いにしえの文 › 懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) › 巻10 辰巳錄

御旨を承った後、敵の形勢と防ぎ備える次第を申し上げる状啓有。旨祇受後馳。啓賊勢及防禦形止狀

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 懲毖錄 · 柳成龍(リュ・ソンリョン) · 1633年刊行(壬辰倭乱の後に著す) · 段落 1 · 漢字 251字 · 朗読 2.1分

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 巻10 辰巳錄 壬辰倭乱が終わった後、領議政の柳成龍が自らの目で見たものを記して残した記録。「過ぎたことを懲らして後の憂いを慎む」という意で名を付けた。戦争がどのように始まり、朝廷が何を見落としたかを言い逃れなく記した。李舜臣を推挙したこと、明の軍とのいざこざ、民が経た惨状がそのまま収められている。

二月十七日同副承旨成貼有。旨書狀臣在東坡祇受自。天兵退駐開城京都咫尺尙未克復痛憤欲死臣實欲憑仗。天威督合諸陣以爲進取之計而適於幸州之戰我軍大捷賊氣愈衰此正可乘之機而不意權慄聞賊欲再犯之言遽爲移陣於坡州忠淸監司許頊建義副將曹大坤皆以本道空虛賊勢方急亦相繼駐兵於安城稷山之間其他義兵等皆因軍糧乏絕乍聚乍散諸處把截之事一樣虛疎事無可爲連日新懇於在此。天將而托言當出萬全不肯進兵尤爲痛悶賊氣大抵衰减我軍若能連營漸逼大作形勢分遣銳卒處處攻勦使賊騷然不安則必爲棄城逃走而非徒軍律久解人各異心猝難驅策而大患尤在於無食罔知所處

二月十七日に同副承旨が書き下した御旨の書状を、臣が東坡において承りました。

明の軍が退いて開城に駐まった後、京城は指呼の間にありながらまだ取り戻せませんので、痛ましく憤ろしく、死んでしまいたいほどです。臣はまことに明の威に拠りかかって諸陣を督し合わせ、進んで取る計策としようと思いました。たまたま幸州の戦いで我が軍が大いに勝ち、敵の気はいっそう衰えましたから、これこそ乗ずべき機でありますのに、思いがけず権慄が、敵が再び侵そうとしているという言葉を聞いて、にわかに坡州へ陣を移しました。

忠清監司許頊と建義副将曺大坤も、みな本道が空いて敵の勢いがまさに急であるといって、続いて安城と稷山の間に兵を留めました。そのほかの義兵らはみな軍糧が絶えて、しばらく集まってはしばらく散りますので、処々で遮り截つ事が一様に粗く疎かで、為し得る事がありません。日ごとにここにいる明の将へ重ねて懇ろに請いますが、万全を期すと言い延ばして兵を出そうとしませんので、いっそう痛ましく悩ましく存じます。

敵の気はおおむね衰え減りました。我が軍が陣を連ねて次第に迫り、大いに形勢を張り、鋭い兵を分け遣わして処々で攻め討ち、敵を騒がしく不安にさせるなら、必ず城を捨てて逃げ去るでしょう。しかし軍律が長く緩んで人ごとに心が異なり、にわかに駆り立てることが難しく、大きな憂いはいっそう食べるものがないことにありますので、措るべきところを知りません。

夾注 1

二月十日後

二月十日の後。