六十餘級是時倭將之在都城者平秀嘉乃關白姪或言婿也年幼不能主事軍務制在行長而淸正在咸鏡道未還若行長義智玄蘇等就擒則京城之賊自潰京城潰則淸正歸路斷絕軍心汹懼必沿道遁走不能自拔漢江以南賊屯次第瓦解。天兵鳴皷徐行直至釜山痛飲而已俄頃之間海岱肅淸安有數年之紛紛哉一夫不如意事關天下良可痛惜余狀。啓淸斬金敬老蓋余爲平安道體察使敬老非管下故先請之。朝廷遣宣傳官李純一持標售至開城府欲誅之先告于提督提督曰其罪應死然賊未滅一武士可惜姑令白衣從軍使之立功贖罪可也爲咨文授純一而送

十二月、明が大きく兵を発し、兵部右侍郎の宋応昌を経略とし、兵部員外郎の劉黄裳と主事の袁黄を賛画軍務として遼東に駐まらせた。提督の李如松を大将として、三営の将の李如柏・張世爵・楊元と、南の将の駱尚志・呉惟忠・王必廸らを率いて江を渡らせたが、兵は四万余であった。

さきに沈惟敬が去った後、倭は果たして兵を歛めて動かなかった。ところが五十日が過ぎても惟敬が来ないので倭は疑い、年が明けたら鴨緑江で馬に水を飲ませるぞと大言した。賊の陣から逃げ帰った人々はみな、賊が城を攻める道具を大いに修めていると言うので、人々はいっそう恐れた。十二月の初めに惟敬がまた来て、再び城の中に入って幾日か留まり、互いに誓いを新しくして去ったが、何を言ったのかは聞こえなかった。

このとき兵が安州に至って城の南に営を下したが、旗と器械が神が下ったように整い肅んでいた。私は提督に会って事を申し上げることを請うと、提督は東軒にいて入ることを許したが、見れば欣やかな丈夫であった。椅子を置いて向かい合って座った。私は袖から平壌の地図を出して、地の勢いと兵の入る路を指して見せたところ、提督は耳を傾けて聞き、そのたびに朱の筆でその所に点を打った。そして言った。「倭はただ鳥銃を頼みにするだけだ。わが方は大砲を用いるが、みな五、六里を越えて飛ぶのだから、賊がどうして当たれようか。」

私が退いた後、提督は扇の面に詩を書いて私に寄せて来た。

兵を提げて星の夜に江の岸を渡る それは三韓の国がまだ安らかでないと聞いたからだ 明らかな主は日ごとに旌と節の報せを懸けられ 微しい臣は夜も酒の杯の歓びを釈いた 春が来ても殺気に心はなお壮んで この行きには妖しい氛も骨まで寒くなろう 談り笑うからとて勝つ算がないと言えようか 夢の中でもいつも征の鞍に跨ることを憶う

このとき城の中は明の兵で満ちていて、私は百祥楼にいた。夜半に不意に明の人が一人、軍の中の密かな約の三か条を持って来て見せたので、名を問うたが、告げずに去った。

提督は副総兵の査大受をまず順安へ遣わして、倭を騙してこう言わせた。「明はすでに和を許し、沈遊撃がもう来る。」倭は喜んだ。玄蘇が詩を作って献じた。

扶桑が戦いを息めて中華に服し 四海九州が一つの家となった 喜びの気がたちまち寰の外の雪を消し 天と地に春が早く太平の花が咲く

癸巳の年の正月の初めの日であった。

倭は自分たちの小さな将の平好官に倭の兵二十余名を率いさせ、順安へ出て沈遊撃を迎えさせた。査総兵は誘って共に酒を飲み、伏せておいた兵を起こして撃ちかかり、平好官を捕らえ、従って来た倭をほとんど斬り尽くして、三人だけが脱れて走った。賊の中ではじめて兵が来たことを知って大いに騒いだ。

このとき大軍はすでに肅川に至り、日が暮れてちょうど営を下して飯を炊いているところへ報せが届いた。提督は弓を引いて弦を鳴らし、すぐに数騎を率いて順安へ馳せたので、諸々の営は続いて発った。翌日の朝、進んで平壌を囲み、普通門と七星門を攻めた。賊は城の上に上がって赤と白の旗を堅く列ね立てて拒み戦った。明の兵が大砲と火の矢で攻めたので、砲の音が地を震わせ、数十里のあいだの山も岳もみな動いた。火の矢は空に布を織るように広がり、煙が天を覆い、矢が城の中に入って所々に火が起こり、林の木までみな焼けた。

駱尚志・呉惟忠らが自分の兵を率いて蟻のように付いて城を上がり、先の者が落ちれば後の人が上がって、退く者がなかった。賊の刀と槍が城の堞に蝟の毛のように垂れた。明の兵がいっそう力を尽くして戦ったので、賊は支えきれず内城に退いたが、斬られ焼かれた末に死んだ者がはなはだ多かった。明の兵は城に入って内城を攻めた。賊は城の上に土の壁を築き、穴を数多く穿っておいて、望めば蜂の巣のようであったが、その穴から弾を乱れ放ったので、明の兵が多く傷ついた。提督は窮まった賊が死に物狂いになることを慮って、兵を城の外に歛めて走る路を開けてやった。その夜、賊は氷に乗って江を渡って走った。

さきに私は安州にいて、大軍がもう出て来ると聞き、黄海道防禦使の李時言と金敬老にひそかに知らせて賊の帰る路をふさがせ、こう言った。「二つの軍は路の辺に伏せておいて、賊が通り過ぎるのを待ってその後を踏め。賊は飢え疲れて走るので戦う心がないから、みな縛れるだろう。」時言はすぐに中和に至ったが、敬老は他の事を口実にした。私はあらためて軍官の姜徳寛を遣わして催したので、敬老もやむなく中和に来た。しかし賊が退く一日前に、黄海道巡察使の柳永慶の公文を口実にして載寧へ帰ってしまった。そのとき永慶は海州にいて自分の身を守ろうとし、敬老は賊と戦うことを憚って避けて行ったのである。

賊の将の平行長・平義智・玄蘇・平調信らは残る群れを率いて夜を継いで走ったが、気が尽き足が腫れて跛いて歩き、ある者は田のあいだを匍いながら口を指して食べ物を乞うた。わが国からは一人も出て撃たず、明の兵も追い踏まなかった。ただ李時言だけが後を踏んだが、あえてぴたりと付くことはできず、飢え病んで遅れた者六十余人を斬っただけであった。

このとき都にいた倭の将は平秀嘉で、関白の甥であったが、娘婿だともいう。年が若くて事を任せられなかったので、軍の務めは行長が握っており、清正は咸鏡道にいてまだ帰っていなかった。もし行長・義智・玄蘇らを捕らえていたなら、都の賊は自ずと崩れたであろうし、都が崩れれば清正の帰る路が絶たれて、軍の心は驚き恐れ、かならず路に従って走っても自ら抜け出せなかったであろう。漢江の南の賊の陣も順に崩れ、明の兵は鼓を鳴らしてゆるゆると進み、そのまま釜山に至って思うままに酒でも飲めばそれで済んだはずである。わずかのあいだに海も山も清くなったであろうから、どうして幾年も乱れることがあったろうか。一人が思うままにしなかったために事が天下に懸かったのだから、まことに惜しいことである。

私は状啓を上げて金敬老を斬ることを請うた。私は平安道体察使で、敬老は私の管るところでなかったので、まず請うたのである。廷は宣伝官の李純一に標信を持たせて開城府へ遣わし、彼を斬らせたが、まず提督に知らせた。提督は言った。「その罪は死んで当たるが、賊がまだ無くなっていないのだから、武士一人が惜しい。まずは白い衣で軍に従わせ、功を立てて罪を償わせるのがよいだろう。」そして咨文を作って純一に渡して送った。

遞李鎰巡邊使更以李薲代之平壤之戰。天兵從普通門而入李鎰及金應瑞等從含毬門而入及收兵皆退屯城外夜賊遁去明朝始覺之李提督咎我軍不警守使賊遁去而不知於是。天將之曾往來順安與李薲相熟者爭言鎰非將才獨李薲可提督移咨言狀。朝廷使右相尹斗壽至平壤問鎰罪欲行軍法良久釋之更以薲代鎰選兵三千騎從提督而南

巡辺使の李鎰を替え、李薲を代わりとした。

平壌の戦いで明の兵は普通門から入り、李鎰と金応瑞らは含毬門から入った。兵を歛めるとき、みな城の外に退いて営を張ったが、夜に賊が走ったのを、翌日の朝になってはじめて知った。李提督は、わが軍が守ることを慎まず、賊が走るのも知らなかったと咎めた。そこで、かつて順安を出入りして李薲と親しかった明の将たちが争って「李鎰は将となる器ではなく、ただ李薲でなければならない」と言った。提督が咨文を送ってその事情を知らせたので、廷は右議政の尹斗寿を平壌へ遣わして李鎰の罪を問い、軍法を用いようとしたが、しばらくして解いてやった。そして李薲を李鎰の代わりとし、騎兵三千を選んで提督に従って南へ行かせた。

李提督進兵坡州與賊戰於碧蹄南不利還屯開城初平壤旣復大同以南沿道賊屯皆遁去提督欲追賊謂余曰大軍方前進而聞前路無糧草議政旣爲大臣當念國事不可憚勞宜急行準備軍糧勿致疎誤余辭出時。天兵先鋒已過大同江而南筤搶塞路不可行余委曲疾行出軍前夜入中和至黃州已三皷矣時賊兵新退一路荒虛人民未集計無所出急移文于黃海監司柳永慶使之催運又移文于平安監司李元翼調發金應瑞等所率軍人之不堪戰陣者自平壤負戴追隨送至黃州又令船運平安道三縣之穀從靑龍浦輸運於黃海道事非預辦臨時猝急而大軍隨至恐乏軍興爲之勞心焦思永慶頗有儲峙畏賊散置山谷間督民輸至沿途不至闕乏旣而大軍入開城府正月二十四日賊疑我民爲之內應且忿平壤之敗盡殺京城中民庶焚燒公私閭舍殆盡而西路列屯之賊皆會京城謀拒王師余連請提督速進捉督遲回者累日進至坡州翌日副總兵查大受與我將高彥伯領兵數百先行偵探與賊相遇於碧蹄驛南礪石嶺斬獲百餘級提督聞之留大軍獨與家丁騎馬者千餘馳赴之過惠陰嶺馬蹶墮地其下共扶起之時賊匿大衆於礪石嶺後只數百人在嶺上提督望見揮其兵爲兩翼而前賊亦自嶺而下漸相逼後賊從山後遽上山陣幾萬餘。天兵望之心懼而已接刃不可解時提督所領皆北騎無火器只持短劒鈍劣賊用步兵刃皆三四尺精利無比與之突鬪左右揮擊人馬皆靡無敢當其鋒者提督見勢危急徵後軍未至而先軍已敗死傷甚多賊亦收兵不急追日暮提督還坡州雖隱其敗而神氣沮甚夜以家丁親信者戰死痛哭明日欲退軍東坡余與右議政俞泓都元帥金命元帥李薲等至帳下提督出立帳外諸將左右立余力爭曰勝負兵家常事當觀勢更進奈何輕動提督曰吾軍昨日多殺賊無不利事但此地經雨泥濘不便駐軍所以欲還東坡休兵進取耳余及諸人爭之固提督出示己奏本草其中有曰賊兵在都城者二十餘萬衆寡不敵未又言臣病甚請以他人代其任余駭而以手指點曰賊兵甚少何得有二十萬提督曰我豈能知之乃汝國人所言也蓋託辭也諸將中張世爵尤勸都督退兵以余等固爭不退以足蹴巡邊使李薲叱退聲色俱厲是時大雨連日且賊燒道邊諸山皆兀兀無蒿草重以馬疫數日間倒隕者殆將萬匹是日三營還渡臨津陣于東坡驛前明日自東坡又欲還開城府余又力爭曰大軍一退則賊氣愈驕遠近驚懼臨津以北亦不可保願少住觀釁以動提督伴許之余旣退而提督跨馬遂還開城府諸營悉退開城獨副總兵查大受遊擊母承宣軍數百守臨津余猶留東坡日遣人更請進兵提督謾應之曰天晴路乾則當進然實無進意大軍到開城府日久軍糧已盡惟從水路括粟及茭草於江華又船運忠淸全羅道稅糧稍稍而至隨到隨盡其勢愈急一日諸將以糧盡爲辭請提督旋師提督怒呼余及戶曹判書李誠中京畿左監司李延馨跪庭下大聲詰責欲加以軍法余摧謝不已因念國事至此不覺流涕提督愍然更怒諸將曰汝等昔從我征西夏時軍不食累日猶不敢言歸卒成大功今朝鮮偶數日不支糧何敢遽言旋師耶汝輩欲去則去我非滅賊不還惟當以馬革褁尸耳諸將皆頓首謝余出門以放糧不時杖開城經歷沈禮謙繼而糧船數十隻自江華泊後西江僅得無事是夕提督使總兵張世爵召余慰之且論軍事提督還平壤時賊將淸正尙在咸鏡道有人傳言淸正將自咸興踰陽德孟山襲平壤時提督有北還意未得其機因此聲言平壤乃根本若不守大軍無歸路不可不救遂回軍還平壤留王必迪守開城謂接伴使李德馨曰朝鮮之軍勢孤無援宜悉還江北是時全羅巡察使權慄在高陽幸州巡邊使李薲在坡州高彥伯李時言等在蠏踰嶺元帥金命元在臨津南余在東坡提督恐爲賊所乘故云然余使從事官辛慶晉馳見提督陳不可退軍者五。先王墳墓皆在畿甸淪於賊藪神人望切不忍棄去一也京畿以南遺民日望。王師忽聞退去無復固志相率而歸賊二也我國境土尺寸不可容易棄之三也將士雖力弱方欲倚仗。天兵共圖進取一聞撤退之令必皆怨憤離散四也一退而賊乘其後則雖臨津以北亦不可保五也提督默然而去

李提督が坡州へ兵を出し、碧蹄の南で賊と戦ったが利あらずして、開城へ戻って営を張った。

はじめ平壌を取り返すと、大同江の南の路の辺の賊の陣はみな走った。提督は賊を追おうとして私に言った。「大軍がまさに前へ進むのに、前の路に糧と馬草がないという。議政はすでに大臣なのだから、まさに国の事を思って労を憚らず、急ぎ行って軍の糧を備え、誤ることのないようにされよ。」

私は辞して出た。そのとき明の兵の先鋒はすでに大同江を渡って南へ行っていたが、乱れた行列が路をふさいで行けなかった。私は曲がり曲がって回り、急いで軍の前に出、夜に中和に入って黄州に至ると、もう三更であった。そのころ賊の兵が退いたばかりで一つの路がみな空になり、民も集まっていなかったので、どうする術もなかった。急ぎ黄海監司の柳永慶に公文を送って運ぶことを催させ、また平安監司の李元翼に公文を送って、金応瑞らが率いる兵のうち戦いに出られない者を選び、平壌から荷を負って随って来て黄州まで送らせた。また平安道の三つの邑の穀を船に載せて青龍浦から黄海道へ移させた。事があらかじめ備えたものでなく、差し迫って急であり、大軍が後から至ったので、軍の需が足りなくなることを恐れて心を焼き、腸を煮やした。永慶は貯えておいたものがかなりあったが、賊を恐れて山の谷に散らしておいたものを、民を催して運ばせたので、路の要ごとに足りなくならずにすんだ。

やがて大軍が開城府に入った。正月二十四日、賊はわが民が内から応ずることを疑い、また平壌で敗れたことを憤って、都の中の民をことごとく殺し、公私の家をほとんど焼き尽くした。そして西の路に列なっていた賊がみな都に集まって、官の軍を防ぐことを謀った。

私は続けて提督に速く進むことを請うたが、提督は幾日もためらってから坡州まで進んだ。翌日、副総兵の査大受がわが将の高彦伯と共に兵数百を率いて先に行き、賊の情を察していたところ、碧蹄駅の南の礪石嶺で賊に出会い、百余級を斬った。提督はこれを聞いて、大軍は置いたまま、ただ馬に乗った家丁千余名だけを連れて馳せた。恵陰嶺を過ぎるとき馬が倒れて地に落ちたので、下の者たちが共に抱え起こした。

そのころ賊は大きな群れを礪石嶺の後ろに隠しておいて、嶺の上には数百名だけを置いていた。提督は望み見て兵を二つの翼に分けて進ませたので、賊も嶺から降りてしだいに近づいた。すると後ろにいた賊が山の後ろから不意に上がって来て山に陣を張ったが、ほとんど万名にもなった。明の兵は望み見て心に怯えたが、すでに刃を交えていて解くことができなかった。

そのとき提督が率いる兵はみな北の騎兵で、火の器がなく、短く鈍い刀だけを持っていたのに、賊は歩兵を用いて、刃がみな三、四尺あって鋭いこと比べるものがなかった。向かい合って戦ったが、左右に斬り払ったので、人も馬もみな倒れ、その鋒に当たれる者がなかった。提督は勢いが危ういのを見て後の軍を呼んだが、着く前に前の軍がすでに崩れて、死に傷ついた者がはなはだ多かった。賊も兵を歛めて急に追いはしなかった。

日が暮れて提督は坡州に戻った。敗れたことは隠したが、気はひどく折れて、夜に、頼みにしていた家丁たちが戦って死んだことで痛み泣いた。

翌日、兵を東坡へ退けようとしたので、私は右議政の俞泓と都元帥の金命元、巡辺使の李薲らと共に帳の下に至った。提督は帳の外に出て立ち、諸々の将が左右に立った。私は力を尽くして争って言った。「勝つことと負けることは兵を用いるのに常のことです。まさに勢いを見て改めて進むべきですのに、どうして軽々しく動こうとされるのですか。」提督は言った。「わが軍は昨日、賊を多く殺したのだから、利あらぬことはない。ただこの地が雨を経て泥になり、兵を留めるのに不便であるから、東坡に戻って兵を休ませてから進んで撃とうというのだ。」

私と多くの者が固く争ったので、提督は自分が皇帝に上げる奏本の草を出して見せた。その中に「都にいる賊の兵が二十余万で、少ない兵では当たれない」という言葉があり、終わりには「臣は病が重いので、他の人にその任を代えさせてください」とあった。私は驚いて手で押さえ指して言った。「賊の兵はきわめて少ないのに、どうして二十万になりましょうか。」提督は言った。「私がどうして知ろうか。あなたの国の人が言ったことだ。」口実であった。

諸々の将のうち張世爵がとりわけ都督に兵を退けることを勧めたが、我らが固く争って退かなかったので、巡辺使の李薲を足で蹴り、退けと咎めた。声も顔の色もみな荒々しかった。

このとき大雨が幾日も続き、また賊が路の辺を焼いたので、諸々の山はみな禿げて草一本もなかった。そのうえ馬に疫まで回って、幾日かのあいだに倒れて死んだものがほとんど万匹に至った。

この日、三営が臨津江を渡り戻って東坡駅の前に営を張った。翌日、東坡からまた開城府へ帰ろうとしたので、私はあらためて力を尽くして争った。「大軍がひとたび退けば、賊の勢いはいっそう驕り、遠くも近くもみな驚き恐れて、臨津江より北も守れなくなります。どうか少し留まって隙を見て動かれますように。」提督はうわべだけそうしようと言った。私が退くと、提督は馬に上がってついに開城府へ帰り、諸々の営もみな開城へ退いた。ただ副総兵の査大受と遊撃の母承宣の兵数百が臨津を守った。

私はそのまま東坡に留まり、日ごとに人を遣わして改めて進むことを請うた。提督はうわべだけ応じて「天が晴れて路が乾けば、まさに進もう」と言ったが、実は進む意がなかった。

大軍が開城府に至って久しくなり、軍の糧はすでに尽きた。ただ水の路で江華から小さな米と草をかき集めて来、また忠清道・全羅道の税の穀を船で運んで少しずつ届いたが、着くなり尽きて、勢いはいっそう急になった。

ある日、諸々の将が軍の糧が尽きたことを口実に、提督に兵を回すことを請うた。提督は怒って、私と戸曹判書の李誠中、京畿左監司の李延馨を呼んで庭の下に跪かせ、大きな声で咎めて軍法を用いようとした。私は罪を謝ることをやめず、国の事がこの境に至ったことを思うと、我知らず涙が流れた。提督は憐れんでから、改めて諸々の将に怒って言った。「お前たちが過ぎた日に私に従って西夏を撃ったときには、兵が幾日も食べなくてもなお帰ろうとはあえて言わず、ついに大きな功を成した。いま朝鮮がたまたま幾日か糧を続けられなかったからといって、どうしてあえてすぐに兵を回そうと言うのか。お前たちは行きたければ行け。私は賊を無くさないうちは帰らないから、馬の皮に屍を包まれるだけだ。」諸々の将はみな頭を垂れて罪を謝った。

私は門を出て、糧を時に出せなかったとして開城の経歴の沈礼謙に杖を打った。続いて糧を載せた船数十隻が江華から西江の後ろに着いて、やっと事なく済んだ。その日の夕、提督は総兵の張世爵をやって私を呼んで慰め、また軍の事を議った。

提督が平壌へ帰った。そのころ賊の将の清正はまだ咸鏡道にいたが、ある者が、清正が咸興から陽徳・孟山を越えて平壌を攻めようとしていると伝えた。そのとき提督は北へ帰る意があったが機を得ないでいたところなので、これを言い掛かりにして「平壌は本である。もし守れなければ大軍の帰る路がない。救わないわけにはいかない」と言い、ついに兵を回して平壌へ帰りながら、王必廸に開城を守らせた。そして接伴使の李徳馨に「朝鮮の軍は勢いが孤りで助けがないから、まさにみな江の北へ帰るべきだ」と言った。

このとき全羅巡察使の権慄は高陽の幸州にいて、巡辺使の李薲は坡州に、高彦伯・李時言らは蠏踰嶺に、元帥の金命元は臨津に、私は東坡にいた。提督は賊がその隙に乗ることを恐れて、そう言ったのである。

私は従事官の辛慶晋を馳せ遣わして提督に会い、兵を退けてはならない理由の五つを申し上げさせた。「先の王の陵がみな京畿の内にあって賊の藪に落ちていますから、神も人も望む心が切で、忍んで棄てて行けないのが一つ。京畿の南に残る民が日ごとに官の軍を待っているのに、不意に退くと聞けば、改めて堅く守る意がなくなって、互いに率いて賊に帰くのが二つ。わが国の地は一尺一寸も易々と棄てられないのが三つ。将と兵は力が弱いとはいえ、まさに明の兵に寄りかかって共に進むことを謀っているのに、ひとたび退けという命を聞けば、かならずみな怨んで散るのが四つ。ひとたび退いた後に賊がその後に乗れば、臨津江より北も守れなくなるのが五つです。」提督は黙っていて、やがて行ってしまった。

夾注 1

底本は李延馨である。壬辰の年に京畿左道観察使を務めた人は、ふつう李廷馨と記す。底本を照らし合わせたうえで定める。― 訳者

全羅道巡察使權慄敗賊于幸州移軍坡州先是慄以光州牧使代李洸爲巡察使率兵勤。王懲李洸等野戰而敗至水原據秃城山城賊不敢攻及聞天兵將入京城渡江陣于幸州山城至是賊從京城大出攻之軍中洶懼欲散而江水在後無走路不得已還入城力戰矢雨下賊分爲三陣迭進皆敗會日暮賊還入京城慄令軍士取賊屍磔裂肢體散掛林木以泄其憤旣而聞賊欲更出期必報甚懼毀營栅率軍至臨津從都元帥金命元余聞之單騎馳去登坡州山城觀形勢以爲當大路之衝而地形斗絕可據卽令權慄與巡邊使李薲合軍據守以遏賊兵西下防禦使高彥伯李時言助防將鄭希立朴名賢等爲遊兵遮蠏踰嶺義兵將朴惟仁尹先正李山輝等從右路伏於。昌敬陵之間各以其兵出沒抄擊賊多出則避而不戰少出則隨處邀擊自是賊不得出城樵採馬死者甚多又令倡義使金千鎰京畿水使李蘋忠淸水使丁傑等乘舟從龍山西江以分賊勢忠淸道巡察使許頊在陽城令還護本道以備賊南衝之勢移文京畿忠淸慶尙官義兵使各在其處從左省邀截賊路楊根郡守李汝讓守龍津凡諸將所斬賊首皆懸掛於開城府南門之外提督參軍呂應鍾見之喜曰朝鮮人今則取賊首如割毬矣一日賊從東門大出搜山自楊州積城至大灘無所得查大受恐賊來襲報余曰有體探人來言賊欲得查總兵柳體察云姑避開城如何余答之曰體探人所言恐無此理賊方疑大軍住近豈敢輕易渡江我等一動則民心必搖不如靜以待之查笑曰此言甚是假令有賊吾與體察死生同之豈敢獨去遂分所率勇士數十餘人來護余雖雨甚達夜警守不暫怠至聞賊入城乃罷其後賊探知權慄在坡州欲報怨率大軍從西路而出至廣灘去山城數里住兵不進自午至未不攻還退後不復出蓋賊知地形見慄所據險絕故耳余移書王必廸言賊方據險固未易攻大兵當進住東坡坡州躡其尾以牽綴之選南兵一萬從江華出於漢南乘賊不意擊破諸屯則京城之賊歸路斷絕必向龍津而走因以後兵覆諸江津可一擧掃滅必迪擊節稱奇策發偵探軍三十六名馳往忠淸道義兵將李山謙陣察賊形勢時賊精兵皆在京城而後屯皆羸疲寡弱偵卒踴躍還報云不須一萬只得二三千可破李提督北將也是役也痛抑南軍恐其成功不許

全羅道巡察使の権慄が幸州で賊を破り、兵を坡州へ移した。

さきに権慄は広州牧使として李洸に代わって巡察使となり、兵を率いて王を援けに上って来たが、李洸らが野で戦って敗れたことを鑑として、水原に至って禿城山城に拠ったので、賊はあえて攻めなかった。明の兵がもう都に入ると聞いてからは、江を渡って幸州山城に営を張った。このとき賊が都から大勢で出て攻めたので、軍の中は騒がしく散ろうとしたが、後ろに江の水があって走る路がなかったので、やむなく城へ戻り入って力を尽くして戦った。矢が雨のように降った。賊は三つの陣に分かれて代わる代わる出たが、みな敗れた。ちょうど日が暮れて賊は都に帰った。権慄は兵に賊の屍を集めさせ、手足を裂いて林の木に散らし懸けさせて、憤りを晴らした。

やがて賊がまた出てきてどうしても報い返そうとしていると聞いてひどく恐れ、陣の柵を壊して兵を率いて臨津へ行き、都元帥の金命元に従った。

私はこれを聞いて、独り馬を馳せて行き、坡州の山城に上がって地の勢いを見たところ、大きな路の要をふさいでいるうえ、地が峻しくて拠るに足りた。すぐに権慄と巡辺使の李薲に兵を合わせて守り、賊が西へ下るのを防がせた。防禦使の高彦伯・李時言と助防将の鄭希立・朴名賢らは遊撃する兵として蠏踰嶺をふさがせ、義兵将の朴惟仁・尹先正・李山輝らは右の路に沿って昌陵と敬陵のあいだに伏せ、それぞれ自分の兵で現れたり隠れたりしながら撃ちかからせた。賊が多く出れば避けて戦わず、少なく出れば行く所ごとに迎え撃たせたのである。これより賊は城を出て薪を取ることができなくなって、馬が死んだものがきわめて多かった。

また倡義使の金千鎰、京畿水使の李蘋、忠清水使の丁傑らに船に乗って龍山と西江へ進み、賊の勢いを分けさせた。忠清道巡察使の許頊は陽城にいたが、自分の道へ帰って守り、賊が南へ攻め入る勢いに備えさせた。また京畿・忠清・慶尚の官の軍と義兵を率いる者たちに公文を送って、それぞれその場にいて、左右から賊の路をふさいで断たせた。楊根郡守の李汝讓には龍津を守らせた。

諸々の将が斬った賊の首は、みな開城府の南門の外に懸けた。提督の参軍の呂応鍾が見て喜んで言った。「朝鮮の人はいまでは賊の首を斬ることを、瓜を切るようにするのだな。」

ある日、賊が東の門から大勢で出て、山を探りながら楊州・積城から大灘まで行ったが、得たものはなかった。査大受は賊が来て攻めることを恐れて、私に知らせて来た。「偵う人が来て、賊が査総兵と柳体察を捕らえようとしていると言った。しばらく開城へ避けられてはどうか。」私は答えた。「偵う人の言葉は、そのようなことはあるまいと思われます。賊はまさに大軍が近くに留まっていることを疑っているのですから、どうしてあえて軽々しく江を渡りましょう。我らがひとたび動けば民の心はかならず揺れますから、静かに待つに越したことはありません。」査大受は笑って言った。「その言葉はまことにそのとおりだ。たとえ賊が来たとしても、私は体察と死ぬも生きるも同じにするのだから、どうしてあえて独りで行こうか。」そして率いていた勇士数十名を分け遣わして私を守らせたが、雨がひどく降っても夜を徹して守り、しばらくも怠らず、賊が城に入ったと聞いてからやめた。

その後、賊は権慄が坡州にいることを知って報い返そうとし、大軍を率いて西の路に出て広灘に至った。山城から数里離れた所であるが、兵を停めて進まなかった。昼から暮れ方まで攻めずに退き戻り、後には再び出て来なかった。賊が地の形を調べて、権慄が拠った所の険しいのを見たからである。

私は王必廸に書を送って言った。「賊はまさに険しい所に拠っているから、まことに攻めやすくはない。大軍はまさに東坡と坡州に進んで留まり、その尾を踏んで引き留め、南の兵一万を選んで江華から漢江の南に出、賊が思いもしない隙に乗じて諸々の陣を打ち砕けば、都の賊は帰る路が絶たれて、かならず龍津へ走るだろう。そのとき後の軍で諸々の渡し場を襲えば、一度に掃い尽くせる。」王必廸は膝を打って奇しい計だと言い、偵う者三十六名を忠清道の義兵将の李山謙の陣へ馳せ遣わして賊の勢いを察させた。そのころ賊の鋭い兵はみな都にいて、後ろにある陣はみな痩せ疲れて少なかったので、偵う者たちは跳ぶように喜んで帰って言った。「一万も要りません。二、三千あれば破れます。」しかし李提督は北の将で、この戦いで南の兵をはなはだ抑え、彼らが功を成すことを憚って、ついに許さなかった。

請發軍糧餘粟賑救飢民。許之時賊據京城已二年鋒熖所被千里蕭然百姓不得耕種餓死殆盡城中餘民聞余在東坡扶攜擔負而至者不計其數查總兵於馬山路中見小兒匍匐飲死母乳哀而收之育於軍中謂余曰倭賊未退而人民如此將奈何乃歎息曰天愁地慘矣余聞之不覺流涕時大兵將再至糧船之自南方來者皆列泊江岸不敢他用適全羅道召募官安敏學募得皮穀千石船運而至余喜甚卽狀。啓請以此賑救飢民以前郡守南宮悌爲監賑官取松葉爲層每松屑十分合米屑一合投水以飲之人多穀少所活無幾唐將亦哀之自分所食軍糧三十石賑給百不能及一一日夜大雨飢民在余左右哀吟呻𠿝不可恐聞朝起視之狠藉而死者甚多慶尙右道監司金誠一亦遣前典籍李魯告急于余曰欲糶全羅左道之穀賑濟飢民且爲春耕種子流全羅都事崔鐵堅不肯賑貸時知事金瓉爲體察副使在湖西余卽移文于瓉令馳下全羅自發南原等倉移一萬石于嶺南以救之大抵自京都至南邊賊兵橫貫時方四月人民皆登山入谷無一種麥之處使賊更數月不退則生類盡矣

軍の糧から余った穀を出して飢えた民を救うことを請うと、王は許された。

そのころ賊が都を占めてすでに二年になり、刃の及んだ所は千里が寂しく、民は耕すことも植えることもできずに、飢えて死んだ者がほとんどすべてであった。城の中に残る民は、私が東坡にいると聞いて、互いに扶け合い、頭に載せ背に負って来る者が数えきれなかった。査総兵は馬山の路で幼い子が匍って行って死んだ母の乳を吸うのを見て憐れみ、引き取って軍の中で育てながら、私に言った。「倭の賊がまだ退いていないのに民がこのようでは、これからどうするのか。」そして嘆じて言った。「天が愁み、地が惨んでいる。」私は聞いて我知らず涙を流した。

そのころ大軍がまた来ようとしていたので、南から来た糧の船はみな江の辺に並んでいたが、あえて他に用いられなかった。ちょうど全羅道召募官の安敏学が皮のついた穀千石を集めて船で運んで来た。私はひどく喜んで、すぐに状啓を上げて、これで飢えた民を救うことを請うた。前の郡守の南宮悌を監賑官として、松の葉を粉にし、松の葉の粉十の分に米の粉一の分を混ぜ、水に溶いて飲ませた。人は多く穀は少なかったので、生かした者はいくらもなかった。明の将も憐れんで、自分が食べる軍の糧三十石を減らして分け与えたが、百に一つも及ばなかった。

ある日の夜、大雨が降ったが、飢えた民が私のそばで悲しく呻く声を立てたので、忍んで聞けなかった。朝に起きて見ると、あちこちに倒れ伏して死んだ者がきわめて多かった。

慶尚右道監司の金誠一も前の典籍の李魯を遣わして私に急を知らせて来た。「全羅左道の穀を放って飢えた民を救い、また春の耕しの種にしようとしているのに、全羅都事の崔鉄堅が貸そうとしません。」そのころ知事の金瓉が体察副使として湖西にいたので、私はすぐに瓉に公文を送って全羅道へ馳せ下り、南原などの地の倉を開いて一万石を嶺南へ移して救わせた。

おおよそ都から南の果てまで賊の兵が横に貫いていて、ときはまさに四月であったが、民はみな山に上がり谷に入って、麦一本も植えた所がなかった。賊がさらに幾月も退かなかったなら、生きているものはみな無くなったであろう。

夾注 1

底本は十分である。量ではなく割合と見て「十の分」と訳した。底本を照らし合わせたうえで確かめる。― 訳者

沈遊擊惟敬再入京城誘賊退兵四月初七日提督率兵自平壤還開城府先是金千鎰陣中有李藎忠者自請入京探候賊情得見二。王子及長溪君黃廷彧等還言賊有講和意旣而賊投書於龍山舟師乞和千鎰送其書於余余念提督已無戰意或欲假此而郤賊則未必不更還開城庶幾了事以其書示查大受查卽使家丁李慶馳報平壤於是提督又使惟敬來金命元見惟敬曰賊忿平壤見欺必有不善意何可更入惟敬曰賊自不速退故敗何預我也遂入在賊中所言雖不聞大槩責還。王子陪臣還軍釜山然後許和賊請奉約束提督遂還開城余呈文提督極言和好非計不如擊之提督批示曰此先得我心之所同然者無聽用意又使遊擊將軍周弘謨往賊營余與金元帥適在權慄陣中遇於坡州弘謨侦余等入參旗牌余日此是入倭營旗牌我何爲參拜且有宋侍郞禁殺賊牌文尤不可承受弘謨强之三四余不答騎馬還東坡弘謨使人于提督言狀提督大怒曰旗牌乃。皇命雖㺚子見輒拜之何爲不拜我行軍法然後回軍接伴使李德馨急報於余曰朝日不可不來謝明日余與金元帥往開城詣門通名提督怒不見金元帥欲退余曰提督應試余姑待之時小雨余二人拱立門外有頃提督之人出門覘視而入者再俄而許入提督立于堂上余就前行禮仍謝曰小的雖甚愚劣豈不知旗牌爲可敬但旗牌傍有牌文不許我國人殺賊私心竊痛之不敢參拜罪無所逃提督有慚色乃曰此言甚是牌文乃宋侍郞令不關吾事因曰此間流言甚多侍郞若聞陪臣不參旗牌我容而不問則必幷責我須爲呈文略辨事情來脫侍郞有間我以此解之不問則置之余二人拜辭而退依所言呈文自是提督遣人往來倭陣相續一日余與元帥往候提督還東坡到天壽亭前遇查將家丁李慶自東坡入開城馬上相揖而過至招賢里有漢人三騎自後馳來喝問體察使安在余應之曰我足也叱回馬一人手持鐵鎖以長鞭亂捶余馬曰走走余不知何事只得回馬向開城而走其人從馬後鞭之不已從者皆落後獨軍官金霽從事辛慶晉盡力追隨過靑郊驛將至土城隅又有一騎自城內走馬而至謂三騎曰云云於是三騎揖余曰可去矣余恍然不測而回翌日因李德馨通示始知之提督信任家丁自外入謂提督曰柳體察不欲講和悉去臨津船隻勿令通使於倭營提督遽發怒欲拿余捆打四十當余之未至也提督瞋目奮臂或坐或起左右皆慄有頃李慶至提督問臨津有船否慶曰有船往來無阻提督卽使人止追余者謂家丁妄言痛打數百氣絕曳出悔其怒余謂人曰若體察使來到吾當何以處之蓋提督常謂余不肯和議素有不平心故纔聞人言不復省察暴怒如此人皆爲余危之後數日提督又使遊擊戚金錢世禎二人以旗牌至東坡招余及金元帥李觀察延馨同坐因從容言賊請出。王子陪臣退還京城而去今當從其所請給賊出城然後行計追勦乃提督使之來探余意肯否也余猶執前議往復不已世禎性躁發怒大罵曰然則爾。國王何以棄城逃避耶余徐曰遷國圖存亦或一道是時戚金但數數視余與世禎微笑而無言世禎等遂回四月十九日提督領大軍至東坡宿于查總兵幕蓋賊已約退兵故將入京城也余詣提督下處候問提督不見謂譯者曰體察使不快於予亦來問耶

遊撃の沈惟敬がまた都に入って賊を誘い、兵を退かせた。四月七日、提督が兵を率いて平壌から開城府へ戻った。

さきに金千鎰の陣の中に李藎忠という者がいて、自ら都に入って賊の情を察することを請うた。彼は二人の王子と長渓君の黄廷彧らに会って帰り、賊に和を結ぶ意があると言った。やがて賊が龍山の水軍に書を投げて和を乞い、千鎰がその書を私に送って来た。私は、提督にはもう戦う意がないのだから、あるいはこれを言い掛かりにして賊を却けようとするなら、改めて開城へ戻ることもあり、それで事が収まるかもしれないと思い、その書を査大受に見せた。査大受はすぐに家丁の李慶をやって平壌へ馳せて知らせた。

そこで提督はまた惟敬を遣わした。金命元は惟敬に会って言った。「賊は平壌で騙されたことを憤っているから、かならず良くない意を抱いているでしょうに、どうしてまた入られるのですか。」惟敬は言った。「賊が自ら速く退かずに敗れたのであって、私と何の関わりがあろうか。」そして賊の中に入っていた。何を言ったのかは聞こえなかったが、おおよそ王子と陪臣を返し、兵を釜山へ退けた後にはじめて和を許すと催したのであった。賊はその約を奉じると請うた。提督はついに開城へ戻った。

私は提督に書を上げて、和を結ぶのは計ではなく、攻めるに越したことはないと懇ろに言った。提督は「これはまず私の心と同じところを得たものだ」と書いて寄せたが、聞き用いる意はなかった。また遊撃将軍の周弘謨を賊の陣へ遣わした。私と金元帥がちょうど権慄の陣の中にいて、坡州で彼に会ったところ、弘謨は我らに旗牌を拝めと言った。私は言った。「これは倭の営に入る旗牌であるのに、私がどうして拝もうか。そのうえ宋侍郎が賊を殺すなと言った牌文まで付いているから、なおさら奉じられない。」弘謨は三、四度催したが、私は答えずに馬に乗って東坡へ戻った。弘謨が人を遣わして提督に知らせたので、提督は大いに怒って言った。「旗牌はすなわち皇帝の命である。㺚子でさえ見れば拝むものであるのに、どうして拝まないのか。私は軍法を用いてから兵を回そう。」接伴使の李徳馨が急ぎ私に知らせて来た。「明日、来て罪を謝らないわけにはいきません。」

翌日、私と金元帥は開城へ行き、門に至って名を告げた。提督は怒って会わなかった。金元帥が退こうとしたので、私は言った。「提督が我らを試しているのですから、しばらく待ちましょう。」そのとき細かい雨が降っていたが、我ら二人は手を取り合って門の外に立った。やがて提督の人が門に出てうかがって入ることを二度したが、少しして入れと言った。提督は堂の上に立っていた。私は前に進んで礼を上げ、罪を謝って言った。「小人がいかに愚かだとしても、どうして旗牌が敬うべきものであることを知らないでしょうか。ただ旗牌のそばにわが国の人が賊を殺せないようにする牌文があって、心の中で痛んでいて、あえて拝まなかったのですから、罪を脱れる道がありません。」提督は恥じる色を帯びて言った。「その言葉はまことにそのとおりだ。牌文は宋侍郎の命であって、私の事ではない。」そして言った。「近ごろ流れる言葉が多い。侍郎がもし陪臣が旗牌を拝まなかったことを聞いて、私が覆い隠して問わなかったと言えば、かならず私まで咎めるだろう。書を作って事情をおおよそ明らかにして来られよ。もし侍郎が私を咎めるならこれで解くし、問わなければそのままにしておこう。」我ら二人は拝んで退き、その言葉のとおりに書を上げた。

これより提督は人を遣わして倭の営へ続けて行き来させた。ある日、私と元帥が提督に安否をうかがって東坡へ戻る途中、天寿亭の前で査将軍の家丁の李慶が東坡から開城へ入るのに出会い、馬の上で互いに挨拶して行き過ぎた。招賢里に至ると、明の人三人が馬を馳せて後から来て、体察使はどこにいるかと声高に問うた。私が「私がその人だ」と言うと、馬を返せと咎め、一人は手に鉄の鎖を持ち、長い鞭で私の馬をやたらに打ちながら「行け、行け」と言った。私は何の事か分からぬまま、馬を返して開城の方へ馳せるほかなかった。その人は馬の後ろに随って鞭打つことをやめなかった。従っていた者はみな後れ、軍官の金霽と従事官の辛慶晋だけが力を尽くして追って来た。青郊駅を過ぎて土の城の角に至ろうとするとき、また一人が城の中から馬を馳せて来て、三人に何か言った。すると三人は私に揖して「行かれてもよい」と言った。私は戸惑って、わけが分からぬまま戻った。

翌日、李徳馨が知らせてくれて、はじめてその事を知った。提督が頼みにして用いていた家丁が外から入って提督に「柳体察が和を結ぶことを願わず、臨津の船をことごとく片づけて、倭の営へ使いが通れないようにしている」と言ったのである。提督はすぐに怒って、私を捕らえて杖四十を打とうとしたのであった。私が至る前、提督は目を怒らせ、腕をまくって、座ったり立ったりしていたので、左右はみな震えていた。少しして李慶が至ると、提督は臨津に船があるかと問うた。慶が「船があって行き来にふさがれることはありません」と言うと、提督はすぐに人を遣わして私を追う者たちを停めさせ、家丁がみだりに言ったとして数百度もひどく打ち、息が絶えると引き出した。そして自分の怒りを悔いて、人々に「体察使が来ていたら、私はどう待てばよかったのか」と言った。おおよそ提督はいつも私が和の議を好まないとして、平生から心が穏やかでなかったところなので、人の言葉を聞くなり改めて察せず、このように荒々しく怒ったのである。人々はみな私を危ういと思った。

幾日かして提督はまた遊撃の戚金と銭世禎の二人に旗牌を持たせて東坡へ遣わし、私と金元帥と観察使の李延馨を呼んで共に座らせ、静かに言った。「賊が王子と陪臣を出して都から退くと請うている。いまその請いに従って賊に城を出させた後、謀を立てて追って撃つのがよかろう。」これは提督が彼らを遣わして、私の意がどうであるかを試させたのであった。私は相変わらず先の言葉を固く守って、やり取りをやめなかった。世禎は性が急で、怒って大いに咎めた。「それならば、あなたの国の王はどうして城を棄てて走り避けたのか。」私はゆるやかに言った。「都を移して国を保つのも一つの道です。」このとき戚金はただ私と世禎をしばしば眺めながら、にこりと笑うばかりで言葉がなかった。世禎らはついに帰った。

四月十九日、提督は大軍を率いて東坡に至り、査総兵の帳で宿った。賊がすでに兵を退けることを約していたので、都に入ろうとしたのである。私が提督の留まる所へ進んで安否をうかがうと、提督は会わずに訳官に言った。「体察使は私を快く思っていないのに、安否をうかがいにも来るのか。」

夾注 1

牌文 — 明の将が下し送る公文である。― 訳者

四月二十日京城復。天兵入城李提督舘於小公主宅前一日賊已出城矣余隨入城見城中遺民百不一存其存者皆飢羸疲困面色如鬼時日氣烘熱人死及馬死者處處暴露臭穢滿城行者揜鼻方過公私廬舍一空獨自崇禮門以東循南山下一帶賊所止舍處稍存。宗廟三闕及鍾樓各司舘學在大街以北者蕩然惟餘灰燼而已小公主宅亦倭將秀嘉所止故見遺余先詣。宗廟痛哭次至提督下處見伺候諸臣號慟良久明朝更詣提督門下問起居且言賊兵纔退去此應不遠願發軍急追提督曰吾意固然所以不急追者以漢江無船故耳余曰如老爺欲追賊卑職當先出江面整備舟艦提督曰甚善余出漢江先是余行文京畿右監司成泳水使李蘋令賊去急收江中大小船母失俱會漢江是時船已到者八十隻余使人報提督船已辦食頃營將李如柏率萬餘兵出江上軍士半渡日已向暮如柏忽稱足疾乃曰當還城中醫疾可進乘轎而回已在漢南軍皆還渡入城余痛心而無如之何蓋提督實無意追賊但以謾辭紿應而已二十三日余遂病臥

四月二十日、都を取り返した。明の兵が城に入り、李提督は小公主宅に宿った。一日前に賊はすでに城を出ていた。

私は従って城に入って見たが、城の中に残る民は百に一人も生きておらず、生きている者もみな飢え痩せ疲れて、顔の色が鬼のようであった。そのころ天気は蒸すように暑かったのに、死んだ人と死んだ馬が所々に露れていて、腐る臭いが城に満ちたので、路を行く者は鼻をふさいで通った。官の家も私の家もすっかり空で、ただ崇礼門の東から南山の下に沿って続く一筋、賊が留まっていた家だけが少し残っていた。宗廟と三つの宮と鐘楼・各々の官庁・成均館と学校で大きな路の北にあったものは、みな崩れて灰の山だけが残っただけである。小公主宅も倭の将の秀嘉が留まった所なので残ったのであった。

私はまず宗廟に進んで痛み泣き、次に提督の留まる所へ行って、安否をうかがいに来た諸々の臣に会い、長いあいだ声を放って泣いた。翌日の朝、改めて提督の門の下に進んで安否をうかがい、言った。「賊の兵がやっと退いたので、遠くへは行っていないでしょう。どうか兵を出して急ぎ追われますように。」提督は言った。「私の意ももとよりそうだ。急ぎ追えないのは、漢江に船がないからだ。」私は言った。「大人が賊を追おうとされるのなら、私がまず江の辺へ出て船を備えましょう。」提督は「きわめてよい」と言った。

私は漢江へ出た。さきに私は京畿右監司の成泳と京畿水使の李蘋に公文を送って、賊が退いたら急ぎ江にある大小の船を集め、失わずにみな漢江に集めさせていた。このとき来ている船は八十隻であった。私は人を遣わして提督に船が備わったと知らせた。飯一膳を食べるほどの間が過ぎて、営将の李如柏が万余の兵を率いて江の辺へ出て来た。兵が半ばまで渡ったとき、日はすでに暮れていたが、如柏は不意に足が痛いと言い、「城の中に戻って病を治してから進もう」と言って、轎に乗って帰った。すでに漢江の南へ渡っていた兵もみな渡り戻って城に入った。私は心が痛んだが、どうする術もなかった。おおよそ提督はまことに賊を追う意がなく、ただ空しい言葉でうわべだけ応じたのである。二十三日、私はついに病んで臥せた。

夾注 1

後稱南別宮

後に南別宮と呼んだ。

五月李提督追賊至聞慶而回宋侍郞始發牌文於提督使之追賊時賊去已數十日侍郞恐人議已縱賊不追故作如此擧止以示之其實畏賊不敢進而回賊在途緩緩而去或留或行我軍之在沿途者皆左右屏跡無敢出擊者賊退分屯於海邊自蔚山西生浦至東萊金海熊川巨濟首尾相連凡十六屯皆依山憑海築城掘塹爲久留計不肯渡海。天朝又使泗川總兵劉綎率福建西蜀南蠻等處召募兵五千繼出屯星州八莒南將吳惟忠屯善山鳳溪李寧祖承訓葛逢夏屯居昌駱尙志王必廸屯慶州環四面而相持不進糧餉取之兩湖踰越險阻散給諸陣民力益困提督又使沈惟敬往諭倭令渡海又使徐一貫謝用榟入郞古耶見關白六月賊始還兩。王子臨海君順和君及宰臣黃延彧黃赫等遣沈惟敬歸報而一面進圍晋州聲言報前年戰敗之怨蓋賊於壬辰圍晋州收使金始敏禦之不克而退故云然也八日而城陷牧使徐禮元判官成守璟倡義使金千鎰本道兵使崔慶會忠淸兵使黃進義兵復讎將高從厚等皆死軍民死者六萬餘人牛馬雞犬不遺賊皆夷城塡壕堙井刋木以快前憤時六月二十八日也初。朝廷聞賊南下連下旨督諸將追賊都元師金命元巡察使權慄以下官義兵皆聚於宜寧慄狃於幸州之捷欲渡岐江前進郭再祐高彥伯曰賊勢方盛我軍多烏合堪戰者少前頭又無糧餉不可輕進他人依違而已李薲從事成好善騃不曉事奮臂責諸將逗遛與權慄議合遂過江進至咸安城空無所得諸軍乏食摘靑柿實以食無復圖心矣明日諜報賊從金海大至衆或言當守咸安或言退守鼎津紛紜不决而已聞賊炮響人人𭰔懼爭出城墮弔橋死者甚多還渡鼎津望見賊兵從水陸來蔽野塞川諸將各自散去權慄金命元李薲崔遠等先向全羅道惟金千鎰崔慶會黃進等入晉州賊隨至圍之牧使徐禮元判官成守璟以唐將支待差使員久在尙州聞賊向本州狠狽而還纔二日矣州城本四面據險壬辰移東面下就平地至是賊立飛樓八座俯瞰城中刈城外竹林作大束環列自蔽以防矢石從其内發鳥銃如雨城中人不敢出頭又千鎰所率皆京城市井召募之徒千鎰又不知兵事而自用太甚且素惡徐禮元主客相猜號令乖違是以甚敗惟黃進守東城戰數日爲飛丸所中死軍人奪氣而外援不至適天雨城壞賊蟻附而入城內人方朿荆投石極力禦之賊幾卻千鎰軍守北門意城已陷先潰賊在山上望見軍潰一擁而登諸軍大亂千鎰在矗石樓與崔慶會攜手痛哭赴江死軍民得脫者數人而已自有倭變以來人死未有如此戰之甚者。朝廷以千鎰死義。贈以崇秩議政府右賛成又以權慄敢戰不畏賊代命元爲元帥劉總兵綎聞晋陷自八莒馳至陝川吳惟忠自鳳溪至草溪以護右道賊亦旣破晉州還釜山聲言待。天朝許和乃渡海云

五月に李提督が賊を追って聞慶まで行って帰った。

宋侍郎はそのときになって提督に牌文を下して賊を追わせた。そのころ賊が去ってすでに数十日であった。侍郎は、人が自分が賊を放って追わなかったと言うことを恐れて、このように飾って見せたのである。実は賊を恐れてあえて進めず帰ったのであった。賊は路でのろのろと行き、留まったり歩いたりしていたが、路の辺にいたわが軍はみな左右に跡を隠して、あえて出て撃つ者がなかった。

賊は退いて海の辺に分かれて営を張った。蔚山の西生浦から東莱・金海・熊川・巨済まで、頭と尾が互いに連なって、あわせて十六の営であったが、みな山に依り海を背にして城を築き、濠を掘って、長く留まる算をして、海を渡ろうとしなかった。

明はまた四川総兵の劉綎に、福建・西蜀・南蛮などの地で集めた兵五千を率いて続いて出させ、星州の八莒に営を張らせた。南の将の呉惟忠は善山の鳳渓に、李寧・祖承訓・葛逢夏は居昌に、駱尚志・王必廸は慶州に営を張って四方を囲んで対したが、進みはしなかった。軍の糧は湖南と湖西から取って険しい路を越えて諸々の営に分け与えたので、民の力はいっそう苦しんだ。

提督はまた沈惟敬を遣わして倭を諭して海を渡らせ、また徐一貫と謝用榟を郎古耶へ入れて関白に会わせた。六月に賊はようやく二人の王子、臨海君・順和君と宰臣の黄廷彧・黄赫らを返し、沈惟敬を遣わして知らせた。そうしておきながら一方では進んで晋州を囲み、前の年の戦いに敗れた怨みを報いると大言した。おおよそ壬辰の年に賊が晋州を囲んだとき、牧使の金時敏が防いで、勝てずに退いたので、そう言ったのである。

八日で城は落ちた。牧使の徐礼元、判官の成守璟、倡義使の金千鎰、その道の兵使の崔慶会、忠清兵使の黄進、義兵復讐将の高従厚らがみな死に、死んだ軍と民は六万余で、牛・馬・鶏・犬まで残らなかった。賊は城を壊し、濠を埋め、井を埋め、木を伐って、過ぎた日の憤りを晴らした。六月二十八日であった。

はじめ廷は賊が南へ下ると聞いて、続けて教旨を下して諸々の将に賊を追うことを催した。都元帥の金命元と巡察使の権慄の下に、官の軍と義兵がみな宜寧に集まった。権慄は幸州で勝ったことに慣れて、岐江を渡って進もうとした。郭再祐と高彦伯は言った。「賊の勢いはまさに盛んで、わが軍は烏合の者が多く戦えるものは少なく、前にはまた軍の糧がありませんので、軽々しく進んではなりません。」他の者はどちらでもなかった。李薲の従事官の成好善は愚かで事を知らないのに、腕をまくって諸々の将がためらっていると咎め、権慄と意を合わせた。ついに江を渡って咸安に至ったが、城は空で得たものがなかった。諸軍は食べる物がなくて青い柿を取って食べたので、もう戦う意がなかった。

翌日、賊が金海から大勢で押し寄せて来るという報せが来た。多くの者は咸安を守るべきだと言い、ある者は鼎津へ退いて守るべきだと言って、乱れて見当がつかなかった。そのうち賊の砲の音を聞くと、人は誰も怯えて争って城を出、吊り橋から落ちて死んだ者がきわめて多かった。鼎津を渡り戻って望むと、賊の兵が水と陸から押し寄せて野を覆い、川を埋めていた。諸々の将はそれぞれ散って行った。権慄・金命元・李薲・崔遠らはまず全羅道へ向かい、ただ金千鎰・崔慶会・黄進らだけが晋州に入った。賊は後から至って囲んだ。

牧使の徐礼元と判官の成守璟は明の将を取り持つ差使員として長く尚州にいたが、賊が自分の邑へ向かうと聞いてうろたえて帰って来て、やっと二日になるときであった。邑の城はもともと四面が険しい所に依っていたのに、壬辰の年に東の面を下へ移して平地に付けた。このとき賊は飛ぶような楼を八つ建てて城の中を見下ろし、城の外の竹の林を伐って大きな束に結び、囲み立てて身を隠し、矢と石を防ぎながら、その内から鳥銃を雨のように放ったので、城の中の人はあえて頭を出せなかった。

また千鎰が率いていた者はみな都の市で集めた群れで、千鎰は軍の事を知らないのに自分の意地があまりに強く、平生から徐礼元を憎んでいたので、城を守っていた側と入って来た側が互いに憚り、号令が食い違った。これによって大きく敗れたのである。ただ黄進だけが東の城を守って幾日か戦ったが、飛んで来た弾に当たって死んだので、軍士は気を喪い、外から助ける軍も来なかった。ちょうど天から雨が降って城が崩れると、賊は蟻のように付いて入って来た。城の中の人々は茨を束ねて投げ、石を投げて力を尽くして防いだので、賊はほとんど退くところであった。ところが北の門を守っていた千鎰の軍が、城がすでに落ちたと思って先に崩れた。山の上にいた賊が軍の崩れるのを望み見て、一時に押し上がって来たので、諸軍は大いに乱れた。千鎰は矗石楼で崔慶会と手を取り合って痛み泣き、江に身を投げて死んだ。軍と民のうち脱れた者は数人だけであった。倭の乱が起こってから、人が死んだことはこの戦いほど甚だしいことはなかった。

廷では千鎰が義のために死んだとして、議政府右賛成の高い官を与えた。また権慄が果敢に戦って賊を恐れないとして、金命元に代えて元帥とした。総兵の劉綎は晋州が落ちたと聞いて八莒から陜川へ馳せ、呉惟忠は鳳渓から草渓へ来て右の道を守った。賊も晋州を破ってから釜山へ帰り、明が和を許すのを待って海を渡ると大言した。

十月。車駕還都十二月。天使行人司行人司憲來

十月に王の車が都へ帰った。十二月に明の使いの司憲が来た。

夾注 1

司憲は明の行人司の行人の官を帯びた人である。

先是沈惟敬挾倭將小西飛持關白降表而歸。天朝疑降表非出於關酋行長等詐爲之又惟敬纔至而晉州見陷納欵之意不誠留小西飛於遼東久不報時提督及諸將皆還去惟劉綎吳惟忠王必廸等萬餘兵駐箚八莒而中外飢甚且困於饋運老弱顚溝壑壯者爲盜賊重以癘疫死亡殆盡至父子夫婦相食暴骨如莾未幾劉軍自八莒移南原又自南原還都城留十餘日逡巡西去而賊猶在海上人心益恐於是經略宋應昌被劾去新經略顧養謙代至遼東遣參將胡澤以箚付來論我群臣其略曰倭奴無端侵爾勢如破竹據王京開城三都會有爾土地人民十八九虜爾。王子陪臣。皇上赫怒興師一戰而破平壤再進而得開城倭奴竟遁王京送還。王子陪臣復地二千餘里所費帑金不貲士馬物故亦不少。朝廷之待屬國恩義止此。皇上罔極之恩亦已過矣今餉已不可再運矣兵已不可再用矣而倭奴亦畏威請降且乞封貢矣。天朝正宜許之封貢容之爲外臣驅倭盡數渡海不復侵爾解棼息兵所以爲爾國久遠計也今爾國糧盡人民相食又何恃而請兵耶旣不與兵餉於爾國又絕封貢於倭奴倭奴必發怒於爾國而爾國必亡安可不早自爲計耶昔句踐之困於會稽也豈不欲食夫差之肉乎而姑忍恥含垢以有待也身且爲臣也妻且爲妾也况爲倭奴請爲臣妾於中國以自寬而徐爲之圖是愈於句踐君臣之謀也此而不能恐是悻悻小丈夫之見耳非復讎雪恥之英雄也爾爲倭請封貢若果得請則倭必益感中國而且德朝鮮必罷兵而去倭去而爾國君臣遂苦心焦思臥薪甞膽以修句踐之業天道好還安知無報倭日也其言縷縷千百大意如此胡澤在舘三月餘朝議不决。聖意愈難之臣時以病在告。啓曰請封義固不可惟當詳具近日事情。奏聞以聽。中朝處置屢啓乃。允於是陳奏使許頊去時顧經略又以人言辭去新經略孫鑛來代兵部奏請收小西飛入京詰以三事一但求封不求貢二一倭不留釜山三永不侵朝鮮如約卽封不如約不可小西飛指天爲誓請遵約束遂令沈惟敬更帶小西飛入倭營宣諭又差李宗誠楊方亨爲上副使往封平秀吉日本國王而使宗誠等留我都城候倭盡撤方行乙未四月宗誠等至漢城連遣使促倭渡海項背相望於是倭先撤熊川數陣及巨濟塲門蘇津浦等諸屯以示信且曰恐如平壤見欺願。天使速入倭營當悉如約八月楊方亨因兵部箚付先到釜山而倭遷延不卽盡撒更請上使人多疑之兵部尙書石星信沈惟敬言意倭無異情又急於退兵屢促宗誠前去雖朝議多異而星奮然以身當之九月宗誠繼至釜山平行長不卽來見又言將往復關白定奪然後迎。天使行長入日本丙申正月始回猶不明言撤兵事沈惟敬留二使又獨與行長先行渡海託言將講定迎使禮節人莫能測惟敬錦衣登舟旗上大書調戢兩國四字立船頭而去旣去久無回報李宗誠乃開國功臣文忠之後以功襲爵紈袴子弟性頗恇㥘或言於宗誠曰倭酋實無受封意將誘致宗誠等拘囚而困辱之宗誠懼甚夜半以微服出營盡棄僕從輜重印節而逃翌朝倭始覺分道追之至梁山石橋不得而回楊方亨獨留倭營撫戢群倭且移文我國令勿驚動宗誠不敢由大路竄入山谷中數日不食從慶州來西去旣而沈惟敬行長始回又撒西生浦竹島等屯其未撒者只釜山四屯乃挾楊副使過海沈惟敬又要我使同行遣其姪沈𢠘時催發。朝廷不肯𢠘時必欲與偕不得已以武臣李逢春等稱跟隨陪臣以應之或謂武人往彼中多失誤宜使文官識事理者往昔黃愼以沈接伴使在倭營就令愼隨行

さきに沈惟敬が倭の将の小西飛を連れて関白の降りの文書を持って帰った。明は、その降りの文書が関白から出たものではなく、行長らが偽って作ったものではないかと疑った。また惟敬が着いたばかりのとき晋州が落ちたところだったので、帰り順う意が真でないとして、小西飛を遼東に留め置き、長いあいだ返しの報せをしなかった。

そのころ提督と諸々の将はみな帰り、ただ劉綎・呉惟忠・王必廸らの兵万余名だけが八莒に留まっていた。ところが国の内も外もはなはだ飢え、また運ぶ役に苦しめられて、老いた者と弱い者は溝に転がって死に、若い者は盗賊になった。そのうえ疫まで重なって死んだ者がほとんどすべてで、父と子が、夫と妻が互いに食い合うに至り、露れた骨が草むらのようであった。

間もなく劉綎の軍が八莒から南原へ移り、さらに南原から都へ戻って十日余り留まったが、ためらいながら西へ行ってしまった。賊は相変わらず海の辺にいたので、人の心はいっそう恐れた。

このとき経略の宋応昌が劾を受けて退き、新しい経略の顧養謙が代わって遼東に至り、参将の胡沢を遣わして箚付を持って来させ、わが臣たちを諭させた。その書はおおよそこうであった。

「倭奴がゆえもなくそなたたちを侵して、その勢いは竹を割くようであった。都と開城と平壌の三つの都会を占め、そなたたちの地と民の十に八、九を取り、そなたたちの王子と陪臣を捕らえた。皇上が大いに怒って兵を起こし、ひとたび戦って平壌を破り、二たび進んで開城を得たので、倭奴はついに都から走り、王子と陪臣を返し、二千余里の地を取り返した。費った国の財は数えきれず、死んだ兵と馬も少なくない。朝廷が属する国を待つ恩と義はここに至ったのだから、皇上の限りない恩もすでに過ぎている。

いま軍の糧はもう運べず、兵ももう用いられないが、倭奴もまた威を恐れて降りを請い、封と貢を乞うている。明はまさに封と貢を許して外の臣として受け入れ、倭を駆って残らず海を渡らせ、再びそなたたちを侵せないようにすることで、絡まったものを解き兵を休ませるのがよい。これがそなたの国のための長い計である。

いまそなたの国は糧が尽きて民が互いに食い合う場であるのに、また何を頼みにして兵を請うのか。すでにそなたの国に兵と糧を与えず、また倭奴に封と貢を断ってしまえば、倭奴はかならずそなたの国に怒りをぶつけるであろうし、そなたの国はかならず亡びるであろうから、どうして早く自ら図らないのか。

昔、句践が会稽山で窮まったとき、どうして夫差の肉を噬みたくなかっただろうか。それでもしばらく恥を忍び辱を含んで時を待ち、自分の身は臣となり妻は妾となった。まして倭のために中国に臣と妾となることを請い、それで自ら息をつきながらゆるやかに図るのは、句践の君と臣が謀ったことよりも勝ることである。これもできないのなら、おそらくいきり立つ狭い男の見方だけで、仇を報い恥を洗う英雄ではない。

そなたたちが倭のために封と貢を請うて、もし思いどおりになれば、倭はかならず中国をいっそう有り難く思い、朝鮮も恩と徳として、かならず兵を歛めて行くであろう。倭が行った後、そなたの国の君と臣が心を苦しめ腸を焦がし、薪に臥し胆を嘗めて句践の事を修めるなら、天の理は回り回るものであるから、倭に報いる日がないとどうして知れようか。」

その言葉は千言百言と連ねられていたが、大きな意はこうであった。

胡沢が客館に三月余り留まるあいだ、廷の議は定まらず、王の心はいっそう難しまれた。私はそのころ病んで退いていたが、書を上げて申し上げた。「封を請うことは義から見てまことに良くありません。ただ近ごろの事情を詳しく具えて申し上げ、明の処置に従うのが当たっております。」幾度も申し上げて、ようやく許しを得た。そこで陳奏使の許頊が行った。

そのころ顧経略も人の言葉で退き、新しい経略の孫鑛が来て代わった。兵部が申し上げて小西飛を都へ呼び入れ、三つの事を問い詰めた。一つは封だけを求めて貢を求めないこと、二つは倭を一人も釜山に残さないこと、三つは長く朝鮮を侵さないことであった。約のとおりにすればすぐに封じ、そうでなければならないと言った。小西飛は天を指して誓い、約を守ると言った。

ついに沈惟敬にあらためて小西飛を連れて倭の営に入って諭させ、また李宗誠と楊方亨を上使と副使として、平秀吉を日本国王に封じに行かせることにしたが、宗誠らはわが都に留まって、倭がみな退くのを待ってから行かせた。

乙未の年の四月、宗誠らが漢城に至り、続けて人を遣わして倭に海を渡ることを催したので、行き来する者が前後に続いた。そこで倭はまず熊川の幾つかの営と巨済の塲門浦・蘇津浦などの諸々の営を歛めて信を示し、言った。「平壌のときのように騙されることを恐れるから、どうか明の使いが速く倭の営に入って来られれば、みな約のとおりにしよう。」

八月に楊方亨が兵部の公文を受けてまず釜山に至ったが、倭は引き延ばしてすぐには歛め尽くさず、あらためて上使を請うたので、人々は多く疑った。兵部尚書の石星は沈惟敬の言葉を信じて、倭に他の意はないと思っており、また兵を退けることに急いで、幾度も宗誠に前へ進むことを催した。廷の議は異なる者が多かったが、石星は奮い立って自分の身で引き受けた。九月に宗誠が続いて釜山に至ったが、平行長はすぐには来て会わず、また関白の所へ行って決めを受けてから明の使いを迎えると言った。行長は日本に入り、丙申の年の正月になってようやく帰ったのに、兵を歛めることは明らかに言わなかった。沈惟敬は二人の使いを残しておいて、また独り行長と共に先に海を渡りながら、使いを迎える礼の節を議り定めるのだと口実にしたので、人々は量りかねた。惟敬は錦の衣を着て船に上がり、旗に「二つの国を平らかにする」という四字を大きく書いて舳に立てて行った。

去った後、長いあいだ返しの報せがなかった。李宗誠は開国功臣の李文忠の後で、祖の功で官を継いだ貴い家の子弟であったから、性がかなり怯えがちであった。ある者が宗誠に言った。「倭の首はまことに封を受ける意がなく、まさに宗誠らを誘って捕らえ囚え、辱めようとしています。」宗誠はひどく恐れて、夜半に粗末な衣で営を抜け出し、僕も荷も印も節も鉞もみな棄てて走った。翌日の朝になって倭が知り、路を分けて追って梁山の石橋まで行ったが、捕らえられずに帰った。楊方亨だけが倭の営に残って倭の群れを宥め、またわが国に公文を送って、驚いて動くなと言った。宗誠はあえて大きな路を行かず、山の谷に隠れ入って幾日も飢え、慶州を経て西へ行った。

やがて沈惟敬と行長がようやく帰り、西生浦と竹島などの営をまた歛めたので、歛めなかったのは釜山の四つの営だけであった。そして楊副使を連れて海を渡った。沈惟敬はまた、わが使いも共に行くことを求め、自分の甥の沈懋時を遣わして出発を催した。廷では気が進まなかったが、懋時がどうしても共に行こうとするので、やむなく武臣の李逢春らを付き添わせ、連れる陪臣と称して応じた。ある者が「武の人がその所へ行けば誤ることが多いだろうから、事の理を知る文の官を遣わすべきだ」と言った。そのころ黄慎が沈惟敬の接伴使として倭の営にいたので、すぐに黄慎に随って行かせた。

天使楊方亨沈惟敬回自日本先是方亨等至日本關白盛飾舘宇欲迎接會一夜地大震摧倒幾盡遂迎候於他舍與兩使一再會初若受封者然忽大怒曰我放還朝鮮。王子朝鮮當使。王子來謝而使臣秩卑是慢我也黃愼等不得傳。命幷促楊方亨沈惟散等同回亦無謝恩。天朝之禮賊將平行長回釜山浦淸正復率兵繼屯西生浦聲言要。王子來謝始解兵蓋關酋所求甚大不止封貢。中朝但許封不許貢惟敬與平行長相熟欲臨事𦇯縫苟且成事而不以實情聞諸。天朝與我國事竟不諧本國卽遣使馳奏其事於是石星沈惟敬皆得罪而。天兵再出矣

明の使いの楊方亨と沈惟敬が日本から帰った。

さきに方亨らが日本に至ると、関白は客館をたいそう飾って迎えようとしたが、ちょうど一夜のあいだに地が大きく揺れてほとんど崩れたので、他の家で迎えた。二人の使いと一、二度会ったときには、はじめ封を受けるかと見えたが、不意に大いに怒って言った。「私が朝鮮の王子を放って返したのだから、朝鮮はまさに王子を遣わして礼を謝すべきであろうに、使いの品の階が低いのだから、これは私を侮るものだ。」

黄慎らは王の命を伝えることもできず、あわせて楊方亨と沈惟敬らを催して共に帰らせ、明に恩を謝する礼もなかった。賊の将の平行長は釜山浦に戻り、清正はあらためて兵を率いて続いて西生浦に営を張って、王子が来て謝してこそ兵を解くと大言した。

おおよそ倭の首が望むところはきわめて大きく、封と貢にとどまらなかったのに、明は封だけを許して貢を許さなかった。沈惟敬は平行長と親しく、事に臨んでは繕い綴って、うやむやに事を成そうとし、真の事情を明にもわが国にも知らせなかったので、事はついに齟齬ったのである。わが国がすぐに使いを遣わしてその事を馳せ申し上げたので、そこで石星と沈惟敬はどちらも罪を被り、明の兵が改めて出て来ることになった。

逮水軍統制使李舜臣下獄初元均德舜臣來救相得甚歡旣而爭功漸不相能均性險詖且多連結於中外搆誣舜臣不遺餘力每言舜臣初不欲來因我固請乃至勝敵我爲首功時朝論分岐各有所主薦舜臣初爲余不悅余者與元均合攻舜臣甚力惟右相李元翼明其不然且曰舜臣與元均各有分守之地初不卽進未足深非先是賊將平行長使卒倭要時羅往來慶尙右兵使金應瑞陣致慇懃方淸正欲再出也時羅密言於應瑞曰我將行長言今此和事不成由於淸正吾甚疾之某日淸正當渡海朝鮮善水戰若要諸海中可以敗殺愼母失也應瑞上其事。朝議信之海平君尹根壽尤踊躍以爲機會難失屢。啓之連催舜臣前進舜臣疑賊有詐遲徊者累日至是要時羅又至曰淸正今已下陸朝鮮何不要截佯致恨惜之意事聞延議皆咎舜臣臺諫請拿鞫玄風人前縣監朴惺者亦承望時論。上䟽極言舜臣可斯遂遣義禁府都事拿來元均代爲統制使。上猶疑所聞不盡實特遣成均司成南以信下閑山廉察以信旣入全羅道軍民遮道訟舜臣寃者不可勝數以信不以實聞乃曰清正留海島七日我軍若往可縛來而舜臣逗遛失機舜臣至獄。命大臣議罪獨判中樞府事鄧琢言舜臣名將不可殺軍機利害難可遥度其不進未必無意請寬恕以責後效栲問一次减死削職充軍舜臣老母在牙山聞舜臣下獄憂悸而死舜臣出獄道過牙山成服卽往權慄帳下從軍人聞而悲之

水軍統制使の李舜臣を捕らえて獄に囚えた。

はじめ元均は舜臣が来て救ってくれたことを有り難く思い、互いにきわめて喜んだが、やがて功を争うにつれ、しだいに仲が悪くなった。均は性が陰険で姦しく、また国の内外につないだ所が多かったので、舜臣を構え誣いることに力を惜しまなかった。いつも「舜臣ははじめ来ようとしなかったのに、私が固く請うて来たのだから、賊に勝ったのは私が第一の功である」と言った。

そのころ廷の議は分かれて、それぞれ庇う所があった。舜臣を薦めたのがはじめ私であったので、私を好まない者たちは元均と手を組んで舜臣をはなはだ攻めた。ただ右議政の李元翼だけがそうでないことを明らかにし、また言った。「舜臣と元均はそれぞれ分かれて守る地があるのですから、はじめすぐに進まなかったことを深く咎めるには足りません。」

さきに賊の将の平行長が、下っ端の倭人の要時羅を慶尚右兵使の金応瑞の陣に出入りさせて、懇ろな意を見せていた。清正があらためて出て来ようとするころ、要時羅が応瑞にひそかに言った。「わが将の行長が、今度の和を結ぶ事が成らないのは清正のためだから、私はひどく憎んでいると言いました。何の日に清正が海を渡ります。朝鮮は海の戦いが巧みですから、海の中で迎え撃てば勝って殺せます。どうか逃さないでください。」

応瑞がその事を申し上げると、廷の議は信じた。海平君の尹根寿がいっそう跳ぶように喜び、逃せない機だとして幾度も申し上げ、続けて舜臣に進むことを催した。舜臣は賊に偽りがあるのではないかと疑って幾日もためらった。このとき要時羅がまた来て「清正はいまもう陸に降りたのに、朝鮮はどうして防ぎ断たなかったのですか」と言って、わざと惜しむ意を見せた。

この事が聞こえると、廷の議はみな舜臣を咎め、台諫は捕らえて問い糾すことを請うた。玄風の人で前の県監の朴惺という者も、そのときの議に合わせて上疏を上げ、舜臣を斬るべきだと極言した。ついに義禁府の都事を遣わして捕らえて来、元均を統制使とした。

王はそれでも聞こえる言葉がみな事実ではあるまいと疑われ、特に成均司成の南以信を閑山島へ下して察させた。以信が全羅道に入ると、軍も民も路をふさいで舜臣の無念を訴える者が数えきれなかった。ところが以信は事実のまま申し上げず、こう言った。「清正は海の島に七日留まったのですから、わが軍が行っていれば縛って来られたでしょうに、舜臣がためらって機を逸しました。」

舜臣が獄に至ると、大臣たちに罪を議らせられた。ただ判中枢府事の鄭琢だけが言った。「舜臣は名のある将ですから、殺してはなりません。軍の機微と利害は遠くから量りがたいので、彼が進まなかったことにもかならず意がないわけではなかったでしょう。寛やかに赦して、後の日の功で償わせてください。」一度の拷問の後、死を減じて官を奪い、軍に充てた。

舜臣の老いた母が牙山にいたが、舜臣が獄に囚えられたと聞いて、憂えと驚きで世を去った。舜臣は獄から出て、路に牙山を過ぎて喪の服を着、そのまま権慄の帳の下へ行って軍に従った。人々は聞いて悲しんだ。

天朝以兵部尙書郉玠爲總督軍門遼東布政司楊鎬爲經理朝鮮軍務麻貴爲大將楊元劉綎董一元等相繼而出丁酉五月楊元領三千兵先至留京城數日下全羅道駐守南原蓋南原據湖嶺之衝城頗堅完往時駱尙志又增築可守故也城外有蛟龍山城衆議欲守山城楊元以爲本城可守增埤浚濠濠內又設羊馬墻晝夜董役月餘粗完

明が兵部尚書の邢玠を総督軍門、遼東布政使の楊鎬を朝鮮の軍務を掌る経理とし、麻貴を大将とし、楊元・劉綎・董一元らが続いて出て来た。

丁酉の年の五月、楊元が兵三千を率いてまず至り、都に幾日か留まってから全羅道へ下り、南原に留まって守った。南原は湖南と嶺南の接する要を占めていて、城もかなり堅く全く、過ぎた日に駱尚志がさらに築き足して守るに足りたからである。城の外に蛟龍山城があったので、多くの者は山城を守ろうと議ったが、楊元は本城が守るに足りるとして、垣を築き足し、堀を深く掘り、堀の内にまた羊馬墻を囲らせ、昼も夜も仕事を催して一月余りでおおよそ終えた。

八月初七日閑山舟師潰統制使元均全羅右水使李億祺死慶尙右水使裵楔走免初元均旣至閑山盡變舜臣約束凡褊裨士卒稍爲舜臣所任使者皆斥去以李英男詳知已前日奔敗狀尤惡之軍心怨憤舜臣在閑山時作堂名曰運籌日夜處其中與賭將共論兵事雖下卒欲言軍事者許來告以通軍情每將戰悉招褊裨問計謀定而後戰故無敗事均挈愛妾居其堂以重籬隔內外諸將罕見其面又嗜酒日事𨠯怒刑罰無度軍中竊語曰若遇賊惟有走耳諸將私相譏笑亦不復稟畏故號令不行時賊將再入寇平行長又遣要時羅紿金應瑞曰倭船某日當添至朝鮮舟師猶可邀擊都元帥權慄尤信其說且以李舜臣以逗遛已得罪日促元均進兵均亦常言舜臣見賊不進以此陷舜臣而已得代其任至是雖知其勢難而慙無以爲辭只得盡率舟艦進前倭營之在岸上者俯視船行互相傳報均至絕影島風作浪起日已昏船無止泊處望見倭船出沒海中均督諸軍進前舟中人自閑山終日搖櫓不得休息又困飢渴疲不能運船諸船縱橫進退乍前乍郤倭欲疲之與我船相近輒倘佯引避而去不與交鋒夜深風盛我船四散分漂不知去向均艱收餘船還至加德島軍士渴甚爭下船取水倭兵從島中突出揜之失將士四百餘人均又引退至巨濟㓒川島權慄在固城以均無所得檄召均杖之督令更進均還到軍中益忿懣飲酒醉臥諸將欲見均言事不得夜半倭船來襲之軍大潰均走至海邊棄舟登岸欲走而體肥鈍坐松樹下左右皆散或言爲賊所害或言走免終不得其實李億祺從船上投水裴楔先是屢諫均必敗是日又言㓒川島淺窄不利行船宜移陣他處均皆不聽楔私約所領船戒嚴待變見賊來犯奪港先走故其軍獨全楔還至閑山島縱火焚廬舍糧穀軍器徙餘民之留在島中者使避賊而去閑山旣敗賊乘勝西向南海順天次第陷沒賊船至豆恥津下陸進圍南原兩湖大震蓋賊自壬辰入我境惟見敗於舟師平秀吉憤之責行長必取舟師行長佯輪款於金應瑞使李舜臣得罪又誘元均出海中盡得其虛實因行掩襲其計至巧而我悉墮其計中哀哉

八月七日に閑山島の水軍が崩れ、統制使の元均と全羅右水使の李億祺が死に、慶尚右水使の裵楔は走って脱れた。

はじめ元均が閑山島に至ると、李舜臣が立てた規約を残らず取り壊して改め、率いる将たちと軍卒のうち、少しでも舜臣が用いていた者はみな退けた。李英男が元均が過ぎた日に走って敗れた事を詳しく知っているとして、いっそう憎んだので、軍の心は怨み憤った。

舜臣が閑山島にいたとき、家を建てて名を運籌堂とし、昼も夜もその中にいて諸々の将と共に軍の事を議った。下の軍卒でも軍の事を言おうとする者があれば来て告げさせ、軍の中の事情を通わせた。戦おうとするたびに率いる将たちをみな呼んで計を問い、謀が定まってから戦ったので、敗れることがなかった。ところが均は愛する妾を連れて来てその家に住み、囲いを重ねて囲らせて内と外をふさいだので、諸々の将がその顔を見ることは稀であった。また酒を好み、日ごとに酒に酔って怒り、刑に法度がなかった。軍の中でひそかに「賊に出会えば走るほかない」と言い、諸々の将も自分たちで嘲り笑って、改めて伺うことも恐れることもしなかったので、号令が立たなかった。

そのころ賊が改めて攻め入ろうとして、平行長がまた要時羅を遣わして金応瑞を騙して言った。「倭の船が何の日にさらに来ますから、朝鮮の水軍はまだ迎え撃てます。」都元帥の権慄はその言葉をいっそう信じ、また李舜臣がためらったとして罪を被ったところなので、日ごとに元均に兵を出すことを催した。均も常に舜臣が賊を見ても進まないと言い、それで舜臣を陥れて自分がその任に代わったところなので、このとき勢いが難しいと知りながらも、恥じて言う言葉がなく、船をことごとく率いて前へ進むほかなかった。

岸の上にあった倭の営から船の行くのを見下ろして互いに知らせた。均が絶影島に至ると、風が立ち波が起こるうえ、日はすでに暮れて船を寄せる所がなかった。倭の船が海の中に現れたり消えたりするのを望み見て、均は諸軍を催して前へ進ませた。船の中の人々は閑山島から終日櫓を漕いで休めなかったうえ、飢え渇いて疲れて船を動かせなかったので、諸々の船はあちこち進んだり退いたり、先になったり後になったりした。倭は我らを疲れさせようとして、わが船が近づくたびにうろうろと退き避けて、刃を交えなかった。夜が深くなって風が激しくなると、わが船は四方に散って流れ、どこへ行ったか分からなくなった。

均はやっと残る船を収めて加徳島に戻った。軍士はひどく渇いて争って船から降りて水を汲んだが、倭の兵が島の中から不意に出て襲いかかったので、将と卒の四百余名を失った。均はまた退いて巨済の漆川島に至った。権慄は固城にいたが、均が得たものがないとして檄で呼んで杖を打ち、改めて進むことを催した。均は軍の中に戻っていっそう憤り塞がり、酒を飲んで酔って臥せたので、諸々の将が均に会って事を言おうとしても会えなかった。

夜半に倭の船が来て撃ちかかったので、軍は大いに崩れた。均は海の辺へ走り、船を棄てて陸に上がって走ろうとしたが、身が肥えて鈍く、松の下に座ったが、左右はみな散った。賊に害されたともいい、走って脱れたともいうが、ついに事実は分からなかった。李億祺は船の上から水に身を投げた。

裵楔はさきに幾度も均にかならず敗れると諫め、この日も「漆川島は浅く狭くて船を操るのに利がありませんから、まさに他の所へ営を移すべきです」と言ったが、均はみな聞かなかった。楔は自分が率いる船とひそかに約して厳しく守り、変を待っていたが、賊が来て侵すのを見て浦の口を抜け出して先に走ったので、その軍だけが全かった。楔は閑山島に戻って、家と穀と兵器に火を放って焼き、島の中に残っていた民を移して賊を避けさせてから去った。

閑山島が崩れると、賊は勝ちに乗じて西へ向かい、南海と順天が順に落ちた。賊の船が豆恥津に至って陸に降りて進み、南原を囲んだので、湖南と湖西は大いに揺れた。

おおよそ賊は壬辰の年にわが地に入ってから、ただ水軍にだけ敗れた。平秀吉はこれを憤って、行長にかならず水軍を取れと催した。行長は金応瑞に偽って誠を尽くす体を見せて李舜臣が罪を被るようにし、また元均を誘って海の中に出させ、その虚実をことごとく知り得てから襲い撃ったのである。その謀はきわめて巧みであったのに、我らはその謀に残らず陥ったのだから、悲しいことである。

倭兵陷黃石山城安陰縣監郭䞭前咸安郡守趙宗道死之初體察使李元翼元帥權慄議修道內山城禦賊築公山金烏龍紀富山等城而公山金烏用民力尤多悉收旁郡器械糧餉實其中督守令盡率老弱男婦入守遠近騷然及賊再動淸正自西生浦西向全羅將與行長水路兵會攻南原元帥以下皆望風引去傳令各處山城入守者各散去避兵惟義兵將郭再祐入昌寧火王山城期死守賊到山下仰見形勢斗絕而城內人靜帖不動不攻而去安陰縣監郭䞭入黃石山城前金海府使白士霖亦入城中士霖武人衆心倚以爲重賊兵攻城一日士霖先遁諸軍皆潰賊入城䞭與子履祥履厚皆死䞭女嫁柳文虎文虎爲倭所擄郭氏已出城聞之謂其婢曰父死而不死爲有夫在耳今夫又執吾何生爲自經死趙宗道甞曰吾甞從大夫之後不可與奔竄之徒同死草間死則當明白死耳率妻子入城中作詩曰崆峒山外生猶喜巡遠城中死亦榮遂與䞭同被害

倭の兵が黄石山城を陥れ、安陰県監の郭䞭と前の咸安郡守の趙宗道が死んだ。

はじめ体察使の李元翼と元帥の権慄が、道の内の山城を修めて賊を防ぐことを議り、公山・金烏・龍紀・富山などの城を築いた。そのうち公山と金烏に民の力をとりわけ多く用い、隣の邑の兵器と軍の糧をことごとく集めてその中に満たし、守令を催して老いた者も弱い者も男も女もみな率いて入って守らせたので、遠くも近くも騒がしかった。

賊がまた動くと、清正は西生浦から西の全羅道へ向かい、行長の水路の軍と会って南原を攻めようとした。元帥の下にみな噂だけを聞いて退きながら、所々の山城に入って守っていた者たちにも、それぞれ散って賊を避けよと命を伝えた。ただ義兵将の郭再祐だけが昌寧の火旺山城に入って死を決して守ろうとした。賊は山の下に至って、勢いが峻しいのを仰ぎ見、また城の中の人々が静かで動かないのを見て、攻めずに去った。

安陰県監の郭䞭が黄石山城に入り、前の金海府使の白士霖も城の中に入った。士霖は武の人であったので、多くの者が彼を頼みにして重く見た。賊の兵が城を攻めて一日で士霖が先に走ったので、諸軍はみな崩れ、賊が城に入った。郭䞭は子の履祥・履厚と共にみな死んだ。䞭の娘は柳文虎に嫁していたが、文虎が倭に捕らえられた。郭氏はすでに城を出ていたが、それを聞いて召使いの女に言った。「父が死んでも従って死ななかったのは、夫があったからだ。いま夫までも捕らえられたのだから、私が何で生きようか。」そして首を吊って死んだ。

趙宗道はかつてこう言った。「私も官に仕えた大夫の後に連なった人であるから、走り隠れる群れと共に草むらで死ぬわけにはいかない。死ぬなら、まさに堂々と死ぬのだ。」そして妻と子を連れて城の中に入り、詩を作った。

崆峒山の外では生きることもなお喜ばしく 張巡と許遠が守った城の中では死ぬこともまた栄えである

ついに郭䞭と共に害された。

夾注 1

張巡と許遠は、唐の時に睢陽城をどこまでも守って死んだ人である。底本は二人の名から一字ずつ取って「巡遠」としている。

復起李舜臣爲三道水軍統制使閑山敗報至朝野震駭。上引見備邊諸臣問之群臣惶惑不知所對慶林君金命元兵曹判書李恒福從容。啓曰此元均之罪惟當起李舜臣爲統制使耳。從之時權慄聞元均敗已使李舜臣往收餘兵賊方衝斥舜臣與軍官一人自慶尙道入全羅道晝夜潜行間關達珍島欲收兵禦賊

李舜臣をあらためて起こして三道水軍統制使とした。

閑山島が敗れたという報せが届くと、廷も民のあいだも驚き震えた。王は備辺司の諸々の臣を召し見て問われたが、臣たちはどうすべきか分からず答えられなかった。慶林君の金命元と兵曹判書の李恒福が静かに申し上げた。「これは元均の罪です。ただ李舜臣を起こして統制使とするべきです。」王はそのとおりに従われた。

そのころ権慄は元均が敗れたと聞いて、すでに李舜臣に行って残る軍を収めさせていた。賊がまさに突き衝いているところなので、舜臣は軍官一人と共に慶尚道から全羅道に入り、昼も夜も忍び歩いて難しい路を貫き、珍島に至って軍を収めて賊を防ごうとした。

倭兵陷南原府。天將楊元走還全羅兵使李福男南原府使任鉉助防將金敬老光陽縣監李春元唐將接伴使鄭期遠等皆死有軍器寺破陣軍十二人隨楊元入南原皆被兵死獨有金孝義者得脫爲余道城陷事甚詳楊總兵旣至南原增築城一丈許城外羊馬牆多穿炮穴城門安大炮數三坐𮢶深濠塹一二丈閑山旣敗賊從水陸而至報甚急城中洶洶人民逃散獨總兵所領遼東馬軍三千在城內總兵檄召全羅兵使李福男同守福男遷延不至連發夜不收催之不得已乃至而所率纔數百光陽縣監李春元助防將金敬老等繼至八月十三日倭先鋒百餘到城下放鳥銃頃刻而止皆散伏田畝間三三五五作隊旣去復來城上人以勝字小炮應之倭大陣在遠出遊兵交戰疎行迭出故炮發不能中而守城卒往往中賊丸斃旣而倭到城下呌城上人求與語總兵使家丁一人挾通事往倭營以倭書來乃約戰書也十四日倭環城三面結陣以銃炮迭攻如前日先是城南門外民家稠密賊臨至總兵使焚之而石牆土壁猶在賊來依牆壁間自蔽放丸多中城上人十五日望見倭衆刈城外雜草及水田中稻禾作大束無數積牆壁間城中不測時遊擊將軍陳愚衷領三千兵在全州南原軍日望來援而久不至軍心益懼是日晚守堞軍往往交頭耳語準備馬鞍有欲遁色夜一更聞倭陣中囂聲大起略相應和有運物狀而一面衆炮向城亂放飛丸集城上如雨雹城上人縮頸不敢外窺經一二時囂聲止草束已平濠又推積羊馬牆內外頃刻與城齊衆倭蹂躪登城已聞城中大亂云倭入城矣孝義初撥守南門外羊馬牆慌忙入城城上已無人但見城內處處火起走至北門唐軍悉騎馬欲出門門堅閉不可易開馬足如束街路塡塞旣而門開軍馬爭門而出倭兵在城外圍匝數三重各守要路奮長刀亂斫之唐軍俛首受刃適月明得脫者無幾總兵與家丁數人馳馬突出僅以身免或云倭知爲總兵故使逸去也孝義與同伴一人出門一人遇賊死孝義跳入水田伏草中待倭收兵乃逸云蓋楊乃遼將從知禦虜不知禦倭以至於敗亦知平地之城守之甚難詳記孝義之言使後之守禦者知所戒云南原旣陷而全州以北瓦解不可爲矣楊元竟以此伏罪傳首徇示

倭の兵が南原府を陥れたので、明の将の楊元は走り帰り、全羅兵使の李福男、南原府使の任鉉、助防将の金敬老、光陽県監の李春元、明の将の接伴使の鄭期遠らがみな死んだ。軍器寺の破陣軍の十二人が楊元に従って南原に入ったが、みな戦って死に、ただ金孝義という者が脱れて、私に城が落ちた事をきわめて詳しく語った。

楊総兵は南原に至って城を一丈ほど築き足し、城の外の羊馬墻に砲を放つ穴を数多く穿ち、城の門に大きな砲を二つ三つ据え、堀を一、二丈に深く掘った。閑山島が敗れてから賊が水と陸から至ったので、報せがはなはだ急で城の中は騒がしく、民は走り散り、ただ総兵が率いる遼東の騎兵三千だけが城の中にいた。総兵は檄で全羅兵使の李福男を呼んで共に守らせたが、福男は引き延ばして来なかった。続けて夜不収を遣わして催したので、やむなく来たが、率いる軍はやっと数百であった。光陽県監の李春元と助防将の金敬老らが続いて至った。

八月十三日に倭の先鋒百余名が城の下に至って鳥銃を放ったが、わずかのうちにやめ、みな田の畝のあいだに散り伏せて、三、四人、五人と群れをつくって行っては、また来た。城の上の人々は勝字小砲で対した。倭の大きな陣は遠くにあって、遊撃する兵だけが出て戦うのに、疎く並んで代わる代わる出たので、砲を放っても当てられず、城を守る軍卒はおりおり賊の弾に当たって死んだ。

やがて倭が城の下に至って、城の上の人を呼んで話すことを請うた。総兵は家丁一人に通事を連れて倭の営へ行かせたが、倭の書を持って帰ったので、戦いを約する書であった。

十四日、倭が城の三つの面を囲んで陣を張り、銃と砲で代わる代わる攻めることを前の日のようにした。さきに城の南門の外は民の家がびっしりとあったが、賊が迫ると総兵が焼いてしまった。しかし石の垣と土の壁はそのまま残っていたので、賊が来て垣と壁のあいだに付いて身を隠して弾を放ったので、城の上の人が多く当たった。

十五日に望んだところ、倭の群れが城の外の雑草と田の稲を刈って大きな束に結び、数知れず垣と壁のあいだに積んでいたが、城の中では何の意か量りかねた。そのころ遊撃将軍の陳愚衷が兵三千を率いて全州にいたので、南原の軍は日ごとに救いが来るのを待ったが、長く来なかったので、軍の心はいっそう恐れた。この日の夕、城の堞を守る軍士たちがおりおり頭を寄せ合って耳打ちをし、馬の鞍を整えるなど、走る気色があった。

夜の初更に倭の陣の中で騒ぐ声が大きく起こり、互いにやり取りして何かを運ぶようであったかと思うと、一方では多くの砲を城へやたらに放ち、飛んで来る弾が城の上に雹のように降った。城の上の人々は首を縮めて、あえて外を覗けなかった。一、二刻が過ぎて騒ぐ声が止んだが、草の束がすでに堀を埋め、また羊馬墻の内と外に押し積まれて、わずかのあいだに城と高さが同じになった。多くの倭が踏み上って城に上がった。やがて城の中が大いに乱れて、倭が城に入ったという声が聞こえた。

孝義ははじめ南門の外の羊馬墻を守っていたが、あわてて城に入ったところ、城の上にはもう人がおらず、ただ城の中の所々に火が起こるのだけが見えた。北門へ馳せると、明の兵がみな馬に乗って門を出ようとしていたが、門が固く閉じて容易に開かず、馬の蹄が縛られたようで、街が満ち塞がっていた。やがて門が開いて軍と馬が争って門を出ると、倭の兵が城の外を二重三重に囲んで、それぞれ要の路の口を守っていて、長い刀を振るってやたらに斫ったので、明の兵は頭を下げて刃を受けた。ちょうど月が明るくて、脱れた者はいくらもなかった。総兵は家丁数人と馬を馳せて跳び出し、やっと身だけ脱れたが、倭が総兵と知ってわざと走らせたのだともいう。孝義は仲間一人と共に門を出たが、一人は賊に出会って死に、孝義は田に跳び入って草の中に伏せていて、倭が軍を歛めた後に抜け出したのだという。

おおよそ楊元は遼東の将で、胡を防ぐ法だけを知って倭を防ぐ法を知らなかったので、敗れるに至ったのである。また平地の城は守るのがはなはだ難しいことも分かるので、孝義の言葉を詳しく記して、後の日に守る者たちが戒めるところを知るようにする。南原が落ちると全州より北は崩れてどうにもできなくなった。楊元はついにこの事で罪を受け、首を斬って回し示された。

統制便李舜臣倭破兵于珍島碧波亭下殺其將馬多時舜臣至珍島收拾兵船得十餘隻時沿海人乘船避亂者無數聞舜臣至莫不喜悅舜臣分道招呼遠近雲集使在軍後以助形勢賊將馬多時號善水戰率其船二百餘艘欲犯西海相遇於碧波亭下舜臣以十二船載大炮乘潮至順流攻之賊敗走軍聲大振是時舜臣已有軍八千餘人進駐古今島患乏糧作海路通行帖令曰三道沿海公私船無帖者以奸細論母得通行於是凡避亂乘船者皆來受帖舜臣以船大小差次使納米受帖大船三石中船二石小船一石避亂之人盡載財穀入海故不以納米爲難而以通行無禁爲喜旬日得軍糧萬餘石又募民輸銅鐵鑄大炮伐本造船事事皆辦遠近避兵者往依舜臣結廬造幕販賣爲生島中不能容旣而。天朝水兵都督陳璘出來南下古今島與舜臣合兵璘性暴猛與人多忤人多畏之上餞送于靑坡野余見璘軍人歐辱守令無忌以繩繫察訪李尙規頸曳之流血滿面令譯官勸解不得余謂同坐宰臣曰可惜李舜臣軍又將敗矣與璘同在軍中掣肘矛盾必侵奪將權縱暴軍士逆之則贈怒順之則無厭軍何由不敗衆曰然相與嗟歎而已舜臣聞璘將至令軍人大畋漁得鹿豕海物甚多盛備酒醪而待之璘船入海舜臣備軍儀遠迎旣到大享其軍諸將以下無不沾醉士率傳相告語曰果良將也璘亦心喜不久賊船犯近島舜臣遣兵敗之獲賊首四十級悉以與璘爲功璘益喜過望自是凡事一咨於舜臣出則與舜臣幷轎不敢先行舜臣遂約束唐軍與己軍無間有奪民一縷者皆拿致捆打無敢違令者島中肅然璘上書於。上言統制使有經天緯地之才補天浴日之功蓋心服也

統制使の李舜臣が珍島の碧波亭の下で倭の兵を破り、その将の馬多時を殺した。

舜臣が珍島に至って戦う船を収め集めると、十隻余りになった。そのころ海の辺の人で船に乗って乱離を避ける者が数えきれなかったが、舜臣が来たと聞いて喜ばない者がなかった。舜臣が路を分けて呼び集めると、遠くも近くも雲のように集まって来た。それらを軍の後ろに置いて勢いを助けさせた。

賊の将の馬多時は海の戦いが巧みだと名があったが、自分の船二百余隻を率いて西の海を侵そうとして、碧波亭の下で出会った。舜臣は十二隻に大きな砲を載せ、潮に乗って至り、水の流れに従って撃ったので、賊は敗れて走り、軍の声が大いに振るった。

このとき舜臣にはすでに軍八千余名があった。古今島へ進んで留まったが、糧が足りないことを憂えて、海の路を行き来する通行の帖を作って命じた。「三つの道の海の辺の官の船と私の船で、通行の帖のないものは間諜として扱うから、行き来できない。」そこで乱離を避けて船に乗った者たちはみな来て帖を受けた。舜臣は船の大きさで順を付けて米を納めて帖を受けさせたが、大きな船は三石、中の船は二石、小さな船は一石とした。乱離を避ける人々は財も穀もことごとく載せて海に入っていたので、米を納めることを難しとせず、かえってふさがれずに行き来できるようになったことを喜んだ。十日で軍の糧万余石を得た。また民を集めて銅と鉄を運ばせて大きな砲を鋳て作り、木を伐って船を造ったので、事ごとにみな備わった。遠くも近くも乱離を避ける者が舜臣の所へ行って寄りかかり、庵を建てて商いで暮らしたので、島の中に入れきれないほどであった。

やがて明の水軍都督の陳璘が出て来て、南へ古今島に下り、舜臣と軍を合わせた。陳璘は性が荒く粗く、人々としばしば食い違ったので、みな彼を恐れた。王が青坡の野で送り出されたが、私が見たところ、陳璘の軍は憚りなく守令を打ち罵り、察訪の李尚規の首に縄を掛けて引き、顔に血が満ちていた。訳官に止めさせたが、できなかった。私は共に座った宰臣たちに言った。「惜しいことに、李舜臣の軍もまた敗れるだろう。陳璘と一つの軍の中にいれば、することごとに互いに引っかかり食い違うだろうし、かならず将の権を奪って軍士に荒く振る舞うだろう。逆らえば怒りが増し、従えば際限がないだろうから、軍がどうして敗れずにいられようか。」多くの者は「そのとおりです」と言って、互いに嘆ずるばかりであった。

舜臣は陳璘が来ると聞いて、軍士に大きく狩りをし魚を取らせて、鹿と猪と海の物を多く得、酒を優かに備えて待った。陳璘の船が海に入って来ると、舜臣は軍の儀を整えて遠くまで出て迎え、至ってからはその軍を大いに待ったので、諸々の将から下まで酔わない者がなかった。軍卒たちは互いに伝えて言った。「まことに立派な将だ。」陳璘も心に喜んだ。

間もなく賊の船が近くの島を侵したので、舜臣は軍を遣わして破り、賊の首四十級を得て、みな陳璘に与えて功とさせた。陳璘は思いもしない事にいっそう喜んで、これからは何事であれ一様に舜臣に問い、出るときも舜臣と轎を並べて、あえて先に立たなかった。舜臣はついに明の軍と自分の軍を隔てなく約束し、民の物を糸一筋でも奪う者があればみな捕らえて杖を打ったので、あえて命に背く者がなく、島の中は厳かであった。陳璘が王に書を上げて「統制使は天と地を経と緯のように織って治める才があり、天を繕い日を洗った功があります」と言ったのは、心から服したのである。

賊兵退時賊蹂躪三道所過皆焚燒廬舍殺戮人民凡得我國人悉割其鼻以示威兵至稷山都城人皆奔散九月初九日。內殿避兵西下經理楊鎬提督麻貴在京城而平安道軍五千餘人黃海京畿軍數千徵至分守江灘警守倉庫賊從京畿界還退淸正再屯蔚山行長屯順天沈安頓吾屯泗川首尾七八百里是時都城幾不守朝臣爭獻出避之策知事申磼進言曰。車駕應幸寧邊臣曾爲兵使備諳寧邊事其最可憂者乃無醬也若不預辦何以繼用聞者傳笑曰辛不合醬一大臣言於朝堂曰此賊何足憂久當自息惟當奉。乘輿往安便處耳元帥權慄走至京。上引見問之慄曰當初。車駕不合遽還都城當留駐西方以觀賊勢如何旣而聞賊退慄又下慶尙道臺諫論慄無謀恇㥘不可爲元師。不聽

賊の兵が退いた。

そのころ賊は三つの道を踏み荒らし、通る所ごとに家を焼き民を殺し、わが国の人を捕らえればみな鼻を切って威を示した。賊の兵が稷山に至ると、都の人はみな走り散った。九月九日に内殿が乱離を避けて西へ下られた。経理の楊鎬と提督の麻貴が都にいて、平安道の軍五千余名と黄海・京畿の軍数千を呼び集め、分けて江の瀬を守らせ、倉を守らせた。賊は京畿の境から退き戻り、清正はあらためて蔚山に営を張り、行長は順天に、沈安頓吾は泗川に営を張ったので、頭と尾が七、八百里であった。

このとき都をほとんど守れないほどであったので、廷の臣たちは争って避けて出る計を申し上げた。知事の申磼が進んで言った。「王の車はまさに寧辺へ行かれるべきです。臣はかつて兵使を務めたので寧辺の事をよく知っておりますが、最も憂えるのは醬と味噌がないことです。あらかじめ備えておかなければ、何でつないで用いましょうか。」聞いた者たちは「申氏でなければ醬は漬けられないそうだ」と言って、笑い話に伝えた。

ある大臣は朝堂で言った。「この賊が何の憂えになろうか。久しくなれば自ずとやむだろう。ただ王の車を安らかな所へお移しするだけだ。」

元帥の権慄が都へ馳せて来たので、王は召し見て問われた。権慄は申し上げた。「はじめ王の車がすぐに都へ戻られたのは良くありませんでした。まさに西に留まられて、賊の勢いがどうであるかを見られるべきでした。」やがて賊が退いたと聞いて、権慄はあらためて慶尚道へ下った。台諫は、権慄は謀がなく怯えがちで元帥になれないと論じたが、王は聞かれなかった。

夾注 1

申磼の申を、味をつける辛(からし)の辛に掛けた言葉遊びである。

十二月楊經理麻提督領騎步兵數萬下慶尙道進攻蔚山賊營時賊將淸正築城於蔚山郡東海邊斗絕處經理提督乘其不意掩之以鐵騎馳擊賊披靡不能支。天兵奪賊外栅賊奔入內城。天兵貪擄獲之利不卽進攻賊閉門固守攻之不克諸營分屯城下圍守十三日賊不出二十九日余自慶州往見經理提督望見賊壘甚靜暇寂無人聲城上不設女牆環四面爲長廊守兵悉在其內外兵若至城下則統丸亂發如雨每日交鋒。天兵與我軍死城下成積賊船從西生浦來援列泊水中如鳬雁島山無水賊每夜出沒城外經理令金應瑞率勇士伏城外泉傍連夜擒百餘人皆飢羸僅屬聲氣諸將言城內糧絕久圍將自潰時天甚寒陰雨士卒手足瘒瘃已而賊又從陸路來援經理恐爲所乘遽旋師正月。天將悉回京師謀再擧

十二月に楊経理と麻提督が騎兵と歩兵数万を率いて慶尚道へ下り、蔚山の賊の営を攻めた。

そのころ賊の将の清正は蔚山郡の東の海の辺の峻しい所に城を築いていた。経理と提督は思いもしない隙に乗じて襲いかかり、鉄の騎で馳せて撃ったので、賊は倒れて支えられなかった。明の兵が賊の外の柵を奪うと、賊は内の城へ走り入った。明の兵は奪い取るほうを貪って、すぐに進んで攻めなかったので、賊は門を閉ざして堅く守り、攻めても勝てなかった。諸々の営が城の下に分かれて陣を張り、十三日囲んで守ったが、賊は出て来なかった。

二十九日に私は慶州から行って経理と提督に会った。賊の塁を望んだところ、きわめて静かで閑やかで、人の声さえなかった。城の上に女墻を置かず、四面を囲らせて長い廬をつくり、守る兵がみなその内にいて、外の兵が城の下に至ると弾を雨のようにやたらに放った。日ごとに刃を交えて、明の兵もわが軍も城の下に死んで積もった。賊の船が西生浦から救いに来て、水の上に鴨や雁のように並んでいた。

賊が拠ったその島山の城には水がなかったので、賊は夜ごとに城の外に出た。経理が金応瑞に勇士を率いて城の外の泉のそばに伏せさせたので、夜を継いで百余名を捕らえたが、みな飢え痩せて、やっと息だけがあった。諸々の将は「城の中に糧が絶えたのだから、長く囲めば自ずと崩れるだろう」と言った。そのころ天気がはなはだ寒く、冷たい雨が降って、軍卒の手も足も凍えて裂けた。やがて賊がまた陸の路から救いに来たので、経理はその隙に乗じられることを恐れて、不意に軍を回した。正月に明の将たちはみな都へ戻って、改めて事を起こすことを謀った。

戊戌七月經理楊鎬罷新經理萬世德代之時邢軍門參謀官兵部主事丁應泰劾奏楊鎬欺罔僨事二十餘罪鎬遂罷去。上以鎬於諸經理中銳意討賊卽遣左議政李元翼賫伸救奏馳赴京師八月鎬西去。上送至弘濟院東流涕而別萬世德將出未至

戊戌の年の七月に経理の楊鎬が替わり、新しい経理の万世徳が代わった。

そのころ邢軍門の参謀官である兵部主事の丁応泰が、楊鎬を、王を欺き事を誤った二十余りの罪で劾して申し上げたので、楊鎬はついに替わって行った。王は、楊鎬が諸々の経理のうちで賊を攻めることに意が鋭かったとして、すぐに左議政の李元翼に救いの書を持たせて都へ馳せさせられた。八月に楊鎬が西へ行ったので、王は弘済院の東まで送り、涙を流して別れられた。万世徳は出て来ようとしていたが、まだ至っていなかった。

九月邢玠又分調麻貴主蔚山董一元主泗川劉綎主順天陳璘主水路同時進攻皆不利董軍爲賊所敗死者尤多

九月に邢玠がまた分けて配り、麻貴は蔚山を、董一元は泗川を、劉綎は順天を、陳璘は水の路を掌って、一時に進んで攻めたが、みな勝てなかった。董一元の軍は賊に敗れて死んだ者がとりわけ多かった。

十月劉提督再攻順天賊營統制使李舜臣以舟師大敗其救兵於海中舜臣死之賊將平行長棄城而遁釜山蔚山河東沿海賊屯悉退時行長築城于順天芮橋堅守劉綎以大兵進攻不利還順天旣而復進攻之李舜臣與唐將陳璘扼海又以逼之行長求援於泗川賊沈安頓吾頓吾從水路來援舜臣進擊大破之焚賊船二百餘艘殺獲無算追至南海界舜臣親犯矢石力戰有飛丸中其胷出背後左右扶入帳中舜臣曰戰方急愼勿言我死言訖而絕舜臣兄子莞素有膽量秘其死以舜臣令督戰益急軍中不知也陳璘所乘舟爲賊所圍莞望見揮其兵敎之賊散去璘便人于舜臣謝救已始聞其死從椅上自投於地曰吾意老爺生來救我何故亡耶拊膺大慟一軍皆哭聲震海中行長乘舟師追賊過其營自後逸去先是七月倭酋平秀吉已死故沿海賊屯悉退我軍與唐軍聞舜臣死連營慟哭如哭私親柩行所至人民處處設祭挽車而哭曰公實生我今公棄我何之道路擁塞車不得進行路之人無不流涕。贈議政府右議政邢軍門謂當立祠海上以獎忠魂事竟不行於是海邊之人相率爲祠號曰愍忠以時致祭商賈漁船往來過其下者人人祭之云

十月に劉提督があらためて順天の賊の営を攻め、統制使の李舜臣が水軍で海の中でその救いの兵を大いに破った。舜臣はこの戦いで死んだ。賊の将の平行長が城を棄てて走ったので、釜山・蔚山・河東の海の辺の賊の営はみな退いた。

そのころ行長は順天の芮橋に城を築いて堅く守っていた。劉綎が大軍で進んで攻めたが勝てず、順天に戻ってから、やがて改めて進んで攻めた。李舜臣は明の将の陳璘と共に海をふさぎ、また近づいて締めた。行長が泗川の賊の沈安頓吾に救いを請うと、頓吾が水の路から救いに来た。舜臣は進んで撃って大いに破り、賊の船二百余隻を焼き、殺し捕らえたものが数えきれなかった。南海の境まで追った。

舜臣は身をもって矢と石を冒し、力を尽くして戦っていたが、飛んで来た弾が胸に当たって背の後ろへ抜けた。左右が抱えて帳の中へ入れると、舜臣は言った。「戦いがまさに急であるから、どうか私が死んだと言うな。」言い終わって息が絶えた。

舜臣の甥の莞はもとより胆力があったので、その死を隠し、舜臣の命だと言って、いっそう急ぎ戦いを催したので、軍の中では知らなかった。陳璘が乗った船が賊に囲まれると、莞は望み見て自分の軍を指揮して救ったので、賊は散って行った。陳璘が舜臣に人を遣わして自分を救ってくれたことを謝そうとして、はじめてその死を聞き、床から地へ身を投げて言った。「私は大監が生きて来て私を救ってくれたと思っていたのに、どうして亡くなられたのか。」胸を打って大いに痛み泣いたので、軍はみな泣いて、声が海を震わせた。行長は水軍が賊を追って自分の営の前を過ぎる隙に乗じて、後ろから抜け出した。

さきに七月に倭の首の平秀吉がすでに死んでいたので、海の辺の賊の営はみな退いたのである。

わが軍も明の軍も舜臣が死んだと聞いて、営ごとに続いて自分の親を哭するように痛み泣いた。喪の輿が至る所ごとに民が所々に祭りを設け、車を抱えて泣いて言った。「公はまことに我らを生かしてくださったのに、いま公は我らを棄ててどこへ行かれるのですか。」路がふさがって車が進めず、路を行く人も涙を流さない者がなかった。議政府右議政を下された。邢軍門が海の辺に祠を建てて忠の魂を称えるべきだと言ったが、事はついに成らなかった。そこで海の辺の人々が互いに率いて祠を建て、愍忠と名づけて季ごとに祭りを行い、商う者も漁の船も、その下を行き来して過ぎるたびに、人は誰も祭りを行ったという。

李舜臣字汝諧德水人其先曰邊官至判府事有直名曾祖曰琚事。成宗燕山在東宮琚爲講官以嚴見憚甞爲掌令彈劾不避百僚憚之有虎掌令之稱祖百祿以門蔭仕父貞不仕舜臣少時英爽不覊與群兒戲削木爲弓矢遊里閭中遇不如意者欲射其目長老或憚之不敢過門及長善射從武擧發身李氏世業儒至舜臣始得武科補權知訓鍊院奉事兵曹判書金貴榮有孽女欲與舜臣爲妾舜臣不肯人問之舜臣曰吾初出仕路豈敢托迹權門媒進耶兵曹正郞徐益有所親在訓鍊院欲越次薦報舜臣以院中掌務官執不可益牌招舜臣詣庭下詰之舜臣辭色不變直辨無撓益大怒盛氣臨之舜臣從容酬答終不少沮益本多氣傲人雖同僚亦憚之難與爭辨是日下吏在階下皆相顧吐舌曰此官敢與本曹抗獨不顧前路耶日暮益愧屈令去識者以此往往知舜臣焉方在獄時事不可測有獄吏密語舜臣兄子芬有賄則可免舜臣聞之怒芬曰死則死耳安可違道求生其有操執如此舜臣爲人寡言笑容貌雅飭如修謹之士而中有瞻氣忘身徇國乃其素所蓄積也兄羲臣堯臣皆先死舜臣撫其遺孤如己子凡嫁娶必先兄子而後及己子有才無命百不一施而死嗚呼惜哉

李舜臣の字は汝諧、徳水の人である。その先に辺という人があって、官は判府事に至り、直いという名があった。曾祖は琚で、成宗に仕えた。燕山が東宮にあったとき、琚が講官となったが、厳しくて憚られた。かつて掌令となって劾することを避けなかったので、すべての官人が憚って「虎の掌令」と呼んだ。祖父の百禄は祖の徳で官に就き、父の貞は官に就かなかった。

舜臣は幼いころから英しく爽やかで、縛られるところがなかった。子どもらと遊ぶとき、木を削って弓と矢を作り、村で遊んでいて意に合わない者に出会うとその目を射ようとしたので、大人たちもときには憚って、あえてその門の前を通らなかった。長じてからは弓を射ることが巧みで、武の科で身を起こした。李氏は代々儒の学を業としていたが、舜臣に至ってはじめて武の科に上がり、権知訓練院奉事に補された。

兵曹判書の金貴栄に庶の娘があって、舜臣に妾として与えようとしたが、舜臣は断った。人々がわけを問うと、舜臣は言った。「私はいま初めて官の路に出たのに、どうしてあえて権のある家に足を付けて進むことを図ろうか。」

兵曹正郎の徐益に親しい者が訓練院にいて、順を飛び越えて薦めようとしたが、舜臣が訓練院の掌務官として良くないと言い張った。益は牌を下して舜臣を呼び、庭の下に立たせて問い詰めたが、舜臣は言葉も顔の色も変えず、屈することなく直く言い争った。益は大いに怒って勢いを振るって抑えつけたが、舜臣は静かに答えて、ついに少しも折れなかった。益はもとより気が強く人に傲って、同じ官人でも憚って争いにくいとしていた人であった。この日、階の下にいた吏たちはみな互いに顧みて舌を巻いて言った。「この官人はあえて本曹と向かい合うとは、先の路を顧みないのだな。」日が暮れて、益は恥じて屈し、行かせた。識る人々はこの事でおりおり舜臣を知るようになった。

獄に囚えられたとき、事がどうなるか分からなかったが、ある獄の吏が舜臣の甥の芬にひそかに言った。「賄いを用いれば脱れられます。」舜臣は聞いて芬に怒って言った。「死ぬなら死ぬだけだ。どうして道に背いてまで生きることを求めようか。」その操を守ることはこのようであった。

舜臣は人がらが言葉も笑いも少なく、身の振りが端しくて、慎み修める士のようであったが、内には胆力と気概があって、自分の身を忘れて国のために死んだのは、平生から積んできたところであった。兄の羲臣と堯臣がどちらも先に死んだので、舜臣はその残された子どもたちを自分の子のように引き取り、嫁がせ婚らせることをかならず兄の子どもたちから先にし、自分の子を後にした。才があったが命がなく、百のうち一つも展べられずに死んだのだから、ああ、惜しいことである。

統制在軍晝夜戒嚴未甞解甲在見乃梁與賊相持諸船已下碇夜月色明甚統制帶甲枕皷而臥忽起坐呼左右取燒酒來飲一杯悉呼諸將至前語之曰今夜月甚明賊多詐謀無月時固當襲我月明亦應來襲警備不可不嚴遂吹令角令諸船皆擧碇又傳令斥堠船候卒方熟睡喚起待變久之斥堠奔告賊來時月掛西山山影倒海半邊微陰賊船無數從陰黑中來將近我船於是中軍放大炮吶喊諸船皆應之賊知有備一時放鳥銃聲震海中飛丸落於水中者如雨遂不敢犯退走諸將以爲神

統制使は軍の中にいるとき、昼も夜も警めを緩めず、甲を脱いだことがなかった。

見乃梁で賊と向き合っていたとき、諸々の船はすでに錨を下していた。夜に月の光がきわめて明るかったが、統制使は甲を着たまま鼓を枕にして臥せていたのが、不意に起きて座り、左右を呼んで焼酎を持って来させ、一杯を飲んだ。そして諸々の将をみな呼んで前に至らせて言った。「今夜は月がはなはだ明るい。賊は謀が多いから、月のない時に我らを襲うのは言うまでもなく、月が明るくてもかならず来て襲うだろう。守りを厳しくしないわけにはいかない。」

ついに喇を吹いて諸々の船にみな錨を上げさせ、また斥候の船にも命を伝えた。斥候する軍卒がちょうど深く眠っていたので、呼び起こして変を待たせた。しばらくして斥候が馳せて来て、賊が来ると知らせた。そのとき月は西の山に懸かって、山の影が海に逆さに垂れ、片方が薄暗かったが、賊の船が数知れずその暗い所から出て、わが船に近づこうとしていた。そこで中軍が大きな砲を放って喊声を挙げると、諸々の船もみな従って応じた。賊は備えがあることを知って、一時に鳥銃を放ったので、音が海を震わせ、飛んで来た弾が水に雨のように落ちたが、ついにあえて侵せずに退いた。諸々の将は神しいことだと思った。