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蛮蠻

周書 異域伝(周書に記された異域の記録) 周書 異域傳 · 令狐徳棻ほか · 636年(唐・貞観10年) · 段落 9 · 漢字 1,360字 · 朗読 5.4分

周書 異域伝(周書に記された異域の記録) 全一巻 北周が見た隣人たち。高麗の十三の官職と骨蘇の冠、百済の於羅瑕・鞬吉支と十六の品階が詳しく、蛮・獠・宕昌羌・稽胡など中国の内外のさまざまな族の話が続く。版本を比べた校勘記66条を夾注として併せて訳した。

1盤瓠の後裔

蠻者,盤瓠之後。族類〔蕃〕衍,散處江、淮之間,汝、豫之郡。憑險作梗,世為寇亂。逮魏人失馭,其暴滋甚。有冉氏、向氏、田氏者,陬落尤盛。餘則大者萬家,小者千戶。更相崇樹,僭稱王侯,屯據三峽,斷遏水路,荊、蜀行人,至有假道者。太祖畧定伊、瀍,聲教南被,諸蠻畏威,靡然向風矣。

蛮は盤瓠の後裔である。族類が繁り広がって、長江と淮水の間、汝州・豫州の郡に散らばって住み、険しい地を頼りに逆らい、代々寇賊となって乱を起こした。魏の人が制御を失うと、その乱暴はいよいよひどくなった。冉氏・向氏・田氏があって部落がとりわけ盛んであり、そのほかも大きいものは一万戸、小さいものは千戸であった。互いに持ち上げて立て、勝手に王侯と称し、三峡に陣取って水路を断ったので、荊州や蜀を行く人が道を借りるまでになった。太祖が伊水・瀍水のあたりをおおよそ平定して、その教化が南に及ぶと、もろもろの蛮は威を恐れ、なびくように風化へ向かった。

夾注 2

(番)

もとの版本の字は「番」である。

族類(番)〔蕃〕衍宋本「番」作「蕃」。張森楷云:「『番』當作『蕃』,『番』字無義。」按張說是,今據改。

「族類が(番)〔繁り(蕃)〕広がった」——宋本では「番」が「蕃」となっている。張森楷は「『番』は『蕃』とすべきで、『番』の字では意味がない」といった。その説が正しいので、いまそれに従って改めた。

2帰順と背反

大統五年,蔡陽蠻王魯超明內屬,以為南雍州刺史,仍世襲焉。十一年,蠻首梅勒特來貢其方物。尋而蠻帥田杜清及沔、漢諸蠻擾動,大將軍楊忠擊破之。其後蠻帥杜青和自稱巴州刺史,以州入附。朝廷因其所稱而授之。青和後遂反,攻圍東梁州。其唐州蠻田魯嘉亦叛,自號豫州伯。王雄、權景宣等前後討平之。語在泉仲遵及景宣傳。

大統五年、蔡陽の蛮の王である魯超明が内属したので、南雍州刺史とし、そのまま代々継がせた。十一年、蛮の首長の梅勒特が来て土地の産物を貢いだ。ほどなく蛮の帥の田杜清と、沔水・漢水のもろもろの蛮が騒ぎ立ったので、大将軍の楊忠が撃ち破った。その後、蛮の帥の杜青和がみずから巴州刺史と称し、州を挙げて帰属した。朝廷はその称したとおりに授けた。青和はのちについに背いて、東梁州を攻め囲んだ。唐州の蛮の田魯嘉もまた背き、みずから豫州伯と号した。王雄・権景宣らが前後して討ち平らげた。その話は泉仲遵と景宣の伝にある。

夾注 2

尋而蠻帥田杜清及沔漢諸蠻擾動卷一九楊忠傳作「日柱清」,卷二七厙狄昌傳作「田社清」,北史卷九五蠻傳作「田杜青和」。按楊忠傳「日」是「田」之訛,「柱」「社」「杜」形近,不知孰是,北史多「和」字,乃涉下「杜青和」而衍。

「ほどなく蛮の帥の田杜清と、沔水・漢水のもろもろの蛮が騒ぎ立った」——巻十九の楊忠伝では「日柱清」、巻二十七の厙狄昌伝では「田社清」、北史の蛮伝では「田杜青和」となっている。楊忠伝の「日」は「田」の誤りであり、「柱」「社」「杜」は形が近くてどれが正しいか分からない。北史の「和」の字は、下の「杜青和」に引かれて紛れ込んだものである。

其後蠻帥杜青和自稱巴州刺史汲本、局本及卷四四泉企附子仲遵傳、漢魏南北朝墓誌集釋寇奉叔墓誌圖版三六二「青」作「清」。王氏十七史商榷卷六八云:「杜青和與上田杜青和自是一人,二者必有一誤。」按卷一九楊忠傳稱:「及東魏圍潁川,蠻帥(日)〔田〕柱清據險為亂,」應是豫州蠻。杜青和自稱巴州刺史,攻圍東梁州,地在今陝西南部之安康、洵陽,相去甚遠。王說非。

「その後、蛮の帥の杜青和がみずから巴州刺史と称した」——汲本・局本と巻四十四の泉企伝附の子の仲遵の伝、漢魏南北朝墓誌集釈の寇奉叔墓誌では「青」が「清」となっている。王氏の十七史商榷には「杜青和は上の田杜青和と本来同一人であるから、どちらかが必ず誤りである」とある。しかし巻十九の楊忠伝には「東魏が潁川を囲んだとき、蛮の帥の(日)〔田〕柱清が険しい地に拠って乱をなした」とあり、豫州の蛮であろう。杜青和はみずから巴州刺史と称して東梁州を攻め囲んだのであり、その地は今の陝西南部の安康・洵陽にあたって、互いにはるかに遠い。王氏の説は誤りである。

3樊舎が帰属する

魏廢帝初,蠻酋樊舍舉落內附,以為淮北三州諸軍事、淮州刺史、淮安郡公。于謹等平江陵,諸蠻騷動,詔豆盧寧、蔡祐等討破之。

魏の廃帝の初め、蛮の酋長の樊舎が部落を挙げて内属したので、淮北三州諸軍事・淮州刺史・淮安郡公とした。于謹らが江陵を平定すると、もろもろの蛮が騒ぎ立ったので、詔して豆盧寧・蔡祐らに討ち破らせた。

4もろもろの蛮が騒ぎ立つ

魏恭帝二年,蠻酋宜民王田興彥、北荊州刺史梅季昌等相繼款附。以興彥、季昌竝為開府儀同三司,加季昌洛州刺史,賜爵石臺縣公。其後巴西人譙淹扇動羣蠻,以附於梁。蠻帥向鎮侯、向〔白〕彪等應之。向五子王又攻陷信州。田烏度、田都唐等抄斷江路。文子榮復據荊州之汶陽郡,自稱仁州刺史。并隣州刺史蒲微亦舉兵逆命。詔田弘、賀若敦、潘招、李遷哲討破之。語在敦及遷哲、〔陽〕雄等傳。

魏の恭帝二年、蛮の酋長の宜民王の田興彦と、北荊州刺史の梅季昌らが相次いで帰服した。興彦と季昌をともに開府儀同三司とし、季昌には洛州刺史を加え、石台県公の爵を賜った。その後、巴西の人の譙淹がもろもろの蛮を煽って梁に付かせ、蛮の帥の向鎮侯・向白彪らがこれに応じた。向五子王はまた信州を攻め落とし、田烏度・田都唐らは川の道を断って掠め、文子栄はさらに荊州の汶陽郡に拠ってみずから仁州刺史と称した。あわせて隣州刺史の蒲微もまた兵を挙げて命に逆らった。詔して田弘・賀若敦・潘招・李遷哲に討ち破らせた。その話は敦と遷哲、陽雄らの伝にある。

夾注 4

(日)

もとの版本の字は「日」である。

蠻帥向鎮侯向(日)〔白〕彪卷二八賀若敦傳、冊府卷九八四一一五五九頁「日」作「白」,北史本傳作「向白虎」。按「日」是「白」之訛,今據改。疑本名「白虎」,避唐諱改「虎」作「彪」,北史乃後人迴改。

「蛮の帥の向鎮侯と向(日)〔白〕彪」——巻二十八の賀若敦伝・冊府元亀では「日」が「白」となっており、北史の本伝では「向白虎」となっている。「日」は「白」の誤りなので、いまそれに従って改めた。もとの名は「白虎」であったのを、唐の避諱によって「虎」を「彪」に改め、北史はのちの人が元に戻したものらしい。

(楊)

もとの版本の字は「楊」である。

語在敦及遷哲(楊)〔陽〕雄等傳按楊雄乃楊紹子,附見卷二九楊紹傳,隋書卷四三有專傳,不載其事,且名輩也較晚。「楊」乃「陽」之訛,事見卷四四本傳,今據改。

「敦と遷哲、(楊)〔陽〕雄らの伝にある」——楊雄は楊紹の子で、巻二十九の楊紹伝に付して見え、隋書巻四十三に独立した伝があるが、この事は載せておらず、しかも世代もやや後である。「楊」は「陽」の誤りで、その事は巻四十四の本伝に見えるので、いまそれに従って改めた。

5白帝城を落とす

武成初,文州蠻叛,州選軍討定之。尋而冉令賢、向五子王等又攻陷白帝,殺開府楊長華,遂相率作亂。前後遣開府元契、趙剛等總兵出討,雖頗剪其族類,而元惡未除。

武成の初め、文州の蛮が背いたので、州が軍を選んで討ち平らげた。ほどなく冉令賢・向五子王らがまた白帝城を攻め落とし、開府の楊長華を殺して、ついに互いに率いて乱をなした。前後して開府の元契・趙剛らを遣わし、兵を統べて出て討たせたが、その族類をかなり刈り取ったものの、首謀者は除けなかった。

6陸騰の計

天和元年,詔開府陸騰督王亮、司馬裔等討之。騰水陸俱進,次于湯口,先遣喻之。而令賢方增浚城池,嚴設扞禦。遣其長子西黎、次子南王領其支屬,於江南險要之地置立十城,遠結涔陽蠻為其聲援。令賢率其精卒,固守水邏城。騰乃總集將帥,謀其進趣。咸欲先取水邏,然後經略江南。騰言於眾曰:「令賢內恃水邏金湯之險,外託涔陽輔車之援,兼復資糧充實,器械精新。以我懸軍攻其嚴壘,脫一戰不尅,更成其氣。不如頓軍湯口,先取江南,剪其羽毛,然後進軍水邏。此制勝之計也。」眾皆然之。乃遣開府王亮率眾渡江,旬日攻拔其八城,凶黨奔散。獲賊帥冉承公并生口三千人,降其部眾一千戶。遂簡募驍勇,數道入攻水邏。路經石壁城。此城峻嶮,四面壁立,故以名焉。唯有一小路,緣梯而上。蠻蜑以為峭絕,非兵眾所行。騰被甲先登,眾軍繼進,備經危阻,累月乃得舊路。且騰先任隆州總管,雅知蠻帥冉伯犁、冉安西與令賢有隙。

天和元年、詔して開府の陸騰に、王亮・司馬裔らを率いて討たせた。陸騰は水陸ともに進み、湯口に陣を構えて、まず人を遣わして説き聞かせた。しかし令賢はちょうど城と堀を増し掘り、防ぎを厳しく構え、長子の西黎と次子の南王にその一族を率いさせて、長江の南の険しく要となる地に十の城を立て、遠く涔陽の蛮と結んで後ろ盾とした。令賢はその精鋭を率いて水邏城を固く守った。

陸騰はそこで将帥を集めて進む道を謀ったが、みな先に水邏を取ってから江南を経略しようといった。陸騰は人々にいった。「令賢は内では水邏の金城湯池の険しさを頼み、外では涔陽の車の輔のような助けに託し、そのうえ物資も食糧も満ち足り、武器も精鋭で新しい。わが孤立した軍でその厳しい塁を攻め、もし一戦して勝てなければ、かえってその勢いを強めるだけだ。湯口に軍を留め、まず江南を取ってその羽毛を刈り、それから水邏へ進軍するのにはかなわない。これが勝ちを制する計である。」人々はみな、そのとおりだといった。

そこで開府の王亮を遣わして兵を率いて川を渡らせ、十日でその八つの城を攻め落とすと、凶悪な一党は逃げ散った。賊の帥の冉承公と捕虜三千人を獲て、その部衆一千戸を降らせた。そして勇ましい者を選び募り、幾筋もの道から水邏へ攻め入った。道は石壁城を通る。この城は険しく切り立って四面が壁のように立っているので、そう名づけられたのである。ただ小道が一つあって、梯子をたどって上る。蛮や蜑は、切り立っていて兵の通れる所ではないと思っていた。陸騰は甲を着けて先に登り、諸軍が続いて進み、危険な難所を経めぐって、幾月もかかってやっと旧道に出た。また陸騰は先に隆州総管を務めていて、蛮の帥の冉伯犁・冉安西が令賢と仲たがいしていることをよく知っていた。

夾注 1

累月乃得舊路北史本傳、冊府卷九八四一一五五九頁「月」作「日」,疑是。

「幾月もかかってやっと旧道に出た」の月は、北史の本伝・冊府元亀では「日」となっており、そのほうが正しいらしい。

7水邏城を平定する

騰乃招誘伯犁等,結為父子,又多遺其金帛。伯犁等悅,遂為鄉導。水邏側又有石勝城者,亦是險要。令賢使兄子龍真據之。騰又密誘龍真云,若平水邏,使其代令賢處。龍真大悅,密遣其子詣騰。騰乃厚加禮接,賜以金帛。蠻貪利既深,仍請立効。乃謂騰曰:「欲翻所據城,恐人力寡少。」騰許以三百兵助之。既而遣二千人銜枚夜進。龍真力不能禦,遂平石勝城。晨至水邏,蠻眾大潰,斬首萬餘級,虜獲一萬口。令賢遁走,追而獲之,并其子弟等皆斬之。司馬裔又別下其二十餘城,獲蠻帥冉三公等。騰乃積其骸骨於水邏城側,為京觀。後蠻蜑望見,輒大號哭。自此狼戾之心輟矣。

陸騰はそこで伯犁らを招き誘って父子の約を結び、また金や絹を多く与えた。伯犁らは喜んで、ついに道案内となった。水邏の傍らにはまた石勝城があって、これも険しく要となる地で、令賢は兄の子の龍真にこれを守らせていた。陸騰はまた龍真を密かに誘い、水邏を平定したらおまえを令賢の地位に代えてやろうといった。龍真は大いに喜び、密かにその子を陸騰のもとに遣わした。陸騰は手厚く礼をもって迎え、金や絹を賜った。蛮は利を貪る心が深かったので、すぐに功を立てたいと願い、陸騰にいった。「拠っている城を裏返したいが、人手が少ないのが心配です。」陸騰は兵三百で助けることを許し、やがて二千人に枚を含ませて夜に進ませた。龍真は力で防ぎきれず、ついに石勝城は平定された。明け方に水邏に至ると、蛮の兵は大きく崩れ、首を一万余級斬り、一万人を捕らえた。令賢は逃げたが、追って捕らえ、その子弟らとともにみな斬った。司馬裔もまた別にその二十余の城を落とし、蛮の帥の冉三公らを捕らえた。陸騰はその骸骨を水邏城の傍らに積んで京観とした。のちに蛮や蜑はそれを望み見ると、そのたびに大声で泣き叫んだ。これより狼のような荒々しい心はやんだ。

夾注 1

令賢使兄子龍真據之北史本傳「兄子」作「其兄」,冊府卷九八四一一五五九頁作「其兄子」。

「令賢が兄の子の龍真にこれを守らせた」の兄の子は、北史の本伝では「その兄」、冊府元亀では「その兄の子」となっている。

8石黙城と双城

時向五子王據石默城,令其子寶勝據雙城。水邏平後,頻遣喻之,而五子王猶不從命。騰又遣王亮屯牢坪,司馬裔屯雙城以圖之。騰慮雙城孤峭,攻未易拔。賊若委城奔散,又難追討。乃令諸軍周回立柵,遏其走路。賊乃大駭。於是縱兵擊破之,擒五子王於石默,獲寶勝於雙城,悉斬諸向首領,生擒萬餘口。信州舊治白帝。騰更於劉備故宮城南,八陣之北,臨江岸築城,移置信州。又以巫縣、信陵、秭歸竝是硤中要險,於是築城置防,以為襟帶焉。

そのころ向五子王は石黙城に拠り、その子の宝勝に双城を守らせていた。水邏が平定されたのち、たびたび人を遣わして説き聞かせたが、五子王はなお命に従わなかった。陸騰はまた王亮を牢坪に、司馬裔を双城に駐屯させてこれを図った。陸騰は、双城が孤立して切り立っており、攻めても容易には落ちまい、賊がもし城を捨てて逃げ散れば、また追い討ちしにくいと考え、諸軍に命じてぐるりと柵を立て、逃げ道をふさがせた。賊は大いに驚いた。そこで兵を放って撃ち破り、石黙で五子王を捕らえ、双城で宝勝を捕らえ、向氏の首領たちをことごとく斬り、一万余人を生け捕りにした。

信州はもとの治所が白帝であった。陸騰はあらためて劉備の旧宮城の南、八陣の北の、長江の岸に臨むところに城を築いて信州を移し、また巫県・信陵・秭帰がどれも峡中の要害であるので、城を築き防備を置いて、襟や帯のような備えとした。

9二度と寇をなさなかった

天和六年,蠻渠冉祖喜、冉龍驤又反,詔大將軍趙誾討平之。自此羣蠻懾息,不復為寇矣。

天和六年、蛮の首領の冉祖喜・冉龍驤がまた背いたので、詔して大将軍の趙誾に討ち平らげさせた。これより、もろもろの蛮は恐れて息をひそめ、二度と寇をなさなかった。