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序文序

周書 異域伝(周書に記された異域の記録) 周書 異域傳 · 令狐徳棻ほか · 636年(唐・貞観10年) · 段落 2 · 漢字 405字 · 朗読 1.6分

周書 異域伝(周書に記された異域の記録) 全一巻 北周が見た隣人たち。高麗の十三の官職と骨蘇の冠、百済の於羅瑕・鞬吉支と十六の品階が詳しく、蛮・獠・宕昌羌・稽胡など中国の内外のさまざまな族の話が続く。版本を比べた校勘記66条を夾注として併せて訳した。

1内と外とを分けた意味

蓋天地之所覆載,至大矣;日月之所臨照,至廣矣。然則萬物之內,民人寡而禽獸多;兩儀之間,中土局而庶俗曠。求之鄒說,詭怪之迹實繁;考之山經,奇譎之詞匪一。周、孔存而不論,是非紛而莫辯。秦皇鞭笞天下,黷武於遐方;漢武士馬彊盛,肆志於遠畧。匈奴既卻,其國已虛;犬馬既來,其民亦困。是知鴈海龍堆,天所以絕夷夏也;炎方朔漠,地所以限內外也。况乎時非秦、漢,志甚嬴、劉,違天道以求其功,殫民力而從所欲,顛墜之釁,固不旋踵。是以先王設教,內諸夏而外夷狄;往哲垂範,美樹德而鄙廣地。雖禹迹之東漸西被,不過海及流沙;王制之自北徂南,裁稱穴居交趾。豈非道貫三古,義高百代者乎。

およそ天地が覆い載せるものは至って大きく、日月が照らすところは至って広い。それでも万物のうち、人は少なく鳥獣は多く、天地の間で中原の地は狭く、さまざまな風俗の地は広い。これを鄒衍の説に求めれば怪しい話の跡は実に多く、山海経に照らせば奇怪な言葉は一つではない。周公と孔子はそれを残したまま論じなかったので、是非は入り乱れて見分けがつかない。

秦の始皇帝は天下を鞭打ち、遠い地方でみだりに武を用いた。漢の武帝は兵馬が強盛で、遠征の計略に思うままを尽くした。匈奴は退けたが自国はすでに空になり、天馬は来たがその民もまた困窮した。これによって分かる。雁海と龍堆は天が夷と夏とを隔てたゆえんであり、炎暑の南方と北の砂漠は地が内と外とを限ったゆえんである。まして時は秦・漢ではないのに、志は嬴政や劉徹よりも深く、天の道に背いて功を求め、民の力を使い尽くして思いのままにするなら、転落の災いはまことに踵を返すより早く来る。だから先王は教えを立てるにあたって諸夏を内とし夷狄を外とし、昔の賢人は手本を残すにあたって徳を植えることを美しいとし、土地を広げることを卑しいとした。禹の足跡は東に広がり西に及んだとはいえ、海と流沙を越えることはなかった。王制にいう北から南までも、わずかに穴居と交趾を挙げるにとどまった。これこそ道が三古を貫き、義が百代に高いというものではないか。

夾注 1

犬馬既來北史卷九四「犬」作「天」。二張皆以為當從北史作「天」。按「天馬」見史記卷一二三大宛傳、漢書卷九六西域傳,且漢武帝有天馬倈之歌,作「天」是。

「犬馬既に来たる(犬馬既來)」について、北史巻九四では「犬」が「天」となっている。二人の張氏(校勘者)はともに北史に従って「天」とすべきだと見た。「天馬」は史記の大宛伝と漢書の西域伝に見え、また漢の武帝に天馬の歌があるので、「天」とするのが正しい。

2周と四方の夷狄

有周承喪亂之後,屬戰爭之日,定四表以武功,安三邊以權道。趙、魏尚梗,則結姻於北狄;廐庫未實,則通好於西戎。由是德刑具舉,聲名遐洎。卉服氈裘,輻凑於屬國;商胡販客,填委於旗亭。雖東畧漏三吳之地,南巡阻百越之境,而國威之所肅服,風化之所覃被,亦足為弘矣。其四夷來朝聘者,今竝紀之於後。至於道路遠近,物產風俗,詳諸前史,或有不同。斯皆錄其當時所記,以備遺闕云爾。

周は喪乱のあとを承け、戦争の日に当たって、武功によって四方を定め、権謀によって三つの辺境を安らかにした。趙と魏がなお道を塞いでいるときは北狄と婚姻を結び、厩や蔵が満ちていないときは西戎と好を通じた。これによって徳と刑とがともに行われ、名声は遠くまで及んだ。草の衣と毛皮をまとう者たちが属国に車輪の輻のように集まり、胡の商人や行商の客が市の旗亭をいっぱいに埋めた。東への経略では三呉(三吳)の地を漏らし、南への巡行では百越の境に阻まれたとはいえ、国の威が粛然と従わせたところ、風化が広く及んだところは、やはり広いといってよい。四夷のうち朝廷に来て聘問した者は、いまそのすべてを後に記す。道のりの遠近や物産・風俗については以前の史書に詳しく、食い違うところもある。これらはみな当時記録されたものを書きとめ、漏れを補おうとしたまでである。

夾注 1

聲名遐洎宋本「名」作「明」。張元濟云:「『昭其聲也』『昭其明也』按見左傳桓二年『聲明』二字可通。」

「声名遐く洎る(聲名遐洎)」について、宋本では「名」が「明」となっている。張元済はいう。「『その声を昭らかにする』『その明を昭らかにする』は左伝の桓公二年に見えるので、『聲明』の二字は通じ合う。」