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氐

周書 異域伝(周書に記された異域の記録) 周書 異域傳 · 令狐徳棻ほか · 636年(唐・貞観10年) · 段落 5 · 漢字 957字 · 朗読 3.8分

周書 異域伝(周書に記された異域の記録) 全一巻 北周が見た隣人たち。高麗の十三の官職と骨蘇の冠、百済の於羅瑕・鞬吉支と十六の品階が詳しく、蛮・獠・宕昌羌・稽胡など中国の内外のさまざまな族の話が続く。版本を比べた校勘記66条を夾注として併せて訳した。

1氐の由来

氐者,西夷之別種。三代之際,蓋自有君長,而世一朝見。故詩稱「自彼氐、羌,莫敢不來王」也。漢武帝滅之,以其地為武都郡。自汧、渭抵於巴、蜀,種類實繁。漢末,有氐帥楊駒,始據仇池百頃,最為彊族。其後漸盛,乃自稱王。至裔孫纂,為〔苻〕堅所滅。堅敗,其族人定又自稱王。定為乞伏乾歸所殺。定從弟盛,代有其國。世受魏氏封拜,亦通使於江左。然其種落分散,叛服不恆,隴、漢之間,屢被其害。

氐は西夷の別種である。三代のころ、おおむねみずから君長があって、一代に一度朝見した。だから詩経に「あの氐や羌から、あえて来て王に朝せぬ者はない」とある。漢の武帝がこれを滅ぼし、その地を武都郡とした。汧水・渭水から巴・蜀に至るまで、その種族は実に多かった。漢の末に氐の帥の楊駒があって、はじめて仇池の百頃に拠り、最も強い一族であった。その後しだいに盛んになって、みずから王と称した。末孫の纂に至って苻堅に滅ぼされた。堅が敗れると、その一族の定がまたみずから王と称した。定は乞伏乾帰に殺され、定の従弟の盛が代わってその国を領した。代々魏氏の封爵を受け、江南にも使いを通わせた。しかしその部落は分かれ散って、背くも服すも定まらず、隴や漢のあたりはたびたびその害を受けた。

夾注 2

(符)

もとの版本の字は「符」である。

至裔孫纂為(符)〔苻〕堅所滅局本及魏書卷一0一、北史卷九六氐傳「符」作「苻」。按苻堅之姓從艸,不待辯,但局本外諸本都作「符」,故不逕改。本傳下文「符安壽」、「符雙」據局本逕改,不再出校記。

「末孫の纂に至って(符)〔苻〕堅に滅ぼされた」——局本と魏書・北史の氐伝では「符」が「苻」となっている。苻堅の姓が草冠であることは論ずるまでもないが、局本以外の諸本がみな「符」となっているので、そのまま改めはしない。本伝の以下の「符安寿」「符双」は局本に従ってそのまま改め、校勘記は出さない。

2楊氏の武興

盛之苗裔曰集始,魏封為武興王。集始死,子紹先立,遂僭稱大號。魏將傅豎眼滅之,執紹先歸諸京師,以其地為武興鎮。魏氏洛京未定,天下亂,紹先奔還武興,復自立為王。太祖定秦、隴,紹先稱藩,送妻子為質。大統元年,紹先請其妻女,太祖奏魏帝還之。紹先死,子辟邪立。四年,南岐州氐苻安壽反,攻陷武都,自號太白王。詔大都督侯莫陳順與渭州刺史長孫澄討破之。安壽以其眾降。九年,清水氐酋李鼠仁據險作亂,氐帥梁道顯叛攻南由,太祖遣典籤趙昶慰諭之,鼠仁等相繼歸附。語在昶傳。十一年,於武興置東益州,以辟邪為刺史。十五年,安夷氐復叛,趙昶時為郡守,收其首逆者二十餘人斬之,餘眾乃定。於是以昶行南秦州事。氐帥蓋鬧等相率作亂,鬧據北谷,其黨覃洛聚洮中,楊興德、苻雙圍平氐城,姜樊噲亂武階,西結宕昌羌獠甘,共推蓋鬧為主。昶分道遣使宣示禍福,然後出兵討之,擒蓋鬧,散其餘黨。興州叛氐復侵逼南岐州,刺史叱羅協遣使告急,昶率兵赴救,又大破之。

盛の末裔を集始といい、魏は武興王に封じた。集始が死んで子の紹先が立ち、ついに勝手に大きな号を称したので、魏の将の傅豎眼がこれを滅ぼし、紹先を捕らえて都に送り返し、その地を武興鎮とした。魏氏が洛陽の都をまだ定めず、天下が乱れると、紹先は武興へ逃げ帰り、ふたたびみずから立って王となった。太祖が秦・隴を平定すると、紹先は藩国と称し、妻子を人質として送った。大統元年、紹先がその妻と娘を返してほしいと願ったので、太祖は魏の帝に奏して返させた。紹先が死んで子の辟邪が立った。

四年、南岐州の氐の苻安寿が背いて武都を攻め落とし、みずから太白王と号したので、詔して大都督の侯莫陳順と渭州刺史の長孫澄が討ち破ると、安寿はその兵を率いて降った。九年、清水の氐の酋長の李鼠仁が険しい地に拠って乱をなし、氐の帥の梁道顕が背いて南由を攻めたので、太祖は典籤の趙昶を遣わして説き諭させ、鼠仁らは相次いで帰順した。その話は昶の伝にある。十一年、武興に東益州を置き、辟邪を刺史とした。

十五年、安夷の氐がまた背いたので、趙昶はそのとき郡守として、その首謀者二十余人を捕らえて斬り、残りの者はようやく落ち着いた。そこで昶に南秦州の事を行わせた。氐の帥の蓋鬧らが互いに率いて乱をなし、鬧は北谷に拠り、その一党の覃洛は洮中に集まり、楊興徳・苻双は平氐城を囲み、姜樊噲は武階を乱し、西は宕昌の羌の獠甘と結んで、ともに蓋鬧を主に推した。昶は道を分けて使いを遣わし、災いと幸いとを告げ知らせ、そのうえで兵を出して討ち、蓋鬧を捕らえ、その残党を散らした。興州の背いた氐がふたたび南岐州に迫ったので、刺史の叱羅協が使いを遣わして急を告げ、昶は兵を率いて救いに赴き、またこれを大いに破った。

3陰平の楊法深

先是,氐首楊法深據陰平自稱〔王〕,亦盛之苗裔也。魏孝昌中,舉眾內附。自是職貢不絕。廢帝元年,以法深為黎州刺史。二年,楊辟邪據州反,羣氐復與同逆。詔叱羅協與趙昶討平之。太祖乃以大將軍宇文貴為大都督、六州諸軍事、興州刺史。貴威名先著,羣氐頗畏服之。是歲,楊法深從尉遲迥平蜀,軍回,法深旋鎮。尋與其種人楊崇集、楊陳侳各擁其眾,遞相攻討。趙昶時督成武沙三州諸軍事、成州刺史,遣使和解之。法深等從命。乃分其部落,更置州郡以處之。

これより先、氐の首長の楊法深が陰平に拠ってみずから王と称したが、これもまた盛の末裔である。魏の孝昌年間に兵を挙げて内属し、これより職貢が絶えなかった。廃帝元年、法深を黎州刺史とした。二年、楊辟邪が州に拠って背くと、もろもろの氐がまたともに逆らったので、詔して叱羅協と趙昶が討ち平らげた。太祖はそこで大将軍の宇文貴を大都督・六州諸軍事・興州刺史とした。貴は威名がもともと高かったので、もろもろの氐はかなり恐れて服した。この年、楊法深は尉遅迥に従って蜀を平定し、軍が帰ると法深も鎮に戻った。ほどなくその種族の人の楊崇集・楊陳侳とそれぞれ兵を抱えて互いに攻めあったので、趙昶はそのとき成・武・沙の三州諸軍事・成州刺史として、使いを遣わして和解させ、法深らは命に従った。そこでその部落を分け、あらためて州や郡を置いて住まわせた。

夾注 2

先是氐首楊法深據陰平自稱〔王〕亦盛之苗裔也宋本及北史卷九六氐傳「稱」下有「王」字。按梁書卷三武帝紀大同元年十二月:「陰平王楊法深進號驃騎將軍」,是稱王之證。今據補。

「これより先、氐の首長の楊法深が陰平に拠ってみずから〔王と〕称したが、これもまた盛の末裔である」——宋本と北史巻九六の氐伝では「称」の下に「王」の字がある。梁書の武帝紀の大同元年十二月に「陰平王の楊法深が驃騎将軍に号を進めた」とあり、王と称した証拠である。いまそれに従って補った。

趙昶時督成武沙三州諸軍事成州刺史卷三三趙昶傳稱「拜武州刺史」。

「趙昶はそのとき成・武・沙の三州諸軍事・成州刺史を務めた」——巻三十三の趙昶伝には「武州刺史に任ぜられた」とある。

4武興の氐が背く

魏恭帝末,武興氐反,圍利州。鳳州固道氐魏天王等亦聚眾響應。大將軍豆盧寧等討平之。

魏の恭帝の末、武興の氐が背いて利州を囲み、鳳州の固道の氐の魏天王らも兵を集めて呼応したので、大将軍の豆盧寧らが討ち平らげた。

5もろもろの氐が平らぐ

世宗時,興州人〔段〕吒及下辯、栢樹二縣民反,相率破蘭臯戍。氐酋姜多復率廚中氐、蜀攻陷落叢郡以應之。趙昶率眾討平二縣,并斬段吒。而陰平、盧北二郡氐復往往屯聚,與廚中相應。昶乃簡擇精騎,出其不意,徑入廚中。至大竹坪,連破七柵,誅其渠率,二郡竝降。及昶還,廚中主氐復為寇掠。昶又遣儀同劉崇義、宇文琦率兵入廚中討之,大破氐眾,斬姜多及苻肆王等。於是羣氐竝平。及王謙舉兵,沙州氐帥開府楊永安又據州應謙,大將軍達奚儒討平之。

世宗のとき、興州の人の段吒と、下辯・栢樹の二県の民が背き、互いに率いて蘭皐の戍を破った。氐の酋長の姜多はさらに廚中の氐と蜀の人を率いて落叢郡を攻め落とし、これに呼応した。趙昶は兵を率いて二県を討ち平らげ、あわせて段吒を斬った。ところが陰平・盧北の二郡の氐がまたしきりに集まって廚中と呼応したので、昶は精鋭の騎兵を選び、思いもよらぬところへ出て、まっすぐ廚中に入った。大竹坪に至って続けざまに七つの柵を破り、その首領を誅すると、二郡はともに降った。昶が帰ると、廚中の氐がまた寇をなして掠めたので、昶はまた儀同の劉崇義・宇文琦を遣わして兵を率いて廚中に入って討たせ、氐の兵を大いに破り、姜多と苻肆王らを斬った。これによってもろもろの氐はみな平らいだ。王謙が兵を挙げると、沙州の氐の帥の開府の楊永安がまた州に拠って謙に呼応したが、大将軍の達奚儒が討ち平らげた。

夾注 4

(叚)

もとの版本の字は「叚」である。

興州人(叚)〔段〕吒及下辯栢樹二縣民反局本及北史卷九六氐傳「叚」作「段」,是,今據改。下「叚吒」逕改,不出校記。

「興州の人の(叚)〔段〕吒と、下辯・栢樹の二県の民が背いた」——局本と北史巻九六の氐伝では「叚」が「段」となっていて正しいので、いまそれに従って改めた。以下の「段吒」もそのまま改め、校勘記は出さない。

而陰平盧北二郡氐復往往屯聚北史本傳「盧北」作「葭蘆」。按盧北郡見隋書卷二九地理志上武都郡長松縣條。楊氏考證卷二云:「舊唐志作蘆北,是。寰宇記:卷一三四文州曲水縣條『蘆北故城在縣東北按檢寰宇記無「北」字五十二里,因葭蘆鎮為名。』按周書明帝紀卷四二年三月以『葭蘆郡置文州』。疑蘆北即葭蘆,非有二郡。」

「ところが陰平・盧北の二郡の氐がまたしきりに集まった」の盧北は、北史の本伝では「葭蘆」となっている。盧北郡は隋書巻二十九の地理志上の武都郡長松県の条に見える。楊氏の考証には「旧唐志では蘆北としていて正しい。寰宇記の文州曲水県の条に『蘆北の故城は県の東北五十二里にあり、葭蘆鎮によって名づけた』とある。周書の明帝紀の二年三月に『葭蘆郡に文州を置いた』とあるから、蘆北がすなわち葭蘆で、二つの郡があるのではないらしい」とある。

廚中主氐復為寇掠北史「主」作「生」,較長。

「廚中の主たる氐がまた寇をなして掠めた」の主は、北史では「生」となっていて、そのほうがまさる。