知北遊莊子 外篇 知北遊
1知が無為謂に三たび問う
知北遊於玄水之上,登隱弅之丘,而適遭无為謂焉。知謂无為謂曰:「予欲有問乎若:何思何慮則知道?何處何服則安道?何從何道則得道?」三問而无為謂不答也。非不答,不知答也。
知は北へ玄水のほとりに遊び、隠弅の丘に登って、ちょうど無為謂に出会った。
知は無為謂に言った。「あなたに尋ねたいことがある。何を思い何を慮れば道を知るのか。どこに処し何に服すれば道に安らぐのか。何に従いどの道を行けば道を得るのか。」
三たび問うたが、無為謂は答えなかった。答えなかったのではなく、答えを知らなかったのである。
2狂屈が言おうとして忘れる
知不得問,反於白水之南,登狐闋之上,而睹狂屈焉。知以之言也問乎狂屈。狂屈曰:「唉!予知之,將語若,中欲言而忘其所欲言。」
知は問うて得られず、白水の南に帰り、狐闋の上に登って狂屈を見た。知は同じ言葉で狂屈に問うた。
狂屈は言った。「ああ、私はそれを知っている。あなたに語ろうとしたが、言おうとしたところでその言おうとしたことを忘れてしまった。」
3黄帝が答える
知不得問,反於帝宮,見黃帝而問焉。黃帝曰:「无思无慮始知道,无處无服始安道,无從无道始得道。」
知は問うて得られず、帝の宮に帰り、黄帝に会って問うた。
黄帝は言った。「思うことがなく慮ることがなくて初めて道を知り、処することがなく服することがなくて初めて道に安らぎ、従うことがなく道とすることがなくて初めて道を得る。」
4どちらが正しいのですか
知問黃帝曰:「我與若知之,彼與彼不知也,其孰是邪?」
知は黄帝に問うた。「私とあなたはそれを知っており、あの二人は知らない。どちらが正しいのですか。」
5無為謂こそ本当に正しい
黃帝曰:「彼无為謂真是也,狂屈似之;我與汝終不近也。夫知者不言,言者不知,故聖人行不言之教。道不可致,德不可至。仁可為也,義可虧也,禮相偽也。故曰,『失道而後德,失德而後仁,失仁而後義,失義而後禮。禮者,道之華而亂之首也。』故曰,『為道者日損,損之又損之以至於无為,无為而无不為也。』今已為物也,欲復歸根,不亦難乎!其易也,其唯大人乎!
黄帝は言った。「あの無為謂こそ本当に正しく、狂屈はそれに近い。私とあなたはついに近づかない。
そもそも知る者は言わず、言う者は知らない。だから聖人は言わない教えを行う。道は至らせることができず、徳は到らせることができない。仁はつくることができ、義は欠くことができ、礼は互いを偽らせる。
だから言う。『道を失って後に徳、徳を失って後に仁、仁を失って後に義、義を失って後に礼。礼とは道の花であり乱れの始めである。』
だから言う。『道を行う者は日々に削り、削りまた削って無為に至る。無為であって為さないことがない。』
今すでに物となっていながら、また根に帰ろうとするのは、やはり難しいことではないか。それを易くできる者は、ただ大人だけであろう。
6天下を通じて一つの気にすぎない
生也死之徙,死也生之始,孰知其紀!人之生,氣之聚也;聚則為生,散則為死。若死生為徙,吾又何患!故萬物一也。是其所美者為神奇,其所惡者為臭腐。臭腐復化為神奇,神奇復化為臭腐。故曰:『通天下一氣耳。』聖人故貴一。」
生は死へ移っていくものであり、死は生の始めである。誰がその綱を知ろうか。
人が生きるのは気が集まったのである。集まれば生となり、散れば死となる。死と生が移りゆくものであるなら、私はまた何を憂えようか。だから万物は一つである。
これは、その美しいと思うものを神奇といい、その嫌うものを臭く腐れたというのである。臭く腐れたものがまた変じて神奇となり、神奇がまた変じて臭く腐れたものとなる。
だから言う。『天下を通じて一つの気にすぎない。』聖人はそれゆえ一を貴ぶ。」
7どうして近づかないと言うのですか
知謂黃帝曰:「吾問无為謂,无為謂不應我,非不我應,不知應我也。吾問狂屈,狂屈中欲告我而不我告,非不我告,中欲告而忘之也。今予問乎若,若知之,奚故不近?」
知は黄帝に言った。「私が無為謂に問うと、無為謂は私に応じませんでした。私に応じなかったのではなく、私に応ずることを知らなかったのです。私が狂屈に問うと、狂屈は私に告げようとして告げませんでした。私に告げなかったのではなく、告げようとして忘れたのです。今、私があなたに問うと、あなたはそれを知っている。それなのにどうして近づかないと言うのですか。」
8知らないことで真となり、知ることで遠ざかる
黃帝曰:「彼其真是也,以其不知也;此其似之也,以其忘之也;予與若終不近也,以其知之也。」
黄帝は言った。「あの者が本当に正しいのは、彼が知らないからである。この者がそれに近いのは、彼が忘れたからである。私とあなたがついに近づかないのは、我々がそれを知っているからである。」
9狂屈が黄帝を言葉を知る者とする
狂屈聞之,以黃帝為知言。
狂屈はこれを聞いて、黄帝を言葉を知る者とした。
10天地に大きな美があるが言わない
天地有大美而不言,四時有明法而不議,萬物有成理而不說。聖人者,原天地之美而達萬物之理。是故至人无為,大聖不作,觀於天地之謂也。
天と地には大きな美があるが言わず、四季には明らかな法があるが議論せず、万物には成った理があるが説かない。
聖人とは、天地の美に根ざして万物の理に通じた者である。だから至人は為すことがなく、大聖はつくることがない。天地を観たということである。
11これを根本といい、天を観るに足る
今彼神明至精,與彼百化。物已死生方圓,莫知其根也,扁然而萬物自古以固存。六合為巨,未離其內;秋豪為小,待之成體。天下莫不沉浮,終身不故;陰陽四時運行,各得其序。惛然若亡而存,油然不形而神,萬物畜而不知。此之謂本根,可以觀於天矣。
今、あの神妙で明らかで極めて精なるものが、あの万の変化とともにある。物はすでに死に、生き、方となり円となるが、その根を知る者はない。あまねく広がって、万物は古より確かに存在してきた。
六合は大きいといっても、その内を離れず、秋の毛は小さいといっても、これを待って体を成す。天下に沈み浮かばぬものはなく、一生の間、古いままであることがない。陰と陽と四季が運行して、それぞれにその順序を得る。
ぼんやりとして無いようで有り、ゆたかに形がないままに神妙であり、万物は養われていながらそれを知らない。これを根本といい、天を観るに足るのである。
12被衣が齧缺に道を告げる
齧缺問道乎被衣,被衣曰:「若正汝形,一汝視,天和將至;攝汝知,一汝度,神將來舍。德將為汝美,道將為汝居,汝瞳焉如新生之犢而无求其故!」
齧缺が被衣に道を問うと、被衣は言った。「あなたはあなたの体を正し、あなたの見るところを一つにせよ。天の和が至るであろう。あなたの知を収め、あなたの慮るところを一つにせよ。神が来て宿るであろう。
徳があなたの美となり、道があなたの住まいとなるであろう。あなたは生まれたばかりの子牛のようにきょとんとして、その理由を求めてはならない。」
13言葉が終わらないうちに齧缺が眠る
言未卒,齧缺睡寐。被衣大說,行歌而去之,曰:「形若槁骸,心若死灰,真其實知,不以故自持。媒媒晦晦,无心而不可與謀。彼何人哉!」
言葉が終わらないうちに、齧缺は眠ってしまった。
被衣は大いに喜び、歌いながら去って言った。「体は枯れた骸のようであり、心は冷えた灰のようである。まことにその真の知であって、古いもので自分を支えない。ぼんやりと薄暗く、心がないので、ともに謀ることができない。あの者は何という人であろうか。」
14道は得て持つことができますか
舜問乎丞曰:「道可得而有乎?」
舜が丞に問うた。「道は得て持つことができますか。」
15あなたの体さえあなたのものではない
曰:「汝身非汝有也,汝何得有夫道!」
言った。「あなたの体さえあなたのものではないのに、あなたがどうしてあの道を持てようか。」
16では誰がそれを持っているのですか
舜曰:「吾身非吾有也,孰有之哉?」
舜は言った。「私の体が私のものでないなら、誰がそれを持っているのですか。」
17天地が預けた形にすぎない
曰:「是天地之委形也;生非汝有,是天地之委和也;性命非汝有,是天地之委順也;孫子非汝有,是天地之委蛻也。故行不知所往,處不知所持,食不知所味。天地之強陽氣也,又胡可得而有邪!」
言った。「これは天地が預けた形である。生もあなたのものではなく、天地が預けた和である。性と命もあなたのものではなく、天地が預けた順である。子や孫もあなたのものではなく、天地が預けた抜け殻である。
だから歩いても行く先を知らず、留まっても何を持つのかを知らず、食べても味を知らない。天地の強い陽の気であるのに、どうして得て持つことができようか。」
18孔子が老聃に至極の道を尋ねる
孔子問於老聃曰:「今日晏閒,敢問至道。」
孔子が老聃に問うた。「今日はお暇ですから、あえて至極の道をお尋ねします。」
19斎戒して心を洗え
老聃曰:「汝齊戒,疏𤅢而心,澡雪而精神,掊擊而知!夫道,窅然難言哉!將為汝言其崖略。
老聃は言った。「あなたは斎戒して、あなたの心を洗い流し、あなたの精神を雪で清めるように澄ませ、あなたの知を打ち砕きなさい。そもそも道は奥深くて言いがたい。あなたのために、その崖の大略を言ってみよう。
20明るさは暗さから生まれ、筋目は形のないものから生まれる
夫昭昭生於冥冥,有倫生於无形,精神生於道,形本生於精,而萬物以形相生。故九竅者胎生,八竅者卵生。其來无迹,其往无崖,无門无房,四達之皇皇也。邀於此者,四肢彊,思慮恂達,耳目聰明。其用心不勞,其應物无方。天不得不高,地不得不廣,日月不得不行,萬物不得不昌,此其道與!
そもそも明るさは暗さから生まれ、筋目のあるものは形のないものから生まれ、精神は道から生まれ、形の根は精から生まれる。万物は形によって互いに生む。
だから九つの穴のあるものは胎で生み、八つの穴のあるものは卵で生む。その来るのに跡がなく、その去るのに崖がなく、門もなく部屋もなく、四方に通じて明るく広い。
これを迎える者は、手足が強く、思いが通り、耳と目が明らかである。その心の使い方は労せず、その物への応じ方に定まった向きがない。
天は高くないことができず、地は広くないことができず、日と月は行かないことができず、万物は盛んでないことができない。これがその道であろうか。
21博いからといって必ず知るのではない
且夫博之不必知,辯之不必慧,聖人以斷之矣!若夫益之而不加益,損之而不加損者,聖人之所保也。淵淵乎其若海,魏魏乎其終則復始也。運量萬物而不匱。則君子之道,彼其外與!萬物皆往資焉而不匱。此其道與!
また、そもそも博いからといって必ず知るのではなく、弁が立つからといって必ず慧いのではない。聖人はこれを断ち切った。
加えても加わらず、減らしても減らないもの、これが聖人の守るところである。深々として海のようであり、高々として、終わればまた始まる。
万物を運び量っても尽きない。それならば君子の道は、あの外のものであろうか。万物がみな行って元手とするのに尽きない。これがその道であろうか。
22つかのまの話にすぎないのに、どうして堯と桀の是非を論じようか
中國有人焉,非陰非陽,處於天地之間,直且為人,將反於宗。自本觀之,生者,喑醷物也。雖有壽夭,相去幾何?須臾之說也,奚足以為堯桀之是非!果蓏有理,人倫雖難,所以相齒。聖人遭之而不違,過之而不守。調而應之,德也;偶而應之,道也;帝之所興,王之所起也。
中国に人がいる。陰でもなく陽でもない。天地の間に処して、ただしばらく人となって、宗に帰ろうとする。
根から見れば、生きるものは気が凝り固まった物である。長生きと早死にがあるといっても、互いにどれほど隔たっているだろうか。つかのまの話にすぎず、どうして堯と桀の是非とするに足ろうか。
木の実や蔓の実に筋目があるように、人の序列は難しくはあるが、互いに連なるところがある。聖人はこれに出会っても背かず、通り過ぎても守らない。
調えて応ずるのが徳であり、連れ合って応ずるのが道である。帝が興った所であり、王が立った所である。
23白い子馬が隙間を過ぎるように
人生天地之間,若白駒之過郤,忽然而已。注然勃然,莫不出焉;油然寥然,莫不入焉。已化而生,又化而死。生物哀之,人類悲之。解其天弢,墮其天袟,紛乎宛乎,魂魄將往,乃身從之,乃大歸乎!不形之形,形之不形,是人之所同知也,非將至之所務也,此衆人之所同論也。彼至則不論,論則不至。明見无值,辯不若默。道不可聞,聞不若塞。此之謂大得。」
人が天地の間に生きるのは、白い子馬が隙間を過ぎるようで、ふとそれだけである。
注ぐように、勢いよく湧くように、出てこないものはなく、ゆたかに、ひそやかに、入っていかないものはない。すでに変じて生まれ、また変じて死ぬ。生き物はこれを哀しみ、人の類はこれを悲しむ。
その天の弓袋を解き、その天の袋を崩せば、乱れもつれて魂が去ろうとし、そこで体がそれに従う。これこそ大いなる帰りである。
形のないものが形となり、形が形のないものとなるのは、人のみな同じく知るところであって、これから至ろうとする者の務めではない。これは衆人がともに論ずるところである。あの至った者は論ぜず、論ずれば至らない。
明らかに見ても出会えないのだから、弁ずることは黙っているのに及ばない。道は聞くことができないのだから、聞くことは塞ぐのに及ばない。これを大いなる得という。」
24東郭子が道はどこにあるかと問う
東郭子問於莊子曰:「所謂道,惡乎在?」
東郭子が荘子に問うた。「いわゆる道はどこにあるのか。」
25ないところはない
莊子曰:「无所不在。」
荘子は言った。「ないところはない。」
26指して言ってもらいたい
東郭子曰:「期而後可。」
東郭子は言った。「指して言ってもらいたい。」
27ケラや蟻にある
莊子曰:「在螻蟻。」
荘子は言った。「ケラや蟻にある。」
28どうしてそんなに低いのですか
曰:「何其下邪?」
言った。「どうしてそんなに低いのか。」
29イヌビエやヒエにある
曰:「在稊稗。」
言った。「イヌビエやヒエにある。」
30どうしてもっと低いのですか
曰:「何其愈下邪?」
言った。「どうしてもっと低いのか。」
31瓦や煉瓦にある
曰:「在瓦甓。」
言った。「瓦や煉瓦にある。」
32どうしてもっとひどいのですか
曰:「何其愈甚邪?」
言った。「どうしてもっとひどいのか。」
33糞や小便にある
曰:「在屎溺。」
言った。「糞や小便にある。」
34下へ行くほどいっそうはっきりする
東郭子不應。莊子曰:「夫子之問也,固不及質。正獲之問於監市履狶也,每下愈況。汝唯莫必,无乎逃物。至道若是,大言亦然。周徧咸三者,異名同實,其指一也。
東郭子は応じなかった。
荘子は言った。「先生の問いは、もとより本質に及んでいない。市場の監督が豚を踏んで調べることを問うとき、下へ行くほどいっそうはっきりするのと同じである。
あなたはただ、必ずそうだと決めてはならない。物を逃れるところはない。至極の道はこのようであり、大いなる言葉もまたそうである。周と徧と咸の三つは、名が異なって実は同じであり、その指すところは一つである。
35何もない宮に遊んでみよう
嘗相與游乎无何有之宮,同合而論,无所終窮乎!嘗相與无為乎!澹而靜乎!漠而清乎!調而閒乎!寥已吾志,无往焉而不知其所至。去而來而不知其所止,吾已往來焉而不知其所終;彷徨乎馮閎,大知入焉而不知其所窮。物物者與物无際,而物有際者,所謂物際者也;不際之際,際之不際者也。謂盈虛衰殺,彼為盈虛非盈虛,彼為衰殺非衰殺,彼為本末非本末,彼為積散非積散也。」
一度ともに何もない宮に遊んでみよう。一つに合わせて論じ、終わり尽きることがないようにしよう。一度ともに無為であってみよう。淡く静かに、はるかに清く、調って閑かにしよう。
私の志はすでに寂しく、行く先がないままにその至るところを知らず、去っては来てその止まるところを知らず、私はすでに行き来してその終わるところを知らない。広く開けたところにさまよえば、大いなる知が入ってもその尽きるところを知らない。
物を物とするものは物との境がなく、しかし物には境がある。これがいわゆる物の境である。境のない境であり、境の境のなさである。
満ちることと虚ろになること、衰えることと殺がれることをいうが、あれが満ち虚ろにさせるのであって満ち虚ろではなく、あれが衰え殺がれさせるのであって衰え殺がれるのではなく、あれが本と末とならせるのであって本と末ではなく、あれが積み散らせるのであって積み散るのではない。」
36老龍吉が死ぬ
妸荷甘與神農同學於老龍吉。神農隱几,闔戶晝瞑。妸荷甘日中奓戶而入,曰:「老龍死矣!」神農隱几擁杖而起,嚗然放杖而笑,曰:「天知予僻陋慢訑,故棄予而死。已矣夫子!无所發予之狂言而死矣夫!」
妸荷甘は神農とともに老龍吉に学んだ。神農は几に寄りかかり、戸を閉めて昼寝をしていた。
妸荷甘が真昼に戸を開けて入って言った。「老龍が死んだ。」
神農は几に寄りかかったまま杖を突いて立ち上がり、ぽんと杖を放して笑って言った。「天は私が狭く怠りがちで放恣であることを知っていたので、私を捨てて死んだのだ。もうおしまいだ、先生よ。私に狂った言葉を開いてくれることもなく死んでしまった。」
37道を身に体した者はなおさらである
弇堈弔聞之,曰:「夫體道者,天下之君子所繫焉。今於道,秋豪之端萬分未得處一焉,而猶知藏其狂言而死,又況夫體道者乎!視之无形,聽之无聲,於人之論者,謂之冥冥,所以論道,而非道也。」
弇堈弔がこれを聞いて言った。「そもそも道を身に体した者は、天下の君子がつながるところである。
今、道について秋の毛の先の万分の一も得て処することができていないのに、それでも自分の狂った言葉を隠して死ぬことを知っていた。まして道を身に体した者はどうであろうか。
見ても形がなく、聞いても声がない。人々が論ずるには、暗く暗いという。道を論じているのであって、道ではない。」
38泰清が无窮に道を知るかと問う
於是泰清問乎无窮曰:「子知道乎?」
そこで泰清が无窮に問うた。「あなたは道を知っているか。」
39私は知らない
无窮曰:「吾不知。」
无窮は言った。「私は知らない。」
40无為は知っていると言う
又問乎无為,无為曰:「吾知道。」
また无為に問うと、无為は言った。「私は道を知っている。」
41その知に数があるのか
曰:「子之知道,亦有數乎?」
言った。「あなたが道を知るのに、また数があるのか。」
42ある
曰:「有。」
言った。「ある。」
43その数はどのようなものか
曰:「其數若何?」
言った。「その数はどのようなものか。」
44貴くも賤しくもできる
无為曰:「吾知道之可以貴,可以賤,可以約,可以散,此吾所以知道之數也。」
无為は言った。「私が知る道は、貴くすることもでき、賤しくすることもでき、束ねることもでき、散らすこともできる。これが私が道の数を知るところである。」
45无窮の知らないことと无為の知ること、どちらが正しいのか
泰清以之言也問乎无始,曰:「若是,則无窮之弗知與无為之知,孰是而孰非乎?」
泰清はその言葉で无始に問うた。「このようであれば、无窮の知らないことと无為の知ることと、どちらが正しくどちらが誤りなのか。」
46知らないことが深く、知ることが浅い
无始曰:「不知深矣,知之淺矣;弗知內矣,知之外矣。」
无始は言った。「知らないことが深く、知ることが浅い。知らないことが内であり、知ることが外である。」
47知らないことがすなわち知ることか
於是泰清中而歎曰:「弗知乃知乎!知乃不知乎!孰知不知之知?」
そこで泰清は心のうちで嘆いて言った。「知らないことがすなわち知ることか。知ることがすなわち知らないことか。誰が知らない知を知るであろうか。」
48道は聞くことも見ることも言うこともできない
无始曰:「道不可聞,聞而非也;道不可見,見而非也;道不可言,言而非也。知形形之不形乎!道不當名。」
无始は言った。「道は聞くことができず、聞けばそれではない。道は見ることができず、見ればそれではない。道は言うことができず、言えばそれではない。形を形とするものが形のないものであることを知りなさい。道は名にふさわしくない。」
49問いのないものを問えば、問いが行き詰まる
无始曰:「有問道而應之者,不知道也。雖問道者,亦未聞道。道无問,問无應。无問問之,是問窮也;无應應之,是无內也。以无內待問窮,若是者,外不觀乎宇宙,內不知乎大初,是以不過乎崑崙,不遊乎太虛。」
无始は言った。「道を問われてそれに応ずる者は、道を知らないのである。道を問う者であっても、やはり道を聞いたことがないのである。
道には問いがなく、問いには応えがない。問いのないものを問えば、これは問いが行き詰まったのである。応えのないものに応ずれば、これは内がないのである。
内のないもので行き詰まった問いを待つのだから、このような者は外に宇宙を観ることができず、内に太初を知ることができない。そのために崑崙を越えられず、太虚に遊べないのである。」
50光曜が无有に問う
光曜問乎无有曰:「夫子有乎?其无有乎?」
光曜が无有に問うた。「先生はおられるのか、おられないのか。」
51一日中見ても見えない
光曜不得問,而孰視其狀貌,窅然空然,終日視之而不見,聽之而不聞,搏之而不得也。
光曜は問うて得られず、その姿をじっと見たが、奥深く空ろで、一日中見ても見えず、聞いても聞こえず、つかもうとしても得られなかった。
52私は無は持ったが、無さえ無くすことはできない
光曜曰:「至矣,其孰能至此乎!予能有无矣,而未能无无也。及為无有矣,何從至此哉!」
光曜は言った。「至極である。誰がここに至ることができようか。私は無を持つことはできるが、まだ無さえ無くすことはできない。無が有となるに至ったのに、何に従ってここに至れようか。」
53帯金具を鍛える八十歳の職人
大馬之捶鉤者,年八十矣,而不失豪芒。大馬曰:「子巧與?有道與?」
大司馬の帯金具を鍛える職人は、年八十になっても毛筋ほども違えなかった。大司馬が言った。「あなたは技が巧みなのか、道があるのか。」
54用いないものを借りてその用を長く得る
曰:「臣有守也。臣之年二十而好捶鉤,於物无視也,非鉤无察也。是用之者,假不用者也以長得其用,而況乎无不用者乎!物孰不資焉!」
言った。「私には守るものがあります。私は年二十で帯金具を鍛えるのを好み、他の物は見ず、帯金具でなければ目を留めませんでした。
これは、用いるものが用いないものを借りて、その用を長く得るのです。まして用いないところのないものはどうでしょうか。どの物がそこから元手を得ないでしょうか。」
55冉求が天地のなかった時を問う
冉求問於仲尼曰:「未有天地可知邪?」
冉求が仲尼に問うた。「天地がまだ無かった時のことを知ることができますか。」
56できる、古は今と同じである
仲尼曰:「可。古猶今也。」
仲尼は言った。「できる。古は今と同じである。」
57昨日は明らかでしたのに今日は暗いのです
冉求失問而退。明日復見,曰:「昔者吾問『未有天地可知乎?』夫子曰:『可。古猶今也。』昔日吾昭然,今日吾昧然。敢問何謂也?」
冉求は問いを失って退いた。翌日また会って言った。「昨日、私が『天地がまだ無かった時のことを知ることができますか』とお尋ねすると、先生は『できる。古は今と同じである』と言われました。昨日は私は明らかでしたのに、今日は私は暗いのです。あえてお尋ねします。どういう意味でしょうか。」
58神なるものが先に受け取ったからである
仲尼曰:「昔之昭然也,神者先受之;今之昧然也,且又為不神者求邪?无古无今,无始无終。未有子孫而有子孫,可乎?」
仲尼は言った。「昨日明らかであったのは、神なるものが先に受け取ったからであり、今日暗いのは、また神ならぬものによって求めているからではないか。
古もなく今もなく、始めもなく終わりもない。まだ子や孫がないのに子や孫があるということが、ありうるだろうか。」
59物を物とするものは物ではない
冉求未對。仲尼曰:「已矣,末應矣!不以生生死,不以死死生。死生有待邪?皆有所一體。有先天地生者物邪?物物者非物,物出不得先物也,猶其有物也。猶其有物也,无已。聖人之愛人也終无已者,亦乃取於是者也。」
冉求は答えられなかった。
仲尼は言った。「やめておけ、答えなくてよい。生によって死を生かすのではなく、死によって生を死なせるのでもない。死と生に待つものがあろうか。みな一つとなる体がある。
天地より先に生まれたものが物であろうか。物を物とするものは物ではない。物が出てくるところで物より先立つことはできず、それでも物があるのと同じである。それでも物があるのと同じで、やむことがない。
聖人が人を愛してついにやむことがないのも、またここから取ったものである。」
60顔淵が送りも迎えもしないことを問う
顏淵問乎仲尼曰:「回嘗聞諸夫子曰:『无有所將,无有所迎。』回敢問其遊。」
顔淵が仲尼に問うた。「私はかつて先生から『送るところがなく、迎えるところがない』と聞きました。私はあえてその遊びをお尋ねします。」
61古の人は外に変じて内に変じなかった
仲尼曰:「古之人,外化而內不化,今之人,內化而外不化。與物化者,一不化者也。安化安不化,安與之相靡,必與之莫多。狶韋氏之囿,黃帝之圃,有虞氏之宮,湯武之室。君子之人,若儒墨者師,故以是非相韲也,而況今之人乎!聖人處物不傷物。不傷物者,物亦不能傷也。唯无所傷者,為能與人相將迎。山林與!皋壤與!使我欣欣然而樂與!樂未畢也,哀又繼之。哀樂之來,吾不能禦,其去弗能止。悲夫,世人直為物逆旅耳!夫知遇而不知所不遇,知能能而不能所不能。无知无能者,固人之所不免也。夫務免乎人之所不免者,豈不亦悲哉!至言去言,至為去為。齊知之所知,則淺矣。」
仲尼は言った。「古の人は外に変じて内に変じなかったが、今の人は内に変じて外に変じない。物とともに変ずる者は、一つに変じない者である。変ずるに安らかで変じないに安らかであり、それと互いに擦れ合うに安らかでありながら、必ずそれとともに多くはしない。
狶韋氏の囿、黄帝の圃、有虞氏の宮、湯王と武王の室がそうであった。君子という人で儒家や墨家を師とする者たちは、それゆえ是非で互いに擦り合うのだが、まして今の人はどうであろうか。
聖人は物に処して物を傷つけない。物を傷つけない者は、物もまた彼を傷つけることができない。ただ傷つけるところのない者こそ、人と互いに送り迎えすることができる。
山林よ、丘や野よ。私をうきうきと楽しませてくれる。楽しみが終わらないうちに哀しみがまた続く。哀しみと楽しみが来るのを私は防ぐことができず、それが去るのを止めることもできない。
悲しいことだ。世の人はただ物の宿にすぎないのだ。
そもそも出会ったものは知っていても出会わなかったものは知らず、能くするものに能くすることは知っていても能くできないものには能くできない。知がなく能がないことは、もとより人が免れないところである。そもそも人が免れないところを免れようと努めるのは、やはり悲しいことではないか。
至極の言葉は言葉を捨て、至極の為しは為しを捨てる。知の知るところを揃えようとするなら、それは浅い。」