いにしえの文 › 懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) › 巻10 辰巳錄

軍糧を計って調える事を申し上げる状啓料理軍餉狀

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 懲毖錄 · 柳成龍(リュ・ソンリョン) · 1633年刊行(壬辰倭乱の後に著す) · 段落 1 · 漢字 683字 · 朗読 5.5分

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 巻10 辰巳錄 壬辰倭乱が終わった後、領議政の柳成龍が自らの目で見たものを記して残した記録。「過ぎたことを懲らして後の憂いを慎む」という意で名を付けた。戦争がどのように始まり、朝廷が何を見落としたかを言い逃れなく記した。李舜臣を推挙したこと、明の軍とのいざこざ、民が経た惨状がそのまま収められている。

前月十九日右副承旨成貼李提督雖已退駐而南方炮手數萬今方出來以此意曉諭人民使之鎭定其心第加措運糧草善待。天兵毋致缺乏事有旨二十四日右副承旨成貼今見李德馨等書狀李提督今將前進前頭糧餉馬草卿其極意措備毋致缺乏以待事有。旨書狀臣幷在東坡祗受當初天兵乘破竹之勢皷行而進遠近之民咸謂京都指日可復其未死亡者稍稍還集不意大軍一退人心缺望驚懼無復固意臣亦爲此留駐東坡曉諭人民略以些少皮糓分賑饑民而心勞事批百計狼狽目前慘酷之狀則饑饉民生提挈老少聞臣在此庶望救活日日來集者無慮千百而無糓可濟重以近日風雨大作枕藉而死者日或八九拊膺焦心無可如何春耕麰種尙未入土環顧四方蕩無儲糓之處魚聚涸轍不日將糜爛無餘極爲痛迫。天兵支待糧餉則除已散給外時方見在之數米一萬九千九百四十三石豆七千一百一十三石米則稍優而豆甚不足然大兵登時進到猶可支吾而今旣曠日持久此處坐食之軍亦廣如李薲所率及高彥伯曹好益之軍皆爲仰給於此今又鄭希玄朴名賢之軍來到漣川亦告乏輝臣欲令退去則京城猶熾欲令仍留則糧無可辦之路事之難處至於如此臣之初意則欲以忠淸全羅船運之糓益以唐糧數萬餘石支給天兵至於京畿江原道零𤨏收合之糓則不足以補天兵一日之需而竭取無餘則軍糧民食皆無所出故欲稍留贏餘以備本處之需不意。天兵久留戶曹及運糧之官急於目前之窘京畿各官所儲及江原道鐵原安峽伊川等邑所儲幾盡取來無復餘糓今。天兵未易前進而我兵擧皆飢困不能成軍此處楊州高陽交河等邑之民經年與賊交戰頗皆精銳近日高彥伯所率捕賊者皆是此軍若得萬餘石之糓則數千精兵可以立聚其於討賊必有其效而頓無辦糧之䇿其將奈何傳聞宋經略已到義州等處未知進兵之期的在何日大扺唐糧三四萬石來到此處然後可無狼狽之患

先月十九日に右副承旨が書き下した、「李提督はすでに退いて駐まったが、南方の砲手数万が今まさに出て来ているから、この意で民を諭してその心を落ち着かせ、また軍糧と秣を力を尽くして運び調え、明の軍をよく接待して欠け乏しいことのないようにせよ」との御旨と、二十四日に右副承旨が書き下した、「いま李徳馨らの書状を見ると、李提督が今まさに前へ進もうとしているというから、前の路の軍糧と馬の秣を、卿が意を尽くして調え、欠け乏しいことなく待て」との御旨の書状を、臣はあわせて東坡において承りました。

初め明の軍が竹を割く勢いに乗って鼓を鳴らして進むと、遠近の民はみな京城を数日のうちに取り戻せようと申して、死なずに残った者たちが次第に帰り集まりました。ところが思いがけず大軍がひとたび退くと、人々の心は崩れ、驚き恐れて、もう固い意がありません。臣もこのために東坡に留まって民を諭し、わずかな皮付きの穀で飢えた民を少しずつ分け与えておりますが、心は労しても事は食い違って、あらゆる計策が狼狽しております。

目の前の惨いさまはこうです。飢えた民が老いた者と幼い者を引き連れ、臣がここにいると聞いて生き延びられるかと望み、日ごとに集まって来る者がおよそ数百から数千にもなりますのに、救うべき穀がありません。加えてこのごろ風雨が大いに起こって、重なり合って死ぬ者が日に八、九人でありますから、胸を打ち心を焦がしてもどうすることもできません。春耕の麦の種もまだ土に入れられず、四方を見回しても積んである穀のある所がなく、乾いた轍に閉じ込められた鮒のように、幾日もせぬうちにみな崩れ果てて残らないでしょうから、きわめて差し迫っております。

明の軍を賄う軍糧は、すでに分け与えた分を除いて今残っている数が、米一万九千九百四十三石、豆七千百十三石です。米はまずまず余裕がありますが、豆がはなはだ足りません。しかし大軍がすぐに進み至るのであれば、なお支えられましょうに、今はすでに日を長く引いて、この地に座して食う兵もまた多いのです。巡辺使李薲が率いる兵と高彦伯・曺好益の兵がみなここから受けて食い、今また鄭希玄・朴名賢の兵が漣川に至って、やはり絶えたと告げております。臣が退かせようとすれば京城の敵がまだ盛んであり、そのまま留まらせようとすれば軍糧を調える路がありませんので、事の難しさがここまで至りました。

臣の初めの意は、忠清道と全羅道から船で運んだ穀に明の軍糧数万余石を加えて明の軍に供給しようというものでした。京畿と江原道で細々と集めた穀は明の軍の一日分にも満たないのに、これをすべて掻き取って残さなければ、兵の糧も民の食もみな出るところがなくなりますので、少し残しておいてこの地の用に備えようと思いました。ところが思いがけず明の軍が長く留まりますので、戸曹と軍糧を運ぶ官が目の前の窮しさに急いて、京畿の諸邑に積んであったものと江原道の鉄原・安峡・伊川などの邑に積んであったものをほとんど取って来てしまい、もう残った穀がありません。

今、明の軍は容易に進まず、我が軍はみな飢えて苦しみ、軍を成すことができません。この地の楊州・高陽・交河などの邑の民は年を越して敵と戦い、かなりみな鋭くなっておりますので、このごろ高彦伯が率いて敵を捕らえている者はみなこの兵です。もし一万余石の穀を得られれば数千の精兵をたちまち集めることができ、敵を討つのに必ずその効がありましょうに、軍糧を調える策がまったくありませんから、これからどうしたものでしょうか。

伝え聞きますに、宋経略がすでに義州などの地に至ったとのことですが、兵を出す日がいつであるかは確かにわかりません。おおよそ明の軍糧三、四万石がこの地に来た後にこそ、狼狽する憂いがなくなりましょう。

夾注 1

三月五日

三月五日。