儒增篇
儒書稱堯、舜之德,至優至大,天下太平,一人不刑;又言文、武之隆,遺在成康,刑錯不用四十餘年。是欲稱堯、舜,褒文、武也。夫為言不益,則美不足稱;為文不渥,則事不足褒。堯、舜雖優,不能使一人不刑;文、武雖盛,不能使刑不用。言其犯刑者少,用刑希疏,可也;言其一人不刑,刑錯不用,增之也。
儒の書は堯や舜の徳が至って優れ至って大きく、天下が太平で、一人も刑されなかったと称し、また文王や武王の隆きが成王や康王に遺って、刑を錯いて用いないことが四十余年であったと言う。これは堯や舜を称え、文王や武王を褒めようとするものである。そもそも言を益さなければ美しさが称えるに足らず、文を渥くしなければ事が褒めるに足らない。堯や舜がいかに優れていても、一人も刑されないようにはできず、文王や武王がいかに盛んでも、刑を用いないようにはできない。刑を犯した者が少なく、刑を用いることが希に疏らであったと言うのはよい。一人も刑されず、刑を錯いて用いなかったと言うのは、増したものである。
夫能使一人不刑,則能使一國不伐;能使刑錯不用,則能使兵寢不施。
そもそも一人も刑されないようにできるのなら、一国も伐たないようにできる。刑を錯いて用いないようにできるのなら、兵を寢かせて施さないようにできる。
案堯伐丹水,舜征有苗,四子服罪,刑兵設用。成王之時,四國篡畔,淮夷、徐戎,并為患害。夫刑人用刀,伐人用兵,罪人用法,誅人用武。武、法不殊,兵、刀不異。巧論之人,不能別也。夫德劣故用兵,犯法故施刑。刑與兵,猶足與翼也,走用足,飛用翼。形體雖異,其行身同。刑之與兵,全眾禁邪,其實一也。稱兵之(不)用,言刑之不施,是猶人(耳)〔身〕缺目完,以目完稱人體全,不可從也。人桀於刺虎,怯於擊人,而以刺虎稱謂之勇,不可聽也。身無敗缺,勇無不進,乃為全耳。今稱一人不刑,不言一兵不用;褒刑錯不用,不言一人不畔:未得為優,未可謂盛也。
案ずるに、堯は丹水を伐ち、舜は有苗を征し、四人の子が罪に服した。刑と兵が設け用いられたのである。成王の時、四つの国が篡い畔き、淮夷や徐戎が並んで患いや害となった。そもそも人を刑するには刀を用い、人を伐つには兵を用い、人を罪するには法を用い、人を誅するには武を用いる。武と法は殊ならず、兵と刀は異ならない。巧みに論ずる人でも、別つことができない。そもそも徳が劣るから兵を用い、法を犯すから刑を施す。刑と兵は足と翼のようなもので、走るには足を用い、飛ぶには翼を用いる。形や体はいかに異なっても、その身を行らせることは同じである。刑と兵は衆を全くし邪を禁ずるもので、その実は一つである。兵の用いられたことを称えながら、刑の施されなかったことを言うのは、人の身が缺けているのに目が完いからといって、目が完いことで人の体が全いと称するようなもので、従うことはできない。人が虎を刺すのに桀く、人を撃つのに怯えるのに、虎を刺すことで称してこれを勇と言うのなら、聽くことはできない。身に敗れ缺けたところがなく、勇に進まないところがなくて、はじめて全きなのである。今、一人も刑されなかったと称しながら、一つの兵も用いなかったとは言わず、刑を錯いて用いなかったと褒めながら、一人も畔かなかったとは言わない。優れているとすることはできず、盛んだと言うこともできない。
儒書稱楚養由基善射,射一楊葉,百發能百中之。是稱其巧於射也。夫言其時射一楊葉中之,可也;言其百發而百中,增之也。
儒の書は、楚の養由基が善く射て、一つの楊の葉を射るのに、百たび発して百たびこれに中てられたと称する。これはその射ることの巧みさを称えたものである。そもそもその時に一つの楊の葉を射てこれに中てたと言うのはよい。百たび発して百たび中てたと言うのは、増したものである。
夫一楊葉射而中之,中之一再,行敗穿不可復射矣。如就葉懸於樹而射之,雖不欲射葉,楊葉繁茂,自中之矣。是必使上取楊葉,一一更置地而射之也?射之數十行,足以見巧;觀其射之者亦皆知射工,亦必不至於百,明矣。言事者好增巧美,數十中之,則言其百中矣。百與千,數之大者也。實欲言十則言百,百則言千矣。是與《書》言「協和萬邦」,《詩》曰「子孫千億」,同一意也。
そもそも一つの楊の葉を射てこれに中てれば、中てること一、二度で、やがて敗れ穿たれて改めて射ることはできない。もし葉が樹に懸かったままでこれを射るのなら、葉を射ようとしなくても、楊の葉が繁り茂っていて、おのずからこれに中たる。これは必ず上から楊の葉を取って、一つ一つ更わり地に置いて射させたのであろうか。射ること数十行で巧みさを見るに足り、その射るのを観る者もみな射の工みであることを知る。やはり必ず百に至っていないことは明らかである。事を言う者は巧みさや美しさを増すことを好むから、数十たび中てれば、その百たび中てたと言うのである。百と千は、数の大きいものである。実は十と言おうとして百と言い、百なら千と言うのである。これは「書」が「万邦を協い和した」と言い、「詩」が「子孫千億」と言ったのと、同じ一つの意である。
儒書言:衛有忠臣弘演,為衛哀公使,未還,狄人攻哀公而殺之,盡食其肉,獨舍其肝。弘演使還,致命於肝,痛哀公之死,身肉盡,肝無所附,引刀自刳其腹,盡出其腹實,乃內哀公之肝而死。言此者,欲稱其忠矣。言其自刳內哀公之肝而死,可也。言盡出其腹實乃內哀公之肝,增之也。
儒の書に言う。衛に忠臣の弘演があって、衛の哀公のために使いし、まだ還らないうちに、狄の人が哀公を攻めてこれを殺し、尽くその肉を食べ、ひとりその肝だけを舍いた。弘演が使いから還って、肝に命を致し、哀公の死を痛み、身の肉が尽きて肝が附くところがないので、刀を引いて自らその腹を刳き、尽くその腹の実を出して、そこで哀公の肝を内れて死んだ、と。これを言う者は、その忠を称えようとするのである。彼が自ら刳いて哀公の肝を内れて死んだと言うのはよい。尽くその腹の実を出して、そこで哀公の肝を内れたと言うのは、増したものである。
人以刃相刺,中五藏輒死。何則?五藏氣之主也,猶頭脈之湊也。頭一斷,手不能取他人之頭著之於頸,奈何獨能先出其腹實,乃內哀公之肝?腹實出輒死,則手不能復把矣。如先內哀公之肝,乃出其腹實,則文當言內哀公之肝出其腹實。今先言盡出其腹實,內哀公之肝,又言盡,增其實也。
人が刃で相い刺すとき、五臓に中たればすぐに死ぬ。なぜか。五臓は気の主であり、頭が脈の湊まるところであるのと同じである。頭が一たび断たれれば、手が他人の頭を取って頸に著けることはできない。どうしてひとり、まずその腹の実を出して、そこで哀公の肝を内れることができようか。腹の実が出ればすぐに死ぬのだから、手は改めて把ることができない。もしまず哀公の肝を内れて、そこでその腹の実を出したのなら、文はまさに哀公の肝を内れてその腹の実を出したと言うべきである。今、まず尽くその腹の実を出して、哀公の肝を内れたと言い、また尽くと言う。その実を増したのである。
儒書言:楚熊渠子出,見寢石,以為伏虎,將弓射之,矢沒其衛。或曰:養由基見寢石,以為兕也,射之,矢飲羽。或言李廣。便是熊渠、養由基、李廣主名不審,無實也。或以為虎,或以為兕,兕、虎俱猛,一實也。或言沒衛,或言飲羽,羽則衛,言不同耳,要取以寢石似虎、兕,畏懼加精,射之入深也。夫言以寢石為虎,射之矢入,可也;言其沒衛,增之也。
儒の書に言う。楚の熊渠子が出て、寢た石を見て、伏せた虎だと思い、弓を将いてこれを射ると、矢がその衛まで没した、と。あるいは言う。養由基が寢た石を見て、兕だと思って、これを射ると、矢が羽を飲んだ、と。あるいは李廣と言う。つまり熊渠・養由基・李廣と、主の名が審らかでないのだから、実がないのである。あるいは虎とし、あるいは兕とするが、兕も虎もともに猛く、一つの実である。あるいは衛まで没したと言い、あるいは羽を飲んだと言うが、羽はすなわち衛であって、言い方が同じでないだけである。要は、寢た石が虎や兕に似ていて、畏れ懼れて精を加え、射て深く入ったということを取ったのである。そもそも寢た石を虎だと思って射て、矢が入ったと言うのはよい。その衛まで没したと言うのは、増したものである。
夫見似虎者意以為是,張弓射之,盛精加意,則其見真虎與是無異。射似虎之石,矢入沒衛,若射真虎之身,矢洞度乎?石之質難射,肉易射也。
そもそも虎に似たものを見て意にこれだと思い、弓を張ってこれを射、精を盛んにし意を加えれば、その真の虎を見るのとこれとは異なりがない。虎に似た石を射て、矢が入って衛まで没したのなら、真の虎の身を射れば、矢は洞き度るのか。石の質は射にくく、肉は射やすい。
以射難沒衛言之,則其射易者,洞不疑矣。善射者能射遠中微,不失毫厘,安能使弓弩更多力乎?養由基從軍,射晉侯,中其目。夫以匹夫射萬乘之主,其加精倍力,必與射寢石等。當中晉侯之目也,可復洞達於項乎?如洞達於項,晉侯宜死。
射にくいものに衛まで没したということで言えば、その射やすいものは洞くことを疑わないであろう。善く射る者は遠くを射て微かなものに中て、毫や厘も失わないことができるが、どうして弓や弩に更に多くの力があるようにできようか。養由基が軍に従って、晉侯を射て、その目に中てた。そもそも匹夫で万乗の主を射たのだから、その精を加え力を倍することは、必ず寢た石を射たのと等しかったであろう。晉侯の目に中てたとき、改めて項まで洞き達したのか。もし項まで洞き達したのなら、晉侯はまさに死ぬべきであった。
車張十石之弩,恐不能入〔石〕一寸,(失)〔矢〕摧為三,況以一人之力,引微弱之弓,雖加精誠,安能沒衛?人之精乃氣也,氣乃力也。有水火之難,惶惑恐懼,舉徙器物,精誠至矣,素舉一石者倍舉二石。然則見伏石射之,精誠倍故,不過入一寸,如何謂之沒衛乎?如有好用劍者,見寢石,懼而斫之,可復謂能斷石乎?以勇夫空拳而暴虎者,卒然見寢石,以手椎之,能令石有跡乎?
車に十石の弩を張っても、石に一寸も入れられず、矢が摧けて三つになるのを恐れる。まして一人の力で、微かに弱い弓を引いて、いかに精や誠を加えても、どうして衛まで没せようか。人の精はすなわち気であり、気はすなわち力である。水や火の難があって、惶れ惑い恐れ懼れて、器物を挙げ徙すとき、精や誠が至れば、素より一石を挙げる者が倍して二石を挙げる。それなら伏せた石を見て射れば、精や誠が倍になるから、一寸入るのを過ぎないであろう。どうしてこれを衛まで没したと言えようか。もし剣を用いるのを好む者があって、寢た石を見て、懼れてこれを斫ったとして、改めて石を断てると言えるであろうか。勇ましい夫で空しい拳で虎を暴つ者が、卒然と寢た石を見て、手でこれを椎ったとして、石に跡があるようにできるであろうか。
巧人之精與拙人等,古人之誠與今人同。使當今射工射禽獸於野,其欲得之,不餘精力乎?及其中獸,不過數寸。跌誤中石,不能內鋒,箭摧折矣。夫如是,儒書之言楚熊渠子、養由基、李廣射寢石,矢沒衛飲羽者,皆增之也。
巧みな人の精は拙い人と等しく、古の人の誠は今の人と同じである。今の射の工みに野で禽獸を射させれば、それを得ようとして、精や力を余さないであろう。その獸に中てても、数寸を過ぎない。跌いて誤って石に中てれば、鋒を内れられず、箭が摧け折れる。こうであるから、儒の書が楚の熊渠子・養由基・李廣が寢た石を射て、矢が衛まで没し羽を飲んだと言うのは、みな増したものである。
儒書稱魯般、墨子之巧,刻木為鳶,飛之三日而不集。夫言其以木為鳶飛之,可也;言其三日不集,增之也。
儒の書は、魯般や墨子の巧みさが、木を刻んで鳶を為り、これを飛ばすと三日集まらなかったと称する。そもそも木で鳶を為ってこれを飛ばしたと言うのはよい。三日集まらなかったと言うのは、増したものである。
夫刻木為鳶以象鳶形,安能飛而不集乎?既能飛翔,安能至於三日?如審有机關,一飛遂翔,不可復下,則當言遂飛,不當言三日。猶世傳言曰:「魯般巧,亡其母也。」言巧工為母作木車馬、木人御者,机關備具,載母其上,一驅不還,遂失其母。如木鳶机關備具,與木車馬等,則遂飛不集。机關為須臾間,不能遠過三日,則木車等亦宜三日止於道路,無為徑去以失其母。二者必失實者矣。
そもそも木を刻んで鳶を為って鳶の形に象ったからといって、どうして飛んで集まらないでいられようか。すでに飛び翔けられるとしても、どうして三日に至れようか。もし審らかに机関があって、一たび飛べばそのまま翔けて改めて下れないのなら、まさにそのまま飛んだと言うべきで、三日と言うべきではない。世に伝え言う「魯般は巧みで、その母を亡くした」というのと同じである。巧みな工が母のために木の車や馬、木の人の御者を作り、机関が備わり具わったので、母をその上に載せたところ、一たび驅って還らず、ついにその母を失ったという話である。もし木の鳶の机関が備わり具わって、木の車や馬と等しいのなら、そのまま飛んで集まらない。机関が須臾の間のもので、遠く三日を過ぎられないのなら、木の車なども、まさに三日で道路に止まったはずで、まっすぐ去ってその母を失う理由がない。二つはどちらも必ず実を失っている。
書說:孔子不能容於世,周流游說七十餘國,未嘗得安。夫言周流不遇,可也;言干七十國,增之也。
書に説く。孔子は世に容れられず、周く流れて七十余国に游び説いたが、いまだ安らかさを得たことがなかった、と。そもそも周く流れて遇わなかったと言うのはよい。七十国に干したと言うのは、増したものである。
案《論語》之篇、諸子之書,孔子自衛反魯,在陳絕糧,削跡於衛,忘味於齊,伐樹於宋,并費與頓牟,至不能十國。傳言七十國,非其實也。或時干十數國也,七十之說,文書傳之,因言干七十國矣。
案ずるに、「論語」の篇や諸子の書によれば、孔子は衛から魯に反り、陳で糧を絶たれ、衛で跡を削られ、齊で味を忘れ、宋で樹を伐られ、費と頓牟を併せても、十国に至ることができない。伝えが七十国と言うのは、その実ではない。おそらく十数国に干したのであり、七十の説は、文や書が伝えて、それで七十国に干したと言ったのである。
《論語》曰:「孔子問公叔文子於公明賈曰:『信乎,夫子不言、不笑、不取乎?』公明賈對曰:『以告者,過也。夫子時然後言,人不厭其言也;樂然後笑,人不厭其笑也;義然後取,人不厭其取也。』子曰:『豈其然乎!豈其然乎!』」夫公叔文子實時言、時笑、義取,人傳說稱之;言其不言、不笑、不取也,俗言竟增之也。
「論語」に言う。「孔子が公叔文子のことを公明賈に問うた。『信であるか、夫子は言わず、笑わず、取らないというのは。』公明賈は対えて言った。『告げた者が過っています。夫子は時になってから言われるので、人はその言を厭わず、楽しんでから笑われるので、人はその笑いを厭わず、義になってから取られるので、人はその取ることを厭わないのです。』孔子は言った。『どうしてそうであろうか。どうしてそうであろうか。』」そもそも公叔文子は実に時に言い、時に笑い、義に取ったので、人が伝え説いて称えたのである。彼が言わず笑わず取らないと言うのは、俗の言が結局増したものである。
書言:秦繆公伐鄭,過晉不假途,晉襄公率羌戎要擊於崤塞之下,匹馬只輪無反者,時秦遣三大夫孟明視、西乞術、白乙丙皆得復還。夫三大夫復還,車馬必有歸者;文言匹馬只輪無反者,增其實也。
書に言う。秦の繆公が鄭を伐つのに、晉を過ぎて途を假りなかったので、晉の襄公が羌や戎を率いて崤の塞の下で要え撃ち、匹の馬、只の輪も反ったものがなかった、と。しかしこの時、秦が遣った三人の大夫の孟明視・西乞術・白乙丙はみな復り還ることができた。そもそも三人の大夫が復り還ったのだから、車や馬にも必ず帰ったものがある。文が匹の馬、只の輪も反ったものがなかったと言うのは、その実を増したものである。
書稱齊之孟嘗君,魏之信陵君,趙之平原君,楚之春申君,待士下客,招會四方,各三千人。欲言下士之至,趨之者眾也。夫言士多,可也;言其三千,增之也。四君雖好士,士至雖眾,不過各千餘人。書則言三千矣。夫言眾必言千數,言少則言無一。世俗之情,言事之失也。
書は、齊の孟嘗君、魏の信陵君、趙の平原君、楚の春申君が、士を待ち客に下って、四方を招き会わせ、それぞれ三千人であったと称する。士に下ることの至れることで、これに趨った者が衆かったと言おうとするのである。そもそも士が多かったと言うのはよい。その三千と言うのは、増したものである。四君がいかに士を好み、至った士がいかに衆くても、それぞれ千余人を過ぎなかったであろう。書はすなわち三千と言う。そもそも衆いことを言えば必ず千の数を言い、少ないことを言えば一つもないと言う。世俗の情が事を言うのに失うところである。
傳記言:高子羔之喪親,泣血三年,未嘗見齒。君子以為難,難為故也。夫不以為非實而以為難,君子之言誤矣。高子泣血,殆必有之。何則?荊和獻寶於楚,楚刖其足,痛寶不進,己情不達,泣涕,涕盡因續以血。今高子痛親哀極,涕竭血隨而出,實也。而云三年未嘗見齒,是增之也。
伝記に言う。高子羔が親を喪って、血を泣くこと三年、いまだ歯を見せたことがなかった、と。君子がこれを難しとしたのは、為しがたいからである。そもそも実でないとせずに難しとしたのだから、君子の言は誤りである。高子が血を泣いたのは、おそらく必ずあったことであろう。なぜか。荊和が宝を楚に献じたが、楚はその足を刖ぎ、宝が進まず己の情が達しないことを痛んで、涕を泣き、涕が尽きたのでそのまま続いて血が出た。今、高子が親を痛んで哀しみが極まり、涕が竭きて血が随って出たのは、実である。しかし三年いまだ歯を見せたことがなかったと云うのは、増したものである。
言未嘗見齒,欲言其不言、不笑也。孝子喪親不笑,可也,安得不言?言安得不見齒?孔子曰:「言不文。」或時不言,傳則言其不見齒;或時傳則言其不見齒三年矣。高宗諒陰,三年不言。
いまだ歯を見せたことがなかったと言うのは、彼が言わず笑わなかったと言おうとするのである。孝子が親を喪って笑わないのはよいが、どうして言わないでいられようか。言えばどうして歯を見せないでいられようか。孔子は言った。「言は文らない。」おそらく時に言わなかったので、伝える者がそれで彼が歯を見せなかったと言い、おそらく時に伝える者がそれで彼が三年歯を見せなかったと言ったのである。高宗は諒陰にあって、三年言わなかった。
尊為天子,不言,而其文言不言,猶疑於增,況高子位賤,而曰未嘗見齒,是必增益之也。
尊きこと天子でありながら言わなかったのに、その文が言わなかったと言うのすらなお増したものと疑われる。まして高子は位が賤しいのに、いまだ歯を見せたことがなかったと言うのだから、これは必ず増し益したものである。
儒書言:禽息荐百里奚,繆公未聽,禽息出,當門仆頭碎首而死。繆公痛之,乃用百里奚。此言賢者荐善,不愛其死,仆頭碎首而死,以達其友也。世士相激,文書傳稱之,莫謂不然。
儒の書に言う。禽息が百里奚を荐めたが、繆公は聽かなかった。禽息は出て、門に当たって頭を仆し首を碎いて死んだ。繆公はこれを痛んで、そこで百里奚を用いた、と。この言は、賢者が善を荐めるのにその死を愛しまず、頭を仆し首を碎いて死んで、その友を達せさせたということである。世の士は相い激まし、文や書が伝え称えて、そうでないと言う者がない。
夫仆頭以荐善,古今有之。禽息仆頭,蓋其實也;言碎首而死,是增之也。
そもそも頭を仆して善を荐めることは、古今ある。禽息が頭を仆したのは、おそらくその実である。首を碎いて死んだと言うのは、増したものである。
夫人之扣頭,痛者血流,雖忿恨惶恐,無碎首者。非首不可碎,人力不能自碎也。執刃刎頸,樹鋒刺胸,鋒刃之助,故手足得成勢也。言禽息舉椎自擊首碎,不足怪也;仆頭碎首,力不能自將也。有扣頭而死者,未有使頭破首碎者也。此時或扣頭荐百里奚,世空言其死;若或扣頭而死,世空言其首碎也。
そもそも人が頭を扣てば、痛む者は血が流れるが、いかに忿り恨み惶れ恐れても、首を碎いた者はない。首が碎けないのではなく、人の力では自ら碎けないのである。刃を執って頸を刎ね、鋒を樹てて胸を刺すのは、鋒や刃の助けがあるから、手足が勢いを成せるのである。禽息が椎を挙げて自ら首を撃って碎いたと言うのなら、怪しむに足らない。頭を仆して首を碎いたというのは、力が自ら将いることができない。頭を扣って死んだ者はあるが、頭を破り首を碎かせた者はない。この時、おそらく頭を扣って百里奚を荐めたのを、世が空しく彼が死んだと言い、あるいは頭を扣って死んだのを、世が空しくその首が碎けたと言ったのである。
儒書言:荊軻為燕太子刺秦王,操匕首之劍,刺之不得,秦王拔劍擊之。軻以匕首秦王不中,中銅柱,入尺。欲言匕首之利,荊軻勢盛,投銳利之刃,陷堅強之柱,稱荊軻之勇,故增益其事也。夫言入銅柱,實也;言其入尺,增之也。
儒の書に言う。荊軻が燕の太子のために秦王を刺すのに、匕首の剣を操って刺したが得られず、秦王が剣を抜いてこれを撃った。軻は匕首で秦王を擿ったが中たらず、銅の柱に中たって一尺入った、と。匕首の利さ、荊軻の勢いの盛んさで、鋭く利い刃を投げて堅く強い柱を陷れたと言って、荊軻の勇を称えようとしたから、その事を増し益したのである。そもそも銅の柱に入ったと言うのは実である。その一尺入ったと言うのは、増したものである。
夫銅雖不若匕首堅剛,入之不過數寸,殆不能入尺。以入尺言之,設中秦王,匕首洞過乎?車張十石之弩,射垣木之表,尚不能入尺。以荊軻之手力,投輕小之匕首,身被龍淵之劍刃,入堅剛之銅柱,是荊軻之力勁於十石之弩,銅柱之堅不若木表之剛也。世稱荊軻之勇,不言其多力。多力之人,莫若孟賁。使孟賁銅柱,能(淵)〔洞〕出一尺乎?此亦或時匕首利若干將、莫邪,所刺無前,所擊無下,故有入尺之效。夫稱干將、莫邪,亦過其實。刺擊無前下,亦入銅柱尺之類也。
そもそも銅がいかに匕首ほど堅く剛くなくても、入るのは数寸を過ぎず、ほとんど一尺入ることはできない。一尺入ったということで言えば、かりに秦王に中たったなら、匕首は洞き過ぎたのか。車に十石の弩を張って、垣や木の表を射ても、なお一尺入ることはできない。荊軻の手の力で、軽く小さい匕首を投げ、身に龍淵の剣の刃を被りながら、堅く剛い銅の柱に入ったというのなら、これは荊軻の力が十石の弩より勁く、銅の柱の堅さが木の表の剛さに及ばないことになる。世は荊軻の勇を称えるが、その力が多いとは言わない。力の多い人は孟賁に及ぶ者がない。孟賁に銅の柱を擿たせて、一尺洞き出せるであろうか。これもまたおそらく匕首が利いことが干將や莫邪のようで、刺すのに前がなく、撃つのに下がなかったから、一尺入った效があったのであろう。そもそも干將や莫邪を称えることも、その実を過ぎている。刺し撃つのに前も下もないというのも、銅の柱に一尺入ったという類である。
儒書言:董仲舒讀《春秋》,專精一思,志不在他,三年不窺園菜。
儒の書に言う。董仲舒が「春秋」を読むのに、精を専らにし思いを一つにして、志が他にあらず、三年園の菜を窺わなかった、と。
夫言不窺園菜,實也;言三年,增之也。
そもそも園の菜を窺わなかったと言うのは実である。三年と言うのは、増したものである。
仲舒雖精,亦時解休,解休之間,猶宜游於門庭之側;則能至門庭,何嫌不窺園菜?聞用精者察物不見,存道以亡身;不聞不至門庭,坐思三年,不及窺園也。《尚書毋佚》曰「君子所其毋逸,先知稼穡之艱難,乃佚」者也。人之筋骨非木非石,不能不解。故張而不弛,文王不為;弛而不張,文王不行;一弛一張,文王以為常。聖人材優,尚有弛張之時。仲舒材力劣於聖,安能用精三年不休?
仲舒がいかに精しくても、やはり時に解き休んだであろう。解き休む間には、なおまさに門や庭の側に游んだであろう。門や庭に至れたのなら、どうして園の菜を窺わない嫌いがあろうか。精を用いる者が物を察しても見えず、道を存して身を亡れるとは聞くが、門や庭に至らず、坐して三年思い、園を窺うに及ばなかったとは聞かない。「尚書」毋佚に「君子はその逸しからぬところに処って、先に稼穡の艱難を知り、そこで逸しむ」とある。人の筋や骨は木でも石でもないから、解かずにいられない。だから張って弛めないことは文王が為さず、弛めて張らないことは文王が行わず、一たび弛め一たび張ることを文王は常とした。聖人は材が優れていても、なお弛め張る時がある。仲舒は材や力が聖より劣るのに、どうして精を三年休まず用いられようか。
儒書言:夏之方盛也,遠方圖物,貢金九牧,鑄鼎象物而為之備,故入山澤不逢惡物,用辟神奸,故能葉於上下,以承天休。
儒の書に言う。夏がまさに盛んであったとき、遠方が物を図き、九牧が金を貢いだので、鼎を鋳て物に象ってこれに備えを為した。だから山や澤に入っても悪い物に逢わず、神しい奸を辟けるのに用いて、だから上下に葉い、天の休きを承けることができた、と。
夫金之性,物也,用遠方貢之為美,鑄以為鼎,用象百物之奇,安能入山澤不逢惡物,辟除神奸乎?周時天下太平,越裳獻白雉,倭人貢鬯草。食白雉,服鬯草,不能除凶;金鼎之器,安能辟奸?且九鼎之來,德盛之瑞也。
そもそも金の性は物である。遠方が貢いだのを美しとして、鋳て鼎と為し、百物の奇しさに象るのに用いたからといって、どうして山や澤に入って悪い物に逢わず、神しい奸を辟け除けようか。周の時、天下が太平で、越裳が白い雉を献じ、倭人が鬯草を貢いだ。白い雉を食い、鬯草を服しても、凶を除くことはできない。金の鼎の器が、どうして奸を辟けられようか。その上、九鼎が来たのは、徳が盛んな瑞である。
服瑞應之物,不能致福。男子服玉,女子服珠。珠玉於人,無能辟除。寶奇之物,使為蘭服,作牙身,或言有益者,九鼎之語也。夫九鼎無能辟除,傳言能辟神奸,是則書增其文也。
瑞応の物を服しても、福を致すことはできない。男子は玉を服し、女子は珠を服する。珠や玉が人において、辟け除けられるものはない。宝しく奇しい物で、蘭の服を為り、牙の身を作って、あるいは益があると言うのは、九鼎の語と同じである。そもそも九鼎に辟け除けられるものはないのに、伝えが神しい奸を辟けられると言う。これはすなわち書がその文を増したのである。
世俗傳言:周鼎不爨自沸;不投物,物自出。此則世俗增其言也,儒書增其文也,是使九鼎以無怪空為神也。
世俗に伝え言う。周の鼎は爨かなくても自ら沸き、物を投げなくても物が自ら出た、と。これはすなわち世俗がその言を増したのであり、儒の書がその文を増したのである。これは九鼎を、怪しむところがないのに空しく神しいものとさせたのである。
且夫謂周之鼎神者,何用審之?周鼎之金,遠方所貢,禹得鑄以為鼎也。其為鼎也,有百物之象。如為遠方貢之為神乎,遠方之物安能神?如以為禹鑄之為神乎,禹聖不能神,聖人身不能神,鑄器安能神?如以金之物為神乎,則夫金者石之類也,石不能神,金安能神?以有百物之象為神乎,夫百物之象猶雷樽也,雷樽刻畫雲雷之形,雲雷在天,神於百物,雲雷之象不能神,百物之象安能神也?
その上、そもそも周の鼎が神しいと言う者は、何によってこれを審らかにしたのか。周の鼎の金は遠方が貢いだもので、禹がこれを得て鋳て鼎としたのである。その鼎を為すのに、百物の象がある。もし遠方が貢いだから神しいというのなら、遠方の物がどうして神しくあろうか。もし禹が鋳たから神しいというのなら、禹は聖であって神しくはありえず、聖人の身が神しくありえないのに、鋳た器がどうして神しくあろうか。もし金という物が神しいというのなら、そもそも金は石の類であり、石が神しくありえないのに、金がどうして神しくあろうか。百物の象があるから神しいというのなら、そもそも百物の象は雷樽と同じである。雷樽には雲や雷の形を刻み画くが、雲や雷は天にあって百物より神しい。その雲や雷の象が神しくありえないのに、百物の象がどうして神しくあろうか。
傳言:秦滅周,周之九鼎入於秦。
伝えに言う。秦が周を滅ぼして、周の九鼎が秦に入った、と。
案本事,周赧王之時,秦昭王使將軍攻王赧,王赧惶懼奔秦,頓首受罪,盡獻其邑三十六、口三萬。秦受其獻還王赧。王赧卒,秦王取九鼎寶器矣。若此者,九鼎在秦也。始皇二十八年,此游至琅邪,還過彭城,齊戒禱祠,欲出周鼎,使千人沒泗水之中,求弗能得。案時,昭王之後三世得始皇帝,秦無危亂之禍,鼎宜不亡,亡時殆在周。傳言王赧奔秦,秦取九鼎,或時誤也。傳又言宋太丘社亡,鼎沒水中彭城下,其後二十九年秦并天下。若此者,鼎未入秦也。其亡,從周去矣,未為神也。
もとの事を案ずると、周の赧王の時、秦の昭王が将軍に王赧を攻めさせ、王赧は惶れ懼れて秦に奔り、頓首して罪を受け、ことごとくその邑三十六、口三万を献じた。秦はその献を受けて王赧を還した。王赧が卒すると、秦王は九鼎や宝器を取った。このようであれば、九鼎は秦にある。始皇二十八年、琅邪に游びに至り、還って彭城を過ぎたとき、齊戒し禱り祠って、周の鼎を出そうとし、千人を泗水の中に没らせて求めたが、得ることができなかった。時を案ずると、昭王の後、三世で始皇帝を得たのだから、秦に危く乱れた禍はなく、鼎はまさに亡びないはずで、亡びた時はおそらく周にあったのであろう。伝えが王赧が秦に奔って秦が九鼎を取ったと言うのは、おそらく誤りである。伝えにまた、宋の太丘の社が亡び、鼎が彭城の下の水の中に没んで、その後二十九年で秦が天下を并せたと言う。このようであれば、鼎は秦に入っていない。その亡びは周から去ったのであって、神しいことではない。
春秋之時,五石隕於宋。五石者星也,星之去天,猶鼎之亡於地也。星去天不為神,鼎亡於地何能神?春秋之時,三山亡,猶太丘社之去宋,五星之去天。三山亡,五石隕,太丘社去,皆自有為。然鼎亡,亡亦有應也。未可以亡之故,乃謂之神。如鼎與秦三山同乎,亡不能神。如有知欲辟危亂之禍乎,則更桀、紂之時矣。衰亂無道,莫過桀、紂,桀、紂之時,鼎不亡去。周之衰亂,未若桀、紂。留無道之桀、紂,去衰末之周,非止去之,宜神有知之驗也。或時周亡之時,將軍人眾見鼎盜取,奸人鑄爍以為他器,始皇求不得也,後因言有神名,則空生沒於泗水之語矣。
春秋の時、五つの石が宋に隕ちた。五つの石は星である。星が天を去るのは、鼎が地で亡びるのと同じである。星が天を去るのが神しくないのに、鼎が地で亡びるのがどうして神しくありえようか。春秋の時、三つの山が亡びた。太丘の社が宋を去り、五つの星が天を去ったのと同じである。三つの山が亡び、五つの石が隕ち、太丘の社が去ったのは、みなおのずから為すところがある。それなら鼎が亡びたのも、亡びるのにやはり応がある。亡びた故によって、これを神しいと言うことはできない。もし鼎が秦の三つの山と同じなら、亡びることは神しくありえない。もし知があって危く乱れた禍を辟けようとしたのなら、桀や紂の時を更えたであろう。衰え乱れ無道であることは桀や紂を過ぎるものがないのに、桀や紂の時に鼎は亡び去らなかった。周の衰え乱れは桀や紂に及ばない。無道の桀や紂には留まり、衰え末になった周から去ったのなら、ただ去っただけでなく、まさに神しく知があるという験であるべきである。おそらく周が亡びる時、将軍や人々が鼎を見て盗み取り、奸しい人が鋳て爍かして他の器としたので、始皇が求めて得られなかったのであり、後にそれで神しい名があると言ったので、空しく泗水に没んだという語が生じたのである。
孝文皇帝之時,趙人新垣平上言:「周鼎亡在泗水中。今河溢通於泗水,臣望東北,汾陰直有金氣,意周鼎出乎!兆見弗迎則不至。」於是文帝使使治廟汾陰,南臨河,欲祠出周鼎。人有上書告新垣平所言神器事皆詐也,於是下平事於吏。吏治,誅新垣平。夫言鼎在泗水中,猶新垣平詐言鼎有神氣見也。
孝文皇帝の時、趙の人の新垣平が上って言った。「周の鼎が亡びて泗水の中にあります。今、河が溢れて泗水に通じています。臣が東北を望みますと、汾陰にまさに金の気があります。思うに周の鼎が出るのでしょう。兆が見えたのに迎えなければ至りません。」そこで文帝は使者に汾陰に廟を治めさせ、南に河に臨んで、祠って周の鼎を出させようとした。ある人が書を上って、新垣平が言った神器の事はみな詐りだと告げたので、そこで平の事を吏に下した。吏が治めて、新垣平を誅した。そもそも鼎が泗水の中にあると言うのは、新垣平が鼎に神しい気が見えると詐って言ったのと同じである。