いにしえの文 › 懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) › 巻13 辰巳錄

両南の危急な形勢を具えて経略と提督に救いを請い、また戸曹判書李誠中が死にましたので、その後任を速やかに下し送られることを請う状啓請具兩南危急之狀求救於經略提督且戶曹到書李誠中身死其代速爲差送狀

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 懲毖錄 · 柳成龍(リュ・ソンリョン) · 1633年刊行(壬辰倭乱の後に著す) · 段落 1 · 漢字 762字 · 朗読 6.5分

懲毖録(過ちを懲らし後の憂いを慎む記録) 巻13 辰巳錄 壬辰倭乱が終わった後、領議政の柳成龍が自らの目で見たものを記して残した記録。「過ぎたことを懲らして後の憂いを慎む」という意で名を付けた。戦争がどのように始まり、朝廷が何を見落としたかを言い逃れなく記した。李舜臣を推挙したこと、明の軍とのいざこざ、民が経た惨状がそのまま収められている。

臣於本月初九日聞劉總兵在陜川馳往見之總兵頗從容談話臣極陳倭奴譎詐以和議緩。天兵使不救晋州而實行吞噬今本道與湖南危在朝夕懇乞馳救總兵言吾志不行無可言者似聞賊已向全羅若此道不能遮截則患不可勝言吾欲提兵往救曾招住居昌遼將使之來守高靈陜川然後吾欲行軍而號令不行然若實知湖南被兵則當隨儞等所言而赴救須討一地圖詳截道里由經之路以來且言此處無一將官軍兵亦無一人何耶臣對以諸將初聚咸安退保各處而聞晋州之陷皆潰散向湖南以去曾已。啓知國王必按律治罪但事勢危急如此望老爺亟速救濟總兵曰吾意亦然而不能自擅若體探全羅賊勢虛實則當卽進兵臣退具地圖一件又爲禀帖以呈總兵見畢猶言諸將不行其令不得自由之狀縷縷不已而卽多發擺撥兒哨探宜寧之賊不無進戰之意故臣姑留此日日苦勸進勦矣督捕使朴晋助防將朴名賢別將朴宗男只率疲兵五六百與。天將吳游擊把截草溪而崔遠李薲李時言則聞晋州城陷卽從居昌咸陽等處遁去未知在於何處自晋州之陷人心汹懼遠近之民荷擔以立而湖南聲息斷絕只見權慄移文朴晉處云倭賊已入求禮將向谷城南原以此觀之倭之犯湖南似爲的然不勝痛悶此處之賊如宜寧歧江等地設栅屯守其數甚多日日散出焚掠於陜川三嘉宜寧之境距陜川四十里望軍傳告總兵披掛令軍將發而聞賊退去乃止今日宜寧探候若來則臣當率巡察使金玏接伴官徐渻等庭立泣請計料糧餉支供本道則處處蕩致只以湖南諸邑出站轉輸艱難支度前來米饌今已垂盡近日則繼運路絕又全羅各邑之民來此者聞其道有賊變驚動逃散不能禁止今吳遊擊駐草溪陜川有劉總兵居昌又有遼將五人駐軍大丘密陽直路亦有往來。天兵或多或少出站諸邑隨其所往顚倒追隨人困馬疲氛力都盡千思百計不知所出卽刻金泉察訪馳報內戶曹判書李誠中又於本月初七日以病身死雖有督運。御史尹敬立而無調度重臣事事如此尤爲痛悶。朝廷急察兩南危急之勢連續致懇於經略提督衙門今雖已晚庶有萬一可救之望而調糧之人亦急時差出馳送毋乏軍興

臣は今月九日に劉総兵が陜川にいると聞いて馳せて行って会いました。総兵がかなりゆるやかに話しますので、臣は倭奴が欺きの術で和議を立てて明の軍を緩め、晋州を救えないようにして実は呑み噬む振る舞いを行ったことをすべて申し、いま本道と湖南が朝夕に危ういので、馳せ来て救ってくださるよう懇ろに乞いました。

総兵が申すに、「わたしの意が行われないから、申すことがない。聞くに、敵がすでに全羅へ向かったというから、この道を遮り截てなければ憂いは言い尽くせない。わたしが兵を率いて行って救おうと、かつて居昌に留まる遼東の将を呼んで高霊と陜川を来て守らせた後に兵を出そうとしたが、号令が行われない。しかし湖南が敵の侵しを受けたことがまことに明らかになれば、まさにそなたたちの言うとおり馳せて行って救おう。ぜひ地図一つを求めて、路の里数と通るべき路を詳しく記して来よ」と申しました。また、「この地には将も軍官も一人なく、軍兵も一人いないのは、どうしたことか」と申しました。

臣が答えて、諸将が初め咸安に集まってから処々へ退いて守ったのに、晋州が落ちたと聞いてみな崩れ散って湖南へ行ったこと、すでに申し上げたので国王が必ず法に従って罪を治められるであろうこと、ただ形勢がこのように危急でありますから老爺が速やかに救済してくださるよう願うことを申しました。総兵が申すに、「わたしの意もそうであるが、わたしの思うままにできない。全羅の敵の勢いが虚か実かを察して知れば、まさにただちに兵を出そう」と申しました。

臣は退いて地図一通を具え、また禀帖を作って差し上げました。総兵はすべて見てからも、諸将が自分の令に従わないので思うままにできない事情を長々と述べてやみませんでした。しかしただちに早飛脚を多く出して宜寧の敵を察させましたので、進んで戦う意がないわけではありません。ですから臣はひとまずここに留まって、日ごとに努めて進んで討つことを勧めております。

督捕使朴晋と助防将朴名賢、別将朴宗男は、疲れた兵五、六百名だけを率いて明の将の呉遊撃とともに草渓を遮り截っております。崔遠・李薲・李時言は晋州城が落ちたと聞いてただちに居昌・咸陽などの地へ逃げ、どこにいるかわかりません。

晋州が落ちた後、人心が騒がしく恐れて、遠近の民が荷を背負ったまま立っております。湖南の消息は絶え、ただ権慄が朴晋へ送った公文に、倭賊がすでに求礼へ入って谷城・南原へ向かおうとしているとございました。これで見れば、倭が湖南を侵すのは間違いないように思われますので、痛ましくやりきれない思いに堪えません。

この地の敵は宜寧・歧江のような所に柵を立てて陣を張って守っており、その数がはなはだ多いのです。日ごとに散り出て陜川・三嘉・宜寧の境で焼き掠めます。陜川から四十里の所で物見の兵が伝え告げますと、総兵が甲を着けて兵に令を下して発とうとしましたが、敵が退いたと聞いてやめました。今日、宜寧の偵察が来れば、臣は巡察使金玏、接伴官徐渻らを率いて庭に立って泣いて請う計りでおります。

軍糧を供える事を計りますと、本道は処々が崩れ果て、ただ湖南の諸邑が駅を出して運んでおりますが、苦しく支えております。先に来た米と副食が今は尽きかけ、このごろは続けて運ぶ路が絶えました。また全羅の各邑からここへ来た民が、自分の道に敵の変があると聞いて驚き逃げ散りますが、禁じられません。いま呉遊撃は草渓に留まり、陜川には劉総兵があり、居昌にはまた遼東の将が五人おり、大丘と密陽のまっすぐな路に陣を張った兵と、往き来する明の軍も多かったり少なかったりします。駅を出す諸邑がその行く所に従って転び倒れながら追い従いますので、人は疲れ馬は弱って気力が尽きました。千たび思い百たび計っても、出る路がわかりません。

ただいま金泉察訪の急報に、戸曹判書李誠中がまた今月七日に病で死んだとございます。督運御史尹敬立はおりますが、軍糧を調達する重い臣がおりません。事ごとにこうでありますから、いっそう痛ましくやりきれません。朝廷において急ぎ両南の危急な形勢を察し、経略と提督の衙門へ続けて懇ろに請われてください。いまはすでに遅いとはいえ、万に一つ救える望みがあるでしょう。軍糧を調達する人も急ぎ差し出して馳せ遣わし、軍の事に欠けがないようにしてください。

夾注 2

七月十一日

七月十一日。

編の名の底本は「戶曹到書」であるが、本文の戶曹判書の誤りと見る。