いにしえの文 › 懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) › 巻11 辰巳錄

提督のすることを申し上げる状啓馳。啓提督所爲狀

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 懲毖錄 · 柳成龍(リュ・ソンリョン) · 1633年刊行(壬辰倭乱の後に著す) · 段落 1 · 漢字 991字 · 朗読 9分

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 巻11 辰巳錄 壬辰倭乱が終わった後、領議政の柳成龍が自らの目で見たものを記して残した記録。「過ぎたことを懲らして後の憂いを慎む」という意で名を付けた。戦争がどのように始まり、朝廷が何を見落としたかを言い逃れなく記した。李舜臣を推挙したこと、明の軍とのいざこざ、民が経た惨状がそのまま収められている。

臣等前在坡州不叅旗牌事大槪已爲狀。啓其日周叅將禀帖於提督云陪臣等執迷不悟不知久遠之慮不叅旗牌恐前途有攔截之事乞老爺召諭提督見之大怒至欲依軍律治罪招接待使韓應寅等使問其狀臣等不勝未安將欲發行陳謝之際又有提督家丁馳來招臣等相見曰提督令議政留此元師則與我同往龍山命元答曰俺在此亦有所任豈可因口傳容易出去若有提督之命則必有文書願出示之其人曰別無文書提督分付如此强欲同去而命元終不敢去其人不得已獨向龍山日暮臣等同詣開城府提督門外請罪辭謝提督始怒不見臣等雨立半餉提督始爲出見令臣等升堂行禮問共緣由臣答云本國於倭賊有不共戴天之讎萬世必報之怨方欲倚賴。天兵前進殺賊不期牌文內有報復啓釁者斬生等不勝驚痛若叩頭承受則卽當傳令各處將官遵行約束更不以討賊爲心故事勢悶迫欲更禀老爺以聽裁處倉卒失於叅禮罪無所逃提督低聲答之曰此乃宋侍郞牌文不關我事牌文則何可拜受只旗牌則不可不拜臣答以失禮惶恐但與倭賊辭和之事痛心切骨故難於承受云云則提督出示經略文字指點其中數語甚有不樂之色以爲講和非我所爲此意陪臣知之因論擊賊之䇿更招接待使韓應寅李德馨與之同立言論臨出提督云宋侍郞不無聞此之理明日須略具曲折書禀帖而來臣等翌日又爲呈文力言與倭和親必陷術中沈遊擊久不還歸竊深危之當急時進兵云云則提督答云知道臣等仍辭退少坐外處提督出示宋侍郞牌文其中有前日倭將處遣使時朝鮮李判書暗設奸計不以船隻待候致令不及於初八日之限究問等語仍云經略所言如此陪臣見此則可知事不由我矣臣等還向東坡中道有持旗牌者馳到招臣驅迫之意甚於星火到靑郊驛前又有一人馳來令臣還去臣不知何事旣而接待使從事官黃沂來到得聞其由則以爲有千總一人言於提督云周弘謨向龍山時中路船隻故不整齊以防和事提督大怒以爲事出於臣急遣旗牌捉臣而來曰當痛杖四十棍撤兵還歸俄而聞其言非是重杖千總而令臣還去云大槪提督以下旣專主講解知本國人心痛憤於和議不敢直說互相推調而猶慮中間因臣等搪阻其事不成隨處發怒氣象施措全不如前日事之難處益甚於前如臣愚劣徒爲悶痛不知所出而遷延時日已到風和前頭之事又未知稅駕之所卽刻忠淸水使丁傑等馳報內謝相公周遊擊徐相公等率家丁二十名十五日辰時到黑石江先送小舟通諭于賊中至申時倭賊全不出迎但見騎馬之賊多數出來向內路。天使傳令諸船小紙書送云令倭奴不來迎接。天使無禮之甚可分付大小船盡將各項大小器藏置停當若倭奴無禮我等以火器攻之此事要緊要緊傳令事牒報倭賊凶逆至於此極痛憤切齒未知。天將更何以處之

臣らが先に坡州にあって旗牌に礼を行わなかった事は、おおよそすでに状啓で申し上げました。

その日、周参将が提督へ上げた禀帖に、「朝鮮の臣らが頑なさに陥って悟らず、遠い先の憂いを知らずに旗牌へ礼を行いませんので、前の路に遮り止める事があるのではないかと恐れます。老爺が呼んで諭されるよう願います」とございました。提督はこれを見て大いに怒り、軍律のとおりに罪そうとまでして、接待使韓応寅らを呼んでその事情を問わせました。臣らは申し訳ないことに堪えず、ただちに出かけて謝そうとしました。

そのとき、また提督の護衛の兵が馳せ来て臣らを呼び、会って、「提督が、議政はここに留まり、元帥はわたしとともに龍山へ行けと申されます」と言いました。金命元が答えて、「わたしがここにいるのも任じられたところがあるのだから、どうして口で伝えただけで軽々しく出て行こうか。もし提督の命があるのなら必ず文書があるだろうから、出して見せてほしい」と申しました。その者が「別に文書はなく、提督の言いつけがこうなのです」と言って強いてともに行こうとしましたが、金命元がついにあえて行きませんでしたので、その者はやむなく独り龍山へ行きました。

日が暮れて、臣らがともに開城府の提督の門の外へ参って罪を請い謝しますと、提督は初めは怒って会いませんでした。臣らが雨の中で半日立っておりますと、提督はそれでようやく出て会い、臣らを堂に上げて礼を行わせ、その理由を問いました。

臣が答えて、「我が国は倭賊に対して一つの天を戴いて生きられぬ仇であり、万代に必ず報いるべき恨みがあります。まさに明の軍に拠りかかって前へ進んで敵を殺そうとしておりましたのに、思いがけず牌文の中に『しばらくは本部の返報を待て。先に隙を開く者は斬る』という言葉があって、わたくしどもは驚きと痛みに堪えませんでした。もし頭を地につけて承るなら、ただちに処々の将へ伝令してその約に従って行うことになり、もう敵を討つ心を置けなくなります。ですから事の勢いがやりきれず差し迫って、改めて老爺に伺って裁きを聞こうと思い、にわかのことで礼に参れませんでしたので、罪を逃れるところがありません」と申しました。

提督は低い声で答えて、「これは宋侍郎の牌文であって、わたしの事とは関わりがない。牌文はどうして拝して受けるものか。ただ旗牌だけは拝さないわけにはいかない」と申しました。臣が「礼を失ったことは恐れ入ります。ただ倭賊と和を語ることは心が痛み骨に徹しますので、承りがたいのです」と、かくかくと申し上げますと、提督は経略の書を出して見せ、その中の幾つかの語を指し示しましたが、はなはだ不快な顔色がありました。「和を講ずるのはわたしのすることではないから、この意をそなたの国の臣は知れ」と申しました。

続いて敵を撃つ計策を論じながら、改めて接待使韓応寅と李徳馨を呼んでともに立って語りました。出るころ、提督が「宋侍郎がこれを聞かない理はないから、明日その曲折をおおよそ具えて禀帖に書いて来よ」と申しました。

臣らは翌日また書を上げて、「倭と和を講ずれば必ずその術に陥ります。沈遊撃が長く帰りませんので、密かにはなはだ危ういと思います。まさに時を争って兵を進めるべきです」と力を尽くして申しましたが、提督は「わかった」とだけ答えました。

臣らはそこで辞って退き、外の席にしばらく座っておりますと、提督が宋侍郎の牌文を出して見せました。その中に、「先日、倭将へ使いを遣わすとき、朝鮮の李判書が密かに奸しい謀を立てて船を着けて待たせず、八日の期限に間に合わないようにしたから、問い詰めよ」という類の言葉がありました。続いて、「経略の言葉がこうであるから、そなたの国の臣がこれを見れば、事がわたしによるのではないとわかるだろう」と申しました。

臣らが東坡へ帰る道中、旗牌を持つ者が馳せ来て臣を呼びましたが、追い立てる勢いが流れ星より急でした。青郊駅の前に至ると、また一人が馳せ来て臣に帰れと申しましたので、臣は何事かわかりませんでした。

やがて接待使の従事官黄沂が来て、その理由を聞きますとこうでした。千総の一人が提督に、「周弘謨が龍山へ行くとき、道中の船をわざと揃えて着けておかず、和を講ずる事を妨げました」と申したというのです。提督は大いに怒ってその事が臣から出たとし、急ぎ旗牌を遣わして臣を捕らえて来させ、「まさに棍棒四十を厳しく打って、兵を収めて帰ろう」と申しましたが、やがてその言葉が正しくないと聞いて、千総を重く打ち、臣は帰らせたとのことです。

おおよそ提督以下がすでにもっぱら和を主としながらも、我が国の人心が和議を痛ましく憤ろしく思っていることを知るので、あえて直に言えず、互いに言い寄せ合います。そのうえ、途中で臣らが妨げてその事が成らないのではないかと憂え、行く所ごとに怒りを発しますので、気色も振る舞いも先日とまったく同じではなく、事の難しさが先よりいっそう甚しいのです。臣のように愚かで劣った者は、ひたすらやりきれず痛むばかりで出る路を知らないのに、月日を引いてすでに風の和らぐ季節に至りましたので、これからの事はまた車をどこで解くことになるのかわかりません。

ただいま、忠清水使丁傑らが馳せ告げたものに、「謝相公と周遊撃と徐相公らが護衛の兵二十名を率いて、十五日の辰の刻に黒石江へ至り、まず小さな船を遣わして敵の中へ知らせました。申の刻に至るまで倭賊はまったく出て迎えず、ただ馬に乗った敵が多く出て内の路へ行くのだけが見えました。明の使いが諸船へ伝令して、小さな紙に書いて送り、『倭奴が明の使いを出て迎えないのは、無礼が甚しい。大小の船に言いつけて、あらゆる大小の器を隠して適当に置かせよ。もし倭奴が無礼であれば、我らは火器で撃つ。この事は肝要、肝要である』と申しました。伝令した事を報せます」とございました。

倭賊の凶く逆らうことがこの有様に至りましたので、痛ましく憤ろしく、歯を噛むばかりです。明の将が改めてどう処置するのかわかりません。

夾注 2

同日

同じ日。

底本は餉であるが、晌の誤りと見る