肅慎氏
1肅慎の風俗
肅慎氏一名挹婁,在不咸山北,去夫餘可六十日行。東濱大海,西接寇漫汗國,北極弱水。其土界廣袤數千里,居深山窮谷,其路險阻,車馬不通。夏則巢居,冬則穴處。父子世爲君長。無文墨,以言語爲約。有馬不乘,但以爲財產而已。無牛羊,多畜豬,食其肉,衣其皮,績毛以爲布。有樹名雒常,若中國有聖帝代立,則其木生皮可衣。無井灶,作瓦鬲,受四五升以食。坐則箕踞,以足挾肉而啖之,得凍肉,坐其上令暖。土無鹽鐵,燒木作灰,灌取汁而食之。俗皆編發,以布作襜,徑尺餘,以蔽前後。將嫁娶,男以毛羽插女頭,女和則持歸,然後致禮娉之。婦貞而女淫,貴壯而賤老,死者其日即葬之於野,交木作小槨,殺豬積其上,以爲死者之糧。性凶悍,以無憂哀相尚。父母死,男子不哭泣,哭者謂之不壯。相盜竊,無多少皆殺之,故雖野處而不相犯。有石砮,皮骨之甲,檀弓三尺五寸,楛矢長尺有咫。其國東北有山出石,其利入鐵,將取之,必先祈神。
肅慎氏は一名を挹婁(ゆうろう)という。不咸山(ふかんさん)の北にあり、夫余からは六十日ほどの道のりである。東は大海に臨み、西は寇漫汗国(こうまんかんこく)に接し、北は弱水に至る。その領域は広さ数千里であるが、深い山や奥まった谷に住み、道は険しくふさがって、車馬が通らない。夏は木の上に巣のように住み、冬は穴に住む。父と子が代々君長となる。
文字や書くものがなく、言葉で約束とする。馬はいても乗らず、ただ財産とするだけである。牛や羊はなく、豚を多く飼って、その肉を食べ、その皮を着て、毛を紡いで布を作る。雒常(らくじょう)という名の木があり、中国に聖なる帝が代わって立つと、その木に衣にできる皮が生えるという。井戸やかまどがなく、素焼きの鬲(かなえ)を作って四、五升を入れて食べる。座るときは足を投げ出し、足に肉を挟んで食べ、凍った肉を得るとその上に座って温める。土地に塩と鉄がなく、木を焼いて灰を作り、水を注いでその汁を取って食べる。
風俗ではみな髪を編み、布で幅一尺あまりの前掛けを作って前と後ろを覆う。婚姻しようとするときは、男が羽毛を女の頭に挿し、女が応じればそれを持って帰り、その後に礼を整えて迎える。妻は貞しく、娘は淫らである。若い者を貴び、老いた者を賤しむ。死者はその日のうちに野に葬り、木を組み合わせて小さな槨(かく)を作り、豚を殺してその上に積み、死者の糧とする。性質は荒く激しく、憂いも哀しみもないことを互いに尊ぶ。父母が死んでも男は泣かず、泣く者は雄々しくないと言われる。盗みをすれば、多い少ないに関わりなくみな殺すので、野に住んでいても互いに侵すことがない。
石の鏃(やじり)と、皮や骨の甲(よろい)があり、檀(まゆみ)の弓は三尺五寸、楛矢(こし)は長さ一尺八寸である。その国の東北に石を産する山があり、その鋭さは鉄をも貫く。採ろうとするときは、必ずまず神に祈る。
2楛矢と石砮
周武王時,獻其楛矢、石砮。逮于周公輔成王,復遣使入賀,爾後千餘年,雖秦漢之盛,莫之致也。及文帝作相,魏景元末,來貢楛矢、石砮、弓甲、貂皮之屬。魏帝詔歸於相府,賜其王傉雞錦罽、綿帛。至武帝元康初,復來貢獻。元帝中興,又詣江左貢其石砮。至成帝時,通貢于石季龍,四年方達。季龍問之,答曰:「每候牛馬向西南眠者三年矣,是知有大國所在,故來一云。」
周の武王の時に、楛矢(こし)と石砮(せきど)すなわち石の鏃を献じた。周公が成王を輔けるころに、また使者を送って祝いを述べた。その後千余年のあいだ、秦や漢の盛んな時代でさえ、来させることはできなかった。文帝すなわち司馬昭が宰相となると、魏の景元の末に来て、楛矢・石砮・弓・甲・貂(てん)の皮などを貢いだ。魏の皇帝は詔によってこれを相府に回させ、その王の傉鶏(じょくけい)に錦の毛織物と綿・絹を賜った。
武帝の元康の初めに、また来て貢ぎ物を献じた。元帝が中興すると、さらに江南に至って石砮を貢いだ。成帝の時には石季龍すなわち後趙の石虎に朝貢を通じたが、四年かかってようやく着いた。季龍がそのわけを問うと、答えて言った。「牛や馬が西南に向かって眠るのを三年のあいだ見てまいりました。それで大きな国のあるところを知り、こうして参ったのです。」