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辺境を安んずることを論じる論安邊第三十六

貞観政要(貞観の治における政の要) 貞觀政要 · 呉兢 · 8世紀初め · 段落 6 · 漢字 2,145字 · 朗読 8.6分

貞観政要(貞観の治における政の要) 論安邊第三十六 唐の太宗が臣下と交わした言葉を主題ごとに集めた書。君主の道から始まり、諫言を受け入れる法、官吏を選ぶ法、刑罰と税と征伐を経て「終わりを慎む」で終わる。魏徴が面を合わせて折って諫め、太宗がそれを受け入れる場面が書の骨格である。高句麗の安市城をついに落とせずに退き、城主に絹を与えたこと、房玄齢が死に臨んで遼東征伐を止めた上疏もここにある。

貞觀四年,李靖擊突厥頡利,敗之,其部落多來歸降者。詔議安邊之策,中書令溫彥博議:「請於河南處之。準漢建武時,置降匈奴於五原塞下,全其部落,得為捍蔽,又不離其土俗,因而撫之,一則實空虛之地,二則示無猜之心,是含育之道也。」太宗從之。秘書監魏徵曰:「匈奴自古至今,未有如斯之破敗,此是上天剿絕,宗廟神武。且其世寇中國,萬姓冤仇,陛下以其為降,不能誅滅,即宜遣發河北,居其舊土。匈奴人面獸心,非我族類,強必寇盜,弱則卑伏,不顧恩義,其天性也。秦、漢患之者若是,故時發猛將以擊之,收其河南以為郡縣。陛下以內地居之,且今降者幾至十萬,數年之後,滋息過倍,居我肘腋,甫邇王畿,心腹之疾,將為後患,尤不可處以河南也。」溫彥博曰:「天子之於萬物也,天覆地載,有歸我者則必養之。今突厥破除,餘落歸附,陛下不加憐湣,棄而不納,非天地之道,阻四夷之意,臣愚甚謂不可,宜處之河南。所謂死而生之,亡而存之,懷我厚恩,終無叛逆。」魏徵曰:「晉代有魏時,胡部落分居近郡,江統勸逐出塞外,武帝不用其言,數年之後,遂傾瀍、洛。前代覆車,殷鑒不遠。陛下必用彥博言,遣居河南,所謂養獸自遺患也。」彥博又曰:「臣聞聖人之道,無所不通。突厥餘魂,以命歸我,收居內地,教以禮法,選其酋首,遣居宿衛,畏威懷德,何患之有?且光武居河南單於於內郡,以為漢藩翰,終於一代,不有叛逆。」又曰:「隋文帝勞兵馬,費倉庫,樹立可汗,令復其國,後孤恩失信,圍煬帝於雁門。今陛下仁厚,從其所欲,河南、河北,任情居住,各有酋長,不相統屬,力散勢分,安能為害?」給事中杜楚客進曰:「北狄人面獸心,難以德懷,易以威服。今令其部落散處河南,逼近中華,久必為患。至如雁門之役,雖是突厥背恩,自由隋主無道。中國以之喪亂,豈得云興復亡國以致此禍?夷不亂華,前哲明訓,存亡繼絕,列聖通規。臣恐事不師古,難以長久。」太宗嘉其言,方務懷柔,未之從也。卒用彥博策,自幽州至靈州,置順、祐、化、長四州都督府以處之,其人居長安者近且萬家。

貞観四年、李靖が突厥の頡利を撃って破ると、その部落から帰って降る者が多かった。詔して辺境を安んずる策を議させた。中書令の温彦博が議した。

「河南に置かれますよう。漢の建武のとき、降った匈奴を五原の塞の下に置いてその部落を全うさせ、防ぎの覆いとした例に照らし、またその土地の習俗から離さずに、そのまま撫されますよう。一つには空虚な地を実たすことであり、二つには猜まない心を示すことで、これが含み育てる道です。」

太宗はこれに従った。秘書監の魏徴が言った。

「匈奴は昔から今まで、これほど破れ敗れたことがありませんでした。これは上天が剿い絶ったのであり、宗廟の神なる武です。また彼らは代々中国を寇して万姓の怨み仇です。陛下が彼らが降ったからといって誅し滅ぼせないのなら、河北に遣り発して、その旧い土地に居らせるべきです。

匈奴は人の面に獣の心で、我が族の類ではありません。強ければ必ず寇し盗み、弱ければ卑しく伏し、恩と義を顧みないのが、その天の性です。秦と漢がこれを患えたのはこのとおりでしたから、ときに猛き将を発してこれを撃ち、その河南を収めて郡と県としました。

陛下は内の地に彼らを居らせようとされますが、そのうえ今降った者は十万近くに至り、数年の後には増え殖えて倍を越えるでしょう。我が肘と腋に住んで王の畿にすぐ近いのですから、心腹の疾となって、後の患いとなります。とりわけ河南に置かれてはなりません。」

温彦博が言った。

「天子が万物に対するのは、天が覆い地が載せるようなもので、我に帰する者があれば必ずこれを養わなければなりません。いま突厥が破れ除かれて、余った落が帰属したのに、陛下が憐れみもかけず、棄てて納れられなければ、天地の道ではなく、四夷の意を阻むことになります。臣は愚かですが、はなはだ宜しくないと存じます。河南に置かれるべきです。いわゆる死ぬものを生かし、亡びるものを存らせることで、我が厚い恩を懐いて、ついに叛き逆らうことはありません。」

魏徴が言った。

「晋の代に、魏のときの胡の部落が近い郡に分かれて住んでおりました。江統が塞の外へ逐い出すよう勧めましたのに、武帝はその言葉を用いず、数年の後、ついに瀍水と洛水の地が傾きました。前の代の覆った車で、殷の鑑は遠くありません。陛下が必ず彦博の言葉を用いて河南に住ませられるなら、いわゆる獣を養って自ら患いを遺すことです。」

彦博がまた言った。

「臣が聞きますに、聖人の道は通じないところがないといいます。突厥の余った魂が命を携えて我に帰したのですから、収めて内の地に居らせ、礼と法を教え、その酋首を選んで遣わして宿衛させれば、威を畏れ徳を懐くでしょう。何の患いがありましょうか。また光武帝が河南の単于を内の郡に居らせて漢の藩の翰としたところ、一代が終わるまで叛き逆らうことがありませんでした。」

また言った。

「隋の文帝は兵と馬を労し、倉庫を費やして可汗を樹て立て、その国を復させましたが、後に恩を孤にし信を失って、雁門で煬帝を囲みました。いま陛下は仁く厚く、彼らの欲するところに従われ、河南と河北に情のままに住まわせ、それぞれに酋長があって互いに統べ属さないようにされるなら、力は散り勢いは分かれるのですから、どうして害をなしえましょうか。」

給事中の杜楚客が進み出て言った。

「北狄は人の面に獣の心で、徳で懐けるのは難しく、威で服させるのは易しいのです。いまその部落を河南に散らして住ませ、中華に逼り近づけさせれば、久しくして必ず患いとなります。

雁門の役のようなことは、突厥が恩に背いたのではありますが、もともと隋の主が無道であったことから出たのです。中国はそれで喪い乱れたのですから、どうして亡んだ国を興し復させたことがこの禍いを招いたと言えましょうか。夷が華を乱さぬようにするのは前の哲人の明らかな訓えで、亡びたものを存らせ絶えたものを継ぐのは、歴代の聖人の通じた規です。臣は、事が古を師としなければ、長く久しくあるのは難しいのではと恐れます。」

太宗はその言葉を嘉んだが、ちょうど懐け柔らげることに努めていたので、これには従わなかった。ついに彦博の策を用い、幽州から霊州に至るまで、順・祐・化・長の四州に都督府を置いて彼らを置いた。その人で長安に住む者は一万家近くにもなった。

自突厥頡利破後,諸部落首領來降者,皆拜將軍中郎將,布列朝廷,五品以上百餘人,殆與朝士相半。惟拓拔不至,又遣招慰之,使者相望於道。涼州都督李大亮以為於事無益,徒費中國,上疏曰:「臣聞欲綏遠者必先安近。中國百姓,天下根本,四夷之人,猶於枝葉,擾其根本以厚枝葉,而求久安,未之有也。自古明王,化中國以信,馭夷狄以權。故《春秋》云:『戎狄豺狼,不可厭也;諸夏親昵,不可棄也。』自陛下君臨區宇,深根固本,人逸兵強,九州殷富,四夷自服。今者招致突厥,雖入提封,臣愚稍覺勞費,未悟其有益也。然河西民庶,鎮禦藩夷,州縣蕭條,戶口鮮少,加因隋亂,減耗尤多,突厥未平之前,尚不安業,匈奴微弱以來,始就農畝,若即勞役,恐致防損,以臣愚惑,請停招慰。且謂之荒服者,故臣而不納。是以周室愛民攘狄,竟延八百之齡;秦王輕戰事胡,故四十載而絕滅。漢文養兵靜守,天下安豐;孝武揚威遠略,海內虛耗,雖悔輪臺,追已不及。至於隋室,早得伊吾,兼統鄯善,且既得之後,勞費日甚,虛內致外,竟損無益。遠尋秦、漢,近觀隋室,動靜安危,昭然備矣。伊吾雖已臣附,遠在藩磧,民非夏人,地多沙鹵。其自豎立稱藩附庸者,請羈縻受之,使居塞外,必畏威懷德,永為藩臣,蓋行虛惠而收實福矣。近日突厥傾國入朝,既不能俘之江淮,以變其俗,乃置於內地,去京不遠,雖則寬仁之義,亦非久安之計也。每見一人初降,賜物五匹,袍一領,酋長悉授大官,祿厚位尊,理多糜費。以中國之租賦,供積惡之兇虜,其眾益多,非中國之利也。」太宗不納。

突厥の頡利が破れた後、諸々の部落の首領で来り降った者にはみな将軍や中郎将を授け、朝廷に布き列ねたので、五品以上が百余人、ほとんど朝の士と相半ばした。ただ拓跋だけが来なかったので、また人を遣わして招き慰めさせ、使者が道で互いに見交わすほどであった。

涼州都督の李大亮は、事に益がなく、いたずらに中国を費やすだけだと考えて、上疏した。

「臣が聞きますに、遠くを綏めようとする者は、必ずまず近くを安らかにするといいます。中国の民は天下の根であり本であり、四夷の人は枝や葉のようなものです。その根と本を擾して枝と葉を厚くしながら、久しい安らかさを求めることは、あったことがありません。

昔から明らかな王は、中国を信によって化し、夷狄を権によって馭しました。ですから『春秋』に『戎と狄は豺や狼で、厭きることがない。諸々の夏は親しく昵しいもので、棄てることができない』とあります。

陛下が区宇に君として臨まれて以来、根を深め本を固め、人は逸み兵は強く、九州は殷に富んで、四夷はおのずと服しています。それなのにいま突厥を招き致して、提封の内に入れられましたが、臣は愚かで、だんだん労と費えを覚えるばかりで、それに益があることを悟れません。

河西の民は、藩の夷を鎮め禦ぐのに、州と県は蕭条として、戸口は鮮なく少ないのです。そのうえ隋の乱によって、減り耗ることがとりわけ多くありました。突厥がまだ平らがない前にはなお業に安らかでなく、匈奴が微かに弱くなってから、ようやく農の畝に就いたのです。もしすぐに労役を課せば、防ぎに損をきたすのではと恐れます。臣の愚かで惑った考えでは、招き慰めることをやめられますよう。

また荒服と呼ぶのは、だからこそ臣としても納れはしないのです。ですから周の王室は民を愛し狄を攘って、ついに八百年の齢を延べ、秦の王は戦を軽んじ胡を事として、四十年で絶え滅びました。漢の文帝は兵を養い静かに守って天下は安らかに豊かであり、孝武帝は威を揚げ遠くを略って、海内は虚しく耗れ、輪台を悔いても、追いつくことはもうできませんでした。

隋の王室に至っては、早くに伊吾を得てあわせて鄯善を統べましたが、得た後は労と費えが日ごとに甚しく、内を虚しくして外に致し、ついに損ばかりで益がありませんでした。遠く秦と漢を尋ね、近く隋の王室を観れば、動と静、安と危は、昭らかに備わっています。

伊吾はすでに臣として附いてはいますが、遠く藩の磧にあって、民は夏の人ではなく、地は沙と鹵が多いのです。みずから立って藩と称し附庸する者たちは、羈と縻をかけるだけで受け入れ、塞の外に居らせられますよう。そうすれば必ず威を畏れ徳を懐いて、永く藩の臣となります。おおよそ虚しい恵みを行って実の福を収めることです。

近日、突厥が国を傾けて朝に入りましたが、彼らを江淮に俘えてその俗を変えさせることもできず、内の地に置いて都から遠くないようにされました。寛く仁い義ではありますが、久しく安らかである計でもありません。一人が初めて降るたびに物五匹と袍一領を賜り、酋長にはことごとく大きな官を授けて禄は厚く位は尊く、理として糜れ費えることが多いのです。中国の租と賦によって、悪を積んだ凶い虜を供い、その衆がいっそう多くなるのは、中国の利ではありません。」

太宗は納れなかった。

十三年,太宗幸九成宮。突利可汗弟中郎將阿史那結社率陰結所部,並擁突利子賀羅鶻夜犯御營,事敗,皆捕斬之。太宗自是不直突厥,悔處其部眾於中國,還其舊部於河北,建牙於故定襄城,立李思摩為乙彌泥熟俟利苾可汗以主之。因謂侍臣曰「中國百姓,實天下之根本,四夷之人,乃同枝葉,擾其根本以厚枝葉,而求久安,未之有也。初不納魏徵言,遂覺勞費日甚,幾失久安之道。」

十三年、太宗が九成宮に行き幸った。突利可汗の弟で中郎将の阿史那結社率が、ひそかに自分の部下を結び、あわせて突利の子の賀羅鶻を擁して、夜に御営を犯した。事が敗れると、みな捕らえて斬った。

太宗はこれより突厥を直しとせず、その部の衆を中国に置いたことを悔いて、その旧い部を河北に還し、もとの定襄城に牙を建てさせ、李思摩を立てて乙弥泥熟俟利苾可汗として彼らを主らせた。そこで侍臣に言った。

「中国の民はまことに天下の根であり本であり、四夷の人は枝や葉と同じである。その根と本を擾して枝と葉を厚くしながら、久しい安らかさを求めることは、あったことがない。初めに魏徴の言葉を納れなかったので、ついに労と費えが日ごとに甚しいことを覚え、ほとんど久しく安らかである道を失うところであった。」

貞觀十四年,侯君集平高昌之後,太宗欲以其地為州縣。魏徵曰:「陛下初臨天下,高昌王先來朝謁,自後數有商胡稱其遏絕貢獻,加之不禮大國詔使,遂使王誅載加。若罪止文泰,斯亦可矣。未若因撫其民而立其子,所謂伐罪吊民,威德被於遐外,為國之善者也。今若利其土壤以為州縣,常須千餘人鎮守,數年一易。每來往交替,死者十有三四,遣辦衣資,離別親戚。十年之後,隴右空虛,陛下終不得高昌撮谷尺布以助於中國。所謂散有用而事無用,臣未見其可。」太宗不從,竟以其地置西州,仍以西州為安西都護府,每歲調發千餘人防遏其地。

貞観十四年、侯君集が高昌を平らげた後、太宗はその地を州と県にしようとした。魏徴が言った。

「陛下が初めて天下に臨まれたとき、高昌王がまず来て朝に謁えました。その後たびたび商いの胡が、彼らが貢献を遏め絶ったと言い、そのうえ大国の詔を持つ使者に礼を欠いたというので、ついに王の誅が加えられました。もし罪が文泰に止まるなら、それもよいでしょう。けれども、それに乗じてその民を撫し、その子を立てるのに及びません。いわゆる罪を伐ち民を弔い、威と徳が遐かな外に被ることで、国を治める善い道です。

いまもしその土壌を利として州と県にすれば、つねに千余人が鎮め守らなければならず、数年に一度は交替しなければなりません。往き来して交替するたびに、死ぬ者が十に三、四、衣と資を調えて遣り、親戚と離れ別れます。十年の後には隴右が空虚になり、陛下はついに高昌から一撮みの穀も一尺の布も得て中国を助けることはできません。いわゆる有用なものを散らして無用なことを事とすることで、臣はその宜しさを見ません。」

太宗は従わず、ついにその地に西州を置き、続いて西州を安西都護府として、年ごとに千余人を調べ発して、その地を防ぎ遏がせた。

黃門侍郎褚遂良亦以為不可,上疏曰:「臣聞古者哲后臨朝,明王創業,必先華夏而後夷狄,廣諸德化,不事遐荒。是以周宣薄伐,至境而反;始皇遠塞,中國分離。陛下誅滅高昌,威加西域,收其鯨鯢,以為州縣。然則王師初發之歲,河西供役之年,飛芻挽粟,十室九空,數郡蕭然,五年不復。陛下每歲遣千餘人而遠事屯戍,終年離別,萬里思歸。去者資裝,自須營辦,既賣菽粟,傾其機杼。經途死亡,復在言外。兼遣罪人,增其防遏,所遣之內,復有逃亡,官司捕捉,為國生事。高昌途路,沙磧千里,冬風冰冽,夏風如焚,行人遇之多死。《易》云『安不忘危,治不忘亂。』設令張掖塵飛,酒泉烽舉,陛下豈能得高昌一人菽粟而及事乎?終須發隴右諸州,星馳電擊。由斯而言,此河西者方於心腹,彼高昌者他人手足,豈得糜費中華,以事無用?陛下平頡利於沙塞,滅吐渾於西海,突厥餘落,為立可汗,葉渾遺萌,更樹君長,復立高昌,非無前例,此所謂有罪而誅之,既服而存之。宜擇高昌可立者,徵給首領,遣還本國,負戴洪恩,長為藩翰。中國不擾,既富且寧,傳之子孫,以貽後代。」疏奏,不納。

黄門侍郎の褚遂良もまた宜しくないと考えて、上疏した。

「臣が聞きますに、古の哲き后が朝に臨み、明らかな王が業を創めるときは、必ず華夏を先にして夷狄を後にし、諸々の徳と化を広めて、遐かな荒れ地を事としなかったといいます。ですから周の宣王は薄く伐って境に至って返り、始皇帝は遠くに塞を築いて中国は分かれ離れました。

陛下は高昌を誅し滅ぼして威を西域に加え、その鯨や鯢を収めて州と県とされました。けれども王の師が初めて発した年、河西が役を供した年には、芻を飛ばし粟を挽いて、十室のうち九室が空になり、数郡は蕭然として、五年経っても復しませんでした。

陛下が年ごとに千余人を遣わして遠く屯み戍る事をさせられるので、年が終わるまで離れ別れ、万里の彼方から帰ることを思います。行く者の資と装は、みずから営み調えなければならず、菽と粟を売り、その機と杼まで傾けます。途を経るあいだに死に亡ぶことは、さらに言葉の外です。あわせて罪人を遣わしてその防ぎを増やされますが、遣わした者のうちにまた逃げ亡ぶ者があり、官司が捕らえ捉えようとして、国のために事を生じます。

高昌への途は沙と磧が千里で、冬の風は氷のように冽く、夏の風は焚けるようで、行く人がこれに遇えば多く死にます。『易』に『安らかなときに危うさを忘れず、治まったときに乱れを忘れない』とあります。もし張掖に塵が飛び、酒泉に烽が挙がったとして、陛下が高昌の一人の菽や粟を得て、事に及びえましょうか。ついには隴右の諸州を発して、星のように馳せ電のように撃たなければなりません。

これで言えば、この河西は心と腹に当たり、あの高昌は他人の手と足です。どうして中華を糜れ費やして、無用なことを事とされましょうか。陛下は頡利を沙の塞で平らげ、吐谷渾を西海で滅ぼされたとき、突厥の余った落には可汗を立ててやり、吐谷渾の遺った萌には改めて君と長を樹ててやられました。高昌を復び立てることも、前の例がないわけではありません。これがいわゆる、罪があればこれを誅し、服したならこれを存らせるということです。

高昌で立てるに足る者を択び、首領として徴し給して本国に遣り還されるべきです。そうすれば洪い恩を負い戴いて、長く藩の翰となります。中国は擾されず、富みかつ寧らかで、これを子孫に伝えて後の代に貽されることになります。」

疏を奏したが、納れられなかった。

至十六年,西突厥遣兵寇西州,太宗謂侍臣曰:「朕聞西州有警急,雖不足為害,然豈能無憂乎?往者初平高昌,魏徵、褚遂良勸朕立麴文泰子弟,依舊為國,朕竟不用其計,今日方自悔責。昔漢高祖遭平城之圍而賞婁敬,袁紹敗於官渡而誅田豐,朕恒以此二事為誡,寧得忘所言者乎!」

十六年になって、西突厥が兵を遣わして西州を寇した。太宗が侍臣に言った。

「朕は西州に急の警らせがあると聞いた。害となるには足らないけれども、どうして憂えずにいられよう。先に高昌を平らげたばかりのころ、魏徴と褚遂良が朕に麴文泰の子弟を立てて、もとどおり国とさせるよう勧めたのに、朕はついにその計を用いず、今日になってはじめて自ら悔い責めている。かつて漢の高祖は平城の囲みに遭って婁敬を賞し、袁紹は官渡で敗れて田豊を誅した。朕はつねにこの二つの事を戒めとしているのだから、どうして言ってくれた者を忘れられよう。」