刑法を論じる論刑法第三十一
貞觀元年,太宗謂侍臣曰:「死者不可再生,用法務在寬簡。古人云:『鬻棺者欲歲之疫,非疾於人,利於棺售故耳』。今法司核理一獄,必求深刻,欲成其考課。今作何法,得使平允?」諫議大夫王珪進曰:「但選公直良善人,斷獄允當者,增秩賜金,即奸偽自息。」詔從之。太宗又曰:「古者斷獄,必訊於三槐、九棘之官,今三公、九卿,即其職也。自今以後,大辟罪皆令中書、門下四品以上及尚書九卿議之。如此,庶免冤濫。」由是至四年,斷死刑,天下二十九人,幾致刑措。
貞観元年、太宗が侍臣に言った。
「死んだ者は再び生きられないのだから、法を用いるには寛やかで簡やかであることに努めなければならない。古人は『棺を売る者がその年に疫病が起こることを願うのは、人を憎んでいるからではなく、棺が売れるのに利があるからにすぎない』と言った。いま法を司る役所が一つの獄を調べ裁くのに、必ず深く厳しくしようとするのは、その考課を成そうとするからである。いまどのような法を作れば、公平で確かにできるだろうか。」
諫議大夫の王珪が進み出て言った。
「ただ公平でまっすぐ、善良な人を選び、獄を裁くのが確かで妥当な者に品階を加え金を賜れば、奸しさと偽りはおのずとやみます。」
詔してこれに従った。太宗はまた言った。
「古くは獄を裁くとき、必ず三槐・九棘の官に問うた。いまの三公・九卿が、まさにその職である。今より後、死罪はみな中書省・門下省の四品以上および尚書と九卿に議させよ。こうすれば、おおむね冤罪と行き過ぎを免れよう。」
これによって四年に至るまで、死刑を裁いたのは天下で二十九人、ほとんど刑罰を措いたに近かった。
貞觀二年,太宗謂侍臣曰:「比有奴告主謀逆,此極弊法,特須禁斷。假令有謀反者,必不獨成,終將與人計之;眾計之事,必有他人論之,豈藉奴告也?自今奴告主者,不須受,盡令斬決。」
貞観二年、太宗が侍臣に言った。
「近ごろ奴僕が主人の謀反を告げることがあるが、これは極めて悪い法で、わざわざ禁じ断つ必要がある。たとえ謀反する者があっても、必ず一人では成せず、ついには人と相談するのだから、多くの者が相談した事なら、必ず他の人がそれを言い出す。どうして奴僕の告発を借りることがあろうか。今より奴僕が主人を告げても受け取らず、みな斬って処断させよ。」
貞觀五年,張蘊古為大理丞。相州人李好德素有風疾,言涉妖妄,詔令鞠其獄。蘊古言:「好德癲病有徵,法不當坐。」太宗許將寬宥。蘊古密報其旨,仍引與博戲。治書侍御史權萬紀劾奏之。太宗大怒,令斬於東市。既而悔之,謂房玄齡曰:「公等食人之祿,須憂人之憂,事無巨細,咸當留意。今不問則不言,見事都不諫諍,何所輔弼?如蘊古身為法官,與囚博戲,漏泄朕言,此亦罪狀甚重。若據常律,未至極刑。朕當時盛怒,即令處置。公等竟無一言,所司又不覆奏,遂即決之,豈是道理。」因詔曰:「凡有死刑,雖令即決,皆須五覆奏。」五覆奏,自蘊古始也。又曰:「守文定罪,或恐有冤。自今以後,門下省覆,有據法令合死而情可矜者,宜錄奏聞。」
貞観五年、張蘊古が大理丞となった。相州の人の李好徳はもともと風の病があり、言葉が妖しく妄りなところに触れたので、詔してその獄を糾させた。蘊古は「好徳は癲の病に証があり、法として罪に座らせるには当たりません」と言った。太宗は寛く赦すことを許した。蘊古はその御旨を密かに知らせ、さらに引き入れて共に博打をした。治書侍御史の権万紀がこれを弾劾して申し上げた。太宗は大いに怒り、東の市で斬らせた。
やがてこれを悔いて、房玄齢に言った。
「公らは人の禄を食んでいるのだから、人の憂えを憂えなければならず、事に大小なくみな心を留めるべきである。いまは問わなければ言わず、事を見ても一向に諫め争わない。何を輔けているのか。
蘊古のような者は、身は法官でありながら囚人と博打をし、朕の言葉を漏らした。これもまた罪状がはなはだ重い。けれども常の律に拠れば、極刑には至らなかった。朕はそのとき盛んに怒って、すぐに処置させた。それなのに公らはついに一言もなく、担当の役所もまた覆奏せず、そのまま処断してしまった。どうしてこれが道理であろうか。」
そこで詔を下した。
「およそ死刑があれば、すぐ処断せよと命じても、みな五度の覆奏を経なければならない。」
五度の覆奏は、蘊古から始まったのである。また言った。
「文を守って罪を定めれば、冤罪があるのではと恐れる。今より後、門下省が覆し、法令に拠れば死に当たるが情として憐れむべきものがあれば、記して奏上せよ。」
蘊古,初以貞觀二年,自幽州總管府記室兼直中書省,表上《大寶箴》,文義甚美,可以規誡。其詞曰:
蘊古は、はじめ貞観二年に幽州総管府の記室として中書省を兼ね務めていたとき、表を上げて「大宝箴」を献じたが、文の義がはなはだ美しく、規と戒めとするに足るものであった。その文はこうである。
今來古往,俯察仰觀,惟辟作福,為君實難。宅普天之下,處王公之上,任土貢其所有,具僚和其所唱。是故恐懼之心日弛,邪僻之情轉放。豈知事起乎所忽,禍生乎無妄。故以聖人受命,拯溺亨屯,歸罪於己,推恩於民。大明無偏照,至公無私親。故以一人治天下,不以天下奉一人。禮以禁其奢,樂以防其佚。左言而右事,出警而入蹕。四時調其慘舒,三光同其得失。故身為之度,而聲為之律。勿謂無知,居高聽卑;勿謂何害,積小成大。樂不可極,極樂成哀;欲不可縱,縱欲成災。壯九重於內,所居不過容膝;彼昏不知,瑤其臺而瓊其室。羅八珍於前,所食不過適口;惟狂罔念,丘其糟而池其酒。勿內荒於色,勿外荒於禽;勿貴難得之貨,勿聽亡國之音。內荒伐人性,外荒蕩人心;難得之物侈,亡國之聲淫。勿謂我尊而傲賢侮士,勿謂我智而拒諫矜己。聞之夏後,據饋頻起;亦有魏帝,牽裾不止。安彼反側,如春陽秋露;巍巍蕩蕩,推漢高大度。撫茲庶事,如履薄臨深;戰戰栗栗,用周文小心。
今が来て古が去るのを、俯し仰いで見ますに、ただ君主だけが福を作るものではありますが、君となるのはまことに難しいことです。普天の下に居を占め、王公の上に処して、土地に任せてその有るものを貢がせ、並ぶ官はその唱えるところに和します。それゆえ恐れ慎む心は日ごとに緩み、邪で偏った情はいよいよ放たれます。どうして知りましょうか、事は忽せにするところから起こり、禍いは思いもしないところから生じるのだと。
ですから聖人は命を受けると、溺れる者を救い、難を通し、罪を自分に帰し、恩を民に推し及ぼします。大いなる明るさは偏って照らさず、至れる公は私に親しむことがありません。ですから一人で天下を治めはしても、天下に一人を奉じさせはしないのです。
礼によってその奢りを禁じ、楽によってその怠りを防ぎます。左に言を記し右に事を記し、出るときは道を警め、入るときは道を払います。四時はその厳しさと和らぎを調え、三光はその得と失を同じくします。ですから身が度となり、声が律となるのです。
知るものがないと言われますな、高きに居ながら低きを聴くのです。何の害があろうと言われますな、小さなものが積もって大きなものを成すのです。楽しみは極めてはならず、楽しみを極めれば哀しみとなります。欲は放ってはならず、欲を放てば災いとなります。九重の内を壮んに造っても、住むには膝を容れるだけで足るのに、あの暗い者は知らずに、その台を瑤で飾りその室を瓊で飾ります。八珍を前に並べても、食べるには口に合えば足るのに、ただ狂った者は思いがなく、酒の糟で丘を作り酒で池を作ります。
内には色に荒むことなく、外には禽を追うことに荒むことなく、得がたい貨を貴ばず、亡国の音を聴かれませぬよう。内に荒めば人の性を伐り、外に荒めば人の心を蕩かします。得がたい物は侈りであり、亡国の声は淫らです。
私は尊いのだと言って賢者に傲り士を侮られませぬよう、私は智いのだと言って諫めを拒み己を誇られませぬよう。夏后氏のことを聞きますに、食膳に向かいながらたびたび立ち上がりました。魏の帝もまた、裾を引かれてもやめませんでした。
落ち着かずにいる者たちを安らかにすることは、春の陽、秋の露のようにされ、巍々として蕩々とした漢の高祖の大度を推されますよう。この諸々の事に当たることは、薄氷を履み深みに臨むようにされ、戦々慄々として、周の文王の小心を用いられますよう。
《詩》云:「不識不知。」《書》曰:「無偏無黨。」一彼此於胸臆,捐好惡於心想。眾棄而後加刑,眾悅而後命賞。弱其強而治其亂,伸其屈而直其枉。故曰:如衡如石,不定物以數,物之懸者,輕重自見;如水如鏡,不示物以形,物之鑒者,妍蚩自露。勿渾渾而濁,勿皎皎而清;勿汶汶而暗,勿察察而明。雖冕旒蔽目而視於未形,雖黈纊塞耳而聽於無聲。縱心乎湛然之域,遊神於至道之精。扣之者,應洪纖而效響;酌之者,隨淺深而皆盈。故曰:天之清,地之寧,王之貞。四時不言而代序,萬物無為而受成。豈知帝有其力,而天下和平。吾王撥亂,戡以智力;人懼其威,未懷其德。我皇撫運,扇以淳風;民懷其始,未保其終。爰術金鏡,窮神盡性。使人以心,應言以行。包括理體,抑揚辭令。天下為公,一人有慶。開羅起祝,援琴命詩。一日二日,念茲在茲。惟人所召,自天祐之。爭臣司直,敢告前疑。
『詩経』には「識らず知らず」とあり、『書経』には「偏ることなく党することなく」とあります。此方と彼方を胸のうちで一つにし、好みと憎みを心の思いから捨てられますよう。人々が棄ててから刑を加え、人々が悦んでから賞を命じられますよう。その強いものを弱め、その乱れたものを治め、その屈んだものを伸ばし、その枉がったものを直されますよう。
ですから言われます。衡のように石のように、物を数で定めなくても、物が懸けられれば軽重はおのずと見える。水のように鏡のように、物に形を示さなくても、物が映れば美しさ醜さはおのずと露われる、と。
渾々として濁られますな、皎々として清すぎられますな。汶々として暗くあられますな、察々として明らかすぎられますな。冕の旒が目を覆っても、まだ形をなさないものを見られますよう。黈の纊が耳を塞いでも、声のないところで聴かれますよう。心を湛然とした域に放ち、神を至れる道の精しさに遊ばせられますよう。
叩く者には、大きさ細さに応じて響きを返し、酌む者には、浅さ深さに従ってみな満たされますよう。ですから言われます。天の清らかさ、地の安らかさ、王の正しさ、と。四時は言わずに序を代わり、万物は為すことなく成るのを受けます。どうして帝にその力があると知れましょうか、それでも天下は和らぎ平らかなのです。
我が王が乱を撥められたのは、智と力で勝たれたものでした。人はその威を恐れはしましたが、まだその徳を懐くには至りませんでした。我が皇が運を撫でられたのは、淳らかな風を扇がれたものでした。民はその初めを懐きましたが、まだその終わりを保てていません。
ここに金の鏡の術を布き、神を窮め性を尽くされますよう。人を心で使い、言に行いで応えられますよう。理の体を包み括り、辞と令を抑え揚げられますよう。天下が公のものとなれば、一人に慶びがあります。羅を開いて祝を起こし、琴を引いて詩を命じられますよう。一日二日も、これを念いここに置かれますよう。ただ人が招くところを、天がおのずと祐けるのです。争う臣と直を司る者が、あえて前の疑いを告げ申し上げます。
太宗嘉之,賜帛三百段,仍授以大理寺丞。
太宗はこれを嘉んで絹三百段を賜り、続いて大理寺丞を授けた。
貞觀五年,詔曰:「在京諸司,比來奏決死囚,雖云三覆,一日即了,都未暇審思,三奏何益?縱有追悔,又無所及。自今後,在京諸司奏決死囚,宜二日中五覆奏,天下諸州三覆奏。」又手詔敕曰:「比來有司斷獄,多據律文,雖情在可矜而不敢違法,守文定罪,惑恐有冤。自今門下省復有據法合死,而情在可矜者,宜錄狀奏聞。」
貞観五年、詔を下した。
「都にある諸々の役所が、近ごろ死囚を奏して処断するとき、三度の覆奏とはいうものの、一日で片づけてしまい、まったく審らかに思う暇がない。三度奏して何の益があろうか。たとえ後から悔いても、もう及ぶところがない。今より後、都にある諸々の役所が死囚を奏して処断するときは、二日のあいだに五度の覆奏をし、天下の諸州は三度の覆奏をせよ。」
またみずから詔して勅した。
「近ごろ担当の役所が獄を裁くのに、多く律の文に拠るので、情として憐れむべきものがあっても、あえて法に背こうとしない。文を守って罪を定めれば、冤罪があるのではと恐れる。今より門下省が覆し、法に拠れば死に当たるが情として憐れむべきものがあれば、その状を記して奏上せよ。」
貞觀九年,鹽澤道行軍總管、岷州都督高甑生,坐違李靖節度,又誣告靖謀逆,減死徙邊。時有上言者曰:「甑生舊秦府功臣,請寬其過。」太宗曰:「雖是藩邸舊勞,誠不可忘。然理國守法,事須畫一,今若赦之,使開僥幸之路。且國家建義太原,元從及征戰有功者甚眾,若甑生獲免,誰不覬覦?有功之人,皆須犯法。我所以必不赦者,正為此也。」
貞観九年、塩沢道行軍総管で岷州都督の高甑生が、李靖の指揮に背いた罪に当たり、さらに李靖が謀反していると誣告したので、死を減じて辺境に移された。そのとき書を上げて言う者があった。
「甑生は旧い秦王府の功臣ですから、その過ちを寛くしてください。」
太宗が言った。
「藩邸にいたころの旧い労は、まことに忘れることができない。けれども国を治め法を守ることは、事として一つに揃っていなければならない。いまもし彼を赦せば、僥倖の路を開かせることになる。また国家が太原で義を立てたとき、はじめから従い、征戦に功のあった者ははなはだ多い。もし甑生が免れられるなら、誰が窺い望まないだろうか。功のある人がみな法を犯すことになる。私が必ず赦さないのは、まさにこのためである。」
貞觀十一年,特進魏徵上疏曰:
貞観十一年、特進の魏徴が上疏した。
臣聞《書》曰:「明德慎罰」,「惟刑恤哉!」《禮》云:「為上易事,為下易知,則刑不煩矣。上人疑則百姓惑,下難知則君長勞矣。」夫上易事,則下易知,君長不勞,百姓不惑。故君有一德,臣無二心,上播忠厚之誠,下竭股肱之力,然後太平之基不墜,「康哉」之詠斯起。當今道被華戎,功高宇宙,無思不服,無遠不臻。然言尚於簡文,誌在於明察,刑賞之用,有所未盡。夫刑賞之本,在乎勸善而懲惡,帝王之所以與天下為畫一,不以貴賤親疏而輕重者也。今之刑賞,未必盡然。或屈伸在乎好惡,或輕重由乎喜怒;遇喜則矜其情於法中,逢怒則求其罪於事外;所好則鉆皮出其毛羽,所惡則洗垢求其瘢痕。瘢痕可求,則刑斯濫矣;毛羽可出,則賞因謬矣。刑濫則小人道長,賞謬則君子道消。小人之惡不懲,君子之善不勸,而望治安刑措,非所聞也。
臣が聞きますところ、『書経』に「徳を明らかにし罰を慎め」とあり、「ただ刑を恤れめ」とあります。『礼記』に「上が仕えやすく、下が知りやすければ、刑は煩わしくない。上の人が疑えば民は惑い、下が知りがたければ君は労する」とあります。そもそも上が仕えやすければ下は知りやすく、君が労さなければ民は惑いません。ですから君に一つの徳があり、臣に二つの心がなく、上は忠と厚の誠を播き、下は股肱の力を尽くして、はじめて太平の基が崩れず、「康らかなるかな」の詠がここに起こります。
いま道は華と戎に被り、功は宇宙に高く、服さない者はなく、遠くて至らない所もありません。けれども言葉では文を簡やかにすることを尊ばれながら、御志は明らかに察することにあり、刑と賞の用いかたに尽くしきれていないところがあります。
そもそも刑と賞の本は、善を勧め悪を懲らすことにあり、帝王が天下と一つに揃え、貴賤や親疎によって軽重をつけないところのものです。それなのに今の刑と賞は、必ずしもみなそうではありません。屈めるか伸ばすかが好みと憎みにあり、軽いか重いかが喜びと怒りから出ることがあります。喜びに遇えば法のうちでその情を憐れまれ、怒りに逢えば事の外でその罪を探られます。好む者には皮を鑽ってその毛羽を出し、憎む者には垢を洗ってその瘢痕を探します。瘢痕が探せるなら刑はここに濫れ、毛羽が出せるなら賞はそれで誤ります。刑が濫れれば小人の道が長じ、賞が誤れば君子の道が消えます。小人の悪が懲らされず、君子の善が勧められないのに、治まり安らかで刑を措くことを望むのは、聞いたことがありません。
且夫暇豫清談,皆敦尚於孔、老;威怒所至,則取法於申、韓。直道而行,非無三黜,危人自安,蓋亦多矣。故道德之旨未弘,刻薄之風已扇。夫刻薄既扇,則下生百端;人競趨時,則憲章不一。稽之王度,實虧君道。昔州犁上下其手,楚國之法遂差;張湯輕重其心,漢朝之刑以弊。以人臣之頗僻,猶莫能申其欺罔,況人君之高下,將何以措其手足乎?以睿聖之聰明,無幽微而不燭,豈神有所不達,智有所不通哉?安其所安,不以恤刑為念;樂其所樂,遂忘先笑之變。禍福相倚,吉兇同域,惟人所召,安可不思?頃者責罰稍多,威怒微厲,或以供帳不贍,或以營作差違,或以物不稱心,或以人不從命,皆非致治之所急,實恐驕奢之攸漸。是知「貴不與驕期而驕自至,富不與侈期而侈自來」,非徒語也。
また、閑かな折の清談ではみな孔子と老子を篤く尊ばれながら、威と怒りの及ぶところでは申不害と韓非に法を取られます。まっすぐな道で行って三度退けられることもなくはなく、人を危うくして自分は安らかにすることも、おおむねまた多いのです。ですから道徳の旨がまだ広まらないうちに、刻薄な風がすでに扇がれています。そもそも刻薄が扇がれれば、下には百の端が生じ、人が競って時に従えば、憲章は一つに揃いません。王の度に照らせば、まことに君の道を損ないます。
かつて州犁が手を上げ下げしたので楚国の法はついに狂い、張湯がその心で軽重をつけたので漢の朝廷の刑はそれで崩れました。臣たる者の偏り歪みでさえ、その欺きを明らかにすることができなかったのです。まして君主が高く低くされれば、いったい何によってその手足を措けばよいのでしょうか。
睿く聖なる聡明さをもって、幽く微かなところまで燭らさないところがないのですから、どうして神の達しないところ、智の通じないところがありましょうか。その安らかなところを安んじて、刑を恤れむことを念いとされず、その楽しいところを楽しんで、ついに先に笑っていたものの変を忘れられます。禍いと福は互いに倚りかかり、吉と凶は同じ域にあって、ただ人が招くところですから、どうして思わずにいられましょうか。
近ごろ責めと罰がやや多くなり、威と怒りが少し厲しくなりました。供えの設えが足りないと言われ、造営が食い違ったと言われ、物が心に適わないと言われ、人が命に従わないと言われます。これらはみな治まりに至るのに急なことではなく、まことに驕りと奢りが漸み入るのではと恐れます。それで「貴は驕りと期さなくても驕りがおのずと至り、富は侈りと期さなくても侈りがおのずと来る」というのが、いたずらな言葉でないとわかります。
且我之所代,實在有隋。隋氏亂亡之源,聖明之所臨照。以隋氏之府藏譬今日之資儲,以隋氏之甲兵況當今之士馬,以隋氏之戶口校今時之百姓,度長比大,曾何等級?然隋氏以富強而喪敗,動之也;我以貧窮而安寧,靜之也。靜之則安,動之則亂,人皆知之,非隱而難見也,非微而難察也。然鮮蹈平易之途,多遵覆車之轍,何哉?在於安不思危、治不念亂、存不慮亡之所致也。昔隋氏之未亂,自謂必無亂;隋氏之未亡,自謂必不亡,所以甲兵屢動,徭役不息。至於將受戮辱,竟未悟其滅亡之所由也,可不哀哉!
また我らが代わったのは、まことに隋でした。隋氏が乱れ亡んだ源は、聖明が臨み照らされるところです。隋氏の府の蓄えを今日の資と儲えに譬え、隋氏の甲と兵を当今の士と馬に比べ、隋氏の戸口を今の民と較べて、長さを度り大きさを比べれば、いったい何ほどの等級でしょうか。それでも隋氏が富み強くて喪い敗れたのは、動かしたからです。我らが貧しく窮しながら安らかで静かなのは、静めているからです。
静めれば安らかになり、動かせば乱れることは、人がみな知っていることで、隠れて見がたいものでもなく、微かで察しがたいものでもありません。それなのに平らかで易しい途を踏む者はまれで、覆った車の轍を遵う者が多いのは、なぜでしょうか。安らかなときに危うさを思わず、治まったときに乱れを念わず、存るときに亡びを慮らないことから来るのです。
かつて隋氏がまだ乱れないうちは、自ら必ず乱れることはないと言い、隋氏がまだ亡びないうちは、自ら必ず亡びないと言いました。だから甲と兵がたびたび動き、徭役がやみませんでした。まさに戮と辱を受けようとするときになっても、ついにその滅亡の由るところを悟りませんでした。哀しくないでしょうか。
夫鑒形之美惡,必就於止水;鑒國之安危,必取於亡國。故《詩》曰:「殷鑒不遠,在夏後之世。」又曰:「伐柯伐柯,其則不遠。」臣願當今之動靜,必思隋氏以為殷鑒,則存亡之治亂,可得而知。若能思其所以危,則安矣;思其所以亂,則治矣;思其所以亡,則存矣。知存亡之所在,節嗜欲以從人,省遊畋之娛,息靡麗之作,罷不急之務,慎偏聽之怒;近忠厚,遠便佞,杜悅耳之邪說,甘苦口之忠言;去易進之人,賤難得之貨,采堯舜之誹謗,追禹湯之罪己;惜十家之產,順百姓之心,近取諸身,恕以待物,思勞謙以受益,不自滿以招損;有動則庶類以和,出言而千里斯應,超上德於前載,樹風聲於後昆,此聖哲之宏觀,而帝王之大業,能事斯畢,在乎慎守而已。
そもそも姿の美しさ醜さを映すには、必ず止まった水に就かなければならず、国の安らかさ危うさを映すには、必ず亡んだ国に取らなければなりません。ですから『詩経』に「殷の鑑は遠くない、夏后の世にある」とあり、また「柯を伐り柯を伐る、その則は遠くない」とあります。
臣は、いまの動と静が必ず隋氏を思って殷の鑑とされることを願います。そうすれば、存亡と治乱を知ることができます。もしその危うくなった理由を思えれば安らかになり、その乱れた理由を思えば治まり、その亡びた理由を思えば存ります。
存亡の在りどころを知られ、嗜みと欲を節して人に従われ、遊びと狩りの娯しみを省き、華やかで麗しい造作をやめ、急がない務めを罷め、片方だけ聴いて出る怒りを慎まれますよう。忠と厚の者を近づけ、便佞な者を遠ざけ、耳に悦い邪な説を杜ぎ、口に苦い忠の言を甘しとされますよう。進みやすい人を去け、得がたい貨を賤しみ、堯と舜が誹謗を採ったことに倣い、禹と湯が自らを罪したことを追われますよう。十家の産を惜しみ、民の心に順い、近くは自分の身に取り、恕によって物に接されますよう。労して謙しくして益を受けることを思い、自ら満ちて損を招かれませぬよう。
動かれれば諸々の類が和し、言を出されれば千里がこれに応じるでしょう。上の徳を前の載籍より超え、風のような声を後の子孫に樹てることです。これが聖哲の宏い観であり、帝王の大いなる業であって、能くする事はここに尽き、慎んで守ることにあるだけです。
夫守之則易,取之實難。既能得其所以難,豈不能保其所以易?其或保之不固,則驕奢淫泆動之也。慎終如始,可不勉歟!《易》曰:「君子安不忘危,存不忘亡,治不忘亂,是以身安而國家可保也。」誠哉斯言,不可以不深察也。伏惟陛下欲善之誌,不減於昔時,聞過必改,少虧於曩日。若以當今之無事,行疇昔之恭儉,則盡善盡美矣,固無得而稱焉。
そもそも守るのは易しく、取るのはまことに難しいものです。すでにその難しいところを得られたのに、どうしてその易しいところを保てないでしょうか。もし保つことが固くないとすれば、それは驕り奢り淫し泆れることがこれを動かしたのです。終わりを慎むことを初めのようにすることに、努めずにいられましょうか。
『易』に「君子は安らかなときに危うさを忘れず、存るときに亡びを忘れず、治まったときに乱れを忘れない。だから身が安らかで国家を保てる」とあります。まことですこの言葉は。深く察しないわけにはいきません。
伏して思いますに、陛下が善くあろうとされる御志は、昔より減じてはおられませんが、過ちを聞いて必ず改められることは、過ぎた日より少し損なわれました。もし、いまの事なきときに、昔日の恭しさと倹しさを行われれば、善を尽くし美を尽くされることとなって、まことに言うべきことは何もありません。
太宗深嘉而納用。
太宗は深く嘉んで受け入れ用いた。
貞觀十四年,戴州刺史賈崇以所部有犯十惡者,被御史劾奏。太宗謂侍臣曰:「昔陶唐大聖,柳下惠大賢,其子丹朱甚不肖,其弟盜跖為臣惡。夫以聖賢之訓,父子兄弟之親,尚不能使陶染變革,去惡從善。今遣刺史,化被下人,咸歸善道,豈可得也?若令緣此皆被貶降,或恐遞相掩蔽,罪人斯失。諸州有犯十惡者,刺史不須從坐,但令明加糾訪科罪,庶可肅清奸惡。」
貞観十四年、戴州刺史の賈崇が、その治める地に十悪を犯した者があったというので、御史に弾劾された。太宗が侍臣に言った。
「かつて陶唐氏は大いなる聖、柳下恵は大いなる賢であったが、その子の丹朱はひどく不肖で、その弟の盗跖は臣として悪であった。そもそも聖賢の訓え、父子兄弟の親しさをもってしても、染め変えて悪を去り善に従わせることはできなかった。いま刺史を遣わして、教化が下の人に被り、みなが善い道に帰するようにすることなど、どうして得られようか。
もしこれによってみな貶され降されるようにすれば、互いに覆い隠し合って、罪人がここで逃れてしまうのではと恐れる。諸州に十悪を犯した者があっても、刺史は連座させずにおき、ただ明らかに糾し問うて罪を科させれば、おおむね奸と悪を肅め清めることができよう。」
貞觀十六年,太宗謂大理卿孫伏伽曰:「夫作甲者欲其堅,恐人之傷;作箭者欲其銳,恐人不傷。何則?各有司存,利在稱職故也。朕常問法官刑罰輕重,每稱法網寬於往代,仍恐主獄之司,利在殺人,危人自達,以釣聲價。今之所憂,正在此耳。深宜禁止,務在寬平。」
貞観十六年、太宗が大理卿の孫伏伽に言った。
「そもそも甲を作る者はそれが堅いことを願うが、それは人が傷つくのを恐れるからである。箭を作る者はそれが鋭いことを願うが、それは人が傷つかないのを恐れるからである。なぜか。それぞれに司るところがあって、利が職に適うことにあるからだ。
朕がつねに法官に刑罰の軽重を問えば、いつも法の網が過ぎた代より寛やかだと言う。それでも獄を司る役所が、利は人を殺すことにあるとして、人を危うくして自分を立て、それで声価を釣るのではと恐れる。いま憂えているのは、まさにここにあるだけだ。深く禁じ止めて、寛やかで平らかであることに努めよ。」