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孝と友愛孝友第十五

貞観政要(貞観の治における政の要) 貞觀政要 · 呉兢 · 8世紀初め · 段落 5 · 漢字 432字 · 朗読 1.7分

貞観政要(貞観の治における政の要) 孝友第十五 唐の太宗が臣下と交わした言葉を主題ごとに集めた書。君主の道から始まり、諫言を受け入れる法、官吏を選ぶ法、刑罰と税と征伐を経て「終わりを慎む」で終わる。魏徴が面を合わせて折って諫め、太宗がそれを受け入れる場面が書の骨格である。高句麗の安市城をついに落とせずに退き、城主に絹を与えたこと、房玄齢が死に臨んで遼東征伐を止めた上疏もここにある。

司空房玄齡事繼母,能以色養,恭謹過人。其母病,請醫人至門,必迎拜垂泣。及居喪,尤甚柴毀。太宗命散騎常侍劉洎就加寬譬,遺寢床、粥食、鹽菜。

司空の房玄齢は継母に仕えるのに、顔つきを和やかにして養うことができ、恭しく慎むことが人より勝れていた。その母が病んで医者を請い、門に至ると、必ず迎えて拝し涙を流した。喪に遭ってからは、いっそうひどく痩せて身を損なった。太宗は散騎常侍の劉洎に命じて、行って寛やかに諭させ、寝台と粥と塩と菜を送った。

虞世南,初仕隋,歷起居舍人,宇文化及殺逆之際,其兄世基時為內史侍郎,將被誅,世南抱持號泣,請以身代死,化及竟不納。世南自此哀毀骨立者數載,時人稱重焉。

虞世南は初め隋に仕えて起居舎人を務めた。宇文化及が君を殺したとき、その兄の虞世基はそのとき内史侍郎で、斬られることになった。世南は取りついて声を上げて泣き、自分の身で代わって死ぬことを請うたが、化及はついに納れなかった。世南はこれから数年、悲しみ痩せて骨ばかりになったので、当時の人々は重んじた。

韓王元嘉,貞觀初,為潞州刺史。時年十五,在州聞太妃有疾,便涕泣不食,及至京師發喪,哀毀過禮。太宗嘉其至性,屢慰勉之。元嘉閨門修整,有類寒素士大夫,與其弟魯哀王靈夔甚相友愛,兄弟集見,如布衣之禮。其修身潔已,內外如一,當代諸王莫能及者。

漢王李元嘉は貞観の初めに潞州刺史となった。そのとき年は十五であったが、州で太妃が病んだと聞くと、すぐ涙を流して食べず、都に着いて喪を発するときは、悲しみ痩せることが礼を過ぎた。太宗はその至った性を嘉して、たびたび慰め励ました。

元嘉は閨門が斉って、貧しい士のようなところがあり、その弟の魯哀王李霊嘉とひどく仲が良く、兄弟が集まって会うときは、布衣の人の礼のようであった。その身を修め自分の身を清くして、内も外も一つのようであったので、当時の諸王は及ぶことができなかった。

霍王元軌,武德中,初封為吳王,貞觀七年,為壽州刺史。屬高祖崩,去職,毀瘠過禮。自後常衣布服,示有終身之戚。太宗嘗問侍臣曰:「朕子弟孰賢?」侍中魏徵對曰:「臣愚暗,不盡知其能,惟吳王數與臣言,臣未嘗不自失。」太宗曰:「卿以為前代誰比?」徵曰:「經學文雅,亦漢之間、平,至如孝行,乃古之曾、閔也。」由是寵遇彌厚,因令妻徵女焉。

霍王李元軌は武徳の間に初め呉王に封じられ、貞観七年に寿州刺史となった。高祖が崩じると官を離れたが、痩せ衰えることが礼を過ぎた。その後はつねに布の衣を着て、身が終わるまで悲しみがあることを示した。

太宗がかつて側近の臣に問うた。

「朕の子弟のうち、誰が賢いか。」

侍中の魏徴が答えた。

「臣は愚かで暗く、その能を知り尽くしません。ただ呉王はたびたび臣と語りましたが、臣が自ら足りないと感じないことはありませんでした。」

太宗が言った。

「卿は前代の誰に比べるか。」

魏徴が言った。

「経学と文雅では、漢の河間王や東平王であり、孝の行いで申せば、古の曾参や閔子騫です。」

これによって寵みと待遇がいっそう厚くなり、そこで魏徴の娘を妻とさせた。

貞觀中,有突厥史行昌直玄武門,食而舍肉,人問其故,曰:「歸以奉母。」太宗聞而嘆曰:「仁孝之性,豈隔華夷?」賜尚乘馬一疋,詔令給其母肉料。

貞観の間、突厥の人の史行昌が玄武門で番に立っていたが、飯を食べながら肉を残しておいた。人々がその理由を問うと言った。

「帰って母に差し上げようと思います。」

太宗は聞いて感嘆して言った。

「仁で孝なる性に、どうして華と夷の隔たりがあろうか。」

尚乗の馬一頭を賜り、詔してその母に肉を給させた。