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征伐を論じる論征伐第三十五

貞観政要(貞観の治における政の要) 貞觀政要 · 呉兢 · 8世紀初め · 段落 23 · 漢字 3,795字 · 朗読 15.2分

貞観政要(貞観の治における政の要) 論征伐第三十五 唐の太宗が臣下と交わした言葉を主題ごとに集めた書。君主の道から始まり、諫言を受け入れる法、官吏を選ぶ法、刑罰と税と征伐を経て「終わりを慎む」で終わる。魏徴が面を合わせて折って諫め、太宗がそれを受け入れる場面が書の骨格である。高句麗の安市城をついに落とせずに退き、城主に絹を与えたこと、房玄齢が死に臨んで遼東征伐を止めた上疏もここにある。

武德九年冬,突厥頡利、突利二可汗以其眾二十萬,至滑水便橋之北,遣酋帥執矢思力入朝為覘,自張聲勢云:「二可汗總兵百萬,今已至矣。」乃請返命。太宗謂曰:「我與突厥面自和親,汝則背之,我無所愧,何輒將兵入我畿縣,自誇強盛?我當先戮爾矣!」思力懼而請命。蕭瑀、封德彜等請禮而遣之,太宗曰:「不然。今若放還,必謂我懼。」乃遣囚之。太宗曰:「頡利聞我國家新有內難,又聞朕初即位,所以率其兵眾直至於此,謂我不敢拒之。朕若閉門自守,虜必縱兵大掠。強弱之勢,在今一策。朕將獨出,以示輕之,且耀軍容,使知必戰。事出不意,乖其本圖,制服匈奴,在茲舉矣。」遂單馬而進,隔津與語,頡利莫能測。俄而六軍繼至,頡利見軍容大盛,又知思力就拘,由是大懼,請盟而退。

武徳九年の冬、突厥の頡利と突利の二人の可汗が、その衆二十万で滑水の便橋の北に至った。酋帥の執矢思力を遣わして朝廷に入り様子を窺わせ、自ら声と勢いを張って言った。

「二人の可汗が兵百万を率い、いますでに到着しております。」

そして帰って返答を伝えることを願った。太宗が言った。

「私は突厥と顔を合わせて自ら和親した。それをお前たちが背いたのだ。私には愧じるところがない。それをどうして、いきなり兵を率いて私の畿内の県に入り込み、自ら強く盛んだと誇るのか。私はまず先にお前を斬るべきだ。」

思力は恐れて命を乞うた。蕭瑀や封徳彝らが礼をもって帰すよう願うと、太宗が言った。

「そうではない。いま放って帰せば、必ず私が恐れていると言うだろう。」

そこで彼を囚えさせた。太宗が言った。

「頡利は我が国家に新たに内の難があると聞き、また朕が位に就いたばかりだと聞いた。だからその兵と衆を率いて真っすぐここまで来て、私が拒めまいと思っているのだ。朕がもし門を閉じて自ら守れば、虜は必ず兵を放って大いに掠めるだろう。強弱の勢いは、今日の一つの策にかかっている。

朕はこれから独りで出て、彼を軽んじていることを示し、そのうえ軍容を輝かせて、必ず戦うと知らせよう。事が思いもしないところから出て、その本来の図りを狂わせ、匈奴を制して服させることは、この一挙にある。」

そしてついに馬一頭で進み出て、渡しを隔てて語ったので、頡利は測りかねた。やがて六軍が続いて至った。頡利は軍容が大いに盛んなのを見、また思力が拘えられたことを知って、それによって大いに恐れ、盟を願って退いた。

貞觀初,嶺南諸州奏言高州酋帥馮盎、談殿阻兵反叛。詔將軍藺謩發江、嶺數十州兵討之。秘書監魏徵諫曰:「中國初定,瘡痍未復,嶺南瘴癧,山川阻深,兵運難繼,疾疫或起,若不如意,悔不可追。且馮盎若反,即須及中國未寧,交結遠人,分兵斷險,破掠州縣,署置官司。何因告來數年,兵不出境?此則反形未成,無容動眾。陛下既未遣使人就彼觀察,即來朝謁,恐不見明。今若遣使,分明曉諭,必不勞師旅,自致闕庭。」太宗從之,嶺表悉定。侍臣奏言:「馮盎、談殿往年恒相征伐,陛下發一單使,嶺外帖然。」太宗曰:「初,嶺南諸州盛言盎反,朕必欲討之,魏徵頻諫,以為但懷之以德,必不討自來。既從其計,遂得嶺表無事,不勞而定,勝於十萬之師。」乃賜徵絹五百匹。

貞観の初め、嶺南の諸州が、高州の酋帥の馮盎と談殿が兵で塞いで反き叛いたと申し上げた。詔して将軍の藺謨に江南と嶺南の数十州の兵を発して討たせた。秘書監の魏徴が諫めた。

「中国は定まったばかりで、瘡の痍がまだ癒えておりません。嶺南には暑い地の瘴癧があり、山と川は険しく深く、兵と輸送が続きにくく、疫が起こることもあります。もし思いどおりにならなければ、悔いても追いつけません。

また馮盎がもし叛くのなら、中国がまだ安らかでないうちに遠い人と結び、兵を分けて険しい所を断ち、州や県を破って掠め、官司を置いていたはずです。どういうわけで、告げられてから数年になるのに、兵は境を出ていないのでしょうか。これはつまり叛く形が成っていないのであり、衆を動かすことを容れる余地はありません。

陛下はまだ使者を遣わしてあちらへ行き観察させてもおられません。それでは彼が参って謁えても、明らかには見えないのではと恐れます。いま使者を遣わして明らかに諭されれば、必ず師旅を労することなく、おのずと闕庭に至るでしょう。」

太宗はこれに従ったので、嶺南の外はすべて定まった。侍臣が申し上げた。

「馮盎と談殿は先年つねに互いに征伐し合っておりましたのに、陛下が一人の使者を発せられただけで、嶺外は静まりました。」

太宗が言った。

「初め、嶺南の諸州が馮盎が叛いたと盛んに言うので、朕は必ずこれを討とうとした。魏徴がたびたび諫めて、ただ徳をもって懐けば、必ず討たずとも自ら来ると言った。その計に従ったので、ついに嶺外は事なく、労せずに定まった。十万の師に勝る。」

そして魏徴に絹五百匹を賜った。

貞觀四年,有司上言:「林邑蠻國,表疏不順,請發兵討擊之。」太宗曰:「兵者兇器,不得已而用之。故漢光武云:『每一發兵,不覺頭須為白。』自古以來窮兵極武,未有不亡者也。苻堅自恃兵強,欲必吞晉室,興兵百萬,一舉而亡。隋主亦必欲取高麗,頻年勞役,人不勝怨,遂死於匹夫之手。至如頡利,往歲數來侵我國家,部落疲於征役,遂至滅亡。朕今見此,豈得輒即發兵?但經歷山險,土多瘴癧,若我兵士疾疫,雖克剪此蠻,亦何所補?言語之間,何足介意!」竟不討之。

貞観四年、担当の役所が書を上げて言った。

「林邑の蛮の国が、表と疏が順でありません。兵を発して討ち撃たせてください。」

太宗が言った。

「兵は凶の器で、やむをえずに用いるものである。だから漢の光武帝は『一度兵を発するたびに、知らぬうちに髪と鬚が白くなる』と言った。昔から兵を窮め武を極めた者で、亡びなかった者はない。

苻堅は自ら兵の強さを頼みにして、必ず晋の王室を呑もうとして兵百万を興したが、一挙に亡びた。隋の主もまた必ず高句麗を取ろうとして、年ごとに労役を課したので、人は怨みに堪えられず、ついに一介の男の手にかかって死んだ。頡利のような者は、先年たびたび我が国家を侵しに来たが、部落が征役に疲れて、ついに滅亡に至った。

朕はいまこれを見て、どうしていきなり兵を発せられよう。それに山と険しい所を経なければならず、土地には瘴癧が多い。もし我が兵士が疫に罹れば、たとえこの蛮を克ち剪ったとして、何の補いになろうか。言葉の上のことなど、気にかけるに足りようか。」

ついにこれを討たなかった。

貞觀五年,康國請歸附。時太宗謂侍臣曰:「前代帝王,大有務廣土地,以求身後之虛名,無益於身,其民甚困。假令於身有益,於百姓有損,朕必有為,況求虛名而損百姓乎?康國既來歸朝,有急難不得不救;兵行萬里,豈得無勞於民?若勞民求名,非朕所欲。所請歸附,不須納也。」

貞観五年、康国が帰属を願った。そのとき太宗が侍臣に言った。

「前の代の帝王には、大いに土地を広めることに努めて、身の後の虚しい名を求めた者が多いが、身には益がなく、その民はひどく困った。たとえ身に益があっても、民に損があれば朕は必ずやらない。まして虚しい名を求めて民を損なおうか。

康国がいったん来て朝に帰属すれば、急な難があったとき救わないわけにはいかない。兵が万里を行けば、どうして民に労がないだろうか。もし民を労して名を求めるなら、朕の望むところではない。願ってきた帰属は、受け入れなくてよい。」

貞觀十四年,兵部尚書侯君集伐高昌,及師次柳谷,候騎言:「高昌王麴文泰死,克日將葬,國人咸集,以二千輕騎襲之,可盡得也。」副將薛萬均、姜行本皆以為然。君集曰:「天子以高昌驕慢,使吾恭行天誅。乃於墟墓間以襲其葬,不足稱武,此非問罪之師也。」遂按兵以待葬畢,然後進軍,遂平其國。

貞観十四年、兵部尚書の侯君集が高昌を伐った。軍が柳谷に宿ったとき、斥候の騎兵が言った。

「高昌王の麴文泰が死に、日を定めて葬ろうとしていますので、国の人がみな集まります。軽騎二千で襲えば、すべて得られます。」

副将の薛万均と姜行本はどちらもそのとおりだと思った。君集が言った。

「天子は高昌が驕り慢ぶというので、私に恭しく天の誅を行わせられたのだ。それを墟や墓のあいだでその葬儀を襲うのでは、武と称えるに足らない。これは罪を問う師ではない。」

そしてついに兵を按えて葬儀が終わるのを待ち、それから軍を進めて、ついにその国を平らげた。

貞觀十六年,太宗謂侍臣曰:「北狄世為寇亂,今延陀倔強,須早為之所。朕熟思之,惟有二策:選徒十萬,擊而虜之,滌除兇醜,百年無患,此一策也。若遂其來請,與之為婚媾。朕為蒼生父母,茍可利之,豈惜一女!北狄風俗,多由內政,亦既生子,則我外孫,不侵中國,斷可知矣。以此而言,邊境足得三十年來無事。舉此二策,何者為先?」司空房玄齡對曰:「遭隋室大亂之後,戶口太半未復,兵兇戰危,聖人所慎,和親之策,實天下幸甚。」

貞観十六年、太宗が侍臣に言った。

「北狄は代々寇し乱してきたが、いま延陀が倔り強いので、早くその処置をしなければならない。朕が熟く思うに、ただ二つの策がある。徒十万を選んで撃ち虜にし、凶しい醜い者どもを洗い除けば、百年は患いがない。これが一つの策である。もう一つは、彼らの願い出に従って、婚を結ぶことである。朕は蒼生の父母であるから、まことに彼らを利せられるなら、どうして娘一人を惜しもうか。北狄の風俗は多く内の政から出るもので、いったん子が生まれれば私の外孫であるから、中国を侵さないことはきっぱりと知れる。これで言えば、辺境は三十年ばかり事なくあるに足る。この二つの策を挙げたが、どちらを先にすべきか。」

司空の房玄齢が答えた。

「隋の王室の大乱の後に遭って、戸口は大半がまだ回復しておりません。兵は凶、戦は危うく、聖人の慎むところですから、和親の策こそ、まことに天下の大いなる幸いです。」

貞觀十七年,太宗謂侍臣曰:「蓋蘇文弒其主而奪其國政,誠不可忍。今日國家兵力,取之不難,朕未能即動兵眾,且令契丹、靺鞨攪擾之,何如?」房玄齡對曰:「臣觀古之列國,無不強陵弱,眾暴寡。今陛下撫養蒼生,將士勇銳,力有餘而不取之,所謂止戈為武者也。昔漢武帝屢伐匈奴,隋主三征遼左,人貧國敗,實此之由,惟陛下詳察。」太宗曰:「善!」

貞観十七年、太宗が侍臣に言った。

「蓋蘇文がその主を殺して国政を奪ったのは、まことに忍びがたい。今日の国家の兵力では、これを取るのは難しくないが、朕はすぐに兵衆を動かすことはできない。まずは契丹と靺鞨にこれを攪し乱させてはどうだろうか。」

房玄齢が答えた。

「臣が古の列国を見ますに、強い者が弱い者を陵ぎ、衆い者が寡ない者に暴らないものはありませんでした。いま陛下は蒼生を撫し養われ、将兵は勇く鋭く、力に余りがあるのにこれを取られない。いわゆる戈を止めるのが武ということです。かつて漢の武帝がたびたび匈奴を伐ち、隋の主が三度遼の左を征したことで、人が貧しくなり国が敗れたのは、まことにこれによります。ただ陛下が詳らかに察せられますよう。」

太宗が言った。

「よい。」

貞觀十八年,太宗以高麗莫離支賊殺其主,殘虐其下,議將討之。諫議大夫褚遂良進曰:「陛下兵機神算,人莫能知。昔隋末亂離,克平寇難,及北狄侵邊,西蕃失禮,陛下欲命將擊之,群臣莫不苦諫,惟陛下明略獨斷,卒並誅夷。今聞陛下將伐高麗,意皆熒惑。然陛下神武英聲,不比周、隋之主,兵若渡遼,事須克捷,萬一不獲,無以威示遠方,必更發怒,再動兵眾。若至於此,安危難測。」太宗然之。

貞観十八年、太宗は高句麗の莫離支が賊のようにその主を殺し、その下の者を残り虐げているというので、討つことを議した。諫議大夫の褚遂良が進み出て言った。

「陛下の兵の機と神の算は、人の知りうるところではありません。かつて隋の末の乱れ離れたとき、寇の難を克ち平らげられ、北狄が辺を侵し西蕃が礼を失うに至って、陛下が将に命じて撃とうとされたとき、群臣は苦く諫めない者がありませんでしたが、ただ陛下が明らかな略で独り断じられ、ついにあわせて誅し夷げられました。

いま陛下がまさに高句麗を伐たれると聞いて、人の意はみな惑っております。けれども陛下の神なる武と英しき声は、周や隋の主に比べるものではありません。兵がもし遼を渡れば、事は必ず克ち捷たなければなりませんが、万一得られなければ、遠方に威を示すこともできず、必ずさらに怒りを発して、再び兵衆を動かされるでしょう。もしここに至れば、安と危は測りがたくなります。」

太宗はそのとおりだとした。

貞觀十九年,太宗將親征高麗,開府儀同三司尉遲敬德奏言:「車駕若自往遼左,皇太子又監國定州,東西二京,府庫所在,雖有鎮守,終是空虛,遼東路遙,恐有玄感之變。且邊隅小國,不足親勞萬乘。若克勝,不足為武,倘不勝,翻為所笑。伏請委之良將,自可應時摧滅。」太宗雖不從其諫,而識者是之。

貞観十九年、太宗がまさにみずから高句麗を征そうとしたとき、開府儀同三司の尉遅敬徳が申し上げた。

「車駕がみずから遼の左へ赴かれ、皇太子がまた定州で国を監されれば、東西の二つの京は府庫のある所ですから、鎮め守る者があるとはいえ、ついには空虚となります。遼東は路が遥かで、楊玄感のような変があるのではと恐れます。

また辺の隅の小国で、万乗をみずから労されるに足りません。もし克ち勝っても武とするに足らず、万一勝てなければ、かえって笑われることになります。伏して願いますに、良い将に委ねられれば、おのずと時に応じて摧き滅ぼせます。」

太宗はその諫めに従わなかったが、識ある者はこれを是とした。

禮部尚書江夏王道宗從太宗征高麗,詔道宗與李勣為前鋒,及濟遼水克蓋牟城,逢賊兵大至,軍中僉欲深溝保險,待太宗至,徐進。道宗議曰:「不可,賊赴急遠來,兵實疲頓,恃眾輕我,一戰可摧。昔耿弇不以賊遺君父,我既職在前軍,當須清道以待輿駕。」李勣大然其議。乃率驍勇數百騎,直沖賊陣,左右出入,勣因合擊,大破之。太宗至,深加賞勞。道宗在陣損足,帝親為針灸,賜以御膳。

礼部尚書の江夏王の李道宗が太宗に従って高句麗を征し、詔して道宗と李勣を前鋒とした。遼水を済って蓋牟城を克ったとき、賊の兵が大挙して至った。軍中ではみな溝を深くして険しい所に拠り、太宗が至るのを待ってゆっくり進もうとした。道宗が議して言った。

「いけない。賊は急に応じて遠くから来たのだから、兵は実のところ疲れ鈍っている。衆を頼みに我らを軽んじているので、一戦で摧ける。かつて耿弇は賊を君父に遺さなかった。私はすでに職が前軍にあるのだから、道を清めて輿駕を待たなければならない。」

李勣は大いにその議を是とした。そこで驍く勇ましい数百騎を率いて真っすぐ賊の陣を衝き、左右に出入りしたので、李勣がそれに合わせて撃ち、大いに破った。太宗が至って、深く賞し労った。道宗は陣中で足を損ねたので、帝はみずから針と灸をし、御膳を賜った。

太宗《帝範》曰:「夫兵甲者,國家兇器也。土地雖廣,好戰則民雕;中國雖安,忘戰則民殆。雕非保全之術,殆非擬寇之方,不可以全除,不可以常用。故農隙講武,習威儀也;三年治兵,辨等列也。是以勾踐軾蛙,卒成霸業;徐偃棄武,終以喪邦。何也?越習其威,徐忘其備也。孔子曰:『以不教民戰,是謂棄之。』故知弧矢之威,以利天下,此用兵之職也。」

太宗の『帝範』に言う。

「そもそも兵と甲は、国家の凶の器である。土地が広くても、戦を好めば民は雕れ、中国が安らかでも、戦を忘れれば民は殆うい。雕れるのは全うを保つ術ではなく、殆ういのは寇に備える方ではない。まったく除くこともできず、つねに用いることもできない。

だから農の隙に武を講ずるのは、威儀を習うためであり、三年に兵を治めるのは、等と列を辨えるためである。だから勾践は蛙に軾して、ついに覇業を成し、徐偃王は武を棄てて、ついに邦を喪った。なぜか。越はその威を習い、徐はその備えを忘れたからである。

孔子は『教えていない民で戦うのは、これを棄てるというのだ』と言った。だから弧と矢の威によって天下を利することが、兵を用いる職であると知れる。」

貞觀二十二年,太宗將重討高麗。是時,房玄齡寢疾增劇,顧謂諸子曰:「當今天下清謐,咸得其宜,惟欲東討高麗,主為國害。吾知而不言,可謂銜恨入地。」遂上表諫曰:

貞観二十二年、太宗がまさに重ねて高句麗を討とうとした。このとき房玄齢は病に臥せて増々重くなり、諸子を顧みて言った。

「いま天下は清らかで静かで、みなその宜しさを得ているのに、ただ東に高句麗を討とうとされることだけが、何より国の害となる。私が知りながら言わなければ、恨みを銜んで地に入ると言われよう。」

そしてついに表を上げて諫めた。

臣聞兵惡不戢,武貴止戈。當今聖化所覃,無遠不暨。上古所不臣者,陛下皆能臣之;所不制者,皆能制之。詳觀古今,為中國患害,無過突厥。遂能坐運神策,不下殿堂,大小可汗,相次束手,分典禁衛,執戟行間。其後延陀鴟張,尋就夷滅,鐵勒慕義,請置州縣,沙漠已北,萬里無塵。至如高昌叛渙於流沙,吐渾首鼠於積石,偏師薄伐,俱從平蕩。高麗歷代逋誅,莫能討擊。陛下責其逆亂,殺主虐人,親總六軍,問罪遼碣。未經旬日,即拔遼東,前後虜獲,數十萬計,分配諸州,無處不滿。雪往代之宿恥,掩崤陵之枯骨,比功校德,萬倍前王。此聖主所自知,微臣安敢備說。

臣が聞きますところ、兵は戢めないことを悪み、武は戈を止めることを貴ぶといいます。いま聖なる教化の覃ぶところは、遠くて及ばない所がありません。上古に臣とできなかった者を、陛下はみな臣とすることができ、制することができなかった者を、みな制することができました。

古今を詳らかに観ますに、中国の患いと害となったのは、突厥に過ぎるものがありませんでした。ところがついに坐したまま神なる策を運らし、殿堂を下りることなく、大小の可汗が相次いで手を束ね、禁衛を分け典り、戟を執って列のあいだに立ちました。その後、延陀が鴟のように張り、やがて夷め滅ぼされ、鉄勒が義を慕って州と県を置くことを願い、沙漠の北は万里にわたって塵がなくなりました。高昌が流砂で叛き渙れ、吐谷渾が積石で首鼠するに至っては、偏った師で薄く伐っても、どれも従って平ぎ蕩われました。

高句麗は代々誅を逋れて、誰も討ち撃つことができませんでした。陛下はその逆らい乱れ、主を殺し人を虐げたことを責めて、みずから六軍を総べ、遼と碣で罪を問われました。十日も経たぬうちに遼東を抜き、前後に虜り獲たものは数十万を数え、諸州に分け配しても満たない所がありませんでした。過ぎた代の宿い恥を雪ぎ、崤山の枯れた骨を掩われましたから、功を比べ徳を較べれば、前の王の万倍です。これは聖なる主がみずからご存じのことで、微かな臣がどうして備え説けましょうか。

且陛下仁風被於率土,孝德彰於配天。睹夷狄之將亡,則指期數歲;授將帥之節度,則決機萬里。屈指而候驛,視景而望書,符應若神,筭無遺策。擢將於行伍之中,取士於凡庸之末。遠夷單使,一見不忘;小臣之名,未嘗再問。箭穿七劄,弓貫六鈞。加以留情墳典,屬意篇什,筆邁鐘、張,詞窮賈、馬。文鋒既振,則宮徵自諧;輕翰暫飛,則花葩競發。撫萬姓以慈,遇群臣以禮。褒秋毫之善,解吞州之網。逆耳之諫必聽,膚受之訴斯絕。好生之德,禁障塞於江湖;惡殺之仁,息鼓刀於屠肆。鳧鶴荷稻粱之惠,犬馬蒙帷蓋之恩。降尊吮思摩之瘡,登堂臨魏徵之柩。哭戰亡之卒,則哀動六軍;負填道之薪,則情感天地。重黔黎之大命,特盡心於庶獄。臣心識昏憒,豈足論聖功之深遠,談天德之高大哉?陛下兼眾美而有之,靡不備具,微臣深為陛下惜之重之,愛之寶之。

そのうえ陛下の仁の風は率土に被り、孝の徳は天に配するほどに彰れています。夷狄がまさに亡びようとするのを睹られれば、数年のうちと期を指し、将帥に節度を授けられれば、万里の機を決せられます。指を屈して駅を候ち、景を視て書を望まれますに、符の応ずることは神のようで、算に遺した策がありません。

将を行伍のなかから擢き、士を凡庸の末から取られます。遠い夷の一人の使者も、一度見れば忘れられず、小さな臣の名も、二度お尋ねになったことがありません。箭は七重の劄を穿ち、弓は六鈞を貫かれます。

そのうえ墳と典に情を留め、篇什に意を属せられますので、筆は鍾繇と張芝を邁え、詞は賈誼と司馬相如を窮めます。文の鋒がいったん振れば宮と徴はおのずと諧い、軽い翰が暫し飛べば花の葩が競って発きます。

万姓を慈をもって撫し、群臣に礼をもって遇されます。秋の毫ほどの善も褒め、州を呑むほどの網も解かれます。耳に逆らう諫めを必ず聴き、膚に受ける訴えをここに絶たれます。生を好まれる徳で、江や湖に障や塞を禁じ、殺を悪まれる仁で、屠肆の鼓刀の音を息められます。鳧と鶴は稲や粱の恵みを荷い、犬と馬は帷や蓋の恩を蒙ります。尊を降して思摩の瘡を吮い、堂に登って魏徴の柩に臨まれました。戦い亡んだ卒を哭されれば哀しみが六軍を動かし、道を填める薪を負われれば情が天地を感じさせました。黔黎の大いなる命を重んじて、とりわけ諸々の獄に心を尽くされます。

臣の心と識は昏れ憒れていますので、どうして聖なる功の深さ遠さを論じ、天なる徳の高さ大きさを談ずるに足りましょうか。陛下は衆の美を兼ねて有し、備わっていないものがありません。微かな臣は深く陛下のためにこれを惜しみ重んじ、愛し宝とするのです。

《周易》曰:「知進而不知退,知存而不知亡,知得而不知喪。」又曰:「知進退存亡,而不失其正者,其惟聖人乎!」由此言之,進有退之義,存有亡之機,得有喪之理,老臣所以為陛下惜之者,蓋謂此也。《老子》曰:「知足不辱,知止不殆。」臣謂陛下威名功德,亦可足矣;拓地開疆,亦可止矣。彼高麗者,邊夷賤類,不足侍以仁義,不可責以常理。古來以魚鱉畜之,宜從闊略。必欲絕其種類,深恐獸窮則搏。且陛下每決死囚,必令三覆五奏,進素食,停音樂者,蓋以人命所重,感動聖慈也。況今兵士之徒,無一罪戾,無故驅之於戰陣之間,委之於鋒刃之下,使肝腦塗地,魂魄無歸,令其老父孤兒、寡妻慈母,望轊車而掩泣,抱枯骨而摧心,足變動陰陽,感傷和氣,實天下之冤痛也。且兵,兇器;戰,危事,不得已而用之。向使高麗違失臣節,而陛下誅之可也;侵擾百姓,而陛下滅之可也;久長能為中國患,而陛下除之可也。有一於此,雖日殺萬夫,不足為愧。今無此三條,坐煩中國,內為舊主雪怨,外為新羅報仇,豈非所存者小,所損者大?

『周易』に「進むことは知っていても退くことを知らず、存ることは知っていても亡びることを知らず、得ることは知っていても喪うことを知らない」とあり、また「進退存亡を知って、その正しさを失わない者は、ただ聖人であろうか」とあります。これで言えば、進むことには退くことの義があり、存ることには亡びることの機があり、得ることには喪うことの理があります。老いた臣が陛下のために惜しむわけは、おおよそこれを言うのです。

『老子』に「足るを知れば辱められず、止まるを知れば殆うくない」とあります。臣は、陛下の威と名、功と徳も、もう足りていると申しますし、地を拓き疆を開くことも、もう止まってよいと申します。

あの高句麗は辺の夷の賤しい類で、仁と義をもって待つに足らず、常の理で責めることもできません。古来、魚や鱉のように畜ってきたのですから、闊く略やかに扱うのに従うべきです。必ずその種類を絶とうとされるなら、獣も窮まれば搏つのではないかと深く恐れます。

また陛下が死囚を決せられるたびに、必ず三度覆し五度奏させ、素食を進め音楽を停められるのは、おおよそ人の命が重いもので、聖なる慈しみを感じ動かすからです。まして今の兵士の徒には一つの罪戻もないのに、故なく彼らを戦陣のあいだに駆り、鋒と刃の下に委ねて、肝と脳を地に塗らせ、魂と魄を帰るところなくさせます。その老いた父と孤りの児、寡れた妻と慈しみの母に、轊車を望んで泣を掩わせ、枯れた骨を抱いて心を摧かせるのですから、陰と陽を変え動かし、和らいだ気を感じ傷めるに足ります。まことに天下の冤く痛いことです。

また兵は凶の器、戦は危うい事で、やむをえずに用いるものです。もし高句麗が臣の節を違え失ったのなら、陛下がこれを誅されてよいのです。民を侵し擾したのなら、陛下がこれを滅ぼされてよいのです。長く中国の患いとなりうるのなら、陛下がこれを除かれてよいのです。このうち一つでもあれば、たとえ日に万人を殺されても、愧じるに足りません。

いまこの三つの条がないのに、坐したまま中国を煩わせ、内には旧い主のために怨みを雪ぎ、外には新羅のために仇を報じられる。これが、存するところは小さく、損なうところは大きいということではないでしょうか。

願陛下遵皇祖老子止足之誡,以保萬代巍巍之名。發霈然之恩,降寬之大詔,順陽春以布澤,許高麗以自新,焚淩波之船,罷應募之眾,自然華夷慶賴,遠肅邇安。臣老病三公,朝夕入地,所恨竟無塵露,微增海嶽。謹罄殘魂餘息,豫代結草之誠。倘蒙錄此哀鳴,即臣死骨不朽。

願わくは陛下が皇祖である老子の、止まり足ることの戒めに遵われ、万代に巍々たる名を保たれますよう。霈然たる恩を発し、寛やかな大いなる詔を降し、陽の春に順って澤を布き、高句麗にみずから新たになることを許し、波を凌ぐ船を焼き、募に応じた衆を罷められますよう。そうすればおのずと華と夷が慶び頼み、遠くは肅み近くは安らかになります。

臣は老い病んだ三公で、朝夕にも地に入る身ですが、恨めしいのは、ついに塵ほど露ほども、海や嶽に微かすら増せなかったことです。謹んで残る魂と余る息を罄くして、あらかじめ草を結んで報いる誠に代えます。もしこの哀しい鳴き声を録していただけるなら、臣は死んでも骨が朽ちません。

太宗見表,嘆曰:「此人危篤如此,尚能憂我國家。」雖諫不從,終為善策。

太宗は表を見て嘆いて言った。

「この人は危うく篤いことがこのとおりなのに、なお我が国家を憂えることができるのか。」

諫めには従わなかったが、ついには善い策となった。

貞觀二十二年,軍旅亟動,宮室互興,百姓頗有勞弊。充容徐氏上疏諫曰:

貞観二十二年、軍旅がしきりに動き、宮室が互いに興って、民にはかなり労と弊えがあった。充容の徐氏が上疏して諫めた。

貞觀已來,二十有餘載,風調雨順,年登歲稔,人無水旱之弊,國無饑饉之災。昔漢武帝,守文之常主,猶登刻玉之符;齊桓公,小國之庸君,尚塗泥金之事。望陛下推功損己,讓德不居。億兆傾心,猶闕告成之禮;雲、亭佇謁,未展升中之儀。此之功德,足以咀嚼百王,網羅千代者矣。然古人有云:「雖休勿休。」良有以也。守初保末,聖哲罕兼。是知業大者易驕,願陛下難之;善始者難終,願陛下易之。

貞観以来、二十年あまり、風は調い雨は順って、年ごとに穀物が登り実りました。人に水旱の弊えなく、国に飢饉の災いがありません。

かつて漢の武帝は文を守る常の主にすぎませんでしたが、それでも玉を刻んだ符に登り、斉の桓公は小国の凡庸な君でしたが、それでも金を泥に塗る事を行いました。それなのに陛下は功を推し己を損ね、徳を譲って居られないのを拝しております。億兆が心を傾けていますのに、なお成りを告げる礼が欠け、雲雲山と亭亭山が謁えられるのを佇ち望んでいますのに、まだ中に升る儀を展べられません。このような功と徳は、百王を咀み嚼み、千代を網し羅るに足るものです。

けれども古人に「休しくとも休しとするな」という言葉があるのは、まことに理由があることです。初めを守り末を保つことは、聖哲でも兼ねることがまれです。それで業の大きい者は驕りやすいと知れますから、願わくは陛下がこれを難しいこととされますよう。始めを善くした者は終えるのが難しいのですから、願わくは陛下がこれを易しいこととされますよう。

竊見頃年以來,力役兼總,東有遼海之軍,西有昆丘之役,士馬疲於甲胄,舟車倦於轉輸。且召募役戍,去留懷死生之痛,因風阻浪,人米有漂溺之危。一夫力耕,年無數十之獲;一船致損,則傾覆數百之糧。是猶運有盡之農功,填無窮之巨浪;圖未獲之他眾,喪已成之我軍。雖除兇伐暴,有國常規,然黷武玩兵,先哲所戒。昔秦皇並吞六國,反速危禍之基;晉武奄有三方,翻成覆敗之業。豈非矜功恃大,棄德輕邦,圖利忘害,肆情縱欲?遂使悠悠六合,雖廣不救其亡;嗷嗷黎庶,因弊以成其禍。是知地廣非常安之術,人勞乃易亂之源。願陛下布澤流人,矜弊恤乏,減行役之煩。增雨露之惠。

ひそかに見ますに、ここ数年来、力役が兼ね重なって、東には遼海の軍があり、西には昆丘の役があります。士と馬は甲と胄に疲れ、舟と車は運び送ることに倦んでおります。

また募って役し戍らせますので、行く者も留まる者も死と生の痛みを懐き、風に阻まれ浪に遮られて、人も米も漂い溺れる危うさがあります。一人の男が力を尽くして耕しても、一年に数十石の獲りもないのに、船一艘が損なわれれば、数百石の糧を傾け覆します。これはつまり、尽きのある農の功を運んで、窮まりのない巨きな浪を填め、まだ獲ていない他の衆を図って、すでに成った我が軍を喪うことです。

凶を除き暴を伐つことは国の常の規ではありますが、武を黷し兵を玩ぶことは、先の哲人の戒めたところです。かつて秦の始皇帝は六国を併せ呑んで、かえって危うさと禍いの基を速めました。晋の武帝は三方を奄い有して、かえって覆り敗れる業を成しました。これが、功を矜り大きさを恃み、徳を棄て邦を軽んじ、利を図って害を忘れ、情を肆にし欲を縦にしたことでなくてなんでしょう。

ついに悠々たる六合が、広くともその亡びを救えず、嗷々たる黎庶が、弊えによってその禍いを成すことになりました。それで、地の広いことが常に安らかである術ではなく、人が労することがすなわち乱れやすい源であると知れます。願わくは陛下が澤を布いて人に流し、弊えを矜み乏しさを恤れんで、行き役くことの煩わしさを減らし、雨と露の恵みを増されますよう。

妾又聞為政之本,貴在無為。竊見土木之功,不可遂兼。北闕初建,南營翠微,曾未逾時,玉華創制,非惟構架之勞,頗有功力之費。雖復茅茨示約,猶興木石之疲,假使和雇取人,不無煩擾之弊。是以卑宮菲食,聖王之所安;金屋瑤臺,驕主之為麗。故有道之君,以逸逸人;無道之君,以樂樂身。願陛下使之以時,則力不竭矣;用而息之,則心斯悅矣。

妾がまた聞きますに、政をなす本は、為すことがないのを貴ぶところにあるといいます。ひそかに見ますに、土と木の功は、ついに兼ねることができません。北の闕を建てたばかりで、南に翠微宮を営み、まだ時も越さぬうちに玉華宮を創め制されました。架け構える労ばかりでなく、かなりの功と力の費えがあります。茅や茨であらためて約やかさを示されても、やはり木と石の疲れを興し、たとえ和して雇って人を取られても、煩わしく擾しい弊えがないわけではありません。

ですから卑しい宮と菲しい食は聖なる王の安らかとするところ、金の屋と瑤の台は驕った主の麗しとするところです。だから道ある君は、逸によって人を逸ませ、道なき君は、楽によって身を楽ませます。願わくは陛下が時に従って使われれば力は竭きず、用いては息ませられれば心はここに悦ぶでしょう。

夫珍玩技巧,為喪國之斧斤;珠玉錦繡,實迷心之酖毒。竊見服玩鮮靡,如變化於自然,職貢奇珍,若神仙之所制,雖馳華於季俗,實敗素於淳風。是知漆器非延叛之方,桀造之而人叛;玉杯豈招亡之術,紂用之而國亡。方驗侈麗之源,不可不遏。夫作法於儉,猶恐其奢;作法於奢,何以制後?伏惟陛下,明照未形,智周無際,窮奧秘於麟閣,盡探賾於儒林。千王治亂之蹤,百代安危之跡,興亡衰亂之數,得失成敗之機,固亦包吞心府之中,循環目圍之內,乃宸衷久察,無假一二言焉。惟知之非難,行之不易,志驕於業著,體逸於時安。伏願抑志裁心,慎終成始,削輕過以添重德,擇今是以替前非,則鴻名與日月無窮,盛業與乾坤永泰!

そもそも珍しい玩びものと技や巧みさは、国を喪わせる斧であり斤であり、珠と玉、錦と繡は、まことに心を迷わせる酖の毒です。ひそかに見ますに、服と玩びものが鮮やかで靡しく、自然のなかから変化して出たかのようで、職として貢がれる奇しい珍しさは、神仙が制したかのようです。末の俗に華やかさを馳せても、まことに淳らかな風において素を敗るものです。

それで、漆の器が叛きを延く方ではないのに、桀がこれを造ると人が叛き、玉の杯がどうして亡びを招く術でしょうか、紂がこれを用いると国が亡んだと知れます。まさに侈り麗しさの源は、遏めないわけにはいかないと験されます。そもそも倹しさにおいて法を作っても、なおその奢りを恐れるのに、奢りにおいて法を作れば、何によって後を制すのでしょうか。

伏して思いますに、陛下はまだ形をなさないものを明らかに照らし、智は際なく周く、麒麟閣で奥と秘を窮め、儒林で賾きを探り尽くされました。千王の治と乱の蹤、百代の安と危の跡、興亡と衰乱の数、得失と成敗の機を、まことにまた心の府のうちに包み呑み、目の囲いの内で循らせておられます。つまり宸なる御心が久しく察してこられたことで、一つ二つの言葉を借りる必要はありません。

ただ知るのが難しいのではなく、行うのが易しくないのです。志は業が著れるときに驕り、体は時が安らかなときに逸れます。伏して願いますに、志を抑え心を裁ち、終わりを慎んで始めを成し、軽い過ちを削って重い徳を添え、今の是しさを択んで前の非を替えられますよう。そうすれば鴻きな名は日月とともに窮まりなく、盛んな業は乾坤とともに永く泰らかとなります。

太宗甚善其言,特加優賜甚厚。

太宗はその言葉をはなはだ善しとして、とりわけ優れた賜りをはなはだ厚く加えた。