いにしえの文 › 懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) › 巻3 芹曝集

亀城の穀の有様と、自ら軍に出た人を褒め称えることを請う龜城粮穀形止及請褒獎自願從軍人。啓

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 懲毖錄 · 柳成龍(リュ・ソンリョン) · 1633年刊行(壬辰倭乱の後に著す) · 段落 1 · 漢字 417字 · 朗読 3.2分

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 巻3 芹曝集 壬辰倭乱が終わった後、領議政の柳成龍が自らの目で見たものを記して残した記録。「過ぎたことを懲らして後の憂いを慎む」という意で名を付けた。戦争がどのように始まり、朝廷が何を見落としたかを言い逃れなく記した。李舜臣を推挙したこと、明の軍とのいざこざ、民が経た惨状がそのまま収められている。

臣近見從事官洪宗祿牒報昌城倉穀合白米田造米都數萬餘石皆可不春而食其數最優朔州倉穀田米四千九百餘石白造米各七百五十餘石蒸米一百二十餘石都合七千餘石兩邑馬豆合七千餘石以此兩邑之穀足可支待萬兵數月之粮只是道里窵遠人馬不俱輸運爲難耳然昌城之穀可以從船路順流而下數日可達義州朔州則必運輸於龜城又自龜城輸到定州其勢似便但龜城之穀其數自多今姑置朔州之穀先輸龜城倉穀於定州博川則可以支待唐兵請以此意令備邊司急急知委于調度使等處使之隨勢及時措置何如且洪宗祿召募自願哨探及從軍者起送于都元帥處前後十七人其中朔州別侍衛韓克斗金起壽二人直來此處克斗自言於平壤之戰射賊頗多今又自願從軍起壽斬得賊首獻於軍中而褒賞不及頗爲缺望且其一家兄弟三人皆力戰以死云甚可矜惻此二人臣意當卽照例論賞使不踰時其戰死者家口亦令所在優恤以勸來者可也朔州一邑頃者爲訛言所動人吏逃竄倉庫幾不能守有本邑座首李天始者盡心據守得以保全其功不小云如此之人亦令該司各別褒獎然後人心庶有興起故敢此幷。啓

臣が近ごろ従事官の洪宗禄の牒報を見ましたところ、昌城の倉の穀は白い米と田の米と造の米を合わせてあわせて万余石で、みな搗かずとも食べられ、その数が最も優かです。朔州の倉の穀は田の米が四千九百余石、白い米と造の米がそれぞれ七百五十余石、蒸した米が百二十余石で、あわせて七千余石であり、二つの邑の馬の豆があわせて七千余石です。この二つの邑の穀であれば、万の兵の数か月の糧を支えるに足ります。ただ道のりが遠く、人も馬も揃わないので、運ぶのが難しいだけです。

しかし昌城の穀は船の路で流れに順って下せば数日で義州に達し、朔州はかならず亀城へ運び、さらに亀城から定州へ運ばなければなりませんので、その勢いが便であるようです。ただ亀城の穀はもとより多いので、いま朔州の穀はしばらく置いて、まず亀城の倉の穀を定州と博川へ運べば明の兵を支えられます。この意を備辺司に、調度使などの所へ急ぎ知らせさせ、勢いに随って時に及んで措置させられてはいかがでしょうか。

また洪宗禄が、自ら出て賊の情を察することや軍に従うことを願う者を呼び集めて都元帥の所へ送ったのが、前後で十七人です。そのうち朔州の別侍衛の韓克斗と金起寿の二人は、そのままこの所に来ました。韓克斗は平壌の戦いで賊を射当てたものがかなり多かったと自ら申し、いままた自ら軍に出ることを願っております。金起寿は賊の首を斬って軍の中に献じたのに賞が及ばず、かなり心残りにしており、またその家の兄弟三人がみな力を尽くして戦って死んだといいますので、はなはだ憐れです。この二人は、臣の考えではすぐに例に照らして賞を論じ、時を越えないようにし、戦って死んだ者の家の者も、その土地で優かに顧みて後の人を勧め励ますのが良いでしょう。

朔州の一つの邑は、さきに訛った噂に動かされて吏が逃げ隠れ、倉庫をほとんど守れないところでしたが、その邑の座首の李天始が心を尽くして守り、全く保ったので、その功は小さくないといいます。このような人も、担う官庁に特に褒め称えさせた後にこそ人の心が起こるでしょう。それゆえ、あえてこれをあわせて申し上げます。

夾注 1

壬辰七月三日

壬辰の年の七月三日。