いにしえの文 › 懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) › 巻1

巻一卷一

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 懲毖錄 · 柳成龍(リュ・ソンリョン) · 1633年刊行(壬辰倭乱の後に著す) · 段落 40 · 漢字 19,756字 · 朗読 177.5分

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 巻1 壬辰倭乱が終わった後、領議政の柳成龍が自らの目で見たものを記して残した記録。「過ぎたことを懲らして後の憂いを慎む」という意で名を付けた。戦争がどのように始まり、朝廷が何を見落としたかを言い逃れなく記した。李舜臣を推挙したこと、明の軍とのいざこざ、民が経た惨状がそのまま収められている。

萬曆丙戌間。日本國使橘康廣。以其國王平秀吉書來。始日本國王源氏。立國於洪武初。與我修隣好殆二百年。其初我國亦甞遣使修慶弔禮。申叔舟以書狀往來。卽其一也。後叔舟臨卒。成宗問所欲言。叔舟對曰。願國家。毋與日本失和。成廟感其言。命副提學李亨元。書狀官金訢修睦。到對馬島。使臣以風水驚疑得疾。上書言狀。成廟命致書幣於島主而回。自是不復遣使。每其國信使至。依禮接待而已。至是平秀吉。代源氏爲王。秀吉者。或云華人。流入倭國。負薪爲生。一日國王出遇於路中。異其爲人。招補軍伍。勇力善鬪。積功至大官因得權。竟奪源氏而代之。或曰。源氏爲他人所弑。秀吉又殺其人而奪國云。用兵平定諸島。域內六十六州。合而爲一。遂有外侵之志。乃曰。我使每往朝鮮。而朝鮮使不至。是鄙我也。遂使康廣。來求通信。書辭甚倨。有今天下歸朕一握之語。蓋源氏之亡。已十餘年。諸島倭歲往來我國。而畏其令嚴不泄。故朝廷不知也。康廣時年五十餘。容貌傀偉。鬚髮半白。所經舘驛。必舍上室。擧止倨傲。與平時倭使絕異。人頗恠之。故事。一路郡邑。凡遇倭使。發境內民夫。執槍夾道。以示軍威。康廣過仁同。睨視執槍者笑曰。汝輩槍竿太短矣。到尙州。牧使宋應泂享之。妓樂成列。康廣見應泂衰白。使譯官語之曰。老夫數年在干戈中。鬚髮盡白。使君處聲妓之間。百無所憂。而猶爲皓白何哉。蓋諷之也。及至。禮曹判書押宴。酒酣。康廣散胡椒於筵上。妓工爭取之。無復倫次。康廣回所舘歎息語譯曰。汝國亡矣。紀綱已毀。不亡何待。及還。朝廷但報其書。辭以水路迷昧。不許遣使。康廣歸報。秀吉大怒。殺康廣又滅族。蓋康廣。與其兄康年。自源氏時。來朝我國受職名。其言頗爲我國地。故爲秀吉所害云。

万暦の丙戌の年のころ、日本国の使い橘康広が、その国の王平秀吉の書を持って来た。

はじめ日本の国王源氏は洪武の初年に国を立て、わが国と隣のまじわりを修めてほぼ二百年になっていた。その初めにはわが国もかつて使いを遣わして慶びと弔いの礼を修めたので、申叔舟が書状官として行き来したのがすなわちその一つである。後に叔舟が死に臨んだとき、成宗が言いたいことを問われると、叔舟は答えた。

「願わしくは国が日本との和を失わぬようにしてください。」

成宗はその言葉に心を動かされ、副提学の李亨元と書状官の金訢に命じて睦みを修めさせた。対馬島に着いたところで使いが風と波に驚き疑ってついに病を得たので、書を上げて事情を申し上げると、成宗は島主に書と幣とを届けて帰るように命じられた。これから後は再び使いを遣わさず、その国の使いが来るたびに礼に従って接待するだけであった。

このときに至って平秀吉が源氏に代わって王となった。秀吉は、中国の人で倭の国に流れ入り、薪を売って暮らしていたともいう。ある日、国王が出て路の中で出会い、その人がらを変わっていると見て、呼んで軍の隊に入れたところ、勇ましく力が強くてよく戦った。功を積んで大きな官に至り、それによって権を得て、ついに源氏から奪って代わったのである。あるいは、源氏が他人に殺され、秀吉がまたその人を殺して国を奪ったのだともいう。兵を用いて諸島を平定し、国内の六十六州を合わせて一つとし、ついに外を侵す志を抱いた。そこで言った。

「わが使いはいつも朝鮮へ行くのに、朝鮮の使いは来ない。これはわれらを軽んじているのだ。」

そこで康広を遣わして通信を求めさせたが、書の言葉がはなはだ驕っていて、「いま天下は朕の一握りに帰する」という言葉まであった。おおよそ源氏が滅びてすでに十余年であり、諸島の倭人は年ごとにわが国へ行き来していたが、その令の厳しいのを畏れて漏らさなかったので、朝廷は知らなかったのである。

康広はそのとき年が五十余で、顔かたちが大きく立派で、鬚と髪が半ば白かった。通る館や駅ではかならず上の部屋に入り、身の振りが驕り高ぶって、平時の倭の使いとはまるで違っていたので、人々はひどく怪しんだ。古い例では、道筋の郡や邑では倭の使いに出会うと、境内の民夫を出して槍を持たせて道の両側に並べ、軍の威を示した。康広は仁同を通るとき、槍を持つ者たちを横目に見て笑って言った。

「お前たちの槍の柄はひどく短いな。」

尚州に着くと、牧使の宋応泂が宴を設けて、妓と楽が列をなした。康広は応泂の髪が白く衰えているのを見て、訳官に言わせた。

「この老人は幾年も戈の中にいて鬚と髪がことごとく白くなった。使君は歌と妓とのあいだにいて何一つ憂いがないのに、それでもこのように白いのはどうしたことか。」

おおよそそれとなくあてこすったのである。都に着くと礼曹判書が宴を主どった。酒が進むと、康広は胡椒を座の上に撒き散らした。妓や楽人が争って拾い、もはや順序もなかった。康広は泊まっている館に帰って嘆きながら訳官に言った。

「お前の国は滅びるだろう。紀綱がすでに崩れたのだから、滅びないで何を待とうか。」

帰るときに朝廷はただその書に答えるだけで、水路が遠くはっきりしないことを口実に断り、使いを遣わすことを許さなかった。康広は帰って申し上げたが、秀吉は大いに怒って康広を殺し、またその一族を滅ぼした。おおよそ康広はその兄の康年とともに源氏の時からわが国へ来て官の名を受けており、その言葉がかなりわが国のためのものであったので、秀吉に害されたのだという。

日本國使平義智來。秀吉旣殺橘康廣。令義智來求信使。義智者。其國主兵大將平行長女婿也。爲秀吉腹心。對馬島太守宗盛長。世守馬島。服事我國。時秀吉去宗氏。使義智代主島務。以我國不諳海道爲辭。拒通信。詐言義智。乃島主子。熟海路。與之偕行。便欲使我。無辭以拒。因又窺覘我虛實。平調信僧玄蘇等同至。義智年少精悍。他倭皆畏之。俯伏膝行。不敢仰視。久留東平舘。必邀我使與俱。朝議依違而已。數年前。倭寇全羅道損竹島。殺邊將李太源。捕得生口。言我國邊氓沙乙背同者。叛入倭中。導倭爲冦。朝廷憤之。至是人或言。宜令日本。刷還叛民。然後議通信。以觀誠否。使舘客諷之。義智曰。此不難。卽遣平調信歸報其國。不數月。悉捕我民之在其國者十餘人來獻。上御仁政殿。大陳兵威。鎖沙乙背同等。入庭詰問。斬於城外。賞義智內廐馬一匹。後引見倭使一行賜宴。義智玄蘇等。皆入殿內。以次進爵。時余判禮曹。亦宴倭使於曹中。然通信之議久未決。余爲大提學。將撰國書。啓請速定議。勿致生釁。明日朝講。知事邊協等亦啓宜遣使報答。且見彼中動靜而來。非失計也。於是朝議始定。命擇可使者。大臣以僉知黃允吉。司成金誠一。爲上副使。典籍許筬。爲書狀官。庚寅三月。遂與義智等同發。時義智獻二孔雀及鳥銃槍刀等物。命放孔雀於南陽海島。下鳥銃於軍器寺。我國之有鳥銃始此。

日本国の使い平義智が来た。秀吉はすでに橘康広を殺し、義智に来させて通信使を求めさせたのである。義智はその国の兵を掌る大将平行長の娘婿で、秀吉の腹心であった。対馬島の太守宗盛長は代々対馬島を守ってわが国に仕えてきたが、このとき秀吉は宗氏を退け、義智に代わって島の務めを掌らせた。わが国が海の道に不案内であることを口実に通信を断ると、義智こそ島主の子で海路に慣れているから、それと共に行けと偽って言い、わが方に断る言葉がないようにし、あわせてわが方の虚実をうかがおうとしたのである。平調信と僧の玄蘇らが一緒に来た。

義智は年が若く荒く強かったので、他の倭人はみな彼を畏れ、俯し伏して膝で歩き、あえて見上げもしなかった。東平館に長く留まって、かならずわが使いを迎えて共に行こうとしたが、朝廷の議はああこうと言うばかりであった。

数年前に倭寇が全羅道の損竹島を侵して辺将の李太源を殺したが、捕らえた者が、わが国の辺りの民で沙乙背同という者が倭に入って背き、倭を導いて盗みをしたと言ったので、朝廷はこれを憤った。このときに至って、ある者が、日本に背いた民を探して返させたうえで通信を議り、その誠があるかないかを見るべきだと言った。客館にいる客にそれとなく言わせると、義智は言った。

「これは難しくない。」

すぐに平調信を遣わして自分の国に知らせたところ、数か月もたたぬうちに、その国にいたわが民十余人をことごとく捕らえて来て献じた。王は仁政殿に出て軍の威を大きく列ね、沙乙背同らを縛って庭に入れ、咎めて問い、城の外で首を斬った。義智には内廐の馬一匹を賞として与えた。後に倭の使いの一行を召し見て宴を賜ったので、義智と玄蘇らはみな殿の内に入り、順に杯を進めた。そのとき私は礼曹を掌っていたので、礼曹でも倭の使いに宴を設けた。

しかし通信の議は長いあいだ決まらなかった。私は大提学として国書を作らなければならないので、早く議を定めて隙が生じないようにすることを申し上げて請うた。翌日の朝の講で、知事の辺協らも、使いを遣わして答え、また彼らの動きを見て来るのは誤った計ではないと申し上げた。そこで朝廷の議がはじめて定まり、使いになれる者を選ばせたところ、大臣は僉知の黄允吉と司成の金誠一を上使と副使に、典籍の許筬を書状官とした。庚寅の年の三月に、ついに義智らと共に出発した。

そのとき義智は孔雀二羽と鳥銃・槍・刀などの物を献じた。孔雀は南陽の海の島に放たせ、鳥銃は軍器寺に下された。わが国に鳥銃があるのはこのときからである。

辛卯春。通信使黃允吉金誠一等。回自日本。倭人平調信玄蘇偕來。初允吉等。上年四月二十九日。自釜山浦乘船抵對馬島。留一月。又自馬島。水行四十餘里。到一岐島。歷博多州長門州浪古耶。至七月二十二日。始至國都。蓋倭人故迂廻其路。且處處留滯。故累月乃至。其在對馬島。平義智請使臣宴山寺中。使臣已在座。義智乘轎入門。至階方下。金誠一怒曰。對馬島。乃我國藩臣。使臣奉命至。豈敢慢侮如此。吾不可受此宴。卽起出。許筬等繼出。義智歸咎於擔轎者殺之。奉其首來謝。自是倭人。敬憚誠一。待之加禮。望見下馬。到其國。館於大刹。適平秀吉往擊東山道。留數月。秀吉回。又託以修治宮室。不卽受國書。前後留舘五月。始傳命。其國尊其天皇。自秀吉以下。皆以臣禮處之。秀吉在國中不稱王。但稱關白。或稱博陸侯。所謂關白者。取霍光凡事皆先關白之語。而稱之也。其接我使也。許乘轎入其宮。以笳角前導。陞堂行禮。秀吉容貌矮陋面色黧黑無異表。但微覺目光閃閃射人云。設三重席。南向地坐。戴紗帽穿黑袍。諸臣數人列坐。引我使就席。不設宴具。前置一卓。中有熟餅一器。以瓦甌行酒。酒亦濁。其禮極簡。數巡而罷。無拜揖酬酢之節。有頃。秀吉忽起入內。在席者皆不動。俄而。有人便服。抱小兒從內出。徘徊堂中。視之乃秀吉也。坐中俯伏而已。已而出臨楹外。招我國樂工。盛奏衆樂而聽之。小兒遺溺衣上。秀吉笑呼侍者。一女倭應聲走出。授其兒更他衣。皆肆意自得。傍若無人。使臣辭出。其後不得再見。與上副使銀四百兩。書狀通事以下有差。我使將回。不時裁答書令先行。誠一曰。吾爲使臣。奉國書來。若無報書。與委命於草莽同。允吉懼見留。遽發至界濱待之。答書始來。而辭意悖慢。非我所望也。誠一不受。改定數次然後行。凡所經由。諸倭贈遺。誠一皆郤之。允吉還泊釜山。馳啓情形。以爲必有兵禍。旣復命。上引見而問之。允吉對如前。誠一曰。臣不見其有是。因言允吉搖動人心非宜。於是議者。或主允吉。或主誠一。余問誠一曰。君言與黃使不同。萬一有兵。將奈何。曰吾亦豈能必倭終不動。但黃言太重。中外驚惑。故解之耳。

辛卯の年の春、通信使の黄允吉・金誠一らが日本から帰った。倭人の平調信と玄蘇が一緒に来た。

はじめ允吉らは前年の四月二十九日に釜山浦から船に乗って対馬島に至り、一月留まった。また対馬島から水路を四十余里行って壱岐島に至り、博多州・長門州・浪古耶を経て、七月二十二日になってはじめてその国の都に着いた。おおよそ倭人がわざとその路を遠回りさせ、またところどころで留めたので、幾月もかかって着いたのである。

対馬島にいたとき、平義智が使いを山の寺の宴に招いた。使いがすでに座に着いていたのに、義智は轎に乗って門に入り、階のところまで来てはじめて降りた。金誠一は怒って言った。

「対馬島はわが国の垣の臣である。使いが命を奉じて来ているのに、どうしてこれほど侮ることができようか。私はこの宴を受けられない。」

そのまま立って出たので、許筬らも後について出た。義智は咎を轎を担いだ者に帰して殺し、その首を奉じて来て謝った。これから後は倭人は誠一を敬い憚って礼を加えて接待し、遠くから見かけても馬を降りた。

その国に着いて大きな寺に泊まった。ちょうど平秀吉が東山道を撃ちに行っていて数か月留まり、秀吉が帰ってからも、また宮室を修め造るという口実で、すぐには国書を受け取らず、前後五か月も客館に留まった後、ようやく命を伝えた。その国は天皇を尊び、秀吉以下がみな臣の礼で処していた。秀吉は国の中では王と称さず、ただ関白と言い、あるいは博陸侯と言った。いわゆる関白とは、霍光の「すべての事はみなまず関白する」という言葉を取って称したのである。

わが使いを接するときには、轎に乗ってその宮に入ることを許し、葦笛と角笛で前を導かせ、堂に上がって礼を行わせた。秀吉は顔かたちが小さく醜く、顔の色が黒ずんで人と異なる見かけはなく、ただ目の光がきらきらとして人を射るように少し覚えたという。三重の席を敷いて南に向かって地に座り、紗帽をかぶり黒い袍を着て、諸臣数人が列ねて座っていた。わが使いを引いて席に就かせたが、宴の道具は設けず、前に卓を一つ置いただけで、その中に煮た餅が一器あり、瓦の甌で酒を回したが酒もまた濁っていた。その礼はきわめて簡素で数巡で終わり、拝み揖し、互いに杯を勧める節もなかった。

しばらくして秀吉は不意に立って内に入ったが、席にいた者はみな動かなかった。やがてある者が平服で小さな子を抱いて内から出て、堂の中を行き来した。見ればすなわち秀吉であった。座にいる者は俯し伏すばかりであった。やがて出て柱の外に臨み、わが国の楽人を呼んで、さまざまの楽を盛んに奏させて聴いた。小さな子が衣の上に尿を漏らすと、秀吉は笑って侍る者を呼んだ。一人の倭の女が声に応えて走り出て、その子を受け取り別の衣に着替えさせた。みな思いのままに振る舞い、傍らに人がないかのようであった。使いが辞して出た後は再び会うことができなかった。上使と副使に銀四百両を与え、書状官と通事以下にも差があった。

わが使いが帰ろうとするとき、時を移さず答えの書を作ってやらず、先に行けと言った。誠一は言った。

「私は使いとなって国書を奉じて来た。もし答えの書がなければ、これは命を草むらに捨てるのと同じである。」

允吉は留め置かれることを畏れて、急いで出て界浜まで行って待った。答えの書がようやく来たが、言葉の意が背き驕っていて、わが方が望んだところではなかった。誠一は受けず、幾度か改めさせたうえで出発した。およそ通る所ごとに諸々の倭人が贈った物を、誠一はみな退けた。

允吉は帰って釜山に船を着け、事の様を急ぎ申し上げて、かならず兵の禍があろうと言った。復命した後、王が召し見て問われると、允吉は前のように答えた。金誠一は言った。

「臣はそのような徴しを見ませんでした。」

そして允吉が人の心を揺り動かすのは当たらないと言った。そこで議する者は、ある者は允吉を主とし、ある者は誠一を主とした。私は誠一に問うた。

「君の言葉は黄の使いと違うが、万一兵の事があったら、どうするつもりか。」

言った。

「私もどうして倭がついに動かないと言い切れようか。ただ黄の言葉がひどく重く、内外が驚き惑うので、それを解こうとしただけである。」

時倭書。有率兵超入大明之語。余謂當卽具由奏聞天朝。首相以爲。恐皇朝罪我私通倭國。不如諱之。余曰。因事往來隣邦。有國之所不免。成化間。日本亦甞因我。求貢中國。卽據實奏聞天朝。降勅回諭。前事已然。非獨今日。今諱不聞奏。於大義不可。况賊若實有犯順之謀。從他處奏聞。而天朝反疑我國。同心隱諱。則其罪不止於通信而已也。朝廷多是余議者。遂遣金應南等馳奏。時福建人許儀後陳申等。被擄在倭中。已密報倭情。及琉球國世子尙寧。連遣使報聲息。獨我使未至。天朝疑我貳於倭。論議藉藉閣老許國曾使我國獨言朝鮮至誠事大。必不與倭叛。姑待之未久。應南等賫奏至。許公大喜而朝議始釋然云。

そのとき倭の書に、兵を率いて明に踏み入るという言葉があった。私は、まさに事の由を具えて天朝に申し上げるべきだと言った。首相は、皇朝がわが方を私に倭国と通じたと咎めるのが畏ろしいから、隠すに越したことはないと言った。私は言った。

「事によって隣の国と行き来するのは、国を持つ者の免れぬところである。成化の年のあいだに、日本もまたかつてわが方を通して中国に貢ぐことを求めたので、すぐに事実のまま天朝に申し上げたところ、勅を下して諭された。前の事がすでにそうであったのだから、今日ばかりのことではない。いま隠して申し上げないのは、大義において良くない。まして賊が実に上の国を犯す謀を持っているのに、他の所から申し上げられて、天朝がかえってわが国が心を同じくして隠したと疑うならば、その罪は通信したことにとどまらないだろう。」

朝廷には私の議を正しいとする者が多かったので、ついに金応南らを遣わして馳せて申し上げさせた。そのとき福建の人許儀後・陳申らが捕らえられて倭にいて、すでに倭の実情をひそかに知らせており、琉球国の世子尚寧も続けて使いを遣わして消息を知らせていたのに、ひとりわが使いだけが着かなかったので、天朝はわが方が倭に二心を抱いていると疑って議論が騒がしかった。閣老の許国はかつてわが国に使いとして来たことがあり、ひとり「朝鮮は至誠をもって大国に仕えるから、かならず倭と共に背くことはない。しばらく待とう」と言った。久しからずして応南らが奏を持って着いたので、許公は大いに喜び、朝廷の議がはじめて解けたのだという。

朝廷憂倭。擇知邊事宰臣。巡察下三道以備之。金晬爲慶尙監司。李洸爲全羅監司。尹先覺爲忠淸監司。令備器械修城池。慶尙道築城尤多。如永川淸道三嘉大邱星州釜山東萊晋州安東尙州左右兵營。或新築或增修。時昇平旣久。中外狃安民以勞役爲憚。怨聲載路。余同年前典籍李魯。陜川人。貽書余言。築城非計。且曰。三嘉前阻鼎津。倭能飛渡乎。何爲浪築勞民。夫以萬里滄溟。猶不能禦倭。而欲限一衣帶水。必倭之不能渡。其亦踈矣。而一時人議如此。弘文館亦上箚論之。然兩南所築。皆不得形勢。且以濶大容衆爲務。如晋州城。本據險可守。至是以爲小。移東面下就平地。其後賊由此入城。城遂不保。大抵城以堅小爲貴。而猶恐其不廣。亦時論然也。至於軍政之本擇將之要組練之方。百不一擧。以至於敗。

朝廷は倭を憂えて、辺りの事を知る宰臣を選び、下の三道を巡り見て備えさせた。金睟を慶尚監司、李洸を全羅監司、尹先覚を忠清監司として、器械を備え城と堀を修めさせた。慶尚道に築いた城がとりわけ多く、永川・清道・三嘉・大丘・星州・釜山・東莱・晋州・安東・尚州と左右の兵営を、あるいは新しく築き、あるいは増し修めた。

そのころ太平がすでに久しく、内外は安らかさに慣れて、民は労役を厭い、怨む声が路に満ちていた。私と同じ年に科挙に上がった前の典籍李魯は陜川の人であるが、私に書を寄せて、城を築くのは計ではないと言い、また言った。

「三嘉は前を鼎津にふさがれている。倭が飛んで渡れようか。どうして無駄に築いて民を労するのか。」

そもそも万里の青い海でもなお倭を防げないのに、ひとすじの衣の帯ほどの水で、かならず倭が渡れまいと思ったのは、それもまた粗いことである。それでも一時の人の議はこのようであり、弘文館もまた箚を上げてこれを論じた。

しかし二つの南の道に築いたものはみな地の勢いを得ておらず、また広く大きくして多くの人を容れることばかりを務めた。晋州城のようなものは、もともと険しい所に拠って守るに足りたのに、このときに至って小さいとして東の面を移して平地に下した。その後、賊はここから城に入り、城はついに保たれなかった。おおよそ城は堅くて小さいのを貴いとするのに、それでも広くないことを恐れたのであって、これもまたそのときの議がそうであったのである。軍政の本、将を選ぶ要、兵を組んで練る方に至っては、百に一つも行わないまま、ついに敗れるに至った。

擢井邑縣監李舜臣。爲全羅左道水軍節度使。舜臣有膽略善騎射。甞爲造山萬戶。時北邊多事。舜臣以計誘致叛胡于乙其乃。縛送兵營斬之。虜患遂息。巡察使鄭彥信。令舜臣護鹿屯島屯田。一日大霧。軍人盡出收禾。栅中但有十餘人。俄而。虜騎四集。舜臣閉栅門。自以柳葉箭。從栅內連射賊數十墮馬。虜驚駭退走。舜臣開門。單騎大呼逐之。虜衆大奔。盡奪所掠而還。然朝無推挽者。登第十餘年不調。始爲井邑縣監。是時倭聲日急。上命備邊司。各薦才堪將帥者。余擧舜臣。遂自井邑。超拜水使。人或疑其驟。時在朝武將中。唯申砬李鎰。最有名。慶尙右兵使曹大坤。年老無勇。衆憂不堪閫寄。余於經席。啓請以鎰代大坤。兵曹判書洪汝諄曰。名將當在京都。鎰不可遣。余再啓曰。凡事貴預。况治兵禦賊。尤不可猝辦。一朝有變。鎰終不得不遣。等遣之。寧早往一日。使預備待變。庶或有益。不然倉卒之際。以客將馳下。旣不諳本道形勢。又不識軍士勇㤼。此兵家所忌。必有後悔。不答。余又出備邊司。與諸人議啓。請修祖宗鎭管之法。大略以爲。國初各道軍兵。皆分屬鎭管。有事則鎭管統率屬邑。鱗次整頓。以待主將號令。以慶尙道言之。則金海大丘尙州慶州安東晉州是爲六鎭管。脫有敵兵。一鎭之軍。雖或失利。他鎭次第嚴兵堅守。不至於靡然奔潰。往在乙卯變後。金秀文在全羅道。始改分軍法。割道內諸邑。散屬於巡邊使防禦使助防將都元帥及本道兵水使。名曰制勝方略。諸道皆效之。於是鎭管之名雖存。而其實不相維繫。一有警急。則必將遠近俱動。使無將之軍。先聚於原野之中。以待將帥於千里之外。將不時至。而賊鋒已逼。則軍心驚懼。此必潰之道也。大衆一潰。難可復合。此時將帥雖至。誰與爲戰。不如更修祖宗鎭管之制。平時易於訓鍊。有事得以調集。且使前後相應。內外相倚。不至於土崩瓦解。於事爲便。事下本道。慶尙監司金睟以爲。制勝方略。行用已久。不可猝變。議遂寢。

井邑県監の李舜臣を抜いて全羅左道水軍節度使とした。

舜臣は胆力と知略があり、馬に乗ることと弓を射ることが巧みであった。かつて造山万戸となったが、そのころ北の辺りに事が多かった。舜臣は計をもって背いた胡の于乙其乃を誘い入れ、縛って兵営に送って首を斬らせたので、胡の患いはついに収まった。巡察使の鄭彦信は舜臣に鹿屯島の屯田を守らせた。ある日、霧が大きく立ちこめて軍人はみな出て稲を取り入れ、柵の中にはただ十余人がいるだけであった。やがて胡の騎兵が四方から集まって来ると、舜臣は柵の門を閉ざし、自ら柳葉箭をもって柵の内から続けて射て、賊の数十を馬から落とした。胡が驚き騒いで退き走ると、舜臣は門を開け、ただ一騎で大きく叫びながら追ったので、胡の群れは大いに逃げ、奪われた物をすべて取り返して帰った。しかし朝廷に押し立ててくれる者がなく、科挙に上がって十余年も位を得られず、はじめて井邑県監となったのである。

このころ倭の知らせが日ごとに急であったので、王は備辺司に命じて、それぞれ将帥になれる才のある者を薦めさせた。私が舜臣を挙げたので、ついに井邑から飛び越えて水使に任じられた。人々はあるいはその速さを疑った。

そのころ朝廷にいる武将のうちでは、ただ申砬と李鎰が最も名があった。慶尚右兵使の曹大坤は年が老いて勇がなく、多くの者が彼が辺りの任に堪えないことを憂えた。私は経筵の席で、李鎰を大坤に代えることを申し上げて請うたところ、兵曹判書の洪汝諄が言った。

「名のある将はまさに都にいるべきですから、李鎰を遣わすことはできません。」

私は再び申し上げた。

「およそ事はあらかじめするのを貴びますのに、まして兵を治めて賊を防ぐ事は、なおさら急には備えられません。ひとたび変があれば李鎰をついに遣わさざるを得ませんから、同じく遣わすのであれば、むしろ一日でも早く行かせ、あらかじめ備えて変を待たせるのが、あるいは益があるでしょう。そうでなく、にわかの際に客のような将が馳せ下れば、すでにその道の地の勢いも知らず、また軍士の勇と怯も知らないのですから、これは兵家の忌むところで、かならず後の悔いがあるでしょう。」

答えはなかった。

私はまた備辺司に出て、諸人と議して申し上げ、祖宗の鎮管の法を修め直すことを請うた。おおよそこうである。

「国の初めには各道の軍兵がみな鎮管に分かれて属し、事があれば鎮管が属する邑を率い、鱗のように順に整えて主将の号令を待ちました。慶尚道で言えば、金海・大丘・尚州・慶州・安東・晋州がすなわち六つの鎮管です。もし敵兵があって一つの鎮の軍が利を失うことがあっても、他の鎮が順に兵を厳しくして堅く守りますから、一度に崩れて逃げ散るには至りません。さきの乙卯の変の後、金秀文が全羅道にいて、はじめて軍を分ける法を改め、道内の諸邑を割いて巡辺使・防禦使・助防将・都元帥および本道の兵使・水使に散らし属させ、名づけて制勝方略としましたので、諸道がみなこれに倣いました。そこで鎮管の名は残っていても、実は互いにつながらず、ひとたび急なことがあれば、かならず遠近が共に動き、将のない軍をまず野の中に集めておいて、千里の外の将を待つことになります。将が時に着かないうちに賊の刃先がすでに迫れば、軍の心は驚き恐れますから、これはかならず崩れる道です。大きな群れがひとたび崩れれば再び合わせがたいので、このとき将帥が着いたとしても、誰と共に戦うのでしょうか。祖宗の鎮管の制を修め直し、平時には訓練しやすく、事があれば呼び集められるようにし、また前と後が互いに応じ、内と外が互いに寄りかかって、土が崩れ瓦が砕けるようにならないようにするのに及びませんので、事に便です。」

事をその道に下したところ、慶尚監司の金睟が、制勝方略は用いてすでに久しいので急には変えられないと言ったので、議はついに止んだ。

壬辰春。分遣申砬李鎰。巡視邊備。鎰往忠淸全羅道。砬往京畿黃海道。皆閱月而還。所點者弓矢槍刀而已。郡邑率以文具避法。無他備禦長策。砬素有殘暴之名。所至殺人立威。守令畏之。發民治道。供帳極侈。雖大臣之行不如也。旣復命。四月一日。砬來見余于私第。余問早晩有變。公當任之。公料今日賊勢難易如何。砬甚輕之。以爲不足憂。余曰不然。往者倭但恃短兵。今則兼有鳥銃長技。不可輕視。砬遽曰。雖有鳥銃。豈能盡中。余曰。國家昇平久。士卒怯弱。果然有急。極難支吾。意數年後。人頗習兵。或還收拾未可知。其初則吾甚憂之。砬都不省悟而去。蓋砬於癸未。爲穩城府使。叛胡圍鍾城。砬馳往救之。以十餘騎突擊。虜解去。朝廷以砬才堪大將。陞爲北兵使平安兵使。未久。階資憲。至欲以爲兵曹判書。意氣方銳。正如趙括輕秦。略無臨事以懼之意。識者憂焉。

壬辰の年の春、申砬と李鎰を分けて遣わし、辺りの備えを巡り見させた。李鎰は忠清道と全羅道へ行き、申砬は京畿道と黄海道へ行って、どちらも一月ほどで帰った。点検したものは弓と矢と槍と刀だけで、郡や邑はおおむね書きつけだけを備えて法を逃れ、ほかに防ぎ守る良い計はなかった。申砬はもとより残く暴いという名があり、至る所で人を殺して威を立てたので、守令は彼を畏れて民を出して路を直し、幕を張って奉ることがきわめて奢り、大臣の行列でもこれには及ばなかった。

復命した後、四月一日に申砬が私の家へ私を訪ねて来た。私は問うた。

「程なく変があれば公がまさにその任に当たるだろうが、公は今日の賊の勢いの難きやすきをどう量っているか。」

申砬はひどく軽んじて、憂えるに足らないとした。私は言った。

「そうではない。過ぎた日の倭はただ短い兵器だけを頼みにしたが、いまは鳥銃という長い技を兼ねているから、軽く見ることはできない。」

申砬はすぐに言った。

「鳥銃があったとしても、どうしてことごとく当てられましょうか。」

私は言った。

「国が太平であること久しく、軍士は怯え弱いから、まことに急なことがあれば支えるのはきわめて難しいだろう。数年の後であれば人々もかなり兵に慣れて、あるいは取り直せるかどうかは分からないが、その初めは私がひどく憂えるところだ。」

申砬はまったく悟らずに去った。

おおよそ申砬は癸未の年に穏城府使となったが、背いた胡が鍾城を囲むと、申砬は馳せ行って救い、十余騎で突き撃ったので胡は囲みを解いて去った。朝廷は申砬を大将の才に堪えるとして北兵使・平安兵使に陞せ、久しからずして資憲大夫に上げ、兵曹判書にしようとまでした。意気はまさに鋭く、ちょうど趙括が秦を軽んじたのと同じで、事に臨んで懼れる意が少しもなかったので、識る者は憂えた。

遞慶尙右兵使曹大坤。特旨以承旨金誠一代之。備邊司啓誠一儒臣也。不合此時邊帥之任。不允。誠一遂拜辭而行。四月十三日。倭兵犯境。陷釜山浦。僉使鄭撥死。先是倭平調信玄蘇等。與通信使偕來。舘於東平舘。備邊司請令黃允吉金誠一等。私以酒饌往慰。因從容問其國事。鉤察情形。以備策應。許之。誠一至舘。玄蘇果密語曰。中國久絕日本。不通朝貢。平秀吉以此心懷憤恥。欲起兵端。朝鮮先爲奏聞。使貢路得達。則必無事。而日本六十六州之民。亦免兵革之勞矣。誠一等因以大義責諭之。玄蘇又曰。昔高魔導元兵擊日本。日本以此報怨於朝鮮。勢所宜然。其言漸悖。自是再不復問。而調信玄蘇自回。辛卯夏。平義智又到釜山浦。爲邊將言。日本欲通大明。若朝鮮爲之奏聞。則幸甚。不然。兩國將失和氣。此乃大事。故來告。邊將以聞。時朝議方咎通信。且怒其悖慢不報。義智泊船十餘日。怏怏而去。是後倭人不復至。釜山浦留舘倭。常有數十餘人。稍稍入歸。一舘幾空。人怪之。是日倭船自對馬島。蔽海而來。望之不見其際。釜山僉使鄭撥。出獵絕影島。狼狽入城。倭兵隨至登陸。四面雲集。不移時城陷。左水使朴泓。見賊勢大。不敢出兵棄城逃。倭分兵陷西平浦多大浦。多大僉使尹興信。力戰被殺。左兵使李珏。聞聲息。自兵營入東萊。及釜山陷。珏恇撓失措。託言欲在外掎角。出城退陣于蘇山驛。府使宋象賢。留與同守。珏不從。十五日。倭進迫東萊。象賢登城南門。督戰半日而城陷。象賢。堅坐受刃而死。倭人嘉其死守。棺歛之埋於城外。立標以識之。於是郡縣望風奔潰。密陽府使朴晋。自東萊奔還。欲阻鵲院隘路以禦之。賊陷梁山至鵲院。見其守兵。從山後乘高。蟻附散漫而至。守隘者望之皆散。晉馳還密陽。縱火焚軍器倉庫。棄城入山。李珏奔還兵營。先出其妾。城中洶洶。軍一夜四五驚。珏乘曉亦脫身遁去。衆軍大潰。賊分道長驅。連陷諸邑。無一人敢拒者。金海府使徐禮元。閉門城守。賊刈城外麥禾塡壕。頃刻與城齊。因踰城。草溪郡守李某先遁。禮元繼出。城遂陷。巡察使金晬。初在晋州聞變。馳向東萊。至中路。聞賊兵已近。不能前還走右道。不知所爲。但檄列邑。諭民避賊。由是道內皆空。愈不可爲矣。龍宮縣監禹伏龍。領邑軍赴兵營。食永川路邊。有河陽軍數百。屬防禦使向上道。過其前。伏龍怒軍士不下馬。拘之責以欲叛。河陽軍。出兵使公文示之。方自辨。伏龍目其軍圍而殺之皆盡。積尸滿野。巡察使以功聞。伏龍爲通政。代鄭熙績爲安東府使。後河陽人孤兒寡妻。每逢使臣之來。遮馬首號寃。伏龍有時名。故無伸理者云。

慶尚右兵使の曹大坤を替え、特別の旨をもって承旨の金誠一を代わりとした。備辺司が「誠一は儒の臣ですから、この時の辺りの帥の任には合いません」と申し上げたが許されなかったので、誠一はついに辞を告げて赴いた。

四月十三日、倭の兵が境を犯して釜山浦を陥れ、僉使の鄭撥が死んだ。

これより先、倭の平調信と玄蘇らが通信使と共に来て東平館に泊まっていた。備辺司が、黄允吉と金誠一らに私に酒と肴を持って行って慰め、その折にゆるやかにその国の事を問い、実情を探って対策に備えることを請うたので、許された。誠一が館に至ると、玄蘇は果たしてひそかに言った。

「中国が日本を絶って久しく、朝貢が通じませんので、平秀吉はこれゆえ心に憤りと恥を抱いて兵の端を起こそうとしています。朝鮮がまず申し上げて貢ぎの路が通じるようにすれば、かならず事はないでしょうし、日本の六十六州の民もまた戦いの労を免れるでしょう。」

誠一らが大義をもって咎め諭すと、玄蘇はまた言った。

「昔、高麗が元の兵を導いて日本を撃ちましたから、日本がこれゆえ朝鮮に怨みを報いようとするのは、勢いとして当然のことです。」

その言葉がしだいに道に背いていったので、これより後は再び問わず、調信と玄蘇も自ら帰った。

辛卯の年の夏、平義智がまた釜山浦に至って辺りの将に言った。

「日本が明と通じようとしているので、朝鮮がこれを申し上げてくれればたいへん幸いである。そうでなければ二つの国は和の気を失うであろう。これはすなわち大事であるから、来て告げるのだ。」

辺りの将がこれを申し上げたが、そのとき朝廷の議はまさに通信した事を咎めており、またその驕りに怒って答えなかった。義智は船を泊めたまま十余日いて、心残りのまま去った。この後、倭人は再び来なかった。釜山浦の館に留まる倭人は常に数十余人であったのに、少しずつ自分の国へ入って帰り、館はほとんど空になったので、人々は怪しんだ。

この日、倭の船が対馬島から海を覆って来たので、望んでもその端が見えなかった。釜山僉使の鄭撥は絶影島へ狩りに出ていて、うろたえて城に入った。倭の兵が後から着いて陸に上がり、四面から雲のように集まったので、時を移さず城は陥れられた。左水使の朴泓は賊の勢いが大きいのを見て、あえて兵を出さず、城を棄てて逃げた。倭は兵を分けて西平浦と多大浦を陥れ、多大僉使の尹興信は力を尽くして戦って殺された。左兵使の李珏は知らせを聞いて兵営から東莱に入ったが、釜山が陥れられると、おびえ乱れて措くところを失い、外にいて前後から挟み撃つのだと口実を言って城を出、蘇山駅に退いて陣を張った。府使の宋象賢は留まって共に守ることを求めたが、李珏は従わなかった。

十五日、倭が進んで東莱に迫ったので、象賢は城の南門に上がって半日戦いを督したが、城は陥れられた。象賢は堅く座ったまま刃を受けて死んだ。倭人はその死をもって守ったことを嘉して、棺に納めて城の外に埋め、標を立ててそれと分かるようにした。

そこで郡や県は賊の勢いを望み見ただけで崩れて逃げた。密陽府使の朴晋は東莱から逃げ帰り、鵲院の狭い路をふさいで賊を防ごうとした。賊は梁山を陥れて鵲院に至り、守る兵を見ると、山の後ろから高い所に乗って、蟻が付くように散り広がって来たので、狭い路を守る者は望み見てみな散った。朴晋は密陽へ馳せ帰り、火を放って武器と倉庫を焼き、城を棄てて山に入った。

李珏は兵営へ逃げ帰り、まず自分の妾を出したので、城の中は騒がしく、軍は一夜に四、五度も驚いた。李珏が暁に乗じてまた身を脱して逃げ去ると、多くの軍は大いに崩れた。賊は道を分けて遠く馳せ、諸邑を続けて陥れたが、あえて拒む者は一人もなかった。

金海府使の徐礼元は門を閉ざして城を守ったが、賊が城の外の麦を刈って堀を埋め、しばらくのうちに城と平らになったので、それを踏んで城を越えた。草渓郡守の某が先に逃げ、礼元が続いて出たので、城はついに陥れられた。

巡察使の金睟は、はじめ晋州にいて変を聞き、東莱へ馳せ向かったが、中ほどの路で賊の兵がすでに近いことを聞いて前に進めず、右の道へ戻って、どうすべきかを知らなかった。ただ諸邑に檄を送って民に賊を避けよと諭したので、これによって道内はみな空になり、いよいよどうにもできなくなった。

龍宮県監の禹伏龍が邑の軍を率いて兵営へ行く途中、永川の路の辺で飯を食べていたところ、河陽の軍の数百が防禦使に属して上の道へ向かい、その前を通り過ぎた。伏龍は軍士が馬から降りないことに怒り、捕らえ留めて、背こうとしていると咎めた。河陽の軍が兵使の公文を出して示し、まさに自ら明かそうとしたのに、伏龍は自分の軍に目で合図して囲んで殺し、ことごとく殺し尽くしたので、積もった屍が野に満ちた。巡察使がこれを功として申し上げたので、伏龍は通政大夫となり、鄭熙績に代わって安東府使となった。後に河陽の人の孤りの子や寡の妻が、使臣が来るたびに馬の首をさえぎって怨みを叫んだが、伏龍はその時に名があったので、伸べてやる者はなかったのだという。

十七日早朝。邊報始至。乃左水使朴泓狀啓也。大臣備邊司會賓廳請對。不許。卽啓請以李鎰爲巡邊使。下中路。成應吉爲左防禦使。下左道。趙儆爲右防禦使。下西路。劉克良爲助防將。守竹嶺。邊璣爲助防將。守鳥嶺。以慶州府尹尹仁涵。儒臣懦㤼。起復前江界府使邊應星。爲慶州府尹。皆令自擇軍官以去。俄而釜山陷報又至。時釜山受圍。人不能通。泓狀啓但云。登高以望。赤旗滿城中。以此知城陷。李鎰欲率京中精兵三百名去。取兵曹選兵案視之。皆閭閻市井白徒。胥吏儒生居半。臨時點閱。儒生具冠服持試卷。吏戴平頂巾。自愬求免者。充滿於庭。無可遣者。鎰受命三日不發。不得已令鎰先行。使別將俞沃。隨後領去。余啓兵曹判書洪汝諄。不能治任。且軍士多怨可遞。於是金應南。代爲判書。沈忠謙爲參判。臺諫啓請。宜使大臣。爲體察使。檢督諸將。首相以余應命。余請以金應南爲副。以前義州牧使金汝岉有武略。時汝岉坐事繫獄啓請貸罪自隨募武士可堪裨將者得八十餘人旣而急報絡繹聞賊鋒已過密陽大丘將近嶺下余謂應南及申砬曰寇深事已急矣將若之何砬曰鎰以孤軍在前而無後繼體察使雖下去非戰將何不使猛將星馳先下爲鎰策應耶觀砬意欲自行援鎰余與應南請對啓如砬言上卽召申砬問之遂以砬爲都巡邊使砬出闕門外自行招募武士無願從者時余在中樞府治行事砬至余所見階庭間應募者簇立色甚怒指金判書謂余曰如此公者大監帶去安用小人願爲副使而去余知砬怒武士不從己笑曰同是國事何分彼此令公旣行急吾所得軍官可先帶行吾當別募隨行因以軍官單子授之砬遂回顧庭中武士曰來乃引之而出諸人皆憮然而去金汝岉亦同去意甚不樂砬臨行上引見賜寶劍曰李鎰以下不用命者用此劒砬辭出又詣賓廳見大臣將下階頭上紗帽忽落在地上見者失色到龍仁啓事狀中不署其名人或疑其心亂逮慶尙右兵使金誠一下獄未至還以爲招諭使以咸安郡守柳崇仁爲兵使初誠一到尙州聞賊已犯境晝夜馳赴本營遇曹大坤於路中交印節時賊已陷金海分掠右道諸邑誠一進與賊遌將士欲走誠一下馬踞胡床不動呼軍官李宗仁曰汝勇士也不可見賊先退有一賊著金假面揮刃突進宗仁馳馬而出一箭迎射殪之諸賊却走不敢前誠一收召離散移檄郡縣以爲牽綴之計。上以誠一前使日本。言賊未易至。解人心誤國事。命遣義禁府都事拿來。事將不測。監司金晬。聞誠一被逮。出別於路上。誠一辭氣慷慨。無一語及已事。惟勉晬以盡力討賊。老吏河自溶歎曰。己死之不恤。而惟國事是憂。眞忠臣也。誠一行至稷山。上怒霽。且知誠一得本道士民心。命赦其罪。爲右道招諭使。使諭道內人民。起兵討賊。時柳崇仁有戰功。故超拜兵使。

十七日の早朝、辺りの報せがはじめて届いたが、それは左水使の朴泓の状啓であった。大臣と備辺司が賓庁に集まって王に拝謁することを請うたが、許されなかった。すぐに申し上げて、李鎰を巡辺使として中ほどの路を下らせ、成応吉を左防禦使として左の道へ、趙儆を右防禦使として西の路へ下らせ、劉克良を助防将として竹嶺を守らせ、辺璣を助防将として鳥嶺を守らせることを請うた。慶州府尹の尹仁涵は儒の臣で弱く怯えているとして、前の江界府使の辺応星を喪中から起復させて慶州府尹とした。みな自分で軍官を選んで連れて行かせた。

やがて釜山が陥れられたという報せもまた届いた。そのとき釜山は囲まれて人が通れなかったので、朴泓の状啓にはただこう記されていた。

「高い所に上がって望みますと、赤い旗が城の中に満ちております。これによって城が陥れられたと分かります。」

李鎰は都の精兵三百名を率いて行こうとして、兵曹が選んでおいた軍士の名簿を取って見たところ、みな町や市の訓練のない者ばかりで、胥吏と儒生が半ばを占めていた。時に臨んで点検すると、儒生は冠と服を整えて試験の紙を持ち、胥吏は平頂巾をかぶっており、自ら訴えて免れることを求める者が庭に満ちて、遣わせる者がなかった。李鎰が命を受けて三日たっても出発できなかったので、やむなく李鎰を先に行かせ、別将の俞沃に後から率いて行かせた。

私は申し上げて、兵曹判書の洪汝諄は任を治められず、また軍士の怨みが多いので替えてよいと言った。そこで金応南が代わって判書となり、沈忠謙が参判となった。台諫が申し上げて、まさに大臣を体察使として諸将を検め督させるべきことを請うと、首相が私を挙げて命に応じさせた。私は金応南を副とすることを請うた。前の義州牧使の金汝岉は武略があったが、そのとき事に坐して獄に繋がれていたので、申し上げてその罪を緩めて連れて行くことを請うた。裨将に堪えられる武士を募って八十余人を得た。

やがて急な報せが続いて届き、賊の刃先がすでに密陽と大丘を過ぎ、まさに嶺の下に近づいたという。私は応南と申砬に言った。

「賊が深く入って事はすでに急だが、これからどうするか。」

申砬は言った。

「李鎰が孤りの軍で前にいて、後に続く者がありませんのに、体察使が下って行かれても戦う将ではありません。どうして猛い将を星が馳せるように先に下らせ、李鎰のために策し応じさせないのですか。」

私は申砬の意が自ら行って李鎰を援けることにあると知った。私は応南と共に拝謁を請い、申砬の言うままに申し上げたところ、王はすぐに申砬を召して問われ、ついに申砬を都巡辺使とされた。

申砬は闕の門の外に出て自ら武士を招き募ったが、従うことを願う者がなかった。そのとき私は中枢府にいて出立の支度をしていたが、申砬は私のいる所に至り、階と庭のあいだに応募した者がびっしりと立っているのを見て、顔の色をひどく怒らせ、金判書を指して私に言った。

「このような公を大監が連れて行かれても、どこに用いるのですか。小人が副使となって行くことを願います。」

私は申砬が武士たちが自分に従わないことに怒っているのだと知って、笑って言った。

「同じく国の事であるのに、どうして彼と此れを分けようか。令公がすでに出立するのだから急ぐことだ。私が得た軍官を先に連れて行きなさい。私はまた別に募って連れて行こう。」

そして軍官の名簿を渡した。申砬はついに庭の中の武士たちを振り返って「来い」と言って引き連れて出たので、諸人はみな気落ちして去った。金汝岉も一緒に行ったが、心はひどく楽しまなかった。

申砬が出立するとき、王が召し見て宝剣を賜って言われた。

「李鎰以下、命に従わぬ者はこの剣を用いよ。」

申砬が辞して出、また賓庁に進んで大臣に会い、階を下りようとしたとき、頭の上の紗帽が不意に地に落ちたので、見た者は顔の色を失った。龍仁に至って事を申し上げた状啓に自分の名を書かなかったので、人々はあるいはその心が乱れているのかと疑った。

慶尚右兵使の金誠一を捕らえて獄に下せと命じられたが、着く前に戻して招諭使とし、咸安郡守の柳崇仁を兵使とした。はじめ誠一は尚州に着いて賊がすでに境を犯したことを聞き、昼も夜も本営へ馳せ赴く途中、路で曹大坤に会って印と節を受け渡した。そのとき賊はすでに金海を陥れ、右の道の諸邑を分けて掠めていた。誠一が進んで賊と出会うと、将士は走ろうとした。誠一は馬から降りて胡床に腰を据えて動かず、軍官の李宗仁を呼んで言った。

「お前は勇士だ。賊を見て先に退くことはできない。」

一人の賊が金の仮面を着けて刃を振り回しながら突き進んで来たので、宗仁は馬を馳せて出、一矢で迎え射て倒した。諸々の賊は退き走ってあえて前に出なかった。誠一は離れ散った者を収め呼び、郡や県に檄を移して、賊を引き留める計とした。

王は、誠一が前年に日本へ使いして賊が容易には来ないと言い、人の心を解いて国の事を誤らせたとして、義禁府都事を遣わして捕らえて来るよう命じられたので、事は測りがたくなった。監司の金睟は誠一が捕らえられると聞いて、路の上に出て別れを告げた。誠一は言葉と気が慷慨として、一言も自分の事に及ばず、ただ金睟に力を尽くして賊を討つようにと勧めた。老いた吏の河自溶は嘆じて言った。

「自分の死は顧みず、ただ国の事ばかりを憂えている。まことの忠臣である。」

誠一の行列が稷山に至ったとき、王の怒りが晴れ、また誠一がその道の士と民の心を得ていることを知られて、その罪を赦し、右道招諭使として道内の人民を諭して兵を起こし賊を討たせるよう命じられた。そのとき柳崇仁は戦った功があったので、飛び越えて兵使に任じられたのである。

以僉知金玏。爲慶尙左道安集使。時監司金晬在右道。而賊兵橫貫中路。與左道聲聞不通。守令皆棄官逃走。民心解散。朝廷聞之。以金玏榮川人。詳知本道民情。可以安集。故白遣之。玏旣至。左道之民。始聞朝廷之令。稍稍還集。榮川豐基二邑。賊幸不至。而義兵頗起云。

僉知の金玏を慶尚左道安集使とした。そのとき監司の金睟は右の道にいて、賊の兵が中ほどの路を横切っていたので、左の道とは消息が通じなかった。守令はみな官を棄てて逃げ走り、民の心は解け散った。朝廷はこれを聞き、金玏は栄川の人であるからその道の民の情を詳しく知っていて安らかに集められるとして、申し上げて遣わした。金玏が着くと、左の道の民ははじめて朝廷の令を聞いて、少しずつ戻って集まった。栄川と豊基の二邑は幸いに賊が至らず、義兵がかなり起こったのだという。

賊陷尙州。巡邊使李鎰。兵敗奔還忠州。初慶尙道巡察使金晬。聞賊變。卽依方略分軍。移文列邑。各率所屬。屯聚信地。以待京將之至。聞慶以下守令。皆引其軍赴大丘。露次川邊。待巡邊使旣數日。巡邊使未及來。而賊漸近。衆軍自相驚動。會大雨。衣裝沾濕。糧餉不繼。夜中皆潰散。守令悉以單騎奔還。巡邊使入聞慶。縣中已空。不見一人。自發倉穀。餉所率人。而過歷咸昌至尙州。牧使金澥。託以支待巡邊使于出站。遁入山中。獨判官權吉守邑。鎰以無兵責吉。曳之庭欲斬之。吉哀告願自出招呼。達夜搜索村落間。詰朝得數百人以至。皆農民也。鎰留尙州一日。發倉開糶。誘出散民。從山谷中。介介而來。又數百餘人。倉卒編伍爲軍。無一堪戰者。時賊已至善山。暮有開寧縣人。來報賊近。鎰以爲惑衆將斬之。其人呼曰。願姑囚我。明早賊未至。死未晚也。是夜賊兵屯長川。距尙州二十里。而鎰軍無斥候。故賊來不知。翌朝。鎰猶謂無賊。出開寧人於獄。斬以徇衆。因率所得民軍。合京來將士。僅八九百。習陣于州北川邊。依山爲陣。陣中立大將旗。鎰被甲立馬大旗下。從事官尹暹朴箎及判官權吉。沙斤察訪金宗武等。皆下馬在鎰馬後。有頃。有數人從林木間出。徘徊眺望而回。衆疑爲賊候。而懲開寧人不敢告。旣又望見城中。數處煙起。鎰始使軍官一人往探。軍官跨馬。二驛卒執鞚緩緩去。倭先伏橋下。以鳥銃中軍官墜馬。斬首而去。我軍望見奪氣。俄而賊大至。以鳥銃十餘衝之。中者卽斃。鎰急呼軍人發射矢。數十步輒墜。不能傷賊。賊已分出左右翼。持旗幟繞軍後。圍抱而來。鎰知事急。撥回馬向北走。軍大亂。各自逃命。得脫者無幾。從事以下未及上馬者。悉爲賊所害。賊追鎰急。鎰棄馬脫衣服披髮赤體而走到聞慶。索紙筆馳啓敗狀。欲退守鳥嶺。聞申砬在忠州。遂趨忠州。

賊が尚州を陥れ、巡辺使の李鎰は戦いに敗れて忠州へ逃げ帰った。

はじめ慶尚道巡察使の金睟は賊の変を聞き、すぐに方略に従って軍を分け、諸邑に文を移して、それぞれ属する軍を率いて定めの地に集まり、都の将の来るのを待たせた。聞慶から下の守令はみなその軍を引いて大丘へ行き、川の辺りに野宿して巡辺使を待つうち幾日もたった。巡辺使はまだ来ないのに賊がしだいに近づいたので、多くの軍は自分たちで驚き騒いだ。ちょうど大雨が降って衣や装いが濡れ、糧が続かなかったので、夜のうちにみな崩れ散り、守令はことごとく単騎で逃げ帰った。

巡辺使が聞慶に入ると、県の中はすでに空で一人も見えなかった。自ら倉を開いて穀を出して率いる者に食わせ、咸昌を過ぎて尚州に至った。牧使の金澥は巡辺使を出迎えて支え待つという口実で站に出たまま山の中に逃げ入り、ただ判官の権吉が邑を守っていた。李鎰は兵がないことを権吉に咎め、庭に引き出して斬ろうとしたので、権吉は哀しく告げて、自ら出て呼び集めることを願った。夜を徹して村のあいだを探り、翌朝に数百人を得て来たが、みな農民であった。李鎰は尚州に一日留まり、倉を開いて穀を放ち、散った民を誘い出すと、山の谷のあいだから一人二人と出て来て、また数百余人になった。にわかに隊を編んで軍としたが、戦いに堪えられる者は一人もなかった。

そのとき賊はすでに善山に至っていた。日暮れに開寧の人が来て賊が近いと報せると、李鎰は衆を惑わすものだとして斬ろうとした。その人は叫んだ。

「どうか私をしばらく囚えておいてください。明くる朝までに賊が至らなければ、死ぬのに遅くはありません。」

この夜、賊の兵は長川に屯したが、尚州から二十里の所であった。それなのに李鎰の軍には斥候がなかったので、賊が来たのを知らなかった。翌朝、李鎰はなお賊はいないとして、開寧の人を獄から出し、斬って衆に示した。そして得た民の軍に都から来た将士を合わせ、やっと八、九百で、州の北の川の辺りで陣の法を習い、山に依って陣とし、陣の中に大将の旗を立てた。李鎰は甲を着て大きな旗の下に馬を立て、従事官の尹暹・朴箎と判官の権吉、沙斤察訪の金宗武らは、みな馬から降りて李鎰の馬の後ろにいた。

しばらくして数人が林の木のあいだから出て、行き来しながら眺め望んで帰った。多くの者は賊の斥候かと疑ったが、開寧の人の事にこりて、あえて告げなかった。やがてまた城の中の数か所から煙が立つのが見えたので、李鎰はようやく軍官一人を遣わして探らせた。軍官が馬に跨り、二人の駅卒が轡を取ってゆるゆると行ったところ、倭が先に橋の下に伏せていて、鳥銃で軍官を当てたので馬から落ちた。倭は首を斬って去った。わが軍は望み見て気を奪われた。

やがて賊が大勢で至り、鳥銃十余挺で衝いてきたので、当たった者はすぐに死んだ。李鎰は急ぎ軍人を呼んで矢を射させたが、数十歩でたちまち落ちて賊を傷つけられなかった。賊はすでに左右の翼に分かれて出、旗を持って軍の後ろを回り、囲み抱えるようにして来た。李鎰は事が急なのを知って馬を返し北へ走ったので、軍は大いに乱れ、それぞれ命を逃れようと逃げて、脱れ得た者はいくらもなかった。従事官以下、馬に上がるのに間に合わなかった者は、ことごとく賊に害された。

賊が李鎰を急ぎ追ったので、李鎰は馬を棄て衣服を脱ぎ、髪を振り乱して裸の身で走り、聞慶に至って紙と筆を求め、敗れた有様を急ぎ申し上げた。退いて鳥嶺を守ろうとしたが、申砬が忠州にいると聞いて、ついに忠州へ趨った。

以右相李陽元。爲守城大將。李戩邊彥琇。爲京城左右衛將。商山君朴忠侃。爲京城巡檢使。使修都城。起復金命元。爲都元帥守漢江。時李鎰敗報已至。人心洶洶。內間有去邠之意。外庭不知。理馬金應壽。到賓廳。與首相耳語。去而復來。觀者疑之。蓋首相時爲司僕提調故也。都承旨李恒福。於掌中。書立馬永康門內六字示我。臺諫劾首相誤國請罷。不允。宗親聚閤門外痛哭。請勿棄城。領府事金貴榮。尤憤憤與諸大臣入對。請固守京城。且曰倡議棄城者。乃小人也。上敎曰。宗社在此。予將何適。衆遂退。然事不可爲矣。抄發坊里民及公私賤胥吏三醫司。分守城堞。計堞三萬餘。而守城人口僅七千。率皆烏合。皆有縋城逃散之心。上番軍士。雖屬於兵曹。而與下吏相與爲奸。受賂私放者甚多。官員不問去留。臨急皆不可用。軍政解弛。一至於此。

右議政の李陽元を守城大将とし、李戩と辺彦琇を京城の左衛将と右衛将、商山君の朴忠侃を京城巡検使として都城を修めさせた。金命元を喪中から起復させて都元帥とし、漢江を守らせた。

そのとき李鎰が敗れたという報せがすでに届いて人の心は騒がしかった。闕の内では都を去る意があったが、外の廷は知らなかった。司僕寺で馬を掌る理馬の金応寿が賓庁に至り、首相と耳に口を寄せて語り、去ってまた来たので、見る者は疑った。おおよそ首相がそのとき司僕寺の提調であったからである。都承旨の李恒福は手のひらに「馬を永康門の内に立てておけ」という六字を書いて私に見せた。

台諫が、首相が国を誤ったと劾して罷めさせることを請うたが、許されなかった。宗親が閤門の外に集まって痛み泣き、城を棄てないでくださいと請うた。領府事の金貴栄はいっそう憤って、諸大臣と共に入って拝謁し、都を堅く守ることを請い、また言った。

「城を棄てようと言い出す者は、すなわち小人です。」

王は言われた。

「宗廟社稷がここにある。私はこれからどこへ行くというのか。」

多くの者はついに退いた。しかし事はどうにもできなかった。坊や里の民と公私の賤人と胥吏と三つの医司を抜き出して城の堞を分け守らせたが、堞を数えると三万余あるのに、城を守る人の口はやっと七千で、ほとんどみな烏合の者ばかりで、だれも城を綱で下りて逃げ散る心を抱いていた。番に上がる軍士は兵曹に属していたのに、下の吏と互いに姦をなし、賄いを受けて私に放つ者がはなはだ多かった。官員は去るも留まるも問わなかったので、急に臨んではみな用いられなかった。軍政の緩みはこの境に至っていたのである。

大臣請建儲。以繫人心。從之。

大臣が世子を立てて人の心を繋ぎ留めることを請うたので、そのとおりに従われた。

遣同知事李德馨。使倭軍。尙州之敗。有倭學通事景應舜者。在李鎰軍中。爲賊所獲。倭將平行長。以平秀吉書契及送禮曹公文一道。授應舜出送。且曰在東萊時。生得蔚山郡守。傳送書契。而至今未報。朝鮮若有意講和可令李德馨。於二十八日。會我於忠州。蓋德馨。往年甞爲宣慰使。接待倭使。故行長欲見之。應舜至京。時事急。計無所出。意或因此緩兵。德馨亦自請行。令禮曹裁答書。挾應舜而去。熒惑犯南斗。徵京畿江原黃海平安咸鏡等道兵。入援京師。以吏曹判書李元翼。爲平安道都巡察使。知事崔興源。爲黃海道都巡察使。皆卽日發遣。以將有西狩之議。而元翼曾爲安州牧使。興源爲黃海監司。皆有惠政。爲民心所喜。故使之先往。撫諭軍民。以備巡幸。

同知事の李徳馨を遣わして倭の軍へ使いさせた。

尚州の敗れのとき、倭学の通事で景応舜という者が李鎰の軍の中にいて賊に捕らえられた。倭の将の平行長は、平秀吉の書契と礼曹へ送る公文一通を応舜に授けて出し送り、また言った。

「東莱にいたとき蔚山郡守を生きたまま得て書契を伝え送ったのに、今まで答えがない。朝鮮にもし和を講ずる意があるなら、李徳馨に二十八日、忠州で私に会わせよ。」

おおよそ徳馨は前年にかつて宣慰使となって倭の使いを接待したので、行長は彼に会おうとしたのである。応舜が都に着いたが、そのとき事は急で計の出るところがなく、あるいはこれによって兵を緩められるかと思った。徳馨も自ら行くことを請うたので、礼曹に答えの書を作らせ、応舜を連れて行った。

熒惑星が南斗を犯した。

京畿・江原・黄海・平安・咸鏡などの諸道の兵を呼んで、都に入って援けさせた。吏曹判書の李元翼を平安道都巡察使、知事の崔興源を黄海道都巡察使として、みなその日に出発させた。まさに西へ行幸する議があったのだが、元翼はかつて安州牧使であり、興源は黄海監司であって、どちらも恵み深い政があって民の心が喜んでいたところなので、先に行かせて軍と民を撫で諭し、行幸に備えさせたのである。

夾注 2

郡守卽李彥誠自賊中回而畏得罪自云逃來隱其書不傳故朝廷不知也

蔚山郡守はすなわち李彦誠であるが、賊の中から帰って罪を得ることを恐れ、自ら逃げて来たと言ってその書を隠して伝えなかったので、朝廷は知らなかった。

德馨在道聞忠州已陷先使應舜往探應舜爲賊將淸正所殺德馨遂從中路還復命於平壤

徳馨は路で忠州がすでに陥れられたことを聞き、先に応舜を遣わして探らせたが、応舜は賊の将の清正に殺された。徳馨はついに中ほどの路を戻り、平壌で復命した。

賊兵入忠州。申砬迎戰敗績而死。諸軍大潰。砬至忠州。忠淸道郡縣兵來會者八千餘人。砬欲保鳥嶺。聞鎰敗膽落。還忠州。且召李鎰邊璣等。俱到忠州。棄險不守。號令煩擾。見者知必敗。有所親軍官。密報賊已踰嶺。乃二十七日初昏也。砬忽跳出城。軍中擾擾。不知砬所在。夜深潜還客舍。明朝。謂軍官妄言。引出斬之。狀啓猶云。賊未離尙州。不知賊兵已在十里內也。因率軍出陣于彈琴臺前兩水間。其地左右多稻田。水草交雜。不便馳驅。少頃。賊從丹月驛。分路而至。勢如風雨。一路循山而東。一路沿江而下。炮響震地。塵埃接天。砬不知所爲。鞭馬欲親自突陣者再。不得入。還赴江沒于水中而死。諸軍悉赴江中。屍蔽江而下。金汝岉亦死亂兵中。李鎰從東邊山谷間脫走。初朝廷聞賊兵盛。憂李鎰獨力難支。以申砬一時名將。士卒畏服。使引重兵隨其後。欲兩將協勢。庶幾捍賊。計未失也。不幸本道水陸將皆恇㤼。其在海中也。左水使朴泓。一兵不出。右水使元均雖水路稍遠。所領舟艦旣多。且賊兵非一日俱至。可悉衆前進。耀兵相持。幸而一捷。則賊當有後顧慮。未必遽深入。而乃望風遠避。不一交兵。及賊登陸。左右兵使李珏曹大坤。或遁或遞。賊鳴皷橫行。蹈數百里無人之地。晝夜北上。無一處敢齟齬少緩其勢者。不十日。已至尙州。李鎰。客將無軍。猝與相角。勢固不敵。砬未至忠州。而鎰先敗。進退失據。事是以大謬。嗚呼痛哉。後聞賊入尙州。猶以過險爲憚。聞慶縣南十餘里。有古城。曰姑母。據左右道交會處。兩峽如束。中盤大川。路出其下。賊恐有守兵。使人再三覘覷。知無兵。乃歌舞而過云。其後天將李提督如松。追賊過鳥嶺。歎曰有險如此。而不知守。申總兵。可謂無謀矣。蓋砬雖輕銳得時名。籌略非其所長。古人云。將不知兵。以其國與敵。今雖悔之無及。猶可爲後日之戒。故備著云。

賊の兵が忠州に入り、申砬は迎え戦って大いに敗れて死に、諸軍は大いに崩れた。

申砬が忠州に着くと、忠清道の郡や県の兵で来て集まった者が八千余人であった。申砬は鳥嶺を保とうとしたが、李鎰が敗れたと聞いて胆が落ち、忠州に戻った。また李鎰と辺璣らを呼んでみな忠州に至らせたが、険しい所を棄てて守らず、号令が煩わしく乱れていたので、見る者はかならず敗れると分かった。

親しくしていた軍官が、賊がすでに嶺を越えたとひそかに報せたが、それは二十七日の宵の口である。申砬は不意に城を跳び出したので、軍の中は騒がしく、申砬のいる所が分からなかった。夜が深くなってからひそかに客舎に戻り、翌朝、軍官が妄りな言を言ったとして引き出して斬った。状啓にはなお賊はまだ尚州を離れていないと言っていたので、賊の兵がすでに十里の内にいることを知らなかったのである。

続いて軍を率いて出、弾琴台の前の二つの水のあいだに陣を張った。その地は左右に稲の田が多く、水と草が入り交じって馬を駆るのに便でなかった。しばらくして賊が丹月駅から路を分けて至り、勢いは風雨のようであった。一つの路は山に沿って東へ、一つの路は江に沿って下って来て、砲の響きが地を震わせ、塵が天に接した。申砬はどうすべきかを知らず、馬に鞭打って自ら賊の陣に突き入ろうとしたのが二度であったが、入れず、引き返して江へ赴き、水の中に沈んで死んだ。諸軍はことごとく江の中に赴き、屍が江を覆って流れ下った。金汝岉もまた乱れた兵の中で死に、李鎰は東の辺りの山の谷のあいだから脱れて走った。

はじめ朝廷は賊の兵が盛んだと聞いて、李鎰が独りの力では支えがたいことを憂え、申砬が一時の名のある将で軍士が畏れ服するので、重い兵を引いてその後に続かせ、二人の将が勢いを合わせて賊を防ぐことを願ったのであって、計は誤っていなかった。不幸にもその道の水と陸の将はみな怯えていた。海にあっては左水使の朴泓が一人の兵も出さず、右水使の元均は水路がやや遠かったとはいえ、率いる舟や艦はすでに多く、また賊の兵が一日でことごとく至ったわけでもないのだから、衆をことごとく率いて前に進み、兵を見せつけて相対し、幸いに一度勝ちを得ていれば、賊は後ろを顧みる憂いがあって、かならずしも急に深くは入らなかったであろう。それなのに賊の勢いを望み見るだけで遠く避け、一度も兵を交えなかった。

賊が陸に上がると、左右の兵使の李珏と曹大坤はあるいは逃げ、あるいは替わったので、賊は鼓を鳴らして憚りなく行き、数百里の人のない地を踏み、昼も夜も北へ上って来たのに、一か所もあえて食い違い立ってその勢いを少しでも緩めるところがなかった。十日とたたずにすでに尚州に至った。李鎰は客のような将で軍もなく、にわかに相対して角したのだから、勢いはまことに敵しがたく、申砬が忠州に着く前に李鎰が先に敗れたので、進むも退くも拠るところを失い、事はこれによって大きく誤ったのである。ああ、痛ましいことである。

後に聞いたところでは、賊は尚州に入ってからも、なお険しい所を通るのを憚ったという。聞慶県の南十余里に古い城があって姑母城といい、左の道と右の道の交わる所に拠って、二つの峡が束ねたようであり、中に大きな川が盤って路がその下に出る。賊は守る兵があるのを恐れて人に二、三度うかがわせ、兵がないことを知ってから、歌い舞いながら過ぎたのだという。

その後、明の将の提督李如松が賊を追って鳥嶺を過ぎたとき、嘆じて言った。

「これほどの険しい所があるのに守ることを知らなかったのだから、申総兵は謀がなかったと言えよう。」

おおよそ申砬は、軽く鋭くてその時の名を得たとはいえ、籌り謀ることは彼の長ずるところではなかった。古の人は「将が兵を知らなければ、その国を敵に与えるのだ」と言った。いま悔いても及ばないが、それでも後の日の戒めとなりうるので、備えて記しておく。

四月三十日曉。車駕西巡。申砬旣去。都人日望捷報。前日夕。有氈笠三人。走馬入崇仁門。城內人。爭問軍前消息。答曰。我乃巡邊使軍官奴僕。昨日巡邊使敗死於忠州。諸軍大潰。俺等脫身獨來。欲歸報家人避兵耳。聞者大驚。所過傳相告語。不移時。滿城俱震。初昏。召宰執議出避。上御東厢地坐張燈燭。宗室河源君河陵君等侍坐。大臣啓。事勢至此。車駕暫出幸平壤。請兵天朝。以圖收復。掌令權悏請對。造膝大聲呼。請固守京城。語囂甚。余謂曰。雖危亂之際。君臣之禮。不可如是。可少退以啓。悏連呼曰。左相亦爲此言耶。然則京城可棄乎。余啓曰。權悏言甚忠。但事勢不得不然。因請分遣王子諸道。使呼召勤王。世子隨駕定議。大臣出在閤門外得旨。臨海君可往咸鏡道。領府事金貴榮。㓒溪君尹卓然從。順和君可往江原道。長溪君黃廷彧護軍黃赫。同知李墍從。盖赫女爲順和夫人。而李墍爲原州人。故幷遣之。時右相爲留將。領相幷宰臣數十人。以扈從點出。余無所命。政院啓扈從。不可無柳某。於是令扈行。內醫趙英璇。政院吏申德麟十餘人。大呼言。京都不可棄。俄而李鎰狀啓至。而宮中衛士盡散。更漏不鳴。得火炬於宣傳官廳。發狀啓讀之。內云。賊今明日當入都城。狀入良久。駕出。三廳禁軍奔竄。昏黑中互相扺觸。適羽林衛池貴壽過前。余認之。責令扈從。貴壽曰。敢不盡力。幷呼其類二人而至。過景福宮前。市街兩邊。哭聲相聞。承文院書員李守謙。執余馬鞚問曰。院中文書當如何。余令收拾其緊關者追來。守謙哭而去。出敦義門到沙峴。東方向明。回視城中。南大門內大倉火起。烟焰已騰空矣。踰沙峴至石橋。雨作。京畿監司權徵。追至扈從。至碧蹄驛。雨甚。一行皆沾濕。上入驛少頃卽出。衆官自此多還入都城者。侍從臺諫。往往多落後不至。過惠陰嶺。雨如注。宮人騎弱馬。以物蒙面號哭而行。過馬山驛。有人在田間。望之痛哭曰。國家棄我去。我輩何恃而生也。至臨津雨不止。上御舟中。召首相及臣入對。旣渡。已向昏不能辨色。臨津南麓。舊有丞廳。恐賊取材作筏橋以濟。命焚之。火光照江北。得尋路而行。初更到東坡驛。坡州牧使許晋。長湍府使具孝淵。以支待差使員在其處。略設御厨。扈衛人。終日飢來。亂入厨中。搶奪以食。將闕上供。晉孝淵。懼而逃。五月初一日朝。引見大臣。問南方巡察使有能勤王者否。日晚。乘輿欲發向開城。而京畿吏卒逃散。無扈衛人。適黃海監司趙仁得。率本道兵將入援。瑞興府使南嶷。先到。有軍數百人。馬五六十匹。以此始發。臨行。司鑰崔彥俊出曰。宮中人昨日不食。今又未食。得少米𩟔飢可行。索南嶷軍人所持糧。雜大少米二三斗以入。午至招賢站。趙仁得來朝。設帳幕於路中以迎之百官始得食。夕次于開城府。御南門外公署。臺諫交章劾首相交結誤國等罪。不允。二日。臺諫仍啓首相罷。余陞爲之。崔興源爲左相。尹斗壽爲右相。咸鏡北道兵使申硈遞來。是日午。上御南城門樓。慰諭人民。有旨令各陳所懷。有一人出行俯伏。問何言。對曰。願召鄭政承。蓋鄭澈時竄在江界故云然。上曰知道。卽命召澈赴行在。夕還宮。余以罪罷。俞泓爲右相。崔興源尹斗壽以次而陞。聞賊尙未至京城。衆議皆咎去邠之失。使承旨申磼。還入京城。察形勢。初三日。賊入京城。留都將李陽元。元帥金命元皆走。初賊自東萊分三路以進。一路由梁山密陽淸道大丘仁同善山。至尙州敗李鎰軍。一路由左道長鬐機張。陷左兵營蔚山慶州永川新寧義興軍威比安。渡龍宮河豐津。出聞慶。與中路兵合。踰鳥嶺入忠州。又自忠州。分兩路。一趨驪州渡江。由楊根渡龍津。出於京城東。一趨竹山龍仁。至漢江之南。又一路由金海從星州茂溪縣渡江。歷知禮金山。出忠淸道永同。進陷淸州向京畿。旌旗劒㦸。千里相連。炮聲相聞。所過或十里或五六十里。皆據險設營栅。留兵以守。夜則擧火相應。都元帥金命元。在濟川亭。望見賊至。不敢戰。悉沉軍器火炮器械于江中。變服以逃。從事官沈友正。固止不從。李陽元在城中。聞漢江軍已散。知城不可守。亦出走楊州。江原道助防將元豪初率兵數百。守驪州北岸與賊相持。賊不能渡者數日。旣而江原道巡察使柳永吉。檄召元豪歸本道。賊毀閭里民家及官舍。取屋材聯爲長筏以渡。中流爲水所漂。死者甚多。而豪旣去。江上無一守者。故累日畢渡。於是賊三路兵皆入京城。城中之民。先已散去。無一人矣。金命元旣失漢江。欲向行在。至臨津狀啓言狀。命更徵京畿黃海兵守臨津。且命申硈同守。以遏賊西下之路。是日車駕發開城。次于金郊驛。余雖罷散。不敢後。從行四日。車駕過興義金巖平山府。次于寶山驛。初出開城時。倉卒留宗廟神主于穆淸殿。有宗室一人。號泣啓不當委神主於賊所。於是達夜馳至開城奉還云。五日車駕過安城龍泉劒水驛。次于鳳山郡。六日。進次黃州。七日過中和入平壤。

四月の末の日の暁、王の車が西へ行幸した。

申砬が去った後、都の人は日ごとに勝ちの報せを待っていた。前の日の夕、氈の笠をかぶった三人が馬を走らせて崇仁門から入って来たので、城の中の人は争って戦いの前の消息を問うた。答えて言った。

「われらは巡辺使の軍官の奴僕である。昨日、巡辺使が忠州で敗れて死に、諸軍は大いに崩れた。われらは身を脱して独り来たので、家の人に知らせて兵を避けさせようとするだけだ。」

聞いた者は大いに驚き、通る所ごとに互いに伝えて語ったので、時を移さず城の中は一つに震えた。

宵の口に宰執を召して避けて出る事を議った。王は東の廂に出て地に座り、灯と燭を張らせ、宗室の河源君・河陵君らが侍って座った。大臣が申し上げた。

「事の勢いがここに至りましたので、車をしばらく平壌へ移され、天朝に兵を請うて取り返すことを図られますように。」

掌令の権悏が拝謁を請い、膝の前まで進み出て大きな声で、都を堅く守ることを請うたが、言葉がはなはだ騒がしかった。私は言った。

「危うく乱れた際であっても、君と臣の礼はこのようであってはならないから、少し退いて申し上げなさい。」

権悏は続けて叫んだ。

「左相もこのようなことを言われるのですか。それでは都を棄ててよいというのですか。」

私は申し上げた。

「権悏の言葉ははなはだ忠です。ただ事の勢いがそうせざるを得ないのです。」

続いて王子を諸道に分けて遣わし、勤王の兵を呼び集めさせ、世子は車に従わせることを請って議が定まった。大臣が出て閤門の外で旨を受けると、臨海君は咸鏡道へ行き、領府事の金貴栄と漆渓君の尹卓然が従い、順和君は江原道へ行き、長渓君の黄廷彧と護軍の黄赫、同知の李墍が従うこととなった。おおよそ黄赫の娘が順和君の夫人となっており、李墍は原州の人であったので、あわせて遣わしたのである。

そのとき右議政は都に留まる将となり、領議政と宰臣数十人が扈従として抜き出されたのに、私には何の命もなかった。政院が「扈従に柳某がいないわけにはいきません」と申し上げたので、これによって従って行くことになった。内医院の医の趙英璇と政院の吏の申徳麟ら十余人が大きな声で「都を棄ててはなりません」と言った。

やがて李鎰の状啓が届いたが、宮中の衛士はみな散り、水時計も鳴らなかった。宣伝官庁で松明を得て状啓を開いて読むと、その中に「賊は今日明日のうちに都城に入るでしょう」とあった。

状啓が入ってしばらくして車が出た。三庁の禁軍が逃げ隠れ、暗い中で互いにぶつかり合った。ちょうど羽林衛の池貴寿が前を通ったので、私はそれと分かって咎めて扈従させると、貴寿は「どうして力を尽くさないことがありましょう」と言い、自分の仲間二人を呼んで共に来た。景福宮の前を過ぎるとき、市の街の両側から哭く声が聞こえた。承文院の書員の李守謙が私の馬の轡を取って問うた。

「承文院の中の文書はどうしましょうか。」

私がその緊要なものを収めて後から追って来るようにと言うと、守謙は泣いて去った。

敦義門を出て沙峴に至ると、東の方が明るんで来た。城の中を振り返って見ると、南大門の内の大きな倉から火が起こり、煙と炎がすでに空に上がっていた。沙峴を越えて石橋に至ると雨になった。京畿監司の権徴が追って来て扈従した。碧蹄駅に至ると雨がひどく、一行はみな濡れた。王は駅に入られたが、しばらくしてすぐに出られた。多くの官員のうち、ここから都城へ戻って入った者が多く、侍従や台諫もおりおり後れて至らなかった。恵陰嶺を過ぎると雨は注ぐようであった。宮人たちは弱い馬に乗り、物で顔を覆って叫び泣きながら行った。馬山駅を過ぎるとき、田のあいだにいた人が望み見て痛み泣いた。

「国が我らを棄てて行く。我らは何を頼みにして生きるのか。」

臨津に至っても雨は止まなかった。王は舟の中にあって、首相と臣を召して拝謁させられた。渡り終えると、すでに暮れて色を見分けられなかった。臨津の南の麓に古くから丞庁があったが、賊がその材を取って筏の橋を作って渡ることを恐れ、焼くように命じられたので、火の光が江の北を照らして路を尋ねて行くことができた。

初更に東坡駅に至った。坡州牧使の許晋と長湍府使の具孝淵が支待差使員としてその所にいて、王の厨をあらかた設けたが、扈衛した人々は終日飢えて来たので、厨の中に乱れ入って奪って食べた。上に供えるものが欠けそうになったので、許晋と具孝淵は恐れて逃げた。

五月一日の朝、大臣を召し見て、南の方の巡察使のうちに勤王できる者があるかを問われた。日が晩くなって車が開城へ向かおうとしたが、京畿の吏と卒が逃げ散って扈衛する人がなかった。ちょうど黄海監司の趙仁得が道の兵を率いて援けに入って来るところで、瑞興府使の南嶷が先に至り、兵が数百、馬が五、六十匹あったので、これによってようやく出発できた。出立しようとするとき、闕の鍵を掌る司鑰の崔彦俊が出て来て言った。

「宮中の人は昨日も食べず、今日もまだ食べておりません。米を少し得て飢えをしのいでこそ行けます。」

南嶷の軍人が持っていた糧を探し、粗い米と細かい米と二、三斗を混ぜて入れた。

昼に招賢站に至ると趙仁得が来て拝した。路の中に帳と幕を張って迎えたので、百官はようやく食事を得た。夕に開城府に宿り、南門の外の公署に入られた。台諫が交々章を上げて、首相が結び交わって国を誤らせた罪などを劾したが、許されなかった。

翌日、台諫がなお申し上げて首相は罷められ、私が陞ってその任に当たり、崔興源が左議政、尹斗寿が右議政となり、咸鏡北道兵使の申硈が替わって来た。

この日の昼、王は南の城門の楼に出て人民を慰め諭し、それぞれ懐うところを申し上げよと旨を下された。一人が出て俯し伏したので、何を言うのかと問われると、答えて言った。

「どうか鄭政丞をお召しください。」

おおよそ鄭澈がそのとき江界に流されていたので、そう言ったのである。王は「分かった」と言われ、すぐに鄭澈を召して行在に赴かせられた。夕に宮へ戻られた。私は罪によって罷められ、俞泓が右議政となり、崔興源と尹斗寿が順に陞った。

賊がまだ都に至っていないと聞いて、多くの議がみな都を去ったことの誤りを咎めたので、承旨の申磼を都へ戻し入れて地の勢いを察させた。

三日、賊が都に入り、都に留まる将の李陽元と元帥の金命元はみな走った。

はじめ賊は東莱から三つの路に分かれて進んだ。一つの路は梁山・密陽・清道・大丘・仁同・善山を経て尚州に至り、李鎰の軍を破った。一つの路は左の道の長鬐・機張を経て、左兵営と蔚山・慶州・永川・新寧・義興・軍威・比安を陥れ、龍宮の河豊津を渡って聞慶に出、中ほどの路の兵と合わさって鳥嶺を越え忠州に入った。また忠州から二つの路に分かれ、一つは驪州へ趨って江を渡り、楊根を経て龍津を渡り、都の東に出、一つは竹山・龍仁へ趨って漢江の南に至った。また一つの路は金海から星州の茂渓県を経て江を渡り、知礼・金山を過ぎて忠清道の永同に出、清州を攻め陥れて京畿へ向かった。旗と剣と戟が千里に連なり、砲の声が互いに聞こえ、通る所ごとに、あるいは十里、あるいは五、六十里に、みな険しい所に拠って営と柵を設け、兵を留めて守らせ、夜には火を挙げて互いに応じた。

都元帥の金命元は済川亭にいて、賊が至るのを望み見てあえて戦わず、武器と火砲と器械をことごとく江の中に沈め、服を変えて逃げた。従事官の沈友正が固く止めたが従わなかった。李陽元は城の中にいて、漢江の軍がすでに散ったと聞き、城を守れないことを知って、やはり楊州へ走り出た。

江原道助防将の元豪は、はじめ兵数百を率いて驪州の北の岸を守って賊と相対したので、賊は幾日も渡れなかった。やがて江原道巡察使の柳永吉が檄で元豪を呼んでその道へ帰らせた。賊は里の民家や官舎を壊し、屋の材を取って連ねて長い筏を作って渡ったが、流れの中で水に漂わされて死んだ者がはなはだ多かった。しかし元豪がすでに去って江の上に守る者が一人もなかったので、幾日もかけてことごとく渡った。そこで賊の三つの路の兵がみな都に入ったが、城の中の民は先にすでに散り去って、一人もいなかった。

金命元は漢江を失った後、行在へ向かおうとして臨津に至り、状啓で有様を申し上げたので、改めて京畿と黄海の兵を徴して臨津を守らせ、また申硈に共に守って賊が西へ下る路を遏めるよう命じられた。

この日、車は開城を発って金郊駅に宿った。私は罷められて散じていたとはいえ、あえて後れず、従って行った。

四日、車は興義・金巖・平山府を過ぎて宝山駅に宿った。はじめ開城を出るとき、にわかのことで宗廟の神主を穆清殿に留めて来たが、宗室の一人が叫び泣いて、神主を賊のいる所に委ねてはならないと申し上げたので、そこで夜を徹して馳せ、開城に至って奉じて還したのだという。

五日、車は安城・龍泉・剣水駅を過ぎて鳳山郡に宿り、六日、黄州に進んで宿り、七日、中和を過ぎて平壌に入った。

三道巡察使之軍。潰於龍仁。初全羅道巡察使李洸。率本道兵入援。聞車駕西狩。京城已陷。收兵還全州。道內人。咎洸不戰而回。多憤惋不平者。洸不自安。更調兵。與忠淸道巡察使尹國馨。合軍而進。慶尙巡察使金晬。亦自其道。率軍官數十餘人來會。兵總五萬餘。至龍仁。望見北斗門山上有賊小壘。洸易之。先使勇士白光彥李時禮等甞賊。光彥等。率先鋒登山。去賊壘十餘步。下馬發射。賊不出。日晚。賊見光彦等稍解。發白刃大呼突出。光彦等。倉皇索馬。欲走不及。皆爲賊所害。諸軍聞之震懼。時三巡察。皆文人。不閑兵務。軍數雖多。而號令不一且不據險備。眞古人所謂。軍行如春遊。安得不敗者也。明日。賊知我軍心怯。數人揮刃賈勇而前。三道軍望之大潰。聲如崩山。委棄軍資器械。無數塞路。人不能行。賊悉聚而焚之。洸還全羅。國馨還公州。晬還慶尙右道。

三つの道の巡察使の軍が龍仁で崩れた。

はじめ全羅道巡察使の李洸が道の兵を率いて援けに入ったが、王の車が西へ狩り、都がすでに陥れられたと聞いて、兵を収めて全州に戻った。道内の人が、李洸が戦いもせずに帰ったことを咎め、憤り惜しんで平らかでない者が多かったので、李洸は自ら安んじられず、改めて兵を調えた。忠清道巡察使の尹国馨と軍を合わせて進み、慶尚巡察使の金睟も自分の道から軍官数十余人を率いて来て集まったので、兵はあわせて五万余となった。

龍仁に至って、北斗門山の上に賊の小さな塁があるのを望み見た。李洸はこれを軽んじ、まず勇士の白光彦・李時礼らに賊を試させた。光彦らは先鋒を率いて山に上がり、賊の塁から十余歩の所で馬を降りて射たが、賊は出なかった。日が晩くなり、賊は光彦らの気が少し解けたのを見て、白い刃を抜き、大きく叫びながら突き出た。光彦らはあわてて馬を探し、走ろうとしたが間に合わず、みな賊に害された。諸軍はこれを聞いて震え恐れた。

そのころ三人の巡察使はみな文の人で兵の務めに慣れておらず、軍の数は多くても号令が一つにならず、また険しい所に拠って備えもしなかったので、まことに古の人が言う「軍の行くことが春の遊びのようだ」というもので、どうして敗れずにいられようか。

翌日、賊はわが軍の心が怯えていると知って、数人が刃を振り回し勇を売って前に出たので、三つの道の軍はこれを望み見て大いに崩れ、その声は山が崩れるようであった。棄てて行った軍の資と器械が数知れず路を塞ぎ、人が通れなかった。賊はことごとく集めて焼いた。李洸は全羅道へ、国馨は公州へ、金睟は慶尚右道へ帰った。

夾注 1

忠清道巡察使の尹国馨は、前に出た忠清監司の尹先覚と同じ一人である。後に名を改めた。― 訳者

副元帥申恪。與賊戰于楊州敗之。斬首六十餘級。遣宣傳官。卽軍中斬之。恪初從金命元爲副。漢江之潰。恪不從命元。隨李陽元于楊州。時咸鏡南道兵使李渾兵適至。恪合兵遇賊自京城出散掠閭閻。邀擊破之。自倭入我國。始有此捷。人皆踊躍。金命元在臨津。狀啓恪擅自他適。不從號令。右相俞泓。遽請誅之。宣傳官旣行。而捷報至。朝廷使人追止不及。恪雖武人。而素淸慎。甞爲延安府使。修城浚壕。多備軍器。後李廷馣守延安全城。人以爲恪之功。死非其罪。且有九十歲老母。聞者莫不痛之。遣知事韓應寅。帥平安道江邊精兵三千人。赴臨津擊賊。令勿受金命元節制。時應寅赴京新回。尹左相言於衆曰。斯人狀貌有福氣。必能辦事。遂行。

副元帥の申恪が楊州で賊と戦って勝ち、首を斬ったのが六十余級であったが、宣伝官を遣わしてすぐに軍の中で斬らせた。

申恪ははじめ金命元に従って副元帥となったが、漢江が崩れたとき命元に従わず、李陽元に随って楊州へ行った。そのころ咸鏡南道兵使の李渾の兵がちょうど至ったので、申恪は兵を合わせ、都から出て里を散らし掠めていた賊に出会い、迎え撃って破った。倭がわが国に入ってから、はじめてこの勝ちがあったので、人々はみな踊り喜んだ。

金命元は臨津にいて、「申恪が勝手に他へ赴いて号令に従わなかった」と状啓したので、右議政の俞泓はすぐに誅することを請うた。宣伝官がすでに出発した後に勝ちの報せが届いたので、朝廷は人を遣わして追って止めさせたが、間に合わなかった。

申恪は武の人ではあったが、もとより清く慎み深かった。かつて延安府使となって城を修め堀を浚え、軍器を多く備えたので、後に李廷馣が延安を守って城を全うしたのを、人々は申恪の功だと言った。死はその罪によるものでなく、また九十歳の老いた母があったので、聞く者は誰も痛まずにはいられなかった。

知事の韓応寅を遣わして平安道の江辺の精兵三千人を率い、臨津へ行って賊を撃たせ、金命元の節制を受けないように命じた。そのころ応寅は都へ行って帰ったばかりであったが、尹左相が多くの者に「この人は姿かたちに福の気があるから、かならず事を弁じられよう」と言ったので、ついに遣わしたのである。

韓應寅金命元之師潰于臨津。賊渡江。初命元在臨津北。分付諸軍。列守江灘。歛江中船隻。悉在北岸。賊結陣于臨津南。無船可渡。但出遊兵。隔江交戰。相持十餘日。賊終不能渡。一日賊焚江上廬幕。撤帷帳載軍器。爲退遁狀。以誘我軍。申硈素輕銳無謀。以爲賊實遁。欲渡江追躡。京畿監司權徵。與硈合。命元不能禁。是日應寅亦至。將悉衆追賊。應寅所將。皆江邊健兒。與北虜近。備諳戰陣形勢。吿應寅曰。軍士遠來罷弊。尙未食。器械未整。後軍亦未齊到。且賊之情僞。未可知。願少休。明日觀勢進戰。應寅以爲逗遛。斬數人。命元以應寅。新自朝廷來。且令勿受己節制。故雖知不可。而不敢言。別將劉克良。年老習兵。力言不宜輕進。申硈欲斬之。克良曰。吾結髮從軍。豈以避死爲心。所以云云者。恐誤國事耳。憤憤而出。率其屬先渡。我軍旣入險地。賊果伏精兵於山後。一時俱起。諸軍奔潰。克良下馬坐地曰。此吾死所也。彎弓射賊數人。爲賊所害。申硈亦死。軍士奔至江岸不得渡。從巖石上自投入江。如風中亂葉。其未及投江者。賊從後奮長刀斫之。皆匍匐受刃。無敢拒者。命元應寅。在江北望之喪氣。商山君朴忠侃。適在軍中。騎馬先走。衆望之以爲命元。皆呼曰元帥去矣。諸守灘軍。應聲皆散。命元應寅。還行在。朝廷不問。京畿監司權徵。入加平郡避亂。賊遂乘勝西下。不可復止矣。

韓応寅と金命元の軍が臨津で崩れ、賊が江を渡った。

はじめ金命元は臨津の北にいて、諸軍に分け与えて江の瀬を列ねて守らせ、江の中の船を収めてことごとく北の岸に置いた。賊は臨津の南に陣を張ったが渡る船がなく、ただ遊ぶ兵を出して江を隔てて戦うばかりで、互いに相対して十余日、賊はついに渡れなかった。

ある日、賊は江の辺の廬と幕を焼き、帷と帳を撤し、軍器を載せて、退いて逃げる様をつくってわが軍を誘った。申硈はもとより軽く鋭いが謀がなく、賊がまことに逃げるのだと思って、江を渡って追い踏もうとした。京畿監司の権徴が申硈と意を同じくしたので、命元は禁じられなかった。この日、応寅も至って、まさに衆をことごとく率いて賊を追おうとした。

応寅が率いていた者はみな江辺の健やかな兵で、北の胡に近く、戦いの陣の勢いを備えて知っていた。応寅に告げて言った。

「軍士は遠く来て疲れ、まだ食べてもおらず、器械も整わず、後の軍もまだ揃って着いておりません。また賊の真と偽も知れませんので、どうか少し休み、明日、勢いを見て進んで戦われますように。」

応寅は逗まり遅れるものだとして数人を斬った。命元は、応寅が新しく朝廷から来ており、また自分の節制を受けないようにという命もあったので、よくないと知りながらもあえて言わなかった。

別将の劉克良は年が老いて兵に慣れており、軽く進むべきでないと力を尽くして言ったので、申硈は彼を斬ろうとした。克良は言った。

「私は髪を結んでから軍に従ったのに、どうして死を避ける心を抱こうか。あれこれと言うのは、国の事を誤ることを恐れるからだけだ。」

憤りながら出て、自分の属する者を率いて先に渡った。わが軍がすでに険しい地に入ると、賊は果たして山の後ろに精兵を伏せておいて一時に起こったので、諸軍は逃げ崩れた。克良は馬を降りて地に座って言った。

「ここが私の死ぬ所である。」

弓を引いて賊の数人を射、賊に害された。申硈もまた死んだ。

軍士は走って江の岸に至ったが渡れず、巖や石の上から自ら江へ身を投げ、風の中の乱れた葉のようであり、江へ投げるのに間に合わなかった者は、賊が後ろから長い刀を振るって斫ったので、みな匍って刃を受けるばかりで、あえて拒む者はなかった。命元と応寅は江の北でこれを望み見て気を喪った。

商山君の朴忠侃がちょうど軍の中にいて、馬に乗って先に走ったので、多くの者は望み見てそれを命元だと思い、みな「元帥が行ってしまった」と叫んだ。瀬を守る諸軍はその声に応じてみな散った。命元と応寅は行在に帰ったが、朝廷は問わなかった。京畿監司の権徴は加平郡に入って乱を避けた。賊はついに勝ちに乗じて西へ下り、再び止めることができなくなった。

賊兵入咸鏡道。兩王子陷賊中。從臣金貴榮黃廷彧黃赫。及本道監司柳永立。北兵使韓克諴等。皆被執。南兵使李渾。走至甲山。爲我民所害。南北道郡縣皆沒于賊。有倭學通事咸廷虎者。在京城。爲賊將淸正所得。因隨淸正入北道賊退後逃還京城。見余言北道事頗詳。淸正在賊將中。尤勇悍善鬪。與平行長同渡臨津。至黃海道安城驛。謀分搶兩界。各議所向未决。二賊拈鬮。行長得平安道。淸正得咸鏡道。於是淸正擒安城居民二人。使向導。二人辭以生長此地不諳北路。淸正卽斬之。一人懼請先導。從谷山地踰老里峴。出於鐵嶺北。日行數百里。勢如風雨。北道兵使韓克諴。率六鎭兵。相遇於海汀倉。北兵善騎射。地又平衍。乃左右迭出。且馳且射。賊不能支。退入倉中。時日已暮。軍士欲少休俟賊出。明日復戰。克諴不聽。揮其軍圍之。賊出倉中糓石。列置爲城。以避矢石。從其內多發鳥銃。我軍櫛比而立。重疊如束。中必貫穿。或一丸斃三四人。軍遂潰。克諴收兵退屯嶺上。欲天明更戰。夜賊潜行。環我軍散伏于草間。朝大霧。我軍猶意賊在山下。忽一聲炮響。從四面大呼突起。皆賊兵也。軍遂驚潰。將士向無賊處奔走。悉陷泥澤中。賊追至芟刈。死者無數。克諴遁入鏡城。遂被擒。兩王子臨海君順和君。俱至會寧府。蓋順和君。初在江原道。賊兵入江原道。故轉向北道。是時賊窮追王子。會寧吏鞠景仁。率其類叛。先縛王子及從臣以迎賊。賊將淸正。解其縛留置軍中。還屯咸興。獨漆溪君尹卓然。路中稱病從他路。深入別害堡。同知李墍。不從王子。留江原道。皆免執。柳永立拘賊中數日。賊以爲文官。防禁少懈。永立乘間脫走。還行在。

賊の兵が咸鏡道に入り、二人の王子が賊の中に落ち、従って行った臣の金貴栄・黄廷彧・黄赫と、その道の監司の柳永立、北兵使の韓克諴らがみな捕らえられた。南兵使の李渾は甲山へ走ったところでわが民に害され、南の道と北の道の郡や県はみな賊に落ちた。

倭学の通事で咸廷虎という者が、都にいて賊の将の清正に捕らえられ、清正に随って北の道に入り、賊が退いた後に都へ逃げ帰ったが、私に会って北の道の事をかなり詳しく語った。

清正は賊の将のうちでもとりわけ勇ましく荒く、よく戦った。平行長と共に臨津を渡り、黄海道の安城駅に至って二つの界を分けて掠めることを謀ったが、それぞれ向かう所を議って定まらなかったので、二人の賊は鬮を引き、行長は平安道を得、清正は咸鏡道を得た。そこで清正は安城に住む民二人を捕らえて道を導かせたが、二人はこの地で生まれ育ったので北の路は知らないと辞した。清正はすぐに一人を斬ったので、残る一人は恐れて先に導くことを請うた。谷山の地から老里峴を越えて鉄嶺の北に出、一日に数百里を行ったので、勢いは風雨のようであった。

北の道の兵使の韓克諴が六鎮の兵を率いて海汀倉で出会った。北の道の兵は馬に乗って射ることが巧みで、地もまた平らに広かったので、左右から互い違いに出て、馳せながら射たところ、賊は支えきれず退いて倉の中に入った。そのとき日はすでに暮れていたので、軍士は少し休んで賊の出るのを待ち、翌日また戦おうとしたが、克諴は聞かずにその軍を揮って囲んだ。賊は倉の中の穀の俵を出して列ね置いて城とし、矢と石を避けながら、その内から鳥銃を多く放った。わが軍は櫛の歯のように並び立ち、重なり畳なって束ねたようであったので、当たればかならず貫き通され、あるいは一つの弾で三人四人が死んだ。軍はついに崩れた。

克諴は兵を収めて嶺の上に退いて屯し、天が明けたらまた戦おうとしたが、夜に賊がひそかに動いて、わが軍を取り巻いて草のあいだに散り伏せた。朝に霧が大きく立ちこめ、わが軍はなお賊が山の下にいるものと思っていたところ、不意に一声の砲の響きとともに、四面から大きく叫んで突き起こったのは、みな賊の兵であった。軍はついに驚き崩れ、将士は賊のいない所へ向かって走り、ことごとく泥の沢の中に落ちた。賊が追い至って草を刈るようにしたので、死んだ者は数知れなかった。克諴は鏡城へ逃げ入ったが、ついに捕らえられた。

二人の王子、臨海君と順和君は、どちらも会寧府に至った。おおよそ順和君ははじめ江原道にいたが、賊の兵が江原道に入ったので北の道へ移って行ったのである。このとき賊が王子をどこまでも追ったので、会寧の吏の鞠景仁が自分の仲間を率いて背き、先に王子と従う臣を縛って賊を迎えた。賊の将の清正はその縛を解いて軍の中に留め置き、咸興に戻って屯した。

ただ漆渓君の尹卓然は路の中で病と称して他の路を取り、別害堡へ深く入り、同知の李墍は王子に従わず江原道に留まって、どちらも捕らえられるのを免れた。柳永立は賊の中に幾日か拘えられていたが、賊は文の官であるとして防ぎ禁ずるのが少し緩かったので、永立は隙に乗じて脱れ走り、行在に帰った。

李鎰至平壤。鎰旣敗于忠州。渡江入江原道界。輾轉至行在。時諸將自京城南下。或走或死。無一人扈駕者。聞賊將至。人心益懼。鎰於武將中。素有重名。雖奔敗之餘。而人聞其來。無不喜悅。鎰旣屢敗。竄荆棘中。戴平凉子穿白布衫草屨而至。形容憔悴。觀者歎息。余語之曰。此處人。將倚君爲重。而槁枯如此。何以慰衆。索行槖得藍色紗帖裏與之。於是諸宰。或與騣笠。或與銀頂子彩纓。當面改換。服飾一新。獨無有脫靴與之者。猶著草屨。余笑曰。錦衣草屨不相稱矣。左右皆笑。俄而碧潼土兵任旭景。探報賊已至鳳山。余謂尹相曰。賊之斥候。應已至江外。此間詠歸樓下江水。岐而爲二。水淺可涉。萬一賊得我民嚮導。而暗渡猝至。則城危矣。何不急遣鎰往把淺灘。以防不測乎。尹公曰然。卽遣鎰。時鎰所率江原道軍。僅數十餘人。益以他軍。鎰坐含毬門點兵。不卽行。余念事急。遣人視之。猶在門上。余連語尹公使催之。鎰始去。旣出城。無指路者。誤向江西路。遇平壤座首金乃胤自外來。問之使前。引馳至萬頃臺下。距城纔十餘里。望見江南岸。賊兵來聚者。已數百。江中小島居民。驚呼奔散。鎰急令武士十餘人。入島中射之。軍士畏不卽進。鎰拔劒欲斬之。然後乃進。賊已在水中多近岸。我軍急以强弓射之。連斃六七。而賊遂退。鎰仍留守渡口。

李鎰が平壌に至った。

李鎰は忠州で敗れた後、江を渡って江原道の境に入り、あちこち移り歩いた末に行在に至った。そのころ諸将は都から南へ下って、あるいは走り、あるいは死に、一人も車を扈衛する者がなかったのに、賊がまさに至ると聞いて人の心はいっそう恐れていた。李鎰は武将のうちでもとより重い名があったので、敗れ走った後であっても、人々は彼が来ると聞いて喜ばない者がなかった。

李鎰は幾度も敗れて茨の中に隠れていた身であったから、平涼子をかぶり、白い布の衫を着て草の履を履いたまま至り、姿が憔れていたので、見る者は嘆いた。私は言った。

「ここの人々はあなたを頼みにして重く思おうとしているのに、枯れ萎れることがこのようでは、何で多くの者を慰められようか。」

行の嚢をさぐって藍色の紗の帖裏を得て与えると、そこで諸々の宰臣が、あるいは騣の笠を与え、あるいは笠に付ける銀の頂子と彩りの纓を与えて、その場で着替えさせたので、服も飾りもすっかり新しくなった。ただ靴を脱いで与える者がなかったので、なお草の履を履いていた。私は笑って言った。

「錦の衣に草の履は、互いに釣り合いませんな。」

そばにいた者はみな笑った。

やがて碧潼の土兵の任旭景が、賊がすでに鳳山に至ったと探って報せて来た。私は尹政丞に言った。

「賊の斥候は当然もう江の外に至っているでしょう。この間、詠帰楼の下の江の水が分かれて二つになる所があり、水が浅くて渡れます。万一、賊がわが民を得て道を導かせ、ひそかに渡って不意に至れば、城は危うくなります。どうして急ぎ李鎰を遣わして浅い瀬を押さえさせ、測りがたいことを防がせないのですか。」

尹公はそのとおりだと言って、すぐに李鎰を遣わした。そのとき李鎰が率いる江原道の軍はやっと数十余人であったので、他の軍を足してやったが、李鎰は含毬門に座って兵を点検し、すぐには出発しなかった。私は事が急であることを思って人を遣わして見させたが、まだ門の上にいた。私は続けて尹公に言って催させた後、李鎰はようやく出て行った。

城を出てからは路を指す者がなく、誤って江西の方の路へ向かったが、平壌の座首の金乃胤が外から来るのに出会い、問うて先に立たせ、馬を馳せて万景台の下に至ると、城からやっと十余里であった。江の南の岸を望み見ると、来て集まった賊の兵はすでに数百で、江の中の小さな島に住む民は驚き叫んで散り走っていた。李鎰は急ぎ武士十余人に島の中へ入って射させたが、軍士が恐れてすぐに進まなかったので、李鎰が剣を抜いて斬ろうとした後にようやく進んだ。賊はすでに水の中にいて岸に近づいた者が多かったが、わが軍が急ぎ強い弓で射て続けて六、七人を殺したので、賊はついに退いた。李鎰はそのまま留まって渡し場を守った。

遼東都司。使鎭撫林世祿。來探倭情。上接見于大同舘。余自五月罷。六月初一日收叙。是日承命接待唐將。時遼東聞倭犯我國。未久。又聞都城不守。車駕西遷。旣又聞倭兵已至平壤。甚疑之。以爲倭變雖急。不應猝遽如此。或云我國爲倭先導。世祿之來。余與之同上練光亭。望察形勢。有一倭從江東林木間。乍見乍隱。已而。二三倭繼出。或坐或立。意態安閒。若行路休息之狀。余指示世祿曰。此倭候也。世祿倚柱而望。殊有不信之色曰。倭兵何其少也。余曰。倭巧詐。雖大兵在後。而先來偵探者。不過數輩。若見其少而忽之。則必陷於賊術矣。世祿唯唯。亟求回咨馳去。命左相尹斗壽。率都元帥金命元。巡察使李元翼等。守平壤。數日前。城中人聞車駕欲出避。各自逃散。閭里幾空。上命世子。出大同舘門。集城中父老。諭以堅守之意。父老進前曰。但聞東宮之令。民心不信。必得聖上親諭乃可。明日上不得已。御舘門。令承旨曉諭如昨。父老數十人。拜伏痛哭。承命而退。遂各分出招呼。悉追老弱男婦子弟之竄伏山谷者入城。城中皆滿。及賊見形於大同江邊。宰臣盧稷等。奉廟社位版。幷護宮人先出。於是城中吏民作亂。挺刃橫路縱擊之。墜廟社主路中。指從行宰臣大罵曰。汝等平日。偸食國祿。今乃誤國欺民乃爾耶。余自練光亭。赴行宮。路上見婦女幼稚。皆怒髮上指。相與號呼曰。旣欲棄城。何故紿我輩入城。獨使魚肉於賊手耶。至宮門。亂民塞街。皆袒臂持兵杖。遇人輒擊。紛囂雜沓。不可禁。諸宰在門內朝堂者。皆失色起立於庭中。余恐亂民入宮門。出立門外階上。見其中有年長多髯者。以手招之。其人卽至。乃土官也。余諭之曰。汝輩欲竭力守城。不願車駕出城。爲國之忠則至矣。但因此作亂。至於驚擾宮門。事甚可駭。且朝廷方啓請堅守。上已許之。汝輩何事乃爾。觀汝貌樣。乃有識人。須以此意。曉諭衆人而退。不爾則汝輩將陷重罪。不可赦也。其人卽棄杖歛手曰。小民聞欲棄城。不勝憤氣。妄動如此。今聞此言。小人雖迷劣。胷中卽豁然矣。遂揮其而散。蓋前此朝臣。聞賊兵將近。皆請出避。兩司弘文舘。連日伏閤力請寅城府院君鄭澈尤主避出之議余曰今日事勢與前在京城時有異京城則軍民崩潰雖欲守之未由也此城前阻江水而民心頗固且近中原地方若堅守數日。天兵必來救猶可藉以卻賊不然從此至義州更無可據之地勢必至於亡國左相尹斗壽同余議余又請鄭澈曰平時每意公慷慨不避難易不圖今日之議如此也尹相詠文山詩曰我欲借劒斬侫臣寅城大怒奮袂而起平壤人亦聞余爲守議故是日聞余言頗順從而退夕召監司宋言愼責以不能鎭定亂民言愼摘發其倡首者三人斬於大同門內餘皆散去時已定出城而不知所適朝臣多言北道地僻路險可以避兵蓋是時賊兵已犯咸鏡道而道路不通且無報變者故。朝廷不知也於是以同知李希得曾爲永興府使有惠政得民心以爲咸鏡道巡檢使兵曹佐郞金義元爲從事官往北道而。內殿及宮嬪以下先出向北臣固爭曰。車駕西狩本欲倚仗。天兵以圖興復耳今旣請兵于。天朝而顧深入北道中間賊兵限隔。天朝聲問亦無可通之路况望恢復乎且賊散出諸道安知北道必無賊兵若不幸旣入其處而賊兵隨至則他無去路只有北虜而已何處可依其爲危迫不亦甚乎今朝臣家屬多避亂于北道故各顧私計皆言向北便臣有老母亦聞東出避亂雖不知在處而必流入於江原咸鏡之間臣亦以私計言之則豈無向北之情哉只以國家大計不與人臣同故敢此懇陳耳因嗚咽流涕。上惻然曰卿母安在予之故矣旣退知事韓準又獨請對力言向北之便於是。中殿遂向咸鏡道時賊至大同江已三日矣余輩在練光亭望見越邊有一倭以木末懸小紙揷江沙上令火炮匠金生麗棹小舟往取之倭不帶兵器與生麗握手拊背極款狎附書以送書至尹相欲不開見余曰開見何妨開視則書面云上朝鮮國禮曹判書李公閤下蓋與李德馨書而平調信玄蘇所裁也大㮣欲見德馨議講解德馨以扁舟會平調信玄蘇于江中相勞問如平日玄蘇言日本欲借道朝貢中原而朝鮮不許故事至此今亦借一條路使日本達中原則無事矣德馨責以負約且令退兵後議講解調信等語頗不遜遂各罷去夕賊數千結陣於江東岸上

遼東都司が鎮撫の林世禄を遣わして倭の実情を探らせたので、王は大同館で接見された。

私は五月に罷められたが、六月一日に再び叙され、この日、命を奉じて明の将を接待した。そのころ遼東では、倭がわが国を犯したと聞き、久しからずしてまた都を守れず車が西へ移ったと聞き、やがて倭の兵がすでに平壌に至ったと聞いて、はなはだ疑った。倭の変が急であるとはいえ、これほど急なはずがないと言い、あるいはわが国が倭の道案内になったのだとも言った。

世禄が来たので、私は彼と共に練光亭に上がって地の勢いを望み察した。一人の倭が江の東の林の木のあいだにちらりと見えては隠れ、やがて二、三人の倭が続いて出て、あるいは座り、あるいは立ち、意も様も安らかで、まるで路を行く途中に休んでいるような様であった。私は世禄に指して見せて言った。

「これが倭の斥候です。」

世禄は柱に寄りかかって望み、かなり信じられない色で言った。

「倭の兵がどうしてこれほど少ないのか。」

私は言った。

「倭は巧みで偽りが多く、大きな兵が後ろにいても、先に来てうかがう者は数人に過ぎません。もしその少ないのを見て軽んじれば、かならず賊の術に陥るでしょう。」

世禄はそのとおりだと言い、急いで回答の咨文を求めて馳せ去った。

左議政の尹斗寿に、都元帥の金命元と巡察使の李元翼らを率いて平壌を守るように命じられた。幾日か前に城の中の人々は車が出て避けようとしていると聞いて、それぞれ逃げ散り、里はほとんど空になっていた。王は世子に命じて大同館の門に出、城の中の父老を集めて堅く守る意を諭させられたが、父老は前に出て言った。

「東宮の命だけを聞いても、民の心は信じません。かならず王が親しく諭されてこそ事は成ります。」

翌日、王はやむなく館の門に出られ、承旨に昨日のように諭させられたので、父老数十人は拝み伏して痛み泣き、命を奉じて退いた。ついにそれぞれ分かれて出て呼び集め、山の谷に隠れていた老いた者と幼い者、男と女と子弟をことごとく追って城に入れたので、城の中は満ちた。

賊が大同江の辺りに姿を現すと、宰臣の盧稷らが宗廟社稷の位版を奉じ、あわせて宮人を護って先に出た。そこで城の中の吏と民が乱を起こし、刃を抜いて路をさえぎってやたらに撃ち、宗廟社稷の神主を路の中に落とし、従って行く宰臣を指して大いに罵った。

「お前たちは平生、国の禄を偸み食っておいて、いまは国を誤らせ民を欺くことがこのとおりか。」

私が練光亭から行宮へ向かう路の上で、婦女や幼い子を見ると、みな怒りに髪を上へ逆立てて、互いに叫び呼んだ。

「すでに城を棄てようとしながら、どうして我らを騙して城に入れ、独り賊の手の魚や肉にさせるのか。」

宮の門に至ると、乱れた民が街を塞ぎ、みな腕をまくって兵の杖を持ち、人に出会うとすぐに撃ったので、騒がしく入り乱れて禁じられなかった。門の内の朝堂にいた諸々の宰臣はみな顔の色を失って庭の中に立ち上がっていた。私は乱れた民が宮の門に入ることを恐れて、門の外の階の上に出て立ち、その中に年が長けて鬚の多い者を見つけ、手で招くと、その人はすぐに来た。すなわちその土地の土官であった。私は諭して言った。

「お前たちが力を尽くして城を守ろうとし、車が城を出ることを願わないのは、国を思う忠としては至っている。ただこれによって乱を起こし、宮の門を驚かし騒がすに至ったのは、事としてはなはだ驚くべきことだ。また朝廷はまさに堅く守ることを申し上げて請い、王もすでに許されたのに、お前たちは何の事でこうするのか。お前の様子を見れば、識るところのある人だ。ぜひこの意で多くの人を諭して退かせよ。そうしなければお前たちは重い罪に陥って、赦されないことになる。」

その人はすぐに杖を棄て、手を揃えて言った。

「小民は城を棄てようとしていると聞いて、憤る気を抑えきれず、妄りに動いたのがこのようでした。いまこのお言葉を聞きますと、小人は迷い劣っておりますが、胸の中はすぐに豁れました。」

そしてついに群れを揮って散らせた。

おおよそこれより先、朝廷の臣たちは賊の兵がまさに近づくと聞いてみな出て避けることを請い、司憲府と司諫院と弘文館は日ごとに閤門に伏して力を尽くして請い、寅城府院君の鄭澈はとりわけ避けて出る議を主張した。私は言った。

「今日の事の勢いは、さきに都にいたときとは違います。都は軍と民が崩れ散ったので、守ろうとしても拠るところがありませんでしたが、この城は前を江の水にふさがれ、民の心もかなり固く、また中国の地に近いのです。もし幾日か堅く守れば、天の兵がかならず来て救いますから、それを頼みにして賊を却けることもできます。そうでなければ、ここから義州に至るまで再び拠るべき地がありませんので、勢いはかならず国を亡ぼすに至るでしょう。」

左議政の尹斗寿は私の議と同じであった。私はまた鄭澈に向かって言った。

「平時にはいつも、公は慷慨して難きも易きも避けない人だと思っておりましたのに、今日の議がこのようであろうとは思いませんでした。」

尹政丞が文山の詩の「わたしは剣を借りて侫しい臣を斬りたい」を詠むと、寅城府院君は大いに怒り、袂を振って立った。

平壌の人々も、私が守ろうという議を立てたと聞いていたので、この日、私の言葉を聞いてかなり素直に従って退いた。夕に監司の宋言慎を召して、乱れた民を鎮め定められなかったことを咎めたところ、言慎は先に立った三人を摘み出して大同門の内で斬ったので、残る者はみな散り去った。

そのときすでに城を出ることは定まっていたが、どこへ行くかは分からなかった。朝廷の臣のうちに、北の道は地が僻んで路が険しく、兵を避けられると言う者が多かった。おおよそこのとき賊の兵はすでに咸鏡道を犯していたのに、路が通じず、また変を報せる者もなかったので、朝廷は知らなかったのである。そこで同知の李希得が、かつて永興府使となって恵み深い政があり民の心を得ていたとして、咸鏡道巡検使とし、兵曹佐郎の金義元を従事官として北の道へ行かせた。そして内殿と宮嬪以下が先に出て北へ向かった。臣は固く争って申し上げた。

「車が西へ狩られたのは、もともと天の兵を頼みにして興し復すことを図ろうとしてのことです。いますでに天朝に兵を請いながら、かえって北の道へ深く入れば、中間を賊の兵がさえぎって、天朝と声や問いさえ通る路がなくなるでしょうから、まして取り返すことを望めましょうか。また賊は諸道に散り出ているのですから、北の道にかならず賊の兵がないと、どうして知れましょう。もし不幸にもそこへ入った後に賊の兵が追って至れば、他に行く路はなく、ただ北の胡があるだけですから、どこを頼みにできましょう。その危うく迫っていることもまた甚だしくはありませんか。いま朝廷の臣の家の者が北の道へ乱を避けた者が多いので、それぞれ私の計を顧みて、みな北へ向かうのが便だと言うのです。臣にも老いた母があり、やはり東へ出て乱を避けたと聞きましたが、いる所は分かりませんものの、かならず江原と咸鏡のあいだへ流れ入ったでしょう。臣も私の計で言うならば、どうして北へ向かいたい情がないでしょうか。ただ国家の大きな計は、人の臣たる者の私とは同じでありませんので、あえてこのように懇ろに申し述べるだけです。」

そして咽んで涙を流した。王は惻れんで言われた。

「卿の母はどこにいるのか。私のせいである。」

退いた後、知事の韓準がまた独り拝謁を請い、北へ向かうのが便だと力を尽くして言ったので、そこで中殿はついに咸鏡道へ向かった。

そのとき賊が大同江に至ってすでに三日であった。我らが練光亭にいて、向こう岸に一人の倭が木の末に小さな紙を懸けて江の砂の上に挿しておいたのを望み見て、火砲匠の金生麗に小さな舟を棹して行って取って来させた。倭は兵器を帯びず、生麗と手を握り背を撫でてひどく親しげにし、書を付けて送った。書が届くと尹政丞は開いて見ようとしなかったので、私は言った。

「開いて見て何の害がありましょう。」

開いて見ると、表に「朝鮮国礼曹判書李公閤下に上る」とあったから、おおよそ李徳馨へ送った書で、平調信と玄蘇が裁したものであった。大まかには徳馨に会って和を講ずることを議りたいというものであった。

徳馨が小舟で江の中で平調信・玄蘇と会い、平日のように互いに労い問うた。玄蘇は言った。

「日本は路を借りて中国に朝貢しようとしたのに、朝鮮が許さなかったので、事はここに至りました。いまでも一筋の路を借りて日本を中国に達させてくだされば、事はないでしょう。」

徳馨は約を負いたことを咎め、また兵を退けた後に和を講ずることを議れと言ったが、調信らの言葉はかなり遜らなかった。ついにそれぞれ罷めて去った。夕に賊の数千が江の東の岸の上に陣を張った。

六月十一日。車駕出平壤向寧邊大臣崔興源俞泓鄭澈等。扈從左相興金元帥李巡察元翼留守平壤余亦以接待唐將留是日賊攻城左相元帥巡察及余在練光亭本道監司宋言愼守大同城門樓兵使李潤德守浮碧樓以上江灘慈山郡守尹裕後等守長慶門城中士卒民夫合三四千分配城堞而部伍不明城上人或疎或密或人上有人肩背相磨或連數垜無一人散掛衣服於乙密臺近處松樹間名曰疑兵隔江望賊兵亦不甚多東大院岸上排作一字陣列堅紅白旗如我國挽章於出十餘騎向羊角島入江中水沒馬腹皆按轡列立示將渡江之狀其餘往來江上者或一二或三四荷大劒日光下射閃閃如電或云非眞劒以木爲之沃以白鑞以眩人眼者然遠不可辨又六七賊持鳥銃到江邊向城放聲響甚壯丸過江入城遠者入大同舘散落瓦上幾千餘步或中城樓柱深入數寸有紅衣賊見練光亭上諸公會坐知爲將帥挾鳥統邪睨漸進至沙渚上放丸中亭上二人然遠故不重傷余令軍官姜士益從防牌內以片箭射之矢及沙上賊逡巡而卻元師發善射者乘快船中流射賊船稍近東岸賊亦退避我軍從船上發玄字銃火箭如椽過江倭衆仰視皆呌噪而散箭落地爭聚觀之是日以不卽整兵船斬工吏房一人時久不雨江水日縮曾分遣宰臣禱雨檀君箕子東明王廟猶不雨余謂尹相曰此處水深無船賊終不能渡惟水上多淺灘早晚賊必由此渡渡則城不可守何不嚴備金元帥性緩但曰已命李潤德守之矣余曰潤德輩何可倚仗指李巡察曰公等會坐一處如宴集無益於事不可往護江灘耶李曰若令往見敢不盡力於是尹相謂李曰公可往李起出余時承。命只應接唐將不參軍務默念必敗不如早迎唐將於中路速進一步來敎庶可有濟日暮遂與從事官洪宗祿辛慶晋出城夜深到順安路中逢李陽元從事官金廷睦自淮陽來聞賊兵至鐵嶺矣明日過肅川至安州遼東鎭撫林世祿又來接受咨文送。行在翌日聞。車駕已離寧邊次博川余馳詣博川。上御東軒引見臣問平壤可守乎臣對曰人心頗固似可守但援兵不可不速進故臣爲此以來欲迎着。天兵請速馳援而至今未見兵至玆以爲憫。上手取尹斗壽狀。啓示臣曰昨日已令老弱出城云人心必搖何以能守臣對曰誠如。聖慮臣在彼時未見此事大槪觀其處形勢賊必由淺灘以渡宜多布菱鐵於水中以備之。上使問此縣亦有菱鐵否對有數千介。上曰急募人送之平壤臣又。啓曰平壤以西江西龍岡甑山咸從等邑倉穀多人民衆聞賊兵已近則必驚駭散失宜急遣侍從一人自此馳去鎭撫之且收兵爲平壤繼援便。上曰誰人可去對曰兵曹正郞李幼澄有計慮可遣又。啓臣事急不可遲滯當達夜馳去以迎見唐將爲期遂辭退出見李幼澄言。上前所達幼澄愕然曰此乃賊藪何可進余貴之曰食祿不避難臣子之義今。國事危急如此雖湯火不可避顧以此一行爲攤乎幼澄默然有恨色余旣拜辭出至大定江邊日已平西矣回望廣通院野有散卒絡繹而來疑平壤失守使軍官數輩馳往收之得十九人而至乃義州龍川等處之軍而往平壤守江灘者也言昨日賊已從王城灘渡江江上軍潰兵使李潤德遁走余大驚卽於路中爲書狀遣軍官崔允元馳報。行在夜入嘉山郡是日夕。內殿至博川蓋在路聞賊兵已入北道故不前而回通川郡守鄭逑遣使進物膳

六月十一日、車が平壌を発って寧辺へ向かった。大臣の崔興源・俞泓・鄭澈らが扈従し、左議政の尹斗寿と金元帥と李巡察使元翼が平壌に留まって守ることとなり、私も明の将を接待する務めで留まった。

この日、賊が城を攻めた。左議政と元帥と巡察使と私が練光亭にいて、その道の監司の宋言慎が大同城の門の楼を守り、兵使の李潤徳が浮碧楼より上の江の瀬を守り、慈山郡守の尹裕後らが長慶門を守った。城の中の士卒と民夫と役に出た者を合わせて三、四千を城の堞に分け配ったが、隊伍が明らかでなく、城の上の人はあるいは疎く、あるいは密で、ある所は人の上に人がいて肩と背が触れ合い、ある所は幾つもの堞が続いて一人もいなかった。乙密台の近くの松の木のあいだに衣服を散らし掛けて、疑わせる兵とした。

江の向こうに賊の兵を望んだところ、これもそれほど多くなかった。東大院の岸の上に一の字に陣を並べ、赤と白の旗を立てていたが、わが国の挽章のようであった。十余騎が羊角島へ向かって江に入ると、水が馬の腹まで来たが、みな轡を押さえて列ね立ち、まさに江を渡ろうとする様を見せた。その他に江の上を行き来する者が、あるいは一人二人、あるいは三人四人で、大きな剣を担いでいたので、日の光に閃いて電のようであった。あるいは真の剣ではなく、木で作って白鑞を塗り、人の目を眩ますものだとも言ったが、遠くて見分けられなかった。

また六、七人の賊が鳥銃を持って江の辺りに至り、城へ向けて放ったので、音がはなはだ壮んで、弾は江を越えて城に入り、遠いものは大同館に入って瓦の上に散り落ちたが、ほとんど千余歩であり、あるいは城の楼の柱に当たって数寸も深く入った。赤い衣の賊が練光亭の上に諸公が会して座っているのを見、将帥だと知って、鳥銃を挟み、斜めに睨みながらしだいに進み、砂の渚の上に至って放ったので、亭の上の二人に当たったが、遠かったので重く傷つきはしなかった。私は軍官の姜士益に防牌の内から片箭で射させたところ、矢が砂の上まで及んだので、賊はためらって却いた。

元帥がよく射る者を選んで速い船に乗せ、流れの中から賊を射させたところ、船が東の岸に少し近づくと賊もまた退き避けた。わが軍が船の上から玄字銃を放つと、火の矢が椽のようで江を越えて行ったので、倭の群れは仰ぎ見てみな叫び騒いで散ったが、矢が地に落ちると争って集まって見た。この日、船を時に整えなかったとして工房の吏一人を斬った。

そのころ久しく雨が降らず、江の水は日ごとに縮んだ。かつて宰臣を分けて遣わし、檀君と箕子と東明王の廟に雨を祈らせたが、それでも雨は降らなかった。私は尹政丞に言った。

「ここは水が深く船もないので、賊はついに渡れないでしょうが、ただ上流に浅い瀬が多いので、程なく賊はかならずここから渡るでしょう。渡られれば城は守れませんから、どうして厳しく備えないのですか。」

金元帥は性が緩く、ただ「すでに李潤徳に守るよう命じました」と言うばかりであった。私は言った。

「潤徳のような者をどうして頼みにできましょう。」

李巡察使を指して言った。

「公らが一つ所に会して座っているのは宴の集まりのようで、事に益がありませんから、行って江の瀬を護られないのですか。」

李公は言った。

「行って見よと言われれば、どうして力を尽くさないことがありましょう。」

そこで尹政丞が李公に「公が行かれよ」と言ったので、李公は立って出た。私はそのとき命を奉じてただ明の将を応接するだけで軍の務めには与わらなかったので、かならず敗れると黙って思い、早く中ほどの路で明の将を迎え、一歩でも速く進んで来させるに越したことはないと考えた。

日が暮れて、ついに従事官の洪宗禄・辛慶晋と共に城を出、夜が深くなって順安に至った。路で李陽元の従事官の金廷睦が淮陽から来るのに出会い、賊の兵が鉄嶺に至ったことを聞いた。翌日、肅川を過ぎて安州に至ると、遼東の鎮撫の林世禄がまた来たので、迎えて咨文を受け、行在へ送った。

次の日、車がすでに寧辺を離れて博川に宿られていると聞いて、私は博川へ馳せて拝謁したところ、王は東軒に出て臣を召し見て問われた。

「平壌は守れるか。」

臣は答えて申し上げた。

「人の心がかなり固いので守れるようです。ただ援けの兵が速く進まないわけにはいきませんので、臣はこのために来て、明の兵を迎え、急ぎ馳せて援けるよう請おうとしましたが、今まで兵が至るのを見ませんので、これを憫れんでおります。」

王は手ずから尹斗寿の状啓を取って臣に見せ、言われた。

「昨日すでに老いた者と弱い者を城の外へ出したというから、人の心はかならず揺れるだろう。どうして守れようか。」

臣は答えて申し上げた。

「まことに王のお憂えのとおりです。臣がそこにいたときにはこの事を見ませんでした。おおよそその所の地の勢いを見れば、賊はかならず浅い瀬から渡るでしょうから、菱鉄を水の中に多く布いて備えるのが当たっております。」

王はこの県にも菱鉄があるかを問わせられたので、数千個あると答えた。王は言われた。

「急ぎ人を募って平壌へ送れ。」

臣はまた申し上げた。

「平壌の西の江西・龍岡・甑山・咸従などの邑は倉の穀が多く民も多いのに、賊の兵がすでに近づいたと聞けば、かならず驚いて散り失われるでしょう。まさに急ぎ侍従一人をここから馳せ遣わして鎮め撫ませ、また兵を収めて平壌の継ぎの援けとするのが便です。」

王が「誰が行けるか」と言われたので、答えて申し上げた。

「兵曹正郎の李幼澄は計と慮がありますので、遣わせます。」

また申し上げた。

「臣の事は急で遅れ滞ることができませんから、まさに夜を徹して馳せ行き、明の将を迎え見ることを期しましょう。」

ついに辞して退き出、李幼澄に会って王の前で申し上げたことを言うと、幼澄は愕いて言った。

「その所はすなわち賊の藪ですのに、どうして進めましょうか。」

私は咎めて言った。

「禄を食めば難きを避けないのが臣子の義である。いま国の事が危く急なことがこのようであるから、湯や火であっても避けられないのに、かえってこの一度の行きを難く思うのか。」

幼澄は黙って恨む色があった。

私は辞して出、大定江の辺りに至ると、日はすでに西に傾いていた。広通院の野を振り返ると、散った卒が続いて来るので、平壌を守れなかったのかと疑い、軍官数人を馳せ遣わして収めさせると、十九人を得て来た。すなわち義州や龍川などの所の軍で、平壌へ行って江の瀬を守っていた者たちであったが、昨日、賊がすでに王城灘から江を渡り、江の上の軍は崩れ、兵使の李潤徳は逃げ走ったと言った。私は大いに驚き、すぐに路の中で書状を作って軍官の崔允元を遣わして行在へ馳せ報せさせ、夜に嘉山郡に入った。

この日の夕、内殿が博川に至った。おおよそ路で賊の兵がすでに北の道に入ったと聞いたので、前に進まずに戻ったのである。通川郡守の鄭逑が人を遣わして食の物を進めた。

平壤陷。車駕次于嘉山。東宮奉。廟社主自博川入山郡初賊兵分駐江沙上作十餘屯結草爲幕旣累日不得渡江警備頗怠金命元等自城上望見以爲可乘夜掩襲抄擇精兵使高彥伯等領之從浮碧樓下綾羅渡潜以船渡軍初約三更擧事失時刻旣渡已昧爽矣見諸幕中賊猶未起遂前突第一陣賊驚擾我軍多射殺賊土兵任旭景先登力戰爲賊所害奪賊馬三百餘匹俄而列屯賊悉起大至我軍退走還趨船船上人見賊已迫後中流不敢艤船淹死者甚衆餘軍又從王城灘亂流而渡賊始知水淺可涉是日暮擧衆由灘以濟我軍守攤者不敢發一矢皆散走賊旣波猶疑城中有備遲回不前是夜尹斗壽金命元開城門盡出城中人沉軍器火炮于風月樓池水中斗壽等由普通門而出至順安賊無追躡者從事官金信元獨出大同門乘船順流向江西明日賊至城外登牧丹峰良久觀望知城空無人乃入城始。車駕至平壤廷議皆以糧餉爲憂盡取列邑田稅輸到平壤及城陷幷本倉穀十餘萬石皆爲賊所有時余狀報至博川父巡察使李元翼從事官李好閔亦自平壤來言賊渡江狀夜。車駕及。內殿發向嘉山。命世子奉。廟社別由他路使之收召四方以圖興復分臣僚從行領議政崔興源以。命從世子右議政俞泓亦自請隨。世子。上不答。駕旣出泓伏路邊辭去內官屢。啓右相俞泓請辭。上終不答泓遂從。東宮時尹斗壽在平壤未還。行在無大臣惟鄭澈以舊相從。駕至嘉山已五皷矣

平壌が陥れられ、車は嘉山に宿った。東宮が宗廟社稷の神主を奉じて博川から山郡に入った。

はじめ賊の兵は江の砂の上に分かれて屯し、十余りの屯をつくり、草を結んで幕とした。幾日も江を渡れないうちに、警めと備えがかなり怠くなった。金命元らは城の上から望み見て、夜に乗じて不意に襲えると思い、精兵を抄き選んで高彦伯らに率いさせ、浮碧楼の下の綾羅の渡しからひそかに船で軍を渡した。はじめ三更に事を挙げる約であったが、時刻を失い、渡り終えたときにはすでに明け方であった。

諸々の幕の中の賊がまだ起きていないのを見て、ついに前へ進んで第一の陣を突いたので、賊は驚き騒ぎ、わが軍は多く射殺した。土兵の任旭景が先に登って力を尽くして戦い、賊に害された。賊の馬三百余匹を奪った。やがて列ねていた屯の賊がことごとく起こって大勢で至ったので、わが軍は退き走って船へ駆け戻ったが、船の上の人は賊がすでに後ろに迫ったのを見て、流れの中であえて船を寄せなかったので、水に沈んで死んだ者がはなはだ多かった。残る軍はまた王城灘から乱れて水を渡った。賊ははじめて水が浅く渡れることを知った。

この日の暮れ、賊は衆を挙げて瀬から渡ったので、わが瀬を守る軍はあえて一本の矢も放たず、みな散り走った。賊は渡ってからも、なお城の中に備えがあるかと疑って、ためらって前に進まなかった。

この夜、尹斗寿と金命元は城の門を開いて城の中の人をことごとく出し、軍器と火砲を風月楼の池の水の中に沈めた。斗寿らは普通門から出て順安に至ったが、追い踏む賊はなかった。従事官の金信元だけが独り大同門から出、船に乗って流れに順って江西へ向かった。

翌日、賊は城の外に至って牡丹峰に上がり、長いあいだ望み見て、城が空で人がいないことを知ってから城に入った。

はじめ車が平壌に至ったとき、廷の議はみな糧を憂えて、諸邑の田の税をことごとく収めて平壌へ運んで来たのに、城が陥れられると、もとからの倉の穀とあわせて十余万石がみな賊のものとなった。

そのとき私の状啓が博川に届き、巡察使の李元翼と従事官の李好閔も平壌から来て、賊が江を渡った有様を語った。夜、車と内殿が発って嘉山へ向かった。世子に命じて宗廟社稷の神主を奉じ、別に他の路を取って四方を収め召し、興し復すことを図らせられ、臣僚を分けて従って行かせられたので、領議政の崔興源が命を受けて世子に従った。右議政の俞泓もまた自ら世子に随うことを請うたが、王は答えられなかった。車がすでに出たので、俞泓は路の辺に伏して辞して去った。内官が幾度も「右議政の俞泓が辞を請っております」と申し上げたが、王はついに答えられなかった。俞泓はついに東宮に従った。

そのとき尹斗寿は平壌にいてまだ帰っていなかったので、行在に大臣がなく、ただ鄭澈が旧い政丞として車に従った。嘉山に至ったときにはすでに五更であった。

車駕次于定州自。駕出平壤人心崩遺所過亂民輒入倉庫搶掠穀物順安肅川安州寧邊博川以次皆敗是日。駕發嘉山郡守沈信謙謂余曰此郡糧穀頗優官廳亦有白米一千石欲以此餉。天兵不幸事至於此公若少留鎭定則邑人不敢動不然亂作小人亦不敢留此將向海邊躲避矣時信謙已不能令其下矣獨余所帶軍官六人及路中所收潰卒十九人余約束使之自隨故各帶弓箭在傍信謙欲藉此自護故云然余不忍遽發少坐大門日已過午更念無。上命而擅留不行於義未安遂與信謙別行上曉星嶺回望嘉山則郡中已亂矣信謙盡失倉穀而逃翌日。車駕出定州向宣川。命臣留定州州人已四散避亂獨老吏白鶴松等數人在城中而已余伏路邊送。駕出城掩泣坐延薰樓下軍官數人在左右階下所收潰卒十九人猶不去繫馬路邊柳本相環而坐向晚見南門有執杖者自外連絡而來向左邊去使軍官視之聚於倉下者已數百余念已所率寡弱若亂民益多而與之爭鬪則難制不如先攻弱者使之驚散爲可於是視城門又有繼至者十餘人余急呼軍官從十九卒馳捕之其人望見奔走追及捕九人而至卽令披髮反接而赤脫之徇于倉邊道路十餘本隨其後大呼曰擒㥘倉賊將行刑梟首城中人見之於是已聚倉下者望而惶駭悉從西門散去由是定州倉穀僅全而龍川宣川鐵山等邑刧倉者亦絕定州判官金榮一武人也自平壤奔還置其妻子於海邊偸出倉穀欲送之余聞而數之曰汝爲武將敗軍不死其罪可誅又敢偸出官穀耶此穀將餉。天兵非汝所得私者杖之六十旣而尹左相金元帥武將李薲等自平壤皆至定州。上出定州時有。命左相若來亦留駐定州及尹至余傳。上命尹不答直向。行在余亦留金命元李薲等守定州追及。乘輿於龍川時郡邑人民聞平壤陷意賊隨後至盡竄山谷路上不見一人聞江邊列邑如江界等地皆然余行至郭山山城下見有岐路問下卒曰此向何處路曰此走龜城路也余駐馬呼從事官洪宗祿曰沿途倉儲一空。天兵雖來何以接濟此間惟龜城一邑儲峙頗優而亦聞吏民盡散輸運無策君久在龜城其處人如聞君至雖隱山谷中必有來見欲聞賊勢者君從此急去龜城諭之曰賊入平壤尙不出。天兵方大至收復不遠所患一路糧𥹝不足耳爾輩無論品官人吏悉一境之力輸運軍糧不乏軍興則後日必有重賞若此則庶幾同心協力輸到定州嘉山可以濟事宗祿慨然應諾分路而去余自向龍川蓋宗祿坐己丑獄謫在龜城。車駕至平壤後始收叙爲司饔正爲人忠實有忘身徇國不避夷險之志

車が定州に宿った。

車が平壌を発ってから人の心は崩れ、通る所ごとに乱れた民がすぐに倉庫に入って穀物を掠めたので、順安・肅川・安州・寧辺・博川が順に崩れた。

この日、車が発ったので、嘉山郡守の沈信謙が私に言った。

「この郡は糧の穀がかなり優かで、官庁にも白い米が一千石あって、これで明の兵を養おうとしておりましたのに、不幸にも事がここに至りました。公がもし少し留まって鎮め定められれば、邑の人はあえて動かないでしょうが、そうでなければ乱が起こりますから、小人もあえてここに留まれず、まさに海の辺へ向かって身を避けようと思います。」

そのとき沈信謙はすでに自分の下の者を令することができなかった。ただ私が連れていた軍官六人と、路の中で収めた崩れた卒十九人がいて、私が約束して自分に随わせていたので、それぞれ弓と矢を帯びてそばにいた。沈信謙はこれを頼みにして自ら護ろうとしたので、そう言ったのである。

私は急に発つのを忍びず、しばらく大門に座っていると、日はすでに午を過ぎた。あらためて思うに、王の命もなく勝手に留まって行かないのは義において安らかでないので、ついに信謙と別れて出発した。暁星嶺に上がって嘉山を振り返ると、郡の中はすでに乱れていた。信謙は倉の穀をことごとく失って逃げた。

翌日、車は定州を出て宣川へ向かい、臣に定州に留まるよう命じられた。州の人はすでに四方へ散って乱を避け、ただ老いた吏の白鶴松ら数人が城の中にいるだけであった。私は路の辺に伏して車を送り、城を出て涙を押さえ、延薫楼の下に座った。軍官数人が左右の階の下におり、収めた崩れた卒十九人もやはり去らず、馬を路の辺の柳に繋いで囲んで座っていた。

暮れ方、南の門に杖を持った者が外から続いて入って来て、左の辺へ行くのが見えた。軍官に見させたところ、倉の下に集まった者はすでに数百であった。私は、自分が率いる者が寡く弱いので、もし乱れた民がいっそう多くなってから争えば制しがたい、まず弱い者を攻めて驚き散らせるに越したことはないと思った。そこで城の門を見ると、また続いて至る者が十余人いたので、私は急ぎ軍官を呼び、十九人の卒を連れて馳せて捕らえさせた。その者たちは望み見て走ったので、追いついて九人を捕らえて来ると、すぐに髪を解き、手を後ろに縛って裸にし、倉の辺の道で引き回させ、十九人の卒がその後に随って大きく叫ばせた。

「倉を刧そうとした賊を捕らえた。まさに刑を行って首を梟けるぞ。」

城の中の人がこれを見たので、すでに倉の下に集まっていた者は望んで惶れ、ことごとく西の門から散り去った。これによって定州の倉の穀はやっと全く、龍川・宣川・鉄山などの邑で倉を刧すことも絶えた。

定州判官の金栄一は武の人である。平壌から逃げ帰り、自分の妻子を海の辺に置いて、倉の穀を偸み出して送ろうとした。私は聞いて咎めた。

「お前は武将となって軍を敗れさせながら死ななかったので、その罪は誅されてよいほどなのに、またあえて官の穀を偸み出すのか。この穀はまさに明の兵を養うもので、お前が私にできるものではない。」

そして杖六十を打った。

やがて尹左相と金元帥と武将の李薲らが平壌から、みな定州に至った。王が定州を出られるとき、左相が来たらやはり定州に留め駐らせよという命があったので、尹公が至ったとき私は王の命を伝えたが、尹公は答えずにそのまま行在へ向かった。私も金命元と李薲らを留めて定州を守らせ、龍川で車に追いついた。

そのとき郡や邑の人民は平壌が陥れられたと聞いて、賊が後から至ると思い、みな山の谷に隠れたので、路の上に一人も見えず、江辺の諸邑、江界のような所もみなそうだと聞いた。

私は郭山の山城の下に至って岐れ路があるのを見、下の卒に「これはどこへ向かう路か」と問うと、「これは亀城へ行く路です」と言った。私は馬を駐めて従事官の洪宗禄を呼んで言った。

「路に沿って倉の貯えが空になっているから、明の兵が来ても何でつないで済ませられようか。この間はただ亀城一つの邑だけ貯えがかなり優かだが、それも吏と民がことごとく散って運び出す策がないという。君は長く亀城にいたから、その所の人は君が来たと聞けば、山の谷に隠れていてもかならず来て会い、賊の勢いを聞こうとする者があるだろう。君はここから急ぎ亀城へ行ってこう諭しなさい。『賊は平壌に入ってまだ出ておらず、明の兵がまさに大勢で至るから、取り返す日は遠くない。憂えるところはただ一つの路の軍の糧が足らないことだけだ。お前たちは品官であれ吏であれ別なく、一つの境の力をことごとく尽くして軍の糧を運び、軍を興すのに乏しくないようにせよ。そうすれば後の日にかならず重い賞があるだろう。』このようにすれば、おそらく心を同じくし力を合わせて定州と嘉山まで運び、事を済ませられるだろう。」

宗禄は慨然として応け諾き、路を分けて去った。私は龍川へ向かった。おおよそ宗禄は己丑の獄に坐して亀城に流されていたが、車が平壌に至った後にはじめて収め叙されて司饔正となった。人がらが忠実で、身を忘れて国に殉い、平らかなも険しいも避けない志があった。

車駕至義州。天將參將戴某遊擊將軍史儒各領一枝兵向平壤至林畔驛聞平壤已陷亦還駐義州天期賜犒軍銀二萬兩唐官領到義州先是遼東聞我國有賊變卽。奏聞而朝議多異同甚或疑我爲賊向導獨兵部尙書石星銳意救援時我使申點在玉河舘尙書呼至庭出遼東報變文書示之點卽號慟與一行朝夕大臨先請援兵尙書。奏發二枝兵往衛。國王及請賜銀點回至通州而告意使鄭崑壽繼至尙書引入火房親問事狀或至流涕云至是連遣使至遼東告急請援且乞內附蓋賊已陷平壤則勢如建瓴意謂朝夕當至鴨綠江事之危急如此故至欲內附幸賊旣入平壤歛跡城中延至數月雖順安永柔去平壤咫尺而猶不來犯以此人心稍定收拾餘燼導迎。天兵終致恢復之功此實天也非人力之所及也

車が義州に至った。

明の将の参将の戴某と遊撃将軍の史儒が、それぞれ一枝の兵を率いて平壌へ向かったが、林畔駅に至って平壌がすでに陥れられたと聞き、やはり義州に戻って駐まった。明の皇帝が軍を犒う銀二万両を賜ったので、明の官が義州へ持って来た。

これより先、遼東はわが国に賊の変があることを聞いてすぐに奏し聞かせたが、明の廷の議はかなり食い違い、ひどくはわが方が賊の道案内になったのだと疑う者もあった。ただ兵部尚書の石星が鋭い意で救い援けようとした。そのころわが使いの申点が玉河館にいたが、尚書が庭に呼び、遼東から変を報せた文書を出して見せたので、申点はすぐに号び慟み、一行と共に朝も夕も大いに哭して、まず援けの兵を請うた。尚書は奏して二枝の兵を出して行って国王を衛らせ、また銀を賜ることを請うた。申点が帰って通州に至ったとき、告急使の鄭崑寿が続いて至ったので、尚書は引いて火房に入れ、親しく事の有様を問い、ときには涙を流すまでであったという。

このときに至って、続けて使いを遼東へ遣わして急を告げ、援けを請い、また内に附くことを乞うた。おおよそ賊がすでに平壌を陥れたのだから、勢いは甕を屋根から傾けるようで、朝か夕には鴨緑江に至ると思われた。事の危く急なことがこのようであったので、内に附こうとまでしたのである。幸いに賊は平壌に入ってから城の中に跡を歛め、幾月も引き延ばし、順安と永柔は平壌から咫尺であるのに、それでも来て犯さなかった。これによって人の心は少し定まり、残った燼を収め拾い、明の兵を導き迎えて、ついに取り返す功を成した。これはまことに天であって、人の力の及ぶところではなかった。

七月遼東副總兵祖承訓率兵五千來援報先至時余病痔苦甚臥不能起上令左相出治沿道軍食余使從事辛慶晉。啓曰。行在時任大自只有斗壽一人不可出臣已受接待唐將之。命雖病猶可自力一行。上許之初七日力疾詣。行宮拜辭蒙引對匍匐以入。啓曰一路自所串以南至定州嘉山則五千兵經過時一二日食可辦安州肅川順安三邑蕩無所儲。天兵過此宜先持三日糧以備安州以南之食若兵至平壤卽日收復則城中粟多可以接濟雖圍城累日平壤西三縣穀亦可竭力輸到軍前不至闕乏此等曲折請令在此諸臣與唐將相議𤄃狹相濟便宜施行。上曰然旣出。內賜熊膽臘藥內醫院僕龍雲者送余于城門外五里痛哭余登箭門嶺哭聲猶聞夕至所串驛吏卒逃散不見形影使軍官往探村落間得數人而至余勉諭曰。國家平日撫養汝輩用在今日何忍逃避且。天兵方至國事正急此乃汝輩效勞立功之秋也因出空册子一卷先書來見者姓名示之曰後日當以此等第功勞。啓聞論賞其不在此錄者事定一一查覈行罰不可免也旣而來者相續皆曰小人因事暫出豈敢避役願書名于册余知人心可合卽移文各處使例置考功册書功勞多少以憑轉報施行於是聞令者爭出搬運柴草架造房屋排設釜鼎數日之間凡事稍集余以爲亂離之民不可用急伹至誠曉諭未甞鞭撻一人進至定州洪宗祿盡起龜城人輸運馬豆及小米到定州嘉山者已二千餘石矣余猶以安州以後爲憂適忠淸道牙山倉稅米全一千二百石載船將向。行在到泊於定州立嵒余喜甚卽馳。啓曰遠穀適至如期似是天賛中興之運請幷取以補軍餉令守門將姜士雄馳去立嵒分運二百石定州二百石嘉山八百石於安州安州則以近賊姑令停船水中以待之宣沙浦僉使張佑成造大定江浮橋老江僉使閔繼仲造晴川江浮橋擬渡。天兵余前往安州調度時賊入平壤久不出巡察使李元翼與兵使李薲駐順安都元帥金命元在肅川余在安州

七月に、遼東副総兵の祖承訓が兵五千を率いて援けに来るという報せが先に届いた。

そのころ私は痔を病んで苦しみがひどく、臥して起きられなかった。王が左議政に路に沿って軍の食を治めるよう命じられたので、私は従事官の辛慶晋に申し上げさせた。

「行在にいま任にある大臣は、ただ斗寿一人だけですから、出すわけにはいきません。臣はすでに明の将を接待する命を受けておりますので、病んでいてもなお自ら力を出せます。」

この一度の行きを王は許された。七日、病を押して行宮に進み、辞を申し上げたところ、召し見ていただいたので、匍って入って申し上げた。

「一つの路のうち、所串より南の定州・嘉山までは、五千の兵が通るとき一日二日の食は弁じられますが、安州・肅川・順安の三邑は洗ったように貯えがありません。明の兵がここを通るときには、まず三日の糧を持たせて安州より南の食に備えさせてください。もし兵が平壌に至ってその日に取り返せば、城の中に粟が多いのでつないで済ませられますし、城を幾日も囲んでも、平壌の西の三県の穀をやはり力を尽くして軍の前まで運べますから、欠け乏しくなるには至りません。こうした曲折は、ここにいる諸臣に明の将と互いに議らせ、優かと狭きとを互いに済ませて、便宜に従って施し行わせてください。」

王は「そうせよ」と言われた。出た後、熊の胆と臘の薬を内から賜った。内医院の僕で龍雲という者が私を城の門の外五里まで送って痛み泣いたので、私が箭門嶺に上がるまでその哭く声が聞こえた。

夕に所串駅に至ると、吏と卒は逃げ散って影も形も見えなかった。軍官に村の間を探らせて数人を得て来たので、私は勉めて諭した。

「国が平日にお前たちを撫で養ったのは、今日に用いようとしてである。どうして忍んで逃げ避けるのか。また明の兵がまさに至り、国の事がちょうど急であるから、これこそお前たちが労を効して功を立てる秋だ。」

そして空の册子一巻を出し、まず来て会った者の姓と名を書いて見せて言った。

「後の日にはまさにこれによって功労の等を第め、申し上げて賞を論じよう。この録に入らない者は、事が定まってから一つ一つ査べ覈めて罰を行うから、免れられない。」

やがて来る者が相次ぎ、みな言った。

「小人は事があってしばらく出ていたのです。どうしてあえて役を避けましょう。どうか册に名を書いてください。」

私は人の心を合わせられると知り、すぐに各処へ文を移して、例として功を考える册を置き、功労の多少を書いてそれに憑って転じ報せ、施し行わせた。そこで令を聞いた者は争って出て、柴と草を搬び運び、房と屋を架け造り、釜と鼎を排べ設けたので、数日のあいだにさまざまの事がやや集まった。私は、乱離の民は急に用いてはならないと思い、ただ至誠で諭し、一人も鞭で撻ったことがなかった。

定州に進むと、洪宗禄が亀城の人をことごとく起こして運んだ馬の豆と小さな米で、定州と嘉山に着いたものがすでに二千余石であった。私はなお安州より後を憂えていたが、ちょうど忠清道の牙山の倉の税の米一千二百石を船に載せて行在へ向かう途中、定州の立巖に来て泊まった。私は喜びがはなはだしく、すぐに馳せて申し上げた。

「遠くの穀がちょうど期のように至りましたので、天が中興の運を賛けられるのかと思われます。どうかあわせて取って軍の糧に補わせてください。」

守門将の姜士雄に立巖へ馳せ行かせ、二百石は定州へ、二百石は嘉山へ、八百石は安州へ分けて運ばせたが、安州は賊に近いので、しばらく船を水の中に停めて待たせた。

宣沙浦僉使の張佑成は大定江に浮橋を造り、老江僉使の閔継仲は晴川江に浮橋を造って、明の兵が渡ることに擬えて備えさせた。私は先に安州へ行ってさまざまに調え度った。そのころ賊は平壌に入ってから久しく出なかったので、巡察使の李元翼と兵使の李薲は順安に駐まり、都元帥の金命元は肅川にいて、私は安州にいた。

十九日祖總兵軍攻平壤不利而退史遊擊戰死先是祖承訓至義州史儒以其軍爲先鋒祖乃遼左勇將累與北虜戰有功是行謂倭必可取至嘉山問我人日平壤賊無乃已走耶曰不退承訓擧酒仰天祝之曰賊猶在必天使我成大功也是日自順安三更發軍進攻平壤適大雨城上無賊守兵。天兵從七星門入城內路狹多委港馬足不可展賊依險阨亂發鳥銃史遊擊中丸卽斃軍馬多死祖遂退軍賊不急追後軍陷泥潦中不能自拔者悉爲賊所害承訓引餘兵還過順安肅川夜中至安州城外立馬呼譯官朴義儉曰吾軍今日多殺賊不幸史遊擊傷死天時又不利大雨泥濘不能殱賊當添兵更進耳語汝宰相毋動浮橋亦不可撤言畢馳渡兩江駐軍於控江亭蓋承訓戰敗膽㥘恐賊追躡欲前阻二江故疾急如此余使辛從事往慰且載送糧饌承訓留控江亭二日連日夜大雨諸軍露處野中衣甲盡濕皆怨承訓已而退還遼東余恐人心動搖。啓請仍留安州以待後軍之至

十九日、祖総兵の軍が平壌を攻めたが利あらずして退き、史遊撃は戦って死んだ。

これより先、祖承訓が義州に至ったとき、史儒がその軍で先鋒となった。祖承訓は遼東の左の勇ましい将で、幾度も北の胡と戦って功があったので、この行きでは倭はかならず取れると思っていた。嘉山に至ってわが方の人に問うた。

「平壌の賊は、もう走ってしまってはいないか。」

退いていないと言うと、承訓は杯を挙げて天を仰いで祝った。

「賊がまだいるのだから、かならず天が私に大きな功を成させるのだ。」

この日、順安から三更に軍を発し、進んで平壌を攻めた。ちょうど大雨が降って城の上に賊の守る兵がなかった。明の兵は七星門から城に入ったが、内の路が狭くて曲がった小路が多く、馬の足を展べられなかった。賊は険しく隘い所に依って鳥銃を乱れ放ったので、史遊撃は弾に当たってすぐに死に、軍と馬が多く死んだ。祖承訓はついに軍を退いたが、賊は急には追わなかった。しかし後の軍で泥と潦の中に落ちて自ら抜け出せなかった者は、ことごとく賊に害された。

承訓は残る兵を率いて帰り、順安と肅川を過ぎ、夜中に安州の城の外に至って馬を立て、訳官の朴義倹を呼んで言った。

「わが軍は今日、賊を多く殺したが、不幸にも史遊撃が傷ついて死に、天の時もまた利あらず、大雨で泥になって賊を殱せなかった。まさに兵を添えて改めて進むから、お前の宰相に言って動かないようにさせ、浮橋も撤かせるな。」

言い終わると馳せて二つの江を渡り、控江亭に軍を駐めた。おおよそ承訓は戦いに敗れて胆が怯え、賊が追い踏むことを恐れて前に二つの江を隔てようとしたので、これほど急いだのである。

私は辛従事官を遣わして慰め、また糧と饌を載せて送った。承訓は控江亭に二日留まったが、日も夜も続けて大雨が降り、諸軍は野の中に露のまま処って衣と甲がことごとく濡れたので、みな承訓を怨んだ。やがて退いて遼東に帰った。私は人の心が動き揺れることを恐れて、そのまま安州に留まって後の軍の至るのを待つことを申し上げて請うた。

全羅水軍節度使李舜臣與慶尙右水使元均全羅右水使李億祺等大破賊兵于巨濟洋中初賊旣登陸均見賊勢大不敢出擊悉沉其戰船百餘艘及火炮軍器於海中獨與手下裨將李英男李雲龍等乘四船奔至昆陽海口欲下陸避賊於是水軍萬餘人皆潰英男諫曰公受。命爲水軍節度今棄軍下陸後日朝廷按罪何以自解不如請兵於全羅道與賊一戰不勝然後逃未晚也均然之使英男往舜臣請援舜臣辭以各有分界非。朝廷之命豈宜擅自越境均又使英男往請凡往返至五六不已每英男回均坐船頭望見痛哭旣而舜臣率板屋船四十艘幷約億祺到巨濟與均合兵進與賊船遇於見乃梁舜臣曰此地海狹水淺難於回旋不如佯退誘賊至海闊處相戰也均乘憤欲直前搏戰舜臣曰公不知兵如此必敗遂以旗揮其船退賊大喜爭乘之旣出隘口舜臣鳴皷一聲諸船一齊回棹擺列於海中正與賊船撞着相距數十步先是舜臣創造龜船以板鋪其上其形穹窿如龜戰士櫂夫皆在其內左右前後多載火炮縱橫出入如梭遇賊船連以大炮碎之諸船一時合攻烟熖漲天焚賊船無數有賊將在樓船高數丈上施樓櫓以紅段彩氈圍其外亦爲大炮所破賊悉赴水死其後賊連戰皆敗遂遁入釜山巨濟不復出一日方督戰流丸中舜臣左肩血流至踵舜臣不言戰罷始以刀割肉出丸深入數寸觀者色墨而舜臣談笑自若捷聞。朝廷大喜。上欲加舜臣以一品言者以爲大濫陞正憲億祺均陞嘉善先是賊將平行長到平壤投書曰日本舟師十餘萬又從西海來未知。大王龍御自此何之蓋賊本欲水陸合勢西下賴此一戰遂斷賊一臂行長雖得平壤而勢孤不敢更進國家得保全羅忠淸以及黃海平安沿海一帶調度軍食傳通號令以濟中興而遼東金復海蓋與天津等地不被震驚使。天兵從陸路來援以致卻賊者皆此一戰之功嗚呼豈非天哉舜臣因率三道舟師留屯于閑山島以遏賊西犯之路

全羅水軍節度使の李舜臣が、慶尚右水使の元均、全羅右水使の李億祺らと共に、巨済の海の中で賊の兵を大いに破った。

はじめ賊が陸に上がると、元均は賊の勢いが大きいのを見てあえて出て撃たず、その戦う船百余隻と火砲と軍器をことごとく海に沈め、ただ手下の裨将の李英男・李雲龍らと共に四隻の船に乗って昆陽の海の口へ走り、陸に降りて賊を避けようとした。これによって水軍の万余人がみな崩れた。李英男は諫めた。

「公は命を受けて水軍節度使となられたのに、いま軍を棄てて陸に降りれば、後の日に朝廷が罪を問うとき、何で自ら明かされるのですか。全羅道に兵を請うて賊とひとたび戦ってみて、勝てなかった後に走っても遅くはありません。」

元均はそのとおりだと思い、英男を遣わして舜臣に援けを請わせた。舜臣は、それぞれ掌る境があるのだから、朝廷の命でなければどうして勝手に境を越えられようかと辞した。元均はまた英男を遣わして請わせ、行き来したのが五、六度に至ってもやめず、英男が帰るたびに元均は船の舳に座って望みながら痛み泣いた。

やがて舜臣が板屋船四十隻を率い、李億祺とも約して巨済に至り、元均と軍を合わせて進んだところ、見乃梁で賊の船と出会った。舜臣は言った。

「ここは海が狭く水が浅くて回しにくいから、偽って退いて賊を誘い、海の広い所に至って戦うに越したことはない。」

元均が憤りに乗じてすぐに進んで撃とうとしたので、舜臣は言った。

「公が軍を知らないことがこのようでは、かならず敗れるだろう。」

そしてついに旗でその船どもを指揮して退いたので、賊は大いに喜んで争って後を追った。狭い口を抜け出ると、舜臣が鼓を一度鳴らしたので、諸々の船は一斉に櫓を返して海の中に列ね立ち、ちょうど賊の船と向き合って、互いの隔たりが数十歩であった。

これより先、舜臣は亀甲船を造っていた。板でその上を覆い、その形が盛り上がって亀のようであり、戦う兵も櫓を漕ぐ者もみなその内にいて、左右と前後に火砲を多く載せていた。機の杼が出入りするように縦横に行き来し、賊の船に出会えば続けて大きな砲で砕いた。諸々の船が一時に交わって撃ったので、煙と炎が天に溢れ、賊の船を焼いたものは数知れなかった。賊の将は高さ数丈の楼の船にいて、上に楼閣を載せ、赤い錦と彩りの毛織でその外を囲っていたが、これもまた大きな砲に砕かれた。賊はみな水に落ちて死んだ。

その後、賊は続けて戦ってみな敗れ、ついに釜山と巨済へ走り入って、再び出て来なかった。

ある日、まさに戦いを督しているとき、流れた弾が舜臣の左の肩に当たり、血が踵まで流れた。舜臣は言わずにいて、戦いが終わった後にようやく刀で肉を割って弾を出したが、数寸も深く入っていた。見る者は顔の色が黒く変わったが、舜臣は語り笑うことを平らかにしていた。

勝ちの報せが伝わると、廷は大いに喜んだ。王は舜臣に一品の官を加えようとされたが、言う者がはなはだ過ぎるとしたので、正憲大夫に陞せ、億祺と元均は嘉善大夫に陞せた。

これより先、賊の将の平行長が平壌に至って書を投げて言った。

「日本の水軍十余万がまた西の海から来ますが、大王の車がこれからどこへ行かれるのか分かりません。」

おおよそ賊はもともと水と陸で勢いを合わせて西へ下ろうとしていた。この一度の戦いのおかげでついに賊の一つの腕を断ったので、行長は平壌を得たとはいえ勢いが孤りで、あえて再び進めなかった。国が全羅道と忠清道を保ち、黄海道と平安道の海の辺の一筋まで守って、軍の糧を弁じ、号令を伝えて中興を成すことができ、遼東の金州・復州・海州・蓋州と天津などの地が驚かされずにすんで、明の兵が陸の路から来て援け、賊を却けることになったのは、みなこの一度の戦いの功である。ああ、どうして天でないことがあろうか。

舜臣は続いて三つの道の水軍を率いて閑山島に留まって陣を張り、賊が西へ犯す路をふさいだ。

前義禁府都事曹好益募兵江東討賊好益昌原人有志行爲人所誣全家徙江東貧困敎授生徒以得食幾二十餘年厲操愈堅。車駕至平壤赦其罪召拜義禁府都事及平壤被圍好益往江東募兵欲救平壤旣而平壤陷軍民皆潰好益還赴。行在余遇於良策驛語之曰。天兵將至子母往義州可還江東仍行召募與。天兵會平壤以助軍勢好益從之余遂狀。啓其由爲起兵文移授好益且助以軍器好益去聚兵得數百人出陣祥原邀賊多斬獲好益書生不閑弓馬徒以忠義激厲士心冬至日率其士卒望。行在四拜終夜痛哭一軍爲之流涕

前の義禁府都事の曹好益が江東で兵を集めて賊を撃った。

好益は昌原の人で、志と行いがあったが、人に誣いられて一家ごと江東へ移された。貧しく苦しかったので生徒を教えて飯を得ること、ほとんど二十余年であったが、志と操はいっそう固かった。車が平壌に至ったとき、その罪を赦し、召して義禁府都事とした。

平壌が囲まれたので、好益は江東へ行って兵を集めて平壌を救おうとしたが、やがて平壌が陥れられて軍も民もみな崩れたので、好益は行在に帰った。私は良策駅で出会って言った。

「明の兵がまさに至るから、あなたは義州へ行かず、江東へ戻ってそのまま呼び集め、明の兵と平壌で会って軍の勢いを助けなさい。」

好益はその言葉に従った。私はついにその由を状啓し、兵を起こす公文を作って好益に与え、また軍器を助けてやった。好益は行って兵を集め、数百人を得て祥原に出て陣を張り、賊を迎え撃って斬ったものが多かった。

好益は書を読む士で弓と馬に慣れていなかったが、ただ忠と義で軍士の心を励ました。冬至の日にその軍を率いて行在を望んで四度拝み、夜を徹して痛み泣いたので、軍はみなこれによって涙を流した。

賊兵犯全羅道金堤郡守鄭湛海南縣監邊應井力戰死之時賊從慶尙右道入全州界湛應非等禦之於熊嶺爲木栅橫斷山路督將士終日大戰射殺賊兵無算賊欲退會日暮矢盡賊更進攻之二人俱死軍遂潰明日賊至全州官吏欲走州人前典籍李廷鸞入城倡吏民固守時賊精銳多死於熊嶺氣已索監司李洸又設疑兵於城外晝則多張旗幟夜則列炬滿山賊到城下環視數周不敢攻而去悉聚熊嶺戰死者屍埋路邊作數大塜立木其上書曰弔期鮮國忠肝義膽蓋嘉其力戰也由是全羅一道獨全

賊の兵が全羅道を犯し、金堤郡守の鄭湛と海南県監の辺応井が力を尽くして戦って死んだ。

そのころ賊は慶尚右道から全州の境に入って来たので、鄭湛と辺応井らが熊嶺でふさいだ。木の柵を作って山の路をさえぎり、将と兵を督して終日大いに戦い、賊の兵を射殺したものは数知れなかった。賊は退こうとしたが、ちょうど日が暮れて矢が尽きた。賊が改めて進んで撃ったので、二人はどちらも死に、軍はついに崩れた。

翌日、賊が全州に至ると、官の吏たちは走ろうとした。全州の人で前の典籍の李廷鸞が城に入り、吏と民を率いて堅く守った。そのころ賊の精鋭は熊嶺で多く死んで気がすでに尽きており、監司の李洸もまた城の外に疑わせる兵を列ね、昼には旗を多く列べ、夜には松明を山に満たして並べた。賊は城の下に至って数回り見回したが、あえて攻めずに去った。

熊嶺で戦って死んだ者の屍をことごとく集め、路の辺に埋めて大きな塚を幾つか作り、その上に木を立ててこう書いた。

「朝鮮国の忠く義しき魂を弔う。」

おおよそその力を尽くして戦ったことを嘉したのである。これによって全羅道の一道だけが全かった。

八月初一日巡察使李元翼巡邊使李薲等率兵進攻平壤不利而退時元翼與薲將數千人往順安別將金應瑞等率龍岡三和甑山江西四邑之軍作二十餘屯在平壤之西金億秋率水軍在大同江下流以爲掎角之勢是日元翼等從平壤城北進兵遇賊先鋒射中二十餘賊旣而賊大至軍士驚潰江邊勇力之士多折傷遂還屯順安

八月一日、巡察使の李元翼と巡辺使の李薲らが兵を率いて進み、平壌を攻めたが、利あらずして退いた。

そのころ元翼と李薲が兵数千を率いて順安へ行き、別将の金応瑞らが龍岡・三和・甑山・江西の四つの邑の兵を率いて二十余りの屯をつくって平壌の西にあり、金億秋が水軍を率いて大同江の下の方にいて、前と後から牽き制える勢いをつくっていた。

この日、元翼らが平壌城の北から兵を進めて賊の先鋒に出会い、二十余人の賊を射当てた。やがて賊が大勢で至ったので、軍は驚き崩れ、江辺の鋭く力ある兵が多く折れ傷ついた。ついに順安に戻って陣を張った。

九月。天朝遊擊將軍沈惟敬來初祖承訓旣敗賊愈驕投書我軍有羣羊攻一虎之語半喩。天兵虎以自詑聲言朝夕將西下義州人皆荷擔而立惟敬本浙民石尙書以爲素諳倭情假遊擊將軍號出送旣至順安馳書倭將以聖旨責問朝鮮有何虧負於日本日本如何撞興師旅時倭變猝發且殘毒甚人人惴恐莫敢有窺其營者惟敬以黃袝褁書使家丁一人背負騎馬直馳田普通門而入倭將行長見其書卽回報求面見議事惟敬將往人皆危之多勸止者惟敬笑曰彼焉能害我也從三四家丁赴之行長平義智玄蘇等盛陳兵威出會于城北十里外降福山下我軍登大興山頭望見倭軍甚多劒㦸如雪惟敬下馬入倭陣中群倭四面圍繞疑被拘執日暮惟敬還倭衆送之甚恭翌日行長遣書馳問且曰大人在白刃中顏色不變雖日本人無以加也惟敬答之曰爾不聞唐朝有郭令公者乎單騎人回紇萬軍中曾不畏懾吾何畏爾也因與倭約曰吾歸報。聖皇當有處分以五十日爲期倭衆無得出平壤西北十里外搶掠朝鮮人母入十里內與倭鬪乃於地界立本爲禁標而我國人皆莫測

九月に明の遊撃将軍の沈惟敬が来た。

はじめ祖承訓が敗れた後、賊はいっそう驕って、わが軍に書を投げたが、その中に「羊の群れが一頭の虎を攻める」という言葉があった。おおよそ明の兵を羊に比べ、虎として自ら誇ったのである。朝も夕も、まさに西へ下るぞと声高に言うので、義州の人はみな荷を負って立っていた。

惟敬はもとより浙江の民であるが、石尚書が、彼はもともと倭の実情を知っているとして、遊撃将軍の名を借らせて出し送ったのである。順安に至ると、倭の将へ書を馳せ遣わし、皇帝の意として「朝鮮が日本に何を負いたというので、日本はどうしてみだりに兵を起こしたのか」と咎め問うた。

そのころ倭の変が不意に起こり、またその荒さと毒さがひどかったので、人は誰も恐れ震えて、あえてその営をうかがう者がなかった。惟敬は黄色い袱に書を包んで家の僕一人の背に負わせ、馬に乗ってそのまま普通門へ馳せ入った。倭の将の行長はその書を見て、すぐに答えて、顔を合わせて事を議ることを請うた。惟敬が行こうとすると、人々はみな危ういとして止める者が多かったので、惟敬は笑って言った。

「彼らがどうして私を害するものか。」

家の僕三、四人を連れて行った。行長と平義智と玄蘇らは軍の威を大きく列ね、城の北十里の外の降福山の下に出て会った。わが軍が大興山の頂に上がって望んだところ、倭の軍ははなはだ多く、刀と槍が雪のようであった。惟敬が馬を降りて倭の陣の中に入ると、多くの倭が四面から囲んだので、捕らえられたのではないかと疑った。日が暮れて惟敬が帰って来たが、倭の群れははなはだ恭しく送り出した。

翌日、行長は書を送って安否を問い、また言った。

「大人が白い刃の中にいて顔の色を変えなかったのは、日本の人であってもこれに加えることはできません。」

惟敬は答えた。

「お前は、唐に郭令公という人がいて、ただ一騎で回紇の万の軍の中に入ってもかつて恐れなかったことを聞いていないのか。私がどうしてお前を恐れようか。」

続いて倭と約した。

「私が帰って皇帝に申し上げれば、まさに処分があるだろうから、五十日を期とする。倭の群れは平壌の西北十里の外に出て掠めてはならず、朝鮮の人は十里の内に入って倭と戦ってはならない。」

そこで地の境に木を立てて禁ずる標としたが、わが国の人はみなその意を量りかねた。

京畿監司沈岱爲賊所襲死於朔寧岱爲人慷慨自雙後常憤憤奉使出入不避夷險是年秋代權徵爲京畿監司從。行朝赴任所路出安州見余于百祥樓上語國難慨然觀其意直欲親犯矢石以角賊余戒之曰古人不云乎耕當問奴君書生臨陣終非所能其處有楊州牧使高彥伯者勇力善鬪君但收拾軍兵使彥伯將之可有功愼勿自將也岱唯唯而不甚然之余又見其孤行入賊中分軍官善射者義州人張某與俱岱旣去數月間每有京畿人。啓事行朝經過安州者未甞不致書問余也余輒親問其人京畿賊勢及監司何爲對曰畿甸創殘甚他道賊曰出焚掠無乾淨地前監司及守令以下悉從深僻處躱避减去儀從微服潜行或屢遷徙不定厥居以防賊患今監司殊不畏賊每巡行先文知委如平日建旗鳴角而行余聞而甚憂之申書戒勅如前岱不變旣乃聚集軍兵悉以自隨聲言欲復京城日遣人入城中召募約爲內應城中人恐事定後以附賊獲罪連名結狀出赴監司自言能內應者日以千百數名曰聽約束曰輸軍器曰報賊情人人往來無阻其間亦有爲賊耳目來察動靜者多出沒相雜而岱信之不疑至是岱在朔寧郡賊詗知之潜波大灘夜襲之岱驚起披衣走出賊追害之軍官張姓者亦同死賊去京畿人權殯于朔寧郡中數日賊復出取其首懸於鍾樓街上積五六十日面色如生京城人哀其忠義相與率財物路守倭贖出之凾送于江華賊退後與尸身還葬故山岱靑松人字公望子大復。朝廷以岱故官之至縣監

京畿監司の沈岱が賊の襲いを受けて朔寧で死んだ。

沈岱は人がらが慷慨で、乱離に遭ってからはいつも憤っており、使いの命を奉じて出入りするとき、平らかなも険しいも選ばなかった。この年の秋、権徴に代わって京畿監司となり、行在から任地へ赴く路に安州を過ぎ、百祥楼の上で私に会った。国の難を語って慨然としたが、その意を見ると、まさに身をもって矢と石を冒し、賊と角したがっていた。私は戒めて言った。

「古の人が言わなかったか、田を耕す事はまさに僕に問えと。あなたは書を読む士だから、陣に臨むことはついにできることではない。その所には楊州牧使の高彦伯がいて、勇ましく力があってよく戦うから、あなたはただ兵を収めて彦伯に率いさせれば功があるだろう。ぜひ自ら率いないようにしなさい。」

沈岱ははいはいと言ったが、そうとは思っていなかった。私はまた彼が独り賊の中に入るのを見て、よく射る軍官で義州の人の張某を分けて共に行かせた。

沈岱が行った後の幾月かのあいだ、京畿の人で行朝へ事を申し上げに安州を過ぎる者があるたびに、私へ書を送って安否を問わないことがなかった。私はいつもその人に京畿の賊の勢いと、監司が何をしているかを親しく問うた。答えて言った。

「京畿の地は壊れ傷つくことが他の道より甚だしく、賊が日ごとに出て焼き掠めますので、きれいな所がありません。先の監司と守令以下はみな深く僻んだ所に従って隠れ、率いる行列を減らし、微かな服で忍び歩き、あるいは幾度も移って居を定めないことで賊の患いを防いだのですが、いまの監司はかなり賊を恐れず、巡り行くたびに先に書を送って知らせることを平日のようにし、旗を立て角笛を吹いて歩まれます。」

私は聞いてはなはだ憂え、重ねて書を送って前のように戒めたが、沈岱は改めなかった。

やがて兵を集めてことごとく自ら率い、都を取り返すと声高に言い、日ごとに人を城の中に入れて呼び集め、内から応ずることを約した。城の中の人は、事が定まった後に賊に附いたとして罪を得ることを恐れ、名を連ねて文書を結び、監司の所へ進んで、自ら内から応じられると言う者が日ごとに千百と数えられた。あるいは約を聞くと言い、あるいは軍器を運んで来ると言い、あるいは賊の実情を知らせると言って、人は誰も行き来にふさがれることがなかったが、そのあいだには賊の耳と目となって動きを察しに来た者もあって、多く出入りして入り混じっていた。それでも沈岱はこれを信じて疑わなかった。

このときに至って沈岱は朔寧郡にいたが、賊がうかがい知って、ひそかに大灘を渡って夜に襲った。沈岱は驚き起きて衣を掛けて走り出たが、賊が追って来て害し、張氏の軍官も共に死んだ。

賊が去った後、京畿の人が朔寧郡の中に仮に埋めたが、幾日かして賊がまた出て、その首を取って鐘楼の街に懸けた。五、六十日も積もるのに顔の色が生きている人のようであったので、都の人はその忠と義を悲しみ、互いに財を集めて守る倭に与え、買い出して函に納め、江華へ送った。賊が退いた後、屍と共に故郷の山に還して埋めた。

沈岱は青松の人で、字は公望、子の大復は、廷が沈岱の事によって官を与えて県監に至った。

江原道助防將元豪擊賊于龜尾浦殲之又戰于春川兵敗而死時賊大陣在忠州及原州連營達于京都其在忠州者取路竹山陽智龍仁往來其在原州者欲從砥平楊根楊州廣州抵京元豪擊殲于驪州龜尾浦利川府使邊應星又船載射手乘霧邀賊於驪州之馬灘殺賊頗多由是原州賊路遂斷悉由忠州之路而利川驪州楊根砥平等邑之民見遺於賊鋒者人以爲豪之功也巡察使柳永吉又催豪擊春川賊豪旣勝頗有輕敵之意賊知豪將至設伏以待豪不知而進伏發遂爲所殺於是江原一道無禦賊者

江原道助防将の元豪が亀尾浦で賊を撃って打ち破り、また春川で戦って軍が敗れ、死んだ。

そのころ賊の大きな陣が忠州と原州にあって、営が続いて都に接していた。忠州にいる賊は竹山・陽智・龍仁に路を取って行き来し、原州にいる賊は砥平・楊根・楊州・広州を経て都に至ろうとしていた。元豪が驪州の亀尾浦で撃って打ち破り、利川府使の辺応星がまた射手を船に載せ、霧に乗じて驪州の馬灘で賊を迎え撃ち、賊をかなり多く殺した。これによって原州の方の賊の路はついに絶たれ、みな忠州の路ばかりを通ったので、利川・驪州・楊根・砥平などの邑の民が賊の刃先から残されたのを、人々は元豪の功だと言った。

巡察使の柳永吉がまた元豪を催して春川の賊を撃たせた。元豪はすでに勝った後だったので、かなり賊を軽んじる意があった。賊は元豪がまさに来ると知って伏兵を置いて待っていたが、元豪は知らずに進み、伏兵が起こってついに殺された。これによって江原道の一道に賊を防ぐ者がなくなった。

訓鍊副奉事權應銖鄭大任等以鄉兵擊永川賊破之遂復永川應銖永川人有膽勇與大任率鄕兵千餘人圍賊于永川軍士畏賊不進應銖斬數人士卒爭奮踰城而入與賊巷擊賊不勝奔入倉中或上明遠樓我軍以火攻之悉燒死臭聞數里餘賊數十遁歸慶州自是新寧義興義城安東等處賊皆聚一路而左道郡邑得保永川一戰之功也

訓練副奉事の権応銖と鄭大任らが邑の兵で永川の賊を撃って破り、ついに永川を取り返した。

応銖は永川の人で、胆力と勇があった。大任と共に邑の兵千余人を率いて永川で賊を囲んだが、軍士が賊を恐れて進まなかったので、応銖が数人を斬ったところ、軍士は争って奮い、城を越えて入り、賊と小路で撃ち合った。賊は勝てずに倉の中へ走り入り、あるいは明遠楼に上がった。わが軍が火で攻めたので、みな焼け死んで臭いが数里まで及んだ。残る賊の数十人は慶州へ走り帰った。

これより新寧・義興・義城・安東などの地の賊はみな一つの路に集まり、左の道の邑々が保たれることができたのは、永川の一度の戦いの功である。

左兵使朴晋收復慶州晋初自密陽奔入山中。朝廷以前兵使李珏棄城逃走卽其所在誅之以晉代爲兵使時賊兵充滿。行朝聲聞不通南方已久人心摇動不知所出及聞晋爲兵使於是散民稍集而守令往往從山谷中復出莅事始知有。朝廷矣及權應銖復永川晋率左道兵萬餘進薄慶州城下賊潜出北門掩軍後晋奔還安康夜又使人潜伏城下發飛擊震天雷入城中墮於客舍庭中賊不曉其制爭聚觀之相與推轉而諦視之俄而炮自中而發聲震天地鐵片星碎中仆卽斃者三十餘人未中者亦顚仆良久而起莫不驚懼不測其制皆以爲神明日遂擧衆葉城遁歸西生浦晋遂入慶州得餘穀萬餘石事聞陞晋嘉善應銖通政大任醴泉郡守震天雷飛擊古無其制有軍器寺火炮匠李長孫者創出取震天雷以大碗口發之能飛至五六百步墜地良久火自內發賊最畏此物

左兵使の朴晋が慶州を取り返した。

朴晋はじめ密陽から山の中へ走り入っていた。廷は、先の兵使の李珏が城を棄てて走ったとして、すぐにその居る所で斬り、朴晋を代わりの兵使とした。そのころ賊の兵が満ちていて、行朝と南の消息が通じなくなってすでに久しく、人の心は揺れてどうすべきかを知らなかったが、朴晋が兵使になったと聞いて、そこで散っていた民が少しずつ集まり、守令もおりおり山の谷から再び出て事を見たので、ようやく朝廷があることを知るようになった。

権応銖が永川を取り返すと、朴晋は左の道の兵万余を率いて進み、慶州の城の下に迫った。賊がひそかに北の門から出て軍の後ろを襲ったので、朴晋は安康へ走り帰った。夜にまた人をやって城の下にひそかに伏せさせ、飛撃震天雷を放って城の中へ入れさせたところ、客舎の庭の中に落ちた。賊はその作りの法を知らず、争って集まって見物し、互いに転がして詳しく見たが、やがて砲の弾が内で裂け、音が天と地を震わせ、鉄の片が星のように砕けた。当たって倒れてすぐに死んだ者が三十余人、当たらなかった者も倒れてしばらくして起きたので、驚き恐れて、その作りの法を量りかね、みな神しいものだと言った。

翌日、ついに衆を挙げて城を棄てて西生浦へ走り帰ったので、朴晋はついに慶州に入って残る穀万余石を得た。事が聞こえて、朴晋は嘉善大夫に、応銖は通政大夫に陞り、大任は醴泉郡守となった。

震天雷は古くからその作りの法がなかったが、軍器寺の火砲匠で李長孫という者がはじめて作り出した。震天雷を大碗口で放てば、よく五、六百歩を飛んで地に落ち、しばらくしてから火が内から起こるので、賊はこの物を最も恐れた。

時各道起義兵討賊者甚衆在全羅道者前判决事金千鎰僉知高敬命前寧海府使崔慶會千鎰宇士重率兵先至京畿。朝廷嘉之賜其軍號曰倡義已而不能軍入江華敬命字而順孟英之子有文才亦率鄕兵移檄郡縣討賊與賊職敗死其子從厚代領其衆名曰復讎軍慶會後爲慶尙右兵使死於晋州其在慶尙道者玄風人郭再祐高靈人前佐郞金沔陜川人前掌令鄭仁弘禮安人前翰林金垓校書正字柳宗介草溪人李大期軍威校生張士珍再祐越之子頗有才略累與賊戰賊憚之固守鼎津使賊不得入宜寧界人以爲再祐之功沔故武將世文之子禦賊于居昌牛脊峴累卻賊事聞擢爲右兵使病卒於軍中宗介起兵未久遇賊而死。朝廷嘉其志。贈禮曹參議士珍前後射殺賊兵甚多賊稱爲張將軍不敢入軍威界一日賊設伏誘之士珍竆追陷伏中猶大呼力戰矢盡賊擊斷士珍一臂士珍獨以一臂𡚒擊未已遂死事聞贈水軍節度使其在忠淸道者僧人靈主前提督官趙憲前淸州牧使金弘敏庶孽李山謙士人朴春茂忠州人趙德恭內禁衛趙雄淸州人李逢靈圭勇力善鬪與憲復淸州後爲賊所敗皆死雄尤勇敢能馬上立馳殺賊頗多戰死其在京畿者前司諫禹性傳前正鄭叔夏水原人崔屹高陽人進士李魯李山輝前牧使南彥經幼學金琢前正郞俞大進忠義衛李軼庶孽洪季男士人王玉季男最驍勇其餘各聚鄕里或百餘人或數十餘人以義爲名者不可勝數而無可紀之績皆遷徙日闋而已又有僧人惟政在金剛山表訓寺賊入山中寺僧皆走惟政不動賊不敢逼或合掌致敬而去余在安州移文四方使各起兵赴難文至山中惟政展佛卓上呼諸僧讀之流涕遂起僧軍西赴勤。王比至平壤衆千餘人屯平壤城東與順安軍作爲形勢又有宗室湖城監率百餘人赴。行在朝廷陞秩爲湖城都正使屯順安與大軍合勢其在北道者評事鄭文孚訓戎僉使高敬民功最多云

そのころ諸道で義兵を起こして賊を撃つ者がはなはだ多かった。

全羅道にいた者は、前の判決事の金千鎰、僉知の高敬命、前の寧海府使の崔慶会である。千鎰は字が士重で、兵を率いてまず京畿に至ったので、廷は嘉して、その軍に倡義という名を与えたが、やがて軍を成せず江華に入った。敬命は字が而順、孟英の子で文の才があり、やはり邑の兵を率いて諸邑に檄を移して賊を撃ったが、賊と戦って敗れて死んだ。その子の従厚が代わってその群れを率い、名を復讐軍とした。慶会は後に慶尚右兵使となり、晋州で死んだ。

慶尚道にいた者は、玄風の人の郭再祐、高霊の人で前の佐郎の金沔、陜川の人で前の掌令の鄭仁弘、礼安の人で前の翰林の金垓、校書正字の柳宗介、草渓の人の李大期、軍威の校生の張士珍である。再祐は越の子で、かなり才と謀があり、幾度も賊と戦ったので賊は彼を憚った。鼎津を堅く守って賊を宜寧の境に入らせなかったので、人々は再祐の功だと言った。沔は昔の武将の世文の子で、居昌の牛脊峴で賊を防いで幾度も却けた。事が聞こえて右兵使に抜かれたが、軍の中で病んで死んだ。宗介は兵を起こして久しからずして賊に出会って死んだので、廷はその志を嘉して礼曹参議を与えた。士珍は前後に賊の兵を射殺したものがはなはだ多く、賊は張将軍と称して、あえて軍威の境に入らなかった。ある日、賊が伏兵を置いて誘うと、士珍はどこまでも追って伏兵の中に落ちたが、それでも大きく叫んで力を尽くして戦い、矢が尽きた。賊が士珍の一方の腕を撃って断ったが、士珍は独り一方の腕で奮い撃つことをやめず、ついに死んだ。事が聞こえて水軍節度使を与えた。

忠清道にいた者は、僧の霊圭、前の提督官の趙憲、前の清州牧使の金弘敏、庶の出の李山謙、士の朴春茂、忠州の人の趙徳恭、内禁衛の趙雄、清州の人の李逢である。霊圭は勇ましく力があってよく戦い、趙憲と共に清州を取り返したが、後に賊に敗れてどちらも死んだ。趙雄はいっそう勇敢で、よく馬の上に立って馳せ、賊をかなり多く殺したが、戦って死んだ。

京畿にいた者は、前の司諫の禹性伝、前の正の鄭叔夏、水原の人の崔屹、高陽の人の進士の李魯と李山輝、前の牧使の南彦経、幼学の金琢、前の正郎の兪大進、忠義衛の李軼、庶の出の洪季男、士の王玉である。季男が最も鋭く勇ましかった。

その他にもそれぞれ邑で集まり、あるいは百余人、あるいは数十余人で、義を名とした者は数え尽くせなかったが、記すに足る跡はなく、みな移り歩いて日を送っただけである。

また僧の惟政が金剛山の表訓寺にいたが、賊が山に入ると寺の僧はみな走ったのに、惟政は動かなかったので、賊はあえて近づけず、あるいは手を合わせて敬いを示して去った。私が安州にいて四方に文を移し、それぞれ兵を起こして難きに赴くようにさせたが、文が山の中に届くと、惟政は仏の卓の上に広げ、諸々の僧を呼んで読みながら涙を流した。ついに僧の軍を起こして西へ進んで王を援け、平壌に至るころには群れが千余人であった。平壌城の東に陣を張って、順安の軍と共に勢いをつくった。

また宗室の湖城監が百余人を率いて行在に進んだので、廷は品の階を上げて湖城都正とし、順安に陣を張って大きな軍と勢いを合わせさせた。

北の道にいた者は、評事の鄭文孚と訓戎僉使の高敬民の功が最も多かったという。

以李鎰爲巡邊使。召李薲還。行在鎰初守江灘平壤旣陷渡江而南入黃海道從安岳至海州又自海州至江原道伊川從。世子募得兵數百聞賊入平壤久不出而。天兵將至遂還平壤結陣于林原坪在平壤東北十餘里與義兵將高忠卿等連勢頗有斬獲而李薲在順安每進兵輒北撫軍司從官皆欲以鎰代薲元帥金命元獨主李薲與撫軍司論議不協頗有相激之端。朝廷使余往順安軍中使之鎭定調輯旣而朝議皆言鎰勝薲又聞。天兵將出恐薲不勝任遂以鎰代之朴名賢代領鎰軍而薲還。行在

李鎰を巡辺使とし、李薲を召して行在に帰らせた。

李鎰ははじめ江の瀬を守っていたが、平壌が陥れられると江を渡って南へ黄海道に入り、安岳から海州に至り、また海州から江原道の利川に至って世子に従い、兵数百を集め得た。賊が平壌に入った後、久しく出ず、明の兵がまさに至ると聞いて、ついに平壌へ戻り、林原坪に陣を張ったが、平壌の東北十余里にある所である。義兵将の高忠卿らと勢いをつないで、かなり斬り得たものがあった。

一方、李薲は順安にいて、兵を進めるたびにすぐに敗れたので、撫軍司の従官たちはみな李鎰を李薲に代えようとした。元帥の金命元だけが独り李薲を主としたので、撫軍司と議が合わず、かなり互いに触れ合う端があった。廷は私を順安の軍の中へ遣わして鎮め定め、平らかにさせた。やがて廷の議はみな李鎰が李薲より勝ると言い、また明の兵がまさに出て来ると聞いて、李薲が任に堪えないことを恐れ、ついに李鎰に代えさせ、朴名賢が李鎰の軍を代わって率い、李薲は行在に帰った。

獲賊諜金順良余自安州遣軍官成男持傳命密約進取事子水軍將金億秋時十二月初二日也戒曰六日內回繳過期不繳追成男詰之成男云已使江西軍人金順良還納又捕順良來問傳令安在其人故作迷罔狀言辭流遁成男曰此人持傳令出數日還軍中牽一牛來與同伴屠食人問牛何來順良答曰吾牛而寄養於族人家故還取耳今聞其言蹤跡可疑余始令栲掠而嚴鞫之乃吐實曰小人爲賊間其日受傳令及秘密公文直入平壤示賊賊將置傳令案上公文則見卽扯裂賞一牛同爲間者徐漢龍賞紬五疋約更探外事期十五日來報故聽出矣余問爲間者獨汝乎更有幾人對曰凡四十餘輩每散出順安江西諸陣以至肅川安州義州無不貫穿行走隨事輒報余大駭卽狀。啓又按名急通諸陣捕之或得或逸斬順良於城外不久。天兵至而賊不知蓋其類駭散故耳玆亦事機之偶然者莫非天也

賊の諜者の金順良を捕らえた。

私は安州で軍官の成男を遣わし、伝令を持って水軍将の金億秋のもとへ進み、七日を密かに約させた。ときは十二月二日であった。戒めて言った。

「六日の内に伝令を返し奉れ。期限を過ぎて奉らなければ罪を問うぞ。」

期限を過ぎても奉らなかったので、成男を咎めて問うと、成男は言った。

「すでに江西の軍人の金順良に返し奉らせました。」

そこで順良を捕らえて来て、伝令はどこにあるかと問うと、その人はわざと戸惑った様をつくり、言葉があちこち流れた。成男は言った。

「この人が伝令を持って出て幾日かして軍の中に戻るとき、牛一頭を引いて来て仲間と殺して食べました。人々が牛はどこから出たのかと問うと、順良は『自分の牛を親類の家に預けて飼わせていたので、取り返して来たのだ』と言いましたが、いまその話を聞きますと、跡が疑わしくあります。」

私はようやく杖を打って厳しく問わせたところ、そこで事実を吐いた。

「小人は賊の間者となりました。その日、伝令と秘密の公文を受け取って、そのまま平壌に入って賊に見せました。賊の将は伝令は机の上に置き、公文は見るとすぐに裂いて捨て、牛一頭を賞に与え、共に間者となった徐漢龍には紬五匹を賞に与えました。あらためて外の事をうかがい、十五日に来て知らせることを期しましたので、放されて出ました。」

私は問うた。

「間者となった者はお前だけか、ほかに何人いるのか。」

答えて言った。

「あわせて四十余りの者どもで、いつも順安と江西の諸陣に散り出て、肅川・安州・義州に至るまで、貫いて行かない所がなく、事があるたびにすぐに知らせます。」

私は大いに驚いてすぐに状啓し、また名を調べて諸陣に急ぎ知らせて捕らえさせたところ、あるいは捕らえ、あるいは逃した。順良は城の外で斬った。

久しからずして明の兵が至ったが、賊は知らなかった。おおよそその者どもが驚き散ったからである。これもまた事の機が偶たま合ったのであって、天でないものはない。