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忠義を論じる論忠義第十四

貞観政要(貞観の治における政の要) 貞觀政要 · 呉兢 · 8世紀初め · 段落 14 · 漢字 2,425字 · 朗読 9.7分

貞観政要(貞観の治における政の要) 論忠義第十四 唐の太宗が臣下と交わした言葉を主題ごとに集めた書。君主の道から始まり、諫言を受け入れる法、官吏を選ぶ法、刑罰と税と征伐を経て「終わりを慎む」で終わる。魏徴が面を合わせて折って諫め、太宗がそれを受け入れる場面が書の骨格である。高句麗の安市城をついに落とせずに退き、城主に絹を与えたこと、房玄齢が死に臨んで遼東征伐を止めた上疏もここにある。

馮立,武德中為東宮率,甚被隱太子親遇。太子之死也,左右多逃散,立嘆曰:「豈有生受其恩,而死逃其難!」於是率兵犯玄武門,苦戰,殺屯營將軍敬君弘。謂其徒曰:「微以報太子矣。」遂解兵遁於野。俄而來請罪,太宗數之曰:「汝昨者出兵來戰,大殺傷吾兵,將何以逃死?」立飲泣而對曰:「立出身事主,期之效命,當戰之日,無所顧憚。」因歔欷悲不自勝,太宗慰勉之,授左屯衛中郎將。立謂所親曰:「逢莫大之恩幸而獲免,終當以此奉答。」未幾,突厥至便橋,率數百騎與虜戰於咸陽,殺獲甚眾,所向皆披靡,太宗聞而嘉嘆之。時有齊王元吉府左車騎謝叔方率府兵與立合軍拒戰,及殺敬君弘、中郎將呂衡,王師不振,秦府護軍尉尉遲敬德乃持元吉首以示之,叔方下馬號泣,拜辭而遁。明日出首,太宗曰:「義士也。」命釋之,授右翊衛郎將。

馮立は武徳の間に東宮の率となり、隠太子からひどく親しく待遇された。太子が死ぬと、左右の者は多く逃げ散ったが、馮立は嘆いた。

「どうして生きてその恩を受け、死んでその難を避けられようか。」

そこで兵を率いて玄武門を攻め、激しく戦って屯営将軍の敬君弘を殺した。その衆に言った。

「少しは太子に報いた。」

ついに兵を解いて野に逃げた。やがて来て罪を請うと、太宗が責めた。

「お前は昨日兵を出して来て戦い、朕の兵を大いに殺し傷つけた。これから何で死を避けられようか。」

馮立は泣きをのんで答えた。

「わたしは身を出して主に仕え、命を捧げることを期しましたので、戦った日に顧み憚るところがありませんでした。」

そして咽んで泣き、悲しみを自ら抑えられなかった。太宗は慰め励まして、左屯衛中郎将を授けた。馮立は親しい者に言った。

「この上なく大きな恩に遇い、幸いに死を免れたのだから、ついにこれで奉じ報いよう。」

いくらも経たず突厥が便橋に至ると、数百騎を率いて咸陽で虜と戦い、殺し捕らえたものがひどく多く、向かうところはみな倒れた。太宗は聞いて嘉し感嘆した。

そのとき斉王李元吉の府に左車騎の謝叔方がいて、府の兵を率いて馮立と兵を合わせて防ぎ戦った。敬君弘と中郎将の呂衡を殺すに至って王の兵が振るわなくなったが、秦王府護軍の尉遅敬徳がそこで元吉の首を挙げて示すと、叔方は馬を下りて声を上げて泣き、拝して辞して逃げた。翌日出て自首すると、太宗が言った。

「義の士である。」

放つよう命じ、右翊衛郎将を授けた。

貞觀元年,太宗嘗從容言及隋亡之事,慨然嘆曰:「姚思廉不懼兵刃,以明大節,求諸古人,亦何以加也!」思廉時在洛陽,因寄物三百段,並遺其書曰:「想卿忠節之風,故有斯贈。」初,大業末,思廉為隋代王侑侍讀,及義旗克京城時,代王府僚多駭散,惟思廉侍王,不離其側。兵士將升殿,思廉厲聲謂曰:「唐公舉義兵,本匡王室,卿等不宜無禮於王!」眾服其言,於是稍卻,布列階下。須臾,高祖至,聞而義之,許其扶代王侑至順陽閤下,思廉泣拜而去。見者咸嘆曰:「忠烈之士,仁者有勇,此之謂乎!」

貞観元年、太宗がかつて落ち着いて隋が亡んだ事を語り、慨然として嘆いた。

「姚思廉は刃を懼れず大きな節を明らかにしたのだから、古人に求めても、また何で加えようか。」

姚思廉はそのとき洛陽にいたので、物三百段を託し、あわせてその書を送った。

「卿の忠なる節の風を思って、この贈り物がある。」

初め、大業の末ごろ、姚思廉は隋の代王楊侑の侍読であった。義の旗が都を克ったとき、代王府の官は多く驚き散ったが、ただ思廉だけが王に侍ってその側を離れなかった。兵たちが殿に上がろうとすると、思廉は声を高めて言った。

「唐公が義の兵を起こしたのは、もともと王室を正そうとしてのことだ。お前たちは王に無礼であってはならぬ。」

衆はその言に服して、そこで少し退いて階の下に並び立った。しばらくして高祖が至り、聞いて義しとし、彼が代王楊侑を扶けて順陽閣の下に至ることを許したので、思廉は泣いて拝して去った。見た者はみな嘆じた。

「忠で烈しい士、仁ある者に勇があるとは、これを申すのか。」

貞觀二年,將葬故息隱王建成、海陵王元吉,尚書右丞魏徵與黃門侍郎王珪,請預陪送。上表曰:「臣等昔受命太上,委質東宮,出入龍樓,垂將一紀。前宮結釁宗社,得罪人神,臣等不能死亡,甘從夷戮,負其罪戾,寘錄周行,徒竭生涯,將何上報?陛下德光四海,道冠前王,陟岡有感,追懷棠棣,明社稷之大義,申骨肉之深恩,卜葬二王,遠期有日。臣等永惟疇昔,忝曰舊臣,喪君有君,雖展事居之禮;宿草將列,未申送往之哀。瞻望九原,義深凡百,望於葬日,送至墓所。」太宗義而許之,於是宮府舊僚吏,盡令送葬。

貞観二年、もとの息隠王李建成と海陵王李元吉を葬ろうとすると、尚書右丞の魏徴と黄門侍郎の王珪が、ともに侍って送ることに加わることを請うた。表を奉って言った。

「臣らは昔、太上皇の命を受けて東宮に身を託し、竜楼を出入りしてから、ほぼ十二年になろうとしています。前の宮が宗廟と社稷に隙を結び、人と神に罪を得たとき、臣らは死ぬこともできず、甘んじて斬られることに従うこともできず、その罪を負いながら官の列に置き記されましたから、いたずらに生きてきた歳月を尽くしても、何で上に報いられましょうか。

陛下は徳が四海に輝き、道が先の王に冠たるものであられ、丘に登って感じるところがあり、『棠棣』の情に従って慕われ、社稷の大いなる義を明らかにし、骨肉の深い恩を展べられて、二王の葬りを卜われましたので、遠い日が定まりました。

臣らは永く過ぎた日を思いますと、辱なくも旧い臣と称されます。君を失っても君がおられますので、生きておられる方に仕える礼は展べましたが、古い草がやがて並び立つとき、行かれる方を送る悲しみはまだ展べられていません。九つの野を望みますと義が万物より深いので、願いますに、葬りの日に墓まで送らせてくださいますよう。」

太宗は義しとして許し、そこで東宮と王府の旧い官をみな葬りに送らせた。

貞觀五年,太宗謂侍臣曰:「忠臣烈士,何代無之。公等知隋朝誰為忠貞?」王珪曰:「臣聞太常丞元善達在京留守,見群賊縱橫,遂轉騎遠詣江都,諫煬帝,令還京師。既不受其言,後更涕泣極諫,煬帝怒,乃遠使追兵,身死瘴癘之地。有虎賁郎中獨孤盛在江都宿衛,宇文化及起逆,盛惟一身,抗拒而死。」太宗曰:「屈突通為隋將,共國家戰於潼關,聞京城陷,乃引兵東走。義兵追及於桃林,朕遣其家人往招慰,遽殺其奴。又遣其子往,乃云:『我蒙隋家驅使,已事兩帝,今者吾死節之秋,汝舊於我家為父子,今則於我家為仇讎。』因射之,其子避走,所領士卒多潰散。通惟一身,向東南慟哭盡哀。曰:『臣荷國恩,任當將帥,智力俱盡,致此敗亡,非臣不竭誠於國。』言盡,追兵擒之。太上皇授其官,每讬疾固辭。此之忠節,足可嘉尚。」因敕所司,采訪大業中直諫被誅者子孫,聞奏。

貞観五年、太宗が側近の臣に言った。

「忠なる臣と烈しい士が、どの代になかったであろう。公たちは隋の朝廷で誰が忠で直かったか知っているか。」

王珪が言った。

「臣が聞きますに、太常丞の元善達が都に留まって守っていたとき、諸々の盗賊がみだりに跳梁するのを見て、ついに馬を駆って遠く江都に行き、煬帝に諫めて都に還られるようにしようとしました。その言が納れられず、後に再び涙を流して極まで諫めると、煬帝は怒って、遠く兵を追う事に遣わしたので、身は瘴気のある地で死にました。また虎賁郎中の独孤盛が江都で宿衛していましたが、宇文化及が逆らいを起こすと、盛はただ一身で抗い防いで死にました。」

太宗が言った。

「屈突通は隋の将となって、国とともに潼関で戦ったが、都が陥ちたと聞いて、そこで兵を率いて東へ逃げた。義の兵が桃林で追いついたので、朕はその家の者を遣わして呼び慰めさせたが、たちまちその僕を殺した。また、その子を遣わすと、こう言った。『わたしは隋家の使いを受けて、すでに二人の皇帝に仕えた。いまはわたしが節に死ぬときだ。お前は以前はわが家で父と子であったが、いまはわが家で仇だ』そして弓を射た。その子は避けて逃げ、率いていた兵は多く崩れ散った。屈突通はただ一身で東南を向いて慟哭し、悲しみを尽くして言った。『臣は国の恩を負い、任は将に当たりましたが、智と力が尽きて、この崩れ亡びに至りました。臣が国に誠を尽くさなかったのではありません。』言い終わると、追っていた兵が彼を捕らえた。太上皇がその官を授けられたが、つねに病を口実に固く辞した。こうした忠なる節は、嘉し尚ぶに足る。」

そこで所司に敕して、大業の間に直く諫めて斬られた者たちの子孫を訪ね問うて奏させた。

貞觀六年,授左光祿大夫陳叔達禮部尚書,因謂曰:「武德中,公曾進直言於太上皇,明朕有克定大功,不可黜退云。朕本性剛烈,若有抑挫,恐不勝憂憤,以致疾斃之危。今賞公忠謇,有此遷授。」叔達對曰:「臣以隋氏父子自相誅戮,以至滅亡,豈容目睹覆車,不改前轍?臣所以竭誠進諫。」太宗曰:「朕知公非獨為朕一人,實為社稷之計。」

貞観六年、左光禄大夫の陳叔達に礼部尚書を授け、続けて言った。

「武徳の間、公はかつて太上皇に直言を奉って、朕に克ち平らげた大きな功があるのだから、退け黜けられないと明らかにした。朕はもとより性が剛く烈しいから、もし抑え折られることがあったなら、憂えと憤りに勝てず、病んで死ぬ危うさに至ったことを恐れる。いま公の忠と直さに賞して、この遷し授けがある。」

叔達が答えた。

「臣は隋の父子が互いに斬り殺して滅亡に至ったのを見ましたから、どうして目で覆った車を見ながら前の轍を改めないことが容されましょうか。臣はそれで誠を尽くして諫めました。」

太宗が言った。

「朕は、公が独り朕一人のためではなく、まことに社稷の計のためであったと知っている。」

貞觀八年,先是桂州都督李弘節以清慎聞,及身歿後,其家賣珠。太宗聞之,乃宣於朝曰:「此人生平,宰相皆言其清,今日既然,所舉者豈得無罪?必當深理之,不可舍也。」侍中魏徵承間言曰:「陛下生平言此人濁,未見受財之所,今聞其賣珠,將罪舉者,臣不知所謂。自聖朝以來,為國盡忠,清貞慎守,終始不渝,屈突通、張道源而已。通子三人來選,有一匹羸馬,道源兒子不能存立,未見一言及之。今弘節為國立功,前後大蒙賞賚,居官歿後,不言貪殘,妻子賣珠,未為有罪。審其清者,無所存問,疑其濁者,旁責舉人,雖云疾惡不疑,是亦好善不篤。臣竊思度,未見其可,恐有識聞之,必生枉議。」太宗撫掌曰:「造次不思,遂聞此語,方知談不容易。並勿問之。其屈突通、張道源兒子,宜各與一官。」

貞観八年、これより先、涇州都督の李弘節が清く慎むことで名が立っていたが、身が死んだ後にその家が珠を売った。太宗は聞いて、そこで朝廷で広く告げた。

「この人が生きていたとき、宰相たちはみな彼が清いと言ったが、今日このようであるから、挙げた者がどうして罪がないであろう。必ず深く治めるべきで、放っておけない。」

侍中の魏徴が隙に乗じて言った。

「陛下は、生きていたときにこの人が濁っていると仰せになり、財を受けた場を見られなかったのに、いま彼が珠を売ったと聞いて挙げた者を罰されようとするのは、臣には何のお言葉か分かりません。

聖なる朝廷が立ってから、国のために忠を尽くし、清く直く慎んで守り、初めから終わりまで変わらなかった者は、屈突通と張道源だけです。屈突通の子三人が選ばれに来ましたが、痩せた馬一頭があるだけで、張道源の子は生き立つこともできないのに、一言もこれに及ぶお言葉を見ませんでした。

いま弘節は国のために功を立て、前後に大きく賞と賜りを被り、官にあって死んだ後に貪り悪かったという話はなく、妻と子が珠を売ったことが罪となるのではありません。その清さを察した者には問われるところがなく、その濁りを疑う者については、傍らで挙げた人を責められるのですから、悪を憎むことに疑いがないとはいえても、これもまた善を好むことが厚くないことです。臣がひそかに度ってみても、その可であることを見ませんから、知る者が聞けば必ず邪な議が生じることを恐れます。」

太宗は手を打って言った。

「急に思わずに、ついにこうした言が聞こえるようにしてしまった。いまやっと、言うことが易しくないと分かった。あわせてこれを問うな。あの屈突通と張道源の子には、おのおの官一つずつを授けよ。」

貞觀八年,太宗將發諸道黜陟使,畿內道未有其人,太宗親定,問於房玄齡等曰:「此道事最重,誰可充使?」右仆射李靖曰:「畿內事大,非魏徵莫可。」太宗作色曰:「朕今欲向九成宮,亦非小,寧可遣魏徵出使?朕每行不欲與其相離者,適為其見朕是非得失。公等能正朕不?可因輒有所言,大非道理。」乃即令李靖充使。

貞観八年、太宗が諸々の道に黜陟使を遣わそうとしたが、畿内道にまだその人がなかった。太宗が自ら定めようとして、房玄齢たちに問うた。

「この道の事がもっとも重い。誰が使いに充てるに足るか。」

右僕射の李靖が言った。

「畿内の事は大きいので、魏徴でなければなりません。」

太宗は色を変えて言った。

「朕はいま九成宮へ行こうとしているので、これも小さな事ではないのに、どうして魏徴を使いとして出せようか。朕が行くたびに彼と離れようとしないのは、まさに彼が朕の是非と得失を見てくれるからだ。公たちは朕を正せるのか。たちまち言うところがあるのは、大いに道理でない。」

そこで李靖を使いに充てさせた。

貞觀九年,蕭瑀為尚書左仆射。嘗因宴集,太宗謂房玄齡曰:「武德六年已後,太上皇有廢立之心,我當此日,不為兄弟所容,實有功高不賞之懼。蕭瑀不可以厚利誘之,不可以刑戮懼之,真社稷臣也。」乃賜詩曰:「疾風知勁草,板蕩識誠臣。」瑀拜謝曰:「臣特蒙誡訓,許臣以忠諒,雖死之日,猶生之年。」

貞観九年、蕭瑀が尚書左僕射となった。かつて宴があったとき、太宗が房玄齢に言った。

「武徳六年より後、太上皇に廃し立てようとする心があった。朕はそのとき兄弟に容れられず、まことに功が高ければ賞を受けられないという懼れがあった。蕭瑀は厚い利で誘えず、刑と殺で懼れさせられないのだから、まことに社稷の臣である。」

そこで詩を賜った。

「激しい風に強い草を知り、覆った世に誠ある臣を知る。」

蕭瑀は拝して謝した。

「臣は特に戒めの教えを被り、忠と信で許されましたから、たとえ死ぬ日でも、なお生きている年と同じです。」

貞觀十一年,太宗行至漢太尉楊震墓,傷其以忠非命,親為文以祭之。房玄齡進曰:「楊震雖當年夭枉,數百年後方遇聖明,停輿駐蹕,親降神作,可謂雖死猶生,沒而不朽。不覺助伯起幸賴欣躍於九泉之下矣。伏讀天文,且感且慰,凡百君子,焉敢不勖勵名節,知為善之有效!」

貞観十一年、太宗が行きがかりに漢の太尉楊震の墓に至り、彼が忠によって天命を全うできなかったことを痛んで、自ら文を作って祭った。房玄齢が進んで言った。

「楊震はその年に早く枉げられて死にましたが、数百年の後にはじめて聖明な方に遇い、車を停め歩みを留められて、自ら霊なる文を下されたのですから、死んでもなお生きており、滅んでも朽ちなかったと申せます。思わず、白い気が幸いに藉って、九つの泉の下で喜び躍るのを助けることになりました。伏して天の文を読みますと、感じられ、また慰められます。そもそも諸々の君子が、どうして敢えて名と節に努めず、善を行うことに報いがあると知らないでいられましょうか。」

貞觀十一年,太宗謂侍臣曰:「狄人殺衛懿公,盡食其肉,獨留其肝。懿公之臣弘演呼天大哭,自出其肝,而內懿公之肝於其腹中。今覓此人,恐不可得。」特進魏徵對曰:「昔豫讓為智伯報讎,欲刺趙襄子,襄子執而獲之,謂之曰:『子昔事範、中行氏乎?智伯盡滅之,子乃委質智伯,不為報讎;今即為智伯報讎,何也?』讓答曰:『臣昔事範、中行,範、中行以眾人遇我,我以眾人報之。智伯以國士遇我,我以國士報之。』在君禮之而已,亦何謂無人焉?」

貞観十一年、太宗が側近の臣に言った。

「狄人が衛の懿公を殺してその肉をすべて食い、ただその肝だけを残した。懿公の臣の弘演は天を呼んで大いに泣き、自ら自分の肝を出して、懿公の肝を自分の腹のうちに入れた。いまこうした人を求めても、おそらく得られまい。」

特進の魏徴が答えた。

「昔、予讓が智伯のために仇を報いようとして趙襄子を刺そうとしたとき、襄子は捕らえ得て『あなたは昔、范氏と中行氏に仕えなかったか。智伯が彼らをみな滅ぼしたのに、あなたはそこで智伯に身を託して仇を報いなかった。いまは智伯のために仇を報いようとするのは、どういうことか』と言いました。予讓は『臣が昔、范氏と中行氏に仕えたときは、范氏と中行氏が衆人としてわたしを待遇しましたので、わたしは衆人として報いました。智伯は国の士としてわたしを待遇しましたので、わたしは国の士として報いるのです』と答えました。君が礼で遇することにあるだけですから、やはりどうして人がいないと申せましょうか。」

貞觀十二年,太宗幸蒲州,因詔曰:「隋故鷹擊郎將堯君素,往在大業,受任河東,固守忠義,克終臣節。雖桀犬吠堯,有乖倒戈之志,疾風勁草,實表歲寒之心。爰踐茲境,追懷往事,宜錫寵命,以申勸獎。可追贈蒲州刺史,仍訪其子孫以聞。」

貞観十二年、太宗が蒲州に行幸し、そこで詔を下した。

「隋のもとの鷹撃郎将の尭君素は、過ぎた大業の間に河東で任を受け、忠と義を固く守って臣の節をよく終えた。桀の犬が堯を見て吠えたようなもので、戈を逆さに取る意とは乖るところがあるが、激しい風に強い草というべきで、まことに寒い季節の心を現した。この地を踏んで過ぎた事を追い思うので、恩寵の命を下して勧めと誉れを展べるべきである。蒲州刺史を贈り、あわせてその子孫を訪ねて奏させよ。」

貞觀十二年,太宗謂中書侍郎岑文本曰:「梁、陳名臣,有誰可稱?復有子弟堪招引否?」文本奏言:「隋師入陳,百司奔散,莫有留者,惟尚書仆射袁憲獨在其主之傍。王世充將受隋禪,群僚表請勸進,憲子國子司業承家,讬疾獨不署名。此之父子,足稱忠烈。承家弟承序,今為建昌令。清貞雅操,實繼先風。」由是召拜晉王友,兼令侍讀,尋授弘文館學士。

貞観十二年、太宗が中書侍郎の岑文本に言った。

「梁と陳の名ある臣のうち、誰が称えるに足るか。また召し引くに足る子弟がいるか。」

文本が奏した。

「隋の兵が陳に入ると、諸官司は逃げ散って留まる者がありませんでしたが、ただ尚書僕射の袁憲だけが独りその君の側にいました。王世充が隋の禅りを受けようとしたとき、諸々の官が表を奉って進むよう勧めましたが、袁憲の子の国子司業の袁承家は、病を口実に独り名を記しませんでした。この父と子は、忠で烈しかったと称えるに足ります。承家の弟の承序は、いま建昌令です。清く直い雅な操は、まことに先の風を継いでいます。」

これによって召して晋王の友とし、兼ねて侍読させ、やがて弘文館学士を授けた。

貞觀十五年,詔曰:「朕聽朝之暇,觀前史,每覽前賢佐時,忠臣徇國,何嘗不想見其人,廢書欽嘆!至於近代以來,年歲非遠,然其胤緒,或當見存,縱未能顯加旌表,無容棄之遐裔。其周、隋二代名臣及忠節子孫,有貞觀已來犯罪配流者,宜令所司具錄奏聞。」於是多從矜宥。

貞観十五年、詔を下した。

「朕が朝を聴く暇に先の歴史を見るが、先の賢者が時を輔け、忠なる臣が国に命を捧げたのを見るたびに、その人に会ってみたくなって、書を置いて仰ぎ嘆じないことはない。近ごろの世に至っては年が遠くないので、その後裔がおそらく生きているはずだ。たとえ顕らかに表彰できなくても、遠い辺境に棄て置くことは容されない。あの周と隋の二つの代の名ある臣と忠なる節を守った者の子孫で、貞観より以来、罪を得て流された者があれば、所司に具に記して奏させよ。」

そこで多くは憐れんで赦した。

貞觀十九年,太宗攻遼東安市城,高麗人眾皆死戰,詔令耨薩延壽、惠真等降,眾止其城下以招之,城中堅守不動。每見帝幡旗,必乘城鼓譟。帝怒甚,詔江夏王道宗築土山,以攻其城,竟不能克。太宗將旋師,嘉安市城主堅守臣節,賜絹三百匹,以勸勵事君者。

貞観十九年、太宗が遼東の安市城を攻めたが、高句麗の人々はみな死を決して戦った。詔して褥薩の延寿と恵真らを降らせ、衆をその城の下に置いて呼びかけさせたが、城内では固く守って動かなかった。帝の旗を見るたびに、必ず城に上って鼓を打ち声を上げた。帝は大いに怒り、江夏王の李道宗に詔して土山を築いてその城を攻めさせたが、ついに克てなかった。太宗は軍を還そうとして、安市城主が臣の節を固く守ったことを嘉し、絹三百匹を賜って、君に仕える者たちを勧め励ました。