いにしえの文 › 懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) › 巻6 辰巳錄

明の人と問い答えた経緯を申し上げ、続いてご機嫌を伺った状啓馳。啓見唐人問答緣由因奔問。起居狀

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 懲毖錄 · 柳成龍(リュ・ソンリョン) · 1633年刊行(壬辰倭乱の後に著す) · 段落 1 · 漢字 915字 · 朗読 8分

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 巻6 辰巳錄 壬辰倭乱が終わった後、領議政の柳成龍が自らの目で見たものを記して残した記録。「過ぎたことを懲らして後の憂いを慎む」という意で名を付けた。戦争がどのように始まり、朝廷が何を見落としたかを言い逃れなく記した。李舜臣を推挙したこと、明の軍とのいざこざ、民が経た惨状がそのまま収められている。

今月十二日夜追來唐人八名自平壤馳到肅川十三日發向義州臣招致摠騎一人問賊兵形止則答云賊兵數本不多其中亦多假設疑似之兵以惑人見如持旗幟之類皆是不中用之兵若我兵來集乘夜掩擊則可以一擧蕩滅云臣對曰爾言正是正是倭賊當初原不敢與我軍相敵只緣民不知兵已二百年猝然遇之不能扺當望風奔潰以至於此今兵迫城下已累日城中望救一刻甚急未知。天兵當於何日到此摠騎答云十日十一日間應已越江因言援兵之來本不當遲緩而義州節制使多般搪塞哨探之人我地方官甚以爲非云奮臂扼腕言之不已臣答云本官不識事體有此違悞國家欲拿鞫論罪而以兵事方殷不能易置邊將姑待事定後論罪云則答曰何至欲拿打因卽辭去臣又聞唐人於一紙圖畫平壤地形及賊陣形止持去云昨日夕時林世祿又率唐人十五名馳到安州更擬哨探於平壤今朝始見所賫咨文則有題請擬議之語兵期遲速似難料度臣不勝悶迫問世祿曰平壤受兵已久留陣將官方極力把截但水上下淺灘甚多賊狡計百出萬一偷渡繞出城北則勢甚危迫未知。天兵幾日當到此答曰前去夜不收已探賊情而去軍馬當卽越江俺回路當遇於定州等處臣因致往來勞苦慰謝之意而退大槪竊看唐人辭色自初雖聞我國被倭賊來侵而不知虛的其後南邊郡邑以及都城連陷於旬日之間頗致恠訝且又事勢則甚急而告變請兵之事率多稽緩義州又復多費辭說糖塞來探之人別無泣血奔走倉黃迫切之狀故雖云發兵相救而終以事情爲疑致此遷延此事理之所固然者且唐人累問。國王何以又爲遷避臣令譯官對以賊兵迫城群臣請少出避而將官率兵督守保無疎虞云答曰知道矣惟是一路郡縣人吏頑甚且逃去殆盡唐人飲食及飼馬草料多不接濟唐人時有憝色發於言語此於事機體貌極爲關重臣戒勅守令使之十分盡心而猶未如意前頭大兵之來調度支供益難成形臣尤爲悶慮且臣之愚昧何知兵事但連日在城中詳觀賊兵形勢極有可乘之機若得援兵來到合力齊擧則可無不勝之勢而。大駕移蹕之後民心不甚擾動軍士各自致力此亦恐是天意江邊潰散還歸之卒及他未發之士勿論多少節次添入爲當傳聞黃海道海邊居民亦多相聚剽掠別無統屬其數甚多云亦須別遣一人急速招集以添軍數或以海州牧使李泰亨爲其道節度使俾令收集散亡鎭守列邑如白川延安安岳文化海州許多海邊之邑賊兵皆所未到。朝廷嚴勅守令母得如前奔避以待賊退時合勢追截之計亦爲今時之急務矣謹遣從事官辛慶晉奉狀馳。聞且奔問。起居

今月十二日の夜、後から来た明の人八名が平壌から粛川に馳せ至り、十三日に義州へ向けて発ちました。臣が明の摠騎一人を招いて敵兵の様子を問いますと、このように答えました。「敵兵の数はもともと多くなく、そのうちにも偽って拵えて疑わせる兵が多く、人の目を惑わします。旗幟を持つ類はみな用に立たない兵です。我が軍が来て集まり、夜に乗じて襲い撃てば、一挙に掃き滅ぼすことができます。」

臣は答えました。「あなたの言葉は正しく、正しいのです。倭賊は初め、もともと敢えて我が軍と当たりませんでしたが、ただ民が兵事を知らぬことすでに二百年ですので、不意に遇って当たりきれず、敵の勢いを見るだけで崩れ、この境に至りました。今、敵兵が城の下に迫ってすでに幾日になり、城中で救いを望むことが一刻も急です。明の軍がいつの日にここへ至るのか分かりません。」

その摠騎は「十日か十一日のあいだにすでに江を越えているでしょう」と答え、続いて「援けの兵が来るのはもともと遅れるはずのないことなのに、義州の節制使がいろいろに哨探の人を遮って引き延ばすので、我が地方官はひどくそれを非としています」と申し、袖をまくり手首を握りしめて言うことをやめませんでした。臣が「その邑の官員が事の体面を知らず、このような食い違いがありました。国では捕らえて鞠問し罪を論じようとしましたが、兵事が盛んで辺将を容易に替えられませんので、まず事の定まった後に罪を論じようとしております」と申しますと、「どうして捕らえて打つまでに至りましょうか」と言ってすぐ辞し去りました。臣はまた、明の人が紙一枚に平壌の地形と敵陣の様子を描いて持ち去ったと聞きました。

昨日の夕べ、林世祿がまた明の人十五名を率いて安州に馳せ至り、改めて平壌を哨探しようとしました。今朝になって持って来た咨文を見ますと、上に申し上げて議させるという語がありますので、兵の来る期の遅速を計り度りがたいように思われます。臣は悩ましさと迫りに堪えず、林世祿に問いました。「平壌が兵を受けてすでに久しく、陣に留まる将官たちが力を尽くして遮り断っております。ただ水の上下の浅い灘が非常に多く、敵の狡い計りごとは百通りに出ますので、もし密かに渡って城の北へ回り出れば形勢はひどく危うく迫ります。明の軍が幾日にここへ至るのか分かりません。」答えて「先に行った夜不収がすでに敵の情を探って行きましたので、軍馬はすぐ江を越えるでしょう。私は帰る路で定州などの地で遇うはずです」と申しました。臣はそこで往き来の労苦を慰め謝する意を致して退きました。

おおよそ、ひそかに明の人の言葉と顔色を見ますとこうです。初めは我が国が倭賊の侵しを受けたという話を聞いても虚か実かを知らず、その後に南の郡邑から都城まで十日のあいだに相次いで陥ちましたので、なかなか怪しみ訝りました。その上、事勢はひどく急なのに変を告げ兵を請う事がおおむね遅れ、義州ではまた言葉ばかり多く費やして来て探る人を遮り引き延ばし、血の涙で奔り走る倉惶で迫り切った様子が別にありませんでした。ですから兵を発して救うと申しながらも、ついに事情を疑ってこのように延び延びになったのであり、これは事理から見てもっともなことです。

また明の人が、国王はどうしてまた移り避けられたのかを幾度も問いました。臣が訳官に「敵兵が城に迫り、群臣が少し出て避けられることを請い、将官たちが兵を率いて督し守っておりますので、粗略の憂いはありません」と答えさせますと、「分かった」と申しました。ただこの一つの路の郡県の人吏がひどく頑なで、また逃げ去ってほとんど尽きましたので、明の人の飲食と馬を飼う草料を継ぎ給せないことが多くあります。明の人が時に怒りの色を言葉にあらわしますので、これは事の機から見ても体面から見ても極めて重い事です。臣は守令を戒め申し付けて十分に心を尽くさせましたが、まだ意のようになりません。これから大きな兵が来れば、調え供する事はいよいよ形を成しがたく、臣はいっそう悩ましく思われます。

また臣は愚かで暗いのですから、兵事をどうして知りましょうか。ただ幾日か城中に在って敵兵の形勢を詳しく見ますと、乗ずるに足る機が大いにあります。援けの兵が来て力を合わせて共に挙がれば、勝てない形勢はないでしょう。大駕が移られた後も民の心がひどく騒ぎ動かず、軍士がそれぞれ力を尽くしておりますので、これもまた天の意かと思われます。江辺で崩れ散って帰って来た軍卒や、まだ出ていない士を、多少を選ばず順を追って加え入れるのが当然です。

伝え聞くところでは、黄海道の海辺の民も多く集まって剽い掠めているが統べる所がなく、その数が非常に多いと申します。これもまた別に一人を遣わして急ぎ招き集め、軍の数に加えるべきです。あるいは海州牧使の李泰亨をその道の節度使として、散り亡せた者を収め集め、諸邑を鎮め守らせてください。白川・延安・安岳・文化・海州のような海辺の諸邑には、敵兵がみな至っておりません。朝廷から守令を厳しく申し付けて、前のように奔り避けられないようにし、敵の退く時を待って勢を合わせて追い断つ計策を立てることも、今の急務です。謹んで従事官の辛慶晋を遣わして状を奉じ馳せて申し上げさせ、併せてご機嫌をお伺いいたします。

夾注 4

壬辰六月十三日

壬辰の年六月十三日。

摠騎 — 明の軍の軍官

大駕 — 王の車、すなわち王を指す言葉である。 ― 訳者

この段落で明の人が言った言葉の中の「我が軍」は、言った人が明の人であるから明の軍を指す。 ― 訳者