いにしえの文 › 懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) › 巻9 辰巳錄

明の軍に従って開城府に至った事と臨津江の舟橋を申し上げる隨。天兵到開城府及臨津浮橋狀

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 懲毖錄 · 柳成龍(リュ・ソンリョン) · 1633年刊行(壬辰倭乱の後に著す) · 段落 1 · 漢字 232字 · 朗読 1.9分

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 巻9 辰巳錄 壬辰倭乱が終わった後、領議政の柳成龍が自らの目で見たものを記して残した記録。「過ぎたことを懲らして後の憂いを慎む」という意で名を付けた。戦争がどのように始まり、朝廷が何を見落としたかを言い逃れなく記した。李舜臣を推挙したこと、明の軍とのいざこざ、民が経た惨状がそのまま収められている。

臣先到開城府卽爲奉審于。穆淸殿殿宇皆被賊兵毀撤只存瓦礫。睟容所在倉卒亦未知何處不勝流涕痛憤之至京畿糧料自江華船泊于後西江因民力不齊未得趁時輸運提督到此留一日聞京賊有遁去之形欲褁三日糧以進而計無所出大槪京畿之事比他道尤爲疎濶若大軍入京城而人馬糧餉不繼則狼狽之狀不可形言臣雖文移督促項背相望而人心解弛谷處議兵官軍一無來會者事事如此極爲寒心臨津浮橋臣與判尹李德馨馳去監督僅得成形但江面大濶馬軍似難俱渡故提督欲使騎兵由淺灘步兵及車子由浮橋以濟臣隨大軍將向京城他餘事追後馳。啓計料

臣はまず開城府に至り、ただちに穆清殿を奉審いたしました。殿閣はみな敵兵に壊し取られて瓦の欠けばかりが残り、御真を奉安した所も、にわかのことでどこであるかわからず、涙が流れ、痛ましく憤ろしい思いに堪えません。

京畿の糧は江華から船で後西江に着けましたが、民の力が揃わず、時に間に合うように運ぶことができませんでした。提督はここに至って一日留まりましたが、京城の敵に逃げ去る気配があると聞き、三日分の糧を包んで進もうとしておりますが、計策の出るところがございません。

おおよそ京畿の事は、他の道に比べていっそう粗略です。もし大軍が京城に入ったのに人馬の糧が続かなければ、狼狽する様は言葉で言い表すことができません。臣が公文を送って催促したものは後ろ前に相望むほどでありますのに、人心が緩んで、各処の義兵も官軍も一人として来て集まる者がございません。事ごとにこのようでありますから、きわめて寒心に堪えません。

臨津江の舟橋は、臣が判尹李徳馨とともに馳せて行き監督して、ようやく形を成しました。ただ川面が大きく広く、騎兵がみな渡るのは難しいように思われます。そこで提督は、騎兵は浅い瀬から、歩兵と車は舟橋から渡らせようとしております。臣は大軍に従って京城へ向かおうとしており、そのほかの事は追って急ぎ申し上げる計りでおります。

夾注 1

底本は谷處議兵であるが、各處義兵の誤りと見る