いにしえの文 › 懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) › 巻12 辰巳錄

明の将が我が軍を遮って敵を追えないようにした事を馳せ申し上げる状啓馳。啓。天將禁戢我軍不得追賊狀

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 懲毖錄 · 柳成龍(リュ・ソンリョン) · 1633年刊行(壬辰倭乱の後に著す) · 段落 1 · 漢字 914字 · 朗読 7.6分

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 巻12 辰巳錄 壬辰倭乱が終わった後、領議政の柳成龍が自らの目で見たものを記して残した記録。「過ぎたことを懲らして後の憂いを慎む」という意で名を付けた。戦争がどのように始まり、朝廷が何を見落としたかを言い逃れなく記した。李舜臣を推挙したこと、明の軍とのいざこざ、民が経た惨状がそのまま収められている。

本月二十日。天兵入城事則已爲狀。啓其日初昏提督向臣等言今當發兵追躡爾國軍馬亦令同進須速備過江船隻臣等仍前分付令京畿忠淸兩水使由龍山督上船隻猶恐遲緩又令左監司成泳親去督促而使巡邊使李薲全羅巡察使權慄京畿防禦使高彥伯平安防禦使鄭希玄兼三道防禦使李時言亦依前日分付由露梁抄率精兵過江僧將惟政等軍亦由楮子島近處過江而通于前道官義之兵合力邀截二十一日早朝臣等叅候提督致謝收復京城後因言進兵之事提督即時分付大將張世爵李如栢發一萬五千兵追之臣慮渡江船隻猶未及期出漢江監督船隻水使丁傑李薲等海船因灘淺未得上來有倭新造船五十餘隻我國仍朴船四隻往來渡軍軍馬已在南岸者五六千其餘陸續皆渡而臣等出去時路逢祖總兵自漢江還入城中以爲提督命之還來臣等固已疑之及至江上問安於李如栢則如栢稱足病刺痛臥在江岸樹陰張大將則已爲還人日晚李大將亦稱病重乘轎入城天兵之已渡者亦皆還渡臣等不勝疑訝痛悶臨昏更就提督門外探候其事旣而提督使椽房出言宋經略諭帖來到禁勿追襲吾亦不得自由且聞倭賊以。天使二。王子在後而行若爾國兵馬果能蕩滅則。天使雖被害猶之可也不然則徒傷。天使與。王子於汝國實無所益經略聞之亦必咎吾節制失宜其說甚多不能盡記而大槪皆不欲進兵之意臣等答以倭奴狡詐桀驚不還。王子及被擄人民而去當以重兵躡其後彼有畏懼之心然後。王子人民可有還國之望今若掇兵不追則賊何所畏忌乎且必屯據嶺南兇謀難測此時。天兵雖欲更爲追勦得無已晚難及乎如此往復數次因夜深退來三更夜不收二人押全羅監司權慄來提督處詰問徑自渡江之意又據巡邊使李薲防禦使高彥伯等馳報唐兵羅列江邊勿令進兵李薲先鋒將邊良俊鎖項曳地重傷歐血李薲亦被拘留江邊不使發去又高彥伯馳報二十一日進軍在中路查將率二十餘人列立前路使不得前進招高彥伯發怒詰責彥伯不得已托以整齊支待之事查將全不聽從挽留不放云提督發送追兵渡江之事不過難於臣等之力請而姑示追擊之狀實無進兵之意故張世爵托故還來李如栢稱病不進將士皆無鬪心而末抄出示經略牌文顯言不得自由之由如此支吾遮說頃刻變遷此雖臣等誠意淺薄不能動人之所致而亦緣經略與提督諸將定計已久殆難以口舌爭至於我國軍兵亦被處處遮截不得進去尤爲痛悶極天臣等不能自力討賊以復。宗社之雠而事至於此徒爲痛哭流涕請先治臣等之罪斥免重任以謝軍民齊憤之心

今月二十日に明の軍が都城へ入った事は、すでに状啓で申し上げました。その日の宵の口に提督が臣らに申して、「いま兵を出して後を踏むから、お前の国の軍馬も一緒に進ませ、川を渡る船を急いで備えよ」と申しました。臣らは先に言いつけたとおり、京畿・忠清の二水使に龍山から船を督して上げさせ、それでも遅れるのではないかと憂えて、改めて左監司成泳にみずから行って催促させました。また巡辺使李薲、全羅巡察使権慄、京畿防禦使高彦伯、平安防禦使鄭希玄、兼三道防禦使李時言にも先日言いつけたとおり、露梁から精鋭の兵を選んで率いて川を渡らせ、僧将惟政の兵も楮子島の近くから川を渡って、前の道の官軍・義兵と通じ、力を合わせて路を遮り截たせました。

二十一日の早朝、臣らが提督にお目にかかり、京城を取り戻したことに礼を述べた後、続いて兵を進める事を申しますと、提督はただちに大将張世爵・李如栢に言いつけて、兵一万五千を出して追わせました。臣は川を渡る船が時に間に合わないのではないかと憂えて、漢江へ出て船を監督しました。水使丁傑と京畿水使李蘋らの海船は瀬が浅くて上って来られず、倭人が新しく造った船五十余隻と我が国の船四隻で往き来して兵を渡しました。軍馬ですでに南の岸へ至ったものが五、六千で、その残りも続いてみな渡りました。

ところが臣らが出るとき、路で祖総兵が漢江から城の中へ戻って入るのに出会いましたが、提督が命じて戻るのだと申しました。臣らはまことにすでに疑いました。川のほとりに至って李如栢に伺候しますと、李如栢は足の病が刺すように痛むと申して川の岸の木陰に臥しており、張大将はすでに帰っておりました。日が暮れると李大将も病が重いと申して駕籠に乗って城へ入り、すでに渡った明の軍もみな戻って渡って来ました。臣らは疑わしく痛ましくやりきれない思いに堪えず、暮れがたに改めて提督の門の外へ参ってその事を探りました。

やがて提督が掾房の役人を出して言わせるに、「宋経略の諭帖が来て追い襲うことを禁じたから、わたしも思うままにできない。また聞くに、倭賊が明の使いと二人の王子を後ろに置いて行くという。お前の国の軍馬が果たして掃き尽くせるのなら、使いが害されてもなお構わないが、そうでなければ、ただ使いと王子を傷つけるだけで、お前の国に実は益がない。経略が聞けば、やはり必ずわたしが軍を率いるのに当を失ったと咎めるだろう」と申しました。その言葉がはなはだ多くて書き尽くせませんが、おおよそみな兵を進めたくないという意でした。

臣らが答えて、「倭奴は狡く偽り、荒々しくて、王子と捕らわれた民を返さずに行きます。まさに重い兵でその後を踏み、彼らに恐れる心が生じた後にこそ、王子と民が国へ帰る望みがあります。いま、もし兵を収めて追わなければ、敵が何を憚りましょうか。また必ず嶺南に拠るでしょうから、凶い謀は計りがたいのです。その時になって明の軍が改めて追い討とうとしても、すでに遅くて及びがたいのではありませんか」と申しました。このように幾度か遣り取りして、夜が深くなって退いて参りました。

三更に明の斥候の兵卒二人が全羅監司権慄を捕らえて提督のもとへ連れて来て、勝手に川を渡った意を問い詰めました。また巡辺使李薲と防禦使高彦伯らが馳せ来て告げたところによれば、明の軍が川のほとりに並び立って兵を進めさせず、李薲の先鋒将辺良俊は首に鎖をかけられたまま地に引きずられて大きく傷つき、血を吐き、李薲も川のほとりに留められて発てなかったとのことです。また高彦伯が告げるに、二十一日に兵を進めて中ほどの路に至ったところ、査将が二十人余りを率いて前の路に並び立って進ませず、高彦伯を呼んで怒って責めましたので、高彦伯はやむなく賄う事を整えると言い寄せましたが、査将はまったく聞かず、留めて放さなかったとのことです。

提督が追撃の兵を遣わして川を渡らせた事は、臣らが力を尽くして請うのを面倒に思って、わざと追う形だけを見せたのであって、実は兵を進める意がありませんでした。ですから張世爵は言い寄せて帰り、李如栢は病を称して進まず、将も兵もみな戦う心がなかったのです。そして終わりになってようやく経略の牌文を写して見せ、思うままにできない理由を表に出して申しました。このように言い紛らわして遮る言葉が、わずかの間にあちらこちらに変わります。

これは臣らの誠が浅くて人を動かせなかったせいではありますが、やはり経略と提督と諸将が謀を定めてから久しく、ほとんど口で争いがたいからです。我が国の兵までも処々で遮られて進めませんので、痛ましくやりきれないことが天に届きます。臣らはみずから力を尽くして敵を撃ち、宗社の仇を報いることができず、事がこの有様に至りましたので、ひたすら痛哭して涙を流すばかりです。どうか先に臣らの罪を治め、重い任から退けられ、兵も民もともに憤る心を宥めてください。

夾注 6

同日

同じ日。

底本は還人であるが、還入の誤りと見る

底本は桀驚であるが、桀驁の誤りと見る

底本は椽房であるが、掾房の誤りと見る

巡辺使李薲と京畿水使李蘋は別の人

全羅巡察使と全羅監司は同じ一人、権慄である。観察使(監司)が巡察使を兼ねた。