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庚桑楚莊子 雜篇 庚桑楚

荘子(荘周の書) 莊子 · 荘周と後の人びと · 戦国時代(紀元前4〜3世紀)· 西晋・郭象の33篇本 · 段落 39 · 漢字 2,625字 · 朗読 10.5分

荘子(荘周の書) 雑篇 「北の黒い海に魚がいる、その名を鯤という」 — この一行で始まり、背の広さが何千里あるか分からない鳥が南の海へ飛んでいくところから書が開く。胡蝶の夢を見て目覚め「私が胡蝶の夢を見たのか、胡蝶が私の夢を見ているのか」と問い、牛を解く庖丁は十九年のあいだ刃を研がず、妻が死ぬと盆を叩いて歌う。蝸牛の角の上で国と国が戦って死者数万が倒れたという話で戦をやめさせ、恵子の墓を過ぎて「私にはもう語り合う者がいない」と言う。道徳経と並べて置けば、同じところをまるで違う声で語っているのが聞こえる。

1庚桑楚が畏壘の山に住む

老聃之役有庚桑楚者,偏得老聃之道,以北居畏壘之山,其臣之畫然知者去之,其妾之挈然仁者遠之;擁腫之與居,鞅掌之為使。居三年,畏壘大壤。畏壘之民相與言曰:「庚桑子之始來,吾洒然異之。今吾日計之而不足,歲計之而有餘。庶幾其聖人乎!子胡不相與尸而祝之,社而稷之乎?」

老聃の門人に庚桑楚という者がいて、老聃の道を偏って得、北へ畏壘の山に住んだ。その召使いのうち賢げに知る者は去り、その侍女のうち利口げに仁なる者は遠ざかった。鈍い者とともに住み、忙しく働く者を使った。

三年住むと、畏壘は大いに豊かになった。畏壘の民は互いに言った。「庚桑子が初めて来たとき、我々ははっとして彼を怪しんだ。今、我々が日ごとに数えれば足りないが、年ごとに数えれば余りがある。おそらく聖人なのだろう。あなたたちはどうして、ともに彼を尸として祝い、社として稷としないのか。」

2南面しながらも心が晴れない

庚桑子聞之,南面而不釋然。弟子異之。庚桑子曰:「弟子何異於予?夫春氣發而百草生,正得秋而萬寶成。夫春與秋,豈无得而然哉?天道已行矣。吾聞至人,尸居環堵之室,而百姓猖狂不知所如往。今以畏壘之細民而竊竊焉欲俎豆予于賢人之間,我其杓之人邪?吾是以不釋於老耼之言。」

庚桑子はこれを聞いて、南面しながらも心が晴れなかった。門人は怪しんだ。

庚桑子は言った。「門人たちよ、どうして私を怪しむのか。そもそも春の気が開いて百草が生え、ちょうど秋を得て万の実が成る。そもそも春と秋が、どうして得るものなしにそうであろうか。天の道がすでに行われたのである。

私の聞くところでは、至人は狭い部屋に尸のようにいても、民は狂ったようにどこへ行けばよいか分からないという。それなのに今、畏壘の細かな民がひそひそと、私を賢人の間に祭りの器として奉ろうとしている。私が人の的になる者であろうか。私はこれゆえに老聃の言葉に心が晴れないのだ。」

3賢い者を尊ぶことは古よりそうでした

弟子曰:「不然。夫尋常之溝,巨魚无所還其體,而鯢鰌為之制;步仞之丘陵,巨獸无所隱其軀,而㜸狐為之祥。且夫尊賢授能,先善與利,自古堯舜以然,而況畏壘之民乎!夫子亦聽矣!」

門人は言った。「そうではありません。そもそも八尺ほどの溝では大きな魚は体を回すところがありませんが、山椒魚や泥鰌はそこで王のようにふるまいます。数尺の丘では大きな獣は体を隠すところがありませんが、怪しい狐はそこを吉いとします。

また、そもそも賢い者を尊び能ある者に任せ、善い者と利あるものを先立てることは、古より堯と舜がそうであったのに、まして畏壘の民はどうでしょうか。先生もお聞き入れください。」

4大いなる乱れの根は堯と舜の間から生じる

庚桑子曰:「小子來!夫函車之獸,介而離山,則不免於罔罟之患;吞舟之魚,碭而失水,則蟻能苦之。故鳥獸不厭高,魚鼈不厭深。夫全其形生之人,藏其身也,不厭深眇而已矣!且夫二子者,又何足以稱揚哉!是其於辯也,將妄鑿垣牆而殖蓬蒿也,簡髮而櫛,數米而炊,竊竊乎又何足以濟世哉!舉賢則民相軋,任知則民相盜。之數物者,不足以厚民。民之於利甚勤,子有殺父,臣有殺君,正晝為盜,日中穴阫。吾語女,大亂之本,必生於堯舜之間,其末存乎千世之後。千世之後,其必有人與人相食者也。」

庚桑子は言った。「若い者よ、来なさい。そもそも車を呑むほどの獣も、ひとり山を離れれば網の災いを免れず、舟を呑むほどの魚も、波に押されて水を失えば蟻がこれを苦しめることができる。

だから鳥や獣は高いところを嫌わず、魚や鼈は深いところを嫌わない。そもそも自分の体と生を全うする人が、その身を隠すのに深く奥深いところを嫌わないのと同じである。

また、そもそもあの二人をどうして称えて褒めるに足ろうか。これは弁舌で言えば、みだりに垣を穿って蓬を植えるようなものであり、髪を一本ずつ選んで梳り、米粒を数えて飯を炊くようなものである。ひそひそと言ったところで、どうして世を救うに足ろうか。

賢い者を挙げて用いれば民は互いに押し合い、知ある者に任せれば民は互いに盗む。この幾つかのことは、民を厚くするに足らない。

民は利に甚だ勤めて、子が父を殺し、臣が君を殺し、真昼に盗みをし、日中に垣を穿つ。

私はあなたに言おう。大いなる乱れの根は必ず堯と舜の間から生じ、その末の枝は千代の後に残るであろう。千代の後には、必ず人と人が互いに食い合うことがあるだろう。」

5南栄趎が膝を正して尋ねる

南榮趎蹵然正坐曰:「若趎之年者已長矣,將惡乎託業以及此言邪?」

南栄趎ははっとして正座して言った。「私のような年ではもう老いています。何に身を託して学べば、このお言葉に至れるでしょうか。」

6体を全うし生を抱け

庚桑子曰:「全汝形,抱汝生,无使汝思慮營營。若此三年,則可以及此言矣。」

庚桑子は言った。「あなたの体を全うし、あなたの生を抱いて、あなたの思い慮りが忙しく走り回らないようにせよ。このようにして三年なら、この言葉に至ることができる。」

7盲いた者は自分で見ることができません

南榮趎曰:「目之與形,吾不知其異也,而盲者不能自見;耳之與形,吾不知其異也,而聾者不能自聞;心之與形,吾不知其異也,而狂者不能自得。形之與形亦辟矣,而物或間之邪,欲相求而不能相得?今謂趎曰:『全汝形,抱汝生,勿使汝思慮營營。』趎勉聞道達耳矣!」

南栄趎は言った。「目は体と違わないと分かっているのに、盲いた者は自分で見ることができず、耳は体と違わないと分かっているのに、聾の者は自分で聞くことができず、心は体と違わないと分かっているのに、狂った者は自分で得ることができません。

体と体もまた分かれているのですから、物がその間を遮って、互いに求めようとしても互いに得られないのでしょうか。

今、私に『あなたの体を全うし、あなたの生を抱いて、あなたの思い慮りが忙しく走り回らないようにせよ』と言われますが、私は努めて道を耳で聞いただけです。」

8私の才は小さく、あなたを変えられない

庚桑子曰:「辭盡矣。曰,奔蜂不能化藿蠋,越雞不能伏鵠卵,魯雞固能矣。雞之與雞,其德非不同也,有能與不能者,其才固有巨小也。今吾才小,不足以化子。子胡不南見老子!」

庚桑子は言った。「私の言葉は尽きた。言うには、ジガバチは豆虫を変えることができず、越の鶏は鵠の卵を抱くことができないが、魯の鶏はもとよりできるという。鶏と鶏でその徳が同じでないわけではないが、できるものとできないものがあるのは、その才にもとより大小があるからである。

今、私の才は小さく、あなたを変えるに足らない。あなたはどうして南へ行って老子にお会いしないのか。」

9七日七晩歩いて老子に至る

南榮趎贏糧,七日七夜至老子之所。

南栄趎は食糧を背負い、七日七晩歩いて老子のいるところに至った。

10あなたは楚のところから来たのか

老子曰:「子自楚之所來乎?」南榮趎曰:「唯。」

老子が言った。「あなたは楚のところから来たのか。」南栄趎は言った。「そうです。」

11どうして連れて来た人がこんなに多いのか

老子曰:「子何與人偕來之衆也?」南榮趎懼然顧其後。

老子が言った。「あなたはどうして連れて来た人がこんなに多いのか。」南栄趎は怖れて自分の後ろを振り返った。

12私の言ったことが分からないのか

老子曰:「子不知吾所謂乎?」

老子が言った。「あなたは私の言ったことが分からないのか。」

13自分の答えを忘れ、問いも失いました

南榮趎俯而慙,仰而歎曰:「今者吾忘吾答,因失吾問。」

南栄趎は首を垂れて恥じ、仰いで嘆いて言った。「今、私は自分の答えを忘れ、それによって自分の問いも失いました。」

14どういうことか

老子曰:「何謂也?」

老子が言った。「どういうことか。」

15仁であれば逆に私の身を憂わせます

南榮趎曰:「不知乎?人謂我朱愚。知乎?反愁我軀。不仁則害人,仁則反愁我身;不義則傷彼,義則反愁我己。我安逃此而可?此三言者,趎之所患也,願因楚而問之。」

南栄趎は言った。「知らなければ人は私を愚かだと言います。知れば逆に私の身を憂わせます。仁でなければ人を害し、仁であれば逆に私の身を憂わせます。義でなければあちらを傷つけ、義であれば逆に私を憂わせます。

私はどこへこれを逃れればよいのでしょうか。この三つの言葉が私の患いですので、楚を介してお尋ねしたいと存じます。」

16あなたは家を失った人だな

老子曰:「向吾見若眉睫之間,吾因以得汝矣。今汝又言,而信之。若規規然若喪父母,揭竿而求諸海也。女亡人哉!惘惘乎,汝欲反汝情性而无由入,可憐哉!」

老子が言った。「先ほど私はあなたの眉と睫の間を見て、それであなたを知った。今あなたがまた言ったので、これを信じるようになった。

あなたはきょとんとして父母を失ったようであり、竿を立てて海を測ろうとするようである。あなたは家を失った人だな。ぼんやりとして、あなたは自分の情と性に帰ろうとしているが入る道がない。かわいそうなことだ。」

17十日のあいだ自ら憂える

南榮趎請入就舍,召其所好,去其所惡,十日自愁,復見老子。

南栄趎は中に入って宿に留まることを願い、自分の好むものを呼び入れ、自分の嫌うものを捨て、十日のあいだ自ら憂えてから、また老子に会った。

18外が縛られた者と内が縛られた者

老子曰:「汝自洒濯,熟哉鬱鬱乎!然而其中津津乎猶有惡也。夫外韄者不可繁而捉,將內揵;內韄者不可繆而捉,將外揵。外內韄者,道德不能持,而況放道而行者乎!」

老子が言った。「あなたは自ら洗い清めたが、どうしてそんなに塞がっているのか。しかしその中には溢れ出るようにまだ悪いものがある。

そもそも外が縛られた者は煩わしく捉えることができないので、内を閉じなければならない。内が縛られた者は絡めて捉えることができないので、外を閉じなければならない。外も内も縛られた者は、道徳でも守ることができない。まして道に従って行おうとする者はどうであろうか。」

夾注 1

而況放道而行者乎

放 — 「依り従う」と見て訳した。「放っておく」と見て道を捨てた者と読むこともある。 ― 訳者

19生を守る法を聞きたいと存じます

南榮趎曰:「里人有病,里人問之,病者能言其病,病者猶未病也。若趎之聞大道,譬猶飲藥以加病也,趎願聞衞生之經而已矣。」

南栄趎は言った。「里の人が病気になると里の人が見舞います。病人が自分の病を言うことができれば、病人はまだ重く病んではいないのです。

私のような者が大道を聞くのは、たとえば薬を飲んで病を加えるようなものです。私は生を守る法を聞きたいと願うばかりです。」

20赤子になれるか

老子曰:「衞生之經,能抱一乎?能勿失乎?能无卜筮而知吉凶乎?能止乎?能已乎?能舍諸人而求諸己乎?能翛然乎?能侗然乎?能兒子乎?兒子終日嗥而嗌不嗄,和之至也;終日握而手不掜,共其德也;終日視而目不瞚,偏不在外也。行不知所之,居不知所為,與物委蛇而同其波。是衞生之經已。」

老子が言った。「生を守る法とは、一を抱くことができるか。失わないでいられるか。占わずに吉凶を知ることができるか。止まることができるか。やめることができるか。人から捨てて自分に求めることができるか。さっと抜け出ることができるか。愚かしくいられるか。赤子になれるか。

赤子は一日中泣いても喉が嗄れない。和の至りである。一日中拳を握っても手がしびれない。その徳をともにしているのである。一日中見ていても目を瞬かない。偏って外にいないからである。

歩いても行く先を知らず、留まっても何をするかを知らず、物とともにうねって、その波を同じくする。これが生を守る法である。」

21それではこれが至人の徳でしょうか

南榮趎曰:「然則是至人之德已乎?」

南栄趎は言った。「それではこれが至人の徳でしょうか。」

22氷が解け凍ったものが融けること

曰:「非也。是乃所謂冰解凍釋者,能乎?夫至人者,相與交食乎地而交樂乎天,不以人物利害相攖,不相與為怪,不相與為謀,不相與為事,翛然而往,侗然而來。是謂衞生之經已。」

言った。「違う。これはいわゆる氷が解け凍ったものが融けることであるが、それができるだろうか。

そもそも至人とは、互いにともに地で食い、互いにともに天で楽しみ、人や物の利害で互いに触れ合わない。互いに怪しいことをせず、互いに謀らず、互いに事としない。さっと行き、愚かしく来る。これを生を守る法という。」

23それではこれが至極なのでしょうか

曰:「然則是至乎?」

言った。「それではこれが至極なのでしょうか。」

24赤子には禍も福もない

曰:「未也。吾固告汝曰:『能兒子乎!』兒子動不知所為,行不知所之,身若槁木之枝而心若死灰。若是者,禍亦不至,福亦不來。禍福无有,惡有人災也!」

言った。「まだである。私はたしかにあなたに『赤子になれるか』と言った。

赤子は動いても何をするかを知らず、歩いても行く先を知らず、体は枯れ木の枝のようで心は冷えた灰のようである。このような者には禍も至らず福も来ない。禍も福もないのに、どうして人の災いがあろうか。」

25宇が大いに定まった者は天の光を発する

宇泰定者,發乎天光。發乎天光者,人見其人,[物見其物。]人有脩者,乃今有恆;有恆者,人舍之,天助之。人之所舍,謂之天民;天之所助,謂之天子。

宇が大いに定まった者は天の光を発する。天の光を発する者は、人がその人らしさを見、物がその物らしさを見る。

人に修めるところがあれば、ここに恒常がある。恒常がある者には、人が寄り、天が助ける。人が寄るところを天の民といい、天が助けるところを天の子という。

26学びとは学ぶことのできないものを学ぶこと

學者,學其所不能學也;行者,行其所不能行也;辯者,辯其所不能辯也。知止乎其所不能知,至矣;若有不即是者,天鈞敗之。

学ぶ者はその学ぶことのできないものを学び、行う者はその行うことのできないものを行い、弁ずる者はその弁ずることのできないものを弁ずる。

知がその知ることのできないところに止まれば、至極である。もしここに進まない者があれば、天の均しさがこれを崩す。

27霊台は持つところがありながら

備物以將形,藏不虞以生心,敬中以達彼,若是而萬惡至者,皆天也,而非人也,不足以滑成,不可內於靈臺。靈臺者有持,而不知其所持,而不可持者也。

物を備えて体を支え、慮らないことを蔵して心を生かし、内を敬して彼方に通ずる。それでも万の悪が至るなら、みな天であって人ではない。成ったものを乱すに足らないのだから、霊台に入れてはならない。

霊台とは、持つところがありながらその持つところを知らず、持つことのできないものである。

28明るいところで悪事をすれば人が罰する

不見其誠己而發,每發而不當,業入而不舍,每更為失。為不善乎顯明之中者,人得而誅之;為不善乎幽閒之中者,鬼得而誅之。明乎人、明乎鬼者,然後能獨行。

自分の誠を見ないままに発すれば、発するたびに当たらず、事が入って落ち着かなければ、改めるたびに失う。

明るいところで善くないことをする者は人が捉えて罰し、暗く人目のないところで善くないことをする者は鬼が捉えて罰する。人に明らかであり鬼に明らかであってこそ、独り行うことができる。

29内に任せる者と外に任せる者

券內者,行乎无名;券外者,志乎期費。行乎无名者,唯庸有光;志乎期費者,唯賈人也。人見其跂,猶之魁然。與物窮者,物入焉;與物且者,其身之不能容,焉能容人!不能容人者无親,无親者盡人。兵莫憯於志,鏌鋣為下;寇莫大於陰陽,无所逃於天地之間。非陰陽賊之,心則使之也。

内に任せる者は名のないところで行い、外に任せる者は費えを期することに志を置く。

名のないところで行う者は、ただ平凡なところにも光がある。費えを期することに志を置く者は、ただの商人にすぎない。人々は彼がつま先立ちするのを見ても、なお高く立っていると思う。

物とともに尽きる者には物が入ってくる。物とともにやっと過ごす者は、自分の身さえ容れられないのに、どうして人を容れられようか。人を容れられない者には親しみがなく、親しみがない者は人として尽きている。

武器のうちで志より痛いものはなく、鏌鋣もその下である。賊のうちで陰と陽より大きいものはなく、天地の間に逃れるところがない。陰と陽がそれを害するのではなく、心がそうさせるのである。

30形のあるものによって形のないものを象って定める

道通,其分也。其成也毀也。所惡乎分者,其分也以備;所以惡乎備者,其有以備。故出而不反,見其鬼;出而得,是謂得死。滅而有實,鬼之一也。以有形者象无形者而定矣!

道が通じれば分かれる。その成ることが、そのまま壊れることである。

分かれることを嫌う理由は、その分かれが備えによるからであり、備えを嫌う理由は、その備えがあるからである。

だから出て帰らなければその鬼を見、出て得れば、これを死を得たという。滅びたのに実があれば、鬼の一つである。

形のあるものによって形のないものを象って定めるのである。

31天門とは無である

出无本,入无竅,有實而无乎處,有長而无乎本剽,有所出而无竅者有實。有實而无乎處者,宇也;有長而无本剽者,宙也。有乎生,有乎死;有乎出,有乎入。入出而无見其形,是謂天門。天門者,无有也。萬物出乎无有。有不能以有為有,必出乎无有,而无有一无有。聖人藏乎是。

出るのに本がなく、入るのに穴がない。実があるのに処するところがなく、長さがあるのに本と末がない。出るところがあるのに穴のないものに実がある。

実があるのに処するところがないものが宇であり、長さがあるのに本と末がないものが宙である。

生があり死があり、出があり入がある。入り出てもその形を見せない。これを天の門という。天の門とは無である。万物は無から出る。

有は有によって有とすることができず、必ず無から出るのだが、無は一様に無である。聖人はここに蔵する。

32古の人の知には至るところがあった

古之人,其知有所至矣。惡乎至?有以為未始有物者,至矣,盡矣,弗可以加矣!其次以為有物矣,將以生為喪也,以死為反也,是以分已。其次曰始无有,既而有生,生俄而死;以无有為首,以生為體,以死為尻;孰知有无死生之一守者,吾與之為友。是三者雖異,公族也,昭景也,著戴也,甲氏也,著封也:非一也。

古の人は、その知に至るところがあった。どこまで至ったのか。

まだ物があったことがないと考えた者がいた。至極であり、尽きていて、加えることができない。その次は物があると考え、生を失うこととし、死を帰ることとした。これによって分かれたのである。その次は、初めに無があり、やがて生があり、生はにわかに死ぬとして、無を頭とし、生を胴とし、死を尻とした。

誰が有と無と死と生が一つに守られていることを知るであろうか。私はその人と友になろう。

この三つは異なるが一つの族である。昭氏と景氏は官によって顕れ、甲氏は封によって顕れた。一つではない。

33移是を挙げる

有生,黬也,披然曰移是。嘗言移是,非所言也。雖然,不可知者也。臘者之有膍胲,可散而不可散也;觀室者周於寢廟,又適其偃焉!為是舉移是。

生があるのは黒い斑である。ぱっと開いてこれを移是という。一度これを言おうとすれば、言うべきものではない。そうであっても、知ることのできないものである。

臘の祭りに牛の胃と蹄があるのは、散らすこともでき散らすこともできない。家を見る者が寝室と廟をあまねく巡り、また便所にも行くようなものである。このために移是を挙げる。

34移是とは今の人である

請常言移是。是以生為本,以知為師,因以乘是非。果有名實,因以己為質。使人以為己節,因以死償節。若然者,以用為知,以不用為愚;以徹為名,以窮為辱。移是,今之人也,是蜩與學鳩同於同也。

一度移是を言ってみよう。これは生を本とし知を師として、それによって是非に乗る。はたして名と実があって、それによって自分を本質とする。

人に自分を節操と思わせ、それによって死で節操を償わせる。そのような者は、用いられることを知とし、用いられないことを愚とし、通ることを名とし、窮することを辱とする。

移是とは今の人であり、これは蟬と小鳩が同じであることで同じという類である。

35至極の礼は人を分け隔てしない

蹍市人之足,則辭以放驁,兄則以嫗,大親則已矣。故曰,至禮有不人,至義不物,至知不謀,至仁无親,至信辟金。

市場で人の足を踏めば、不注意であったと謝り、兄であれば撫でてやり、親であればそれで済む。

だから言う。至極の礼は人を分け隔てせず、至極の義は物を分け隔てせず、至極の知は謀らず、至極の仁は親しみがなく、至極の信は金を退ける。

36四組六つ

徹志之勃,解心之謬,去德之累,達道之塞。貴富顯嚴名利六者,勃志也。容動色理氣意六者,謬心也。惡欲喜怒哀樂六者,累德也。去就取與知能六者,塞道也。此四六者,不蕩胸中則正,正則靜,靜則明,明則虛,虛則无為而无不為也。道者,德之欽也;生者,德之光也;性者,生之質也。性之動,謂之為,為之偽謂之失。知者,接也;知者,謨也。知者之所不知,猶睨也。動以不得已之謂德,動无非我之謂治,名相反而實相順也。

志の乱れを取り除き、心の絡まりを解き、徳の纏わりを捨て、道の塞がりを通せ。

貴さと富と顕れと威厳と名と利の六つは志を乱す。容と動と色と理と気と意の六つは心を絡める。憎みと欲と喜びと怒りと哀しみと楽しみの六つは徳を纏わる。去ることと就くことと取ることと与えることと知ることと能くすることの六つは道を塞ぐ。

この四組六つが胸の中で揺れ動かなければ正しく、正しければ静かで、静かであれば明らかで、明らかであれば虚ろで、虚ろであれば無為であって為さないことがない。

道とは徳の仰ぐところであり、生とは徳の光であり、性とは生の本質である。性が動くことを為といい、為が偽ることを失という。

知とは接することであり、知とは謀ることである。知る者の知らないところは、横目で見るようなものである。

やむをえずに動くことを徳といい、動きに自分でないものがないことを治という。名は互いに反するが、実は互いに従う。

37全き人こそ天にも人にも能くする

羿工乎中微而拙乎使人无己譽;聖人工乎天而拙乎人;夫工乎天而俍乎人者,唯全人能之。唯蟲能蟲,唯蟲能天。全人惡天,惡人之天,而況吾天乎人乎!

羿は小さなものを射当てるのは巧みであったが、人が自分を褒めないようにさせることには拙かった。聖人は天には巧みだが人には拙い。そもそも天にも巧みで人にも良い者は、ただ全き人だけができる。

ただ虫だけが虫でいられ、ただ虫だけが天でいられる。全き人は天を嫌い、人の天を嫌う。まして私が天だ人だと言うであろうか。

38天下を籠とすれば雀は逃げるところがない

一雀適羿,羿必得之,或也。以天下為之籠,則雀无所逃。是故湯以胞人籠伊尹,秦穆公以五羊之皮籠百里奚。是故非以其所好籠之而可得者,无有也。

雀が一羽羿に近づけば、羿は必ずそれを得る。腕である。天下を籠とすれば、雀は逃げるところがない。

このために湯は料理人の職で伊尹を籠に入れ、秦の穆公は羊五頭の皮で百里奚を籠に入れた。

このために、その好むものによって籠に入れずに得られる者はいない。

39怒りが怒らないことから出る

介者拸畫,外非譽也。胥靡登高而不懼,遺死生也。夫復謵不餽而忘人,忘人,因以為天人矣!故敬之而不喜,侮之而不怒者,唯同乎天和者為然。出怒不怒,則怒出於不怒矣;出為无為,則為出於无為矣!欲靜則平氣,欲神則順心。有為也。欲當則緣於不得已,不得已之類,聖人之道。

足を切られた者が飾りを捨てるのは、謗りと誉れを外に置くからであり、囚人が高いところに登っても怖れないのは、死と生を捨てたからである。

そもそも繰り返し習っても恥じず、人を忘れる。人を忘れれば、それによって天の人となる。

だから敬われても喜ばず、侮られても怒らない者は、ただ天の和と同じになった者だけがそうである。

怒りを出しても怒らなければ、怒りは怒らないことから出たのであり、為すことを出しても為すことがなければ、為すことは為すことのないところから出たのである。

静かであろうとするなら気を平らにし、神妙であろうとするなら心に従え。為すことがあるときに当たろうとするなら、やむをえないことに縁れ。やむをえないことの類が聖人の道である。