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芸増篇藝增篇

論衡(虚と実を秤にかける書) 論衡 · 王充 · 80年頃 · 段落 23 · 漢字 2,454字 · 朗読 9.8分

論衡(虚と実を秤にかける書) 藝增篇 後漢の人・王充が自ら明かしたこの書の意は四字である — 「疾虚妄」、虚しく妄りなものを憎む。天が人の事に応えて災いを下すとか、死ねば鬼神になって仇を返すとか、日を選ばなければ障りがあるとかいう、その時代の言い分を一つ一つ捕らえて論じる。 論じる肌合いが人とは違う。年長者の言葉だからといってそのままにしない — 孔子に問い(問孔)、孟子を刺し(刺孟)、韓非を否とする(非韓)。天が咎めて災いを下すという言い分には、それならば天はなぜ君主一人のために国中に旱を下すのかと問い返す。 「虚」の字が付いた九篇(書虚・変虚・異虚・感虚・福虚・禍虚・龍虚・雷虚・道虚)が一列に並び、古い書に記された不思議な話を順に捕らえる。「増」の字が付いた三篇(語増・儒増・芸増)は、言葉がどのように膨らんでいくのかを扱う。 吉験篇には、夫余の東明が弓をよく射たので王が殺そうとし、南へ逃れて掩淲水に至ったという話がある。今に残る東明の記録のうち最も早い形である。

世谷所患,患言事增其實;著文垂辭,辭出溢其真,稱美過其善,進惡沒其罪。何則?俗人好奇。不奇,言不用也。故譽人不增其美,則聞者不快其意;毀人不益其惡,則聽者不愜於心。聞一增以為十,見百益以為千。使夫純朴之事,十剖百判;審然之語,千反萬畔。墨子哭於練絲,楊子哭於歧道,蓋傷失本,悲離其實也。蜚流之言,百傳之語,出小人之口,馳閭巷之間,其猶是也。諸子之文,筆墨之疏,(人)〔大〕賢所著,妙思所集,宜如其實,猶或增之;儻經藝之言如其實乎,言審莫過聖人,經藝萬世不易,猶或出溢增過其實。增過其實皆有事為,不妄亂誤以少為多也。然而必論之者,方言經藝之增與傳語異也。經增非一,略舉較著,令恍惑之人,觀覽采擇,得以開心通意,曉解覺悟。

世俗が憂えるのは、物事を語るときにその実際に付け足し、文を書いて言葉を残すときに言葉がその真実を超えてあふれ出し、美点を称えるときにその善を行き過ぎ、悪を言い立てるときにその罪を覆い隠してしまうことである。なぜか。俗人は奇異なものを好む。奇異でなければ言葉は用いられない。だから人を誉めるときにその美しさを付け足さなければ、聞く者はその意に快くなく、人をそしるときにその悪を増さなければ、聞く者は心に満足しない。一つを聞けば付け足して十とし、百を見れば増して千とする。あの素朴な事柄を十に割き百に分け、確かにそうである言葉を千度ひるがえし万度たがえさせる。墨子が白い糸に泣き、楊子が分かれ道に泣いたのは、根本を失うことを痛み、その実際から離れることを悲しんだのである。飛び流れる言葉、百度伝わった話が小人の口から出て村里のあいだを走るのも、これと同じである。諸子の文、筆墨の記録は大賢の著したもので、妙なる思いの集まりであるから、当然その実際どおりであるべきなのに、それでもなお付け足すことがある。まして経芸の言葉はその実際どおりであろうか。言葉の慎重さにおいて聖人に過ぎる者はなく、経芸は万世にわたって変わらないのに、それでもなおあふれ出て付け足し、その実際を行き過ぎることがある。付け足して実際を行き過ぎるのには、すべて何かの目的があり、みだりに乱れ誤って少ないものを多いとしたのではない。それでも必ず論じるのは、まさに経芸の付け足しが世に伝わる話とは別のものだと言いたいからである。経の付け足しは一つではないから、おおよそ目立つものを挙げ、惑い迷う人に見て選び取らせ、心を開き意を通じ、悟り知るようにさせたいのである。

《尚書》「協和萬國」,是美堯德致太平之化,化諸夏并及夷狄也。言協和方外,可也;言萬國,增之也。

『尚書』の「万国を協和した」とは、堯の徳が太平の教化を成し、その教化が諸夏に及び、あわせて夷狄にまで及んだことを称えたものである。方外を協和したと言うのはよいが、万国と言うのは付け足しである。

夫唐之與周,俱治五千里內。周時諸侯千七百九十三國,荒服、戎服、要服及四海之外不粒食之民,若穿胸、儋耳、焦僥、跋踵之輩,并合其數,不能三千。天之所覆,地之所載,盡於三千之中矣。而《尚書》云萬國,褒增過實以美堯也。欲言堯之德大,所化者眾,諸夏夷狄,莫不雍和,故曰萬國。猶《詩》言「子孫千億」矣,美周宣王之德能慎天地,天地祚之,子孫眾多,至於千億。言子孫眾多,可也;言千億,增之也。夫子孫雖眾,不能千億,詩人頌美,增益其實。案后稷始受邰封,訖於宣王,宣王以至外族內屬,血脈所連,不能千億。夫千與萬,數之大名也。萬言眾多,故《尚書》言萬國,《詩》言千億。

そもそも唐(堯)の国と周とは、ともに五千里の内を治めた。周の時代の諸侯は千七百九十三国で、荒服・戎服・要服および四海の外の穀物を食べない民、たとえば穿胸・儋耳・焦僥・跋踵のような連中まで合わせても、三千にはならない。天が覆うところ、地が載せるところは、三千のうちで尽きている。それなのに『尚書』が万国と言うのは、ほめ付け足して実際を行き過ぎ、堯を称えたのである。堯の徳が大きく、教化したものが多く、諸夏も夷狄も和合しないものがないと言いたかったから、万国と言ったのである。『詩』が「子孫千億」と言うのと同じで、周の宣王の徳が天地を慎むことができ、天地がこれに福を与えて子孫が多く、千億に至ったと称えたのである。子孫が多いと言うのはよいが、千億と言うのは付け足しである。そもそも子孫がいかに多くても千億にはなれず、詩人がほめ称えてその実際を付け足したのである。調べてみると、后稷が初めて邰に封じられてから宣王に至るまで、また宣王から外族・内属まで血脈のつながるものを数えても、千億にはなれない。そもそも千と万とは数の大きな呼び名である。万は多いことを言うから、『尚書』は万国と言い、『詩』は千億と言ったのである。

《詩》云:「鶴鳴九皋,聲聞於天。」言鶴鳴九折之澤,聲猶聞於天,以喻君子修德窮僻,名猶達朝廷也。〔言〕其聞高遠,可矣;言其聞於天,增之也。

『詩』に「鶴が九皋に鳴けば、声は天に聞こえる」とある。鶴が九つに折れ曲がった沢で鳴けば、その声はなお天にまで聞こえるという意味で、君子が辺地に退いて徳を修めれば、その名はなお朝廷に届くことをたとえたのである。その聞こえ方が高く遠いと言うのはよいが、天に聞こえると言うのは付け足しである。

彼言聲聞於天,見鶴鳴於雲中,從地聽之,度其聲鳴於地,當復聞於天也。夫鶴鳴雲中,人聞聲仰而視之,目見其形。耳目同力,耳聞其聲,則目見其形矣。然則耳目所聞見,不過十里,使參天之鳴,人不能聞也。何則?天之去人以萬數遠,則目不能見,耳不能聞。今鶴鳴從下聞之,鶴鳴近也。以從下聞其聲,則謂其鳴於地,當復聞於天,失其實矣。其鶴鳴於雲中,人從下聞之,如鳴於九皋。人無在天上者,何以知其聞於天上也?無以知,意從准況之也。詩人或時不知,至誠以為然;或時知而欲以喻事,故增而甚之。

あの「声が天に聞こえる」という言葉は、鶴が雲の中で鳴くのを見て地上でそれを聞き、その声が地上で鳴るのを推し量って、きっとさらに天にも聞こえるだろうとしたものである。そもそも鶴が雲の中で鳴けば、人は声を聞いて見上げ、目はその姿を見る。耳と目は力が同じで、耳がその声を聞けば目はその姿を見る。とすれば耳と目が聞き見る範囲は十里を越えないのだから、天まで届く鳴き声であれば人には聞こえない。なぜか。天が人から離れていることは万を単位とするほど遠いので、目は見ることができず、耳は聞くことができない。いま鶴の鳴き声を下から聞けるのは、鶴の鳴き声が近いからである。下からその声を聞けるからといって、それが地上で鳴けばきっとさらに天にも聞こえるとするのは、その実際を失っている。その鶴が雲の中で鳴くのを人が下から聞けば、九皋で鳴くのと同じである。人で天の上にいる者はいないのに、何によってそれが天の上に聞こえると知るのか。知る手立てはなく、心づもりで推し量ったのである。詩人はあるいは知らずに、まことにそうだと思ったのか、あるいは知っていて物事をたとえようとしたので、付け足して甚だしくしたのである。

《詩》曰:「維周黎民,靡有孑遺」是謂周宣王之時,遭大旱之災也。

『詩』に「周の民には、残る一人もない」とある。これは周の宣王の時に大旱の災いに遭ったことを言うのである。

詩人傷早之甚,民被其害,言無有孑遺一人不愁痛者。夫早甚,則有之矣;言無孑遺一人,增之也。

詩人は旱のひどさに民がその害を受けたことを痛んで、残る一人として愁え痛まない者はないと言ったのである。そもそも旱がひどかったことはあったが、残る一人もないと言うのは付け足しである。

夫周之民,猶今之民也。使今之民也,遭大旱之災,貧羸無蓄積,扣心思雨。若其富人,谷食饒足者,廩不空,口腹不飢,何愁之有?天之旱也,山林之間不枯,猶地之水,丘陵之上不湛也。山林之間,富貴之人,必有遣脫者矣,而言靡有孑遺,增益其文,欲言旱甚也。

そもそも周の民も今の民と同じである。今の民が大旱の災いに遭ったとすれば、貧しくやせた者は蓄えがなく、胸を打って雨を思う。その富んだ人で穀物が十分な者は、倉が空かず腹も飢えないのだから、何の愁いがあろうか。天が旱でも山林のあいだは枯れない。地上の水が丘陵の上には溜まらないのと同じである。山林のあいだや富貴の人には、必ず免れた者がいるはずなのに、残る一人もないと言うのは、その文を付け足し増して、旱のひどさを言いたかったのである。

《易》曰:「丰其屋,其家,窺其戶,闃其無人也。」非其無人也,無賢人也。《尚書》曰:「毋曠庶官。」曠,空;庶,眾也。毋空眾官,置非其人,與空無異,故言空也。

『易』に「その家を大きくし、その家を覆い、その戸をのぞくと、ひっそりとして人がいない」とある。人がいないのではなく、賢人がいないのである。『尚書』に「多くの官を空しくするな」とある。曠は空の意、庶は多いの意である。多くの官を空しくするなとは、その任にふさわしくない者を置けば空であるのと変わらないから、空と言ったのである。

夫不肖者皆懷五常,才劣不逮,不成純賢,非狂妄頑,身中無一知也。德有大小,材有高下,居官治職,皆欲勉效在官。《尚書》之官,《易》之戶中,猶能有益,如何謂之空而無人?《詩》曰:「濟濟多士,文王以寧。」此言文王得賢者多而不肖者少也。今《易》宜言闃其少人,《尚書》宜言無少眾官。以少言之,可也;言空而無人,亦尤甚焉。

そもそも不肖の者もみな五常を胸に抱いており、才が劣って及ばず、純粋な賢者になれないだけで、狂い、みだりで頑なで、身のうちに一つの知もないわけではない。徳には大小があり、才には高下があるが、官にあって職を治めるときには、みな官にあって功を挙げようと努めたいと思っている。『尚書』の官も『易』の戸の中も、なお益するところがありうるのに、どうして空で人がいないと言うのか。『詩』に「多くの士がそろって、文王はこれで安らかである」とある。これは文王が賢者を得ることが多く、不肖の者が少なかったことを言う。いま『易』は「ひっそりとして人が少ない」と言うべきであり、『尚書』は「多くの官を少なくするな」と言うべきである。少ないという言い方ならよいが、空で人がいないと言うのは、これもまたいっそう甚だしい。

五谷之於人也,食之皆飽。稻粱之味,甘而多腴。豆麥雖糲,亦能愈飢。食豆麥者,皆謂糲而不甘,莫謂腹空無所食。竹木之杖,皆能扶病。竹杖之力,弱劣不及木。或操竹杖,皆謂不勁,莫謂手空無把持。夫不肖之臣,豆麥、竹杖之類也。《易》(持其)具臣在戶,言無人者,惡之甚也。

五穀は人にとって、食べればみな腹が満ちる。稲と粱の味は甘くて脂が多い。豆と麦は粗くても、やはり飢えをいやすことができる。豆と麦を食べる者はみな粗くて甘くないと言うが、腹が空で食べるものがないとは言わない。竹と木の杖は、どちらも病人を支えることができる。竹の杖の力は弱く、木には及ばない。竹の杖を手にした者はみな強くないと言うが、手が空でつかむものがないとは言わない。そもそも不肖の臣は豆と麦、竹の杖の類である。『易』が、数を満たすだけの臣が戸の中にいるのに人がいないと言うのは、憎むことの甚だしいのである。

《尚書》眾官,亦容小材,而云無空者,刺之甚也。

『尚書』の多くの官も小さな才を受け入れるのに、空だと言うのは、そしることの甚だしいのである。

《論語》曰:「大哉,堯之為君也!蕩蕩乎民無能名焉。」傳曰:「有年五十擊壤於路者,觀者曰:大哉,堯德乎!擊壤者曰:吾日出而作,日入而息,鑿井而飲,耕田而食,堯何等力!」此言蕩蕩無能名之效也。言蕩蕩,可也;乃欲言民無能名,增之也。四海之大,萬民之眾,無能名堯之德者,殆不實也。

『論語』に「大いなるものだ、堯の君たるさまは。広々として民はそれを名づけることができない」とある。伝に「年五十で路上で壌を打つ者がいた。見ている者が『大いなるものだ、堯の徳は』と言うと、壌を打つ者は『私は日が出れば働き、日が入れば休み、井を掘って飲み、田を耕して食べる。堯に何の力があろうか』と言った」とある。これは広々として名づけようがないことの証しを言うのである。広々としていると言うのはよいが、そこで民が名づけられないと言おうとするのは付け足しである。四海の広さ、万民の多さのなかに、堯の徳を名づけられる者がいないというのは、おそらく実際ではない。

夫擊壤者曰:「堯何等力!」欲言民無能名也。觀者曰:「大哉,堯之德乎!」此何等民者,猶能知之。實有知之者,云無,竟增之。

そもそも壌を打つ者が「堯に何の力があろうか」と言ったのは、民が名づけられないことを言おうとしたのである。見ている者が「大いなるものだ、堯の徳は」と言ったのは、こういう民でもなお知ることができたのである。実際に知る者がいるのに、いないと言うのは、結局付け足しである。

儒書又言:「堯、舜之民,可比屋而封。」言其家有君子之行,可皆官也。夫言可封,可也;言比屋,增之也。

儒家の書にはまた「堯・舜の民は家を連ねて封じるに足る」とある。その家に君子の行いがあり、みな官につけられるという意味である。そもそも封じるに足ると言うのはよいが、家を連ねてと言うのは付け足しである。

人年五十為人父,為人父而不知君,何以示子?太平之世,家為君子,人有禮義,父不失禮,子不廢行。夫有行者有知,知君莫如臣,臣賢能知君,能知其君,故能治其民。今不能知堯,何可封官?年五十擊壤於路,與豎子未成人者為伍,何等賢者?子路使子羔為宰,孔子以為不可:未學,無所知也。擊壤者無知,官之如何?稱堯之蕩蕩,不能述其可比屋而封;言賢者可比屋而封,不能議讓其愚。而無知之夫擊壤者,難以言比屋,比屋難以言蕩蕩。二者皆增之所由起,美堯之德也。

人は年五十であれば人の父となる。人の父となって君を知らなければ、何をもって子に示すのか。太平の世には家ごとに君子となり、人に礼義があり、父は礼を失わず、子は行いを捨てない。そもそも行いのある者には知がある。君を知ることにおいて臣に及ぶものはなく、臣が賢ければ君を知ることができ、その君を知ることができるから、その民を治めることができる。いま堯を知らないのに、どうして官に封じられようか。年五十で路上で壌を打ち、まだ大人になっていない子どもらと仲間になっていたのだから、どんな賢者であろうか。子路が子羔を宰にしたとき、孔子はよくないと考えた。学んでおらず、知るところがないからである。壌を打つ者に知るところがないのに、これを官につけてどうなるのか。堯の広々としたさまを称えるのであれば、その家を連ねて封じるに足るとは言えず、賢者が家を連ねて封じるに足ると言うのであれば、その愚かさを論じて退けることはできない。無知の男で壌を打つような者がいては家を連ねてとは言いにくく、家を連ねてというのでは広々としてとは言いにくい。この二つはどちらも付け足しの起こったもとであり、堯の徳を称えたのである。

《尚書》曰:「祖伊諫紂曰:今我民罔不欲喪。」罔,無也;我天下民無不欲王亡者。夫言欲王之亡,可也;言無不,增之也。

『尚書』に「祖伊が紂をいさめて言った。いま我が民は滅びを願わない者がない」とある。罔は無の意で、我が天下の民に王の滅びを願わない者はないということである。そもそも王の滅びを願うと言うのはよいが、願わない者がないと言うのは付け足しである。

紂雖惡,民臣蒙恩者非一,而祖伊增語,欲以懼紂也。故曰:語不益,心不惕;心不惕,行不易。增其語欲以懼之,冀其警悟也。

紂がいかに悪であっても、民や臣で恩を受けた者は一人ではないのに、祖伊が言葉を付け足したのは、紂を恐れさせようとしたのである。だから、言葉を増さなければ心は恐れず、心が恐れなければ行いは変わらないと言う。その言葉を付け足して恐れさせようとしたのは、彼が戒めて悟ることを願ったのである。

蘇秦說齊王曰:「臨淄之中,車轂擊,人肩磨,舉袖成幕,連衽成帷,揮汗成雨。」齊雖熾盛,不能如此。蘇秦增語,激齊王也。祖伊之諫紂,猶蘇秦之說齊王也。賢聖增文,外有所為,內未必然。何以明之?夫《武成》之篇,言武王伐紂,血流浮杵。助戰者多,故至血流如此。皆欲紂之亡也,土崩瓦解,安肯戰乎?然祖伊之言民無不欲,如蘇秦增語。

蘇秦が斉王に説いて言った。「臨淄の中では車の轂がぶつかり合い、人の肩が擦れ合い、袖を挙げれば幕となり、衣の襟を連ねれば帷となり、汗を振れば雨となります。」斉がいかに盛んであっても、これほどではありえない。蘇秦が言葉を付け足したのは、斉王を激励したのである。祖伊が紂をいさめたのも、蘇秦が斉王に説いたのと同じである。賢人や聖人が文を付け足すのは、外に対して目的があるからで、内実は必ずしもそうではない。何によってこれを明らかにするか。そもそも「武成」の篇には、武王が紂を討ったとき血が流れて杵を浮かべたとある。戦いを助けた者が多かったから、血の流れがここまで至ったというのである。みな紂の滅びを願っていたのなら、土が崩れ瓦が解けるようであったはずで、どうして戦おうとしたであろうか。とすれば祖伊の言う、民に願わない者がないというのは、蘇秦が言葉を付け足したのと同じである。

《武成》言血流浮杵,亦太過焉。死者血流,安能浮杵?案武王伐紂於牧之野。河北地高,壤靡不干燥。兵頓血流,輒燥入土,安得杵浮?且周、殷士卒,皆齎盛糧,無杵臼之事,安得杵而浮之?言血流杵,欲言誅紂,惟兵頓士傷,故至浮杵。

「武成」が血が流れて杵を浮かべたと言うのも、また行き過ぎている。死者の血が流れたとして、どうして杵を浮かべられようか。調べてみると、武王は紂を牧野で討った。河北は土地が高く、土壌は乾いていないところがない。兵が倒れて血が流れても、たちまち乾いて土に入るのだから、どうして杵が浮かぼうか。しかも周と殷の兵士はみな乾した糧を携えており、臼と杵を使う仕事はなかったのだから、どうして杵を得てそれを浮かべられようか。血が杵を浮かべたと言うのは、紂を討つにあたって兵が倒れ士が傷ついたので、それで杵を浮かべるまでに至ったと言いたかったのである。

《春秋》莊公七年:「夏四月辛卯,夜中恆星不見,星如雨。」《公羊傳》曰:「如雨者何?非雨也。非雨則曷為謂之如雨?不修《春秋》曰:(如)雨星不及地尺而復。君子修之,星如雨。」

『春秋』荘公七年に「夏四月辛卯、夜中に恒星が見えず、星が雨のようであった」とある。『公羊伝』に「雨のようとは何か。雨ではない。雨でないならどうして雨のようと言うのか。修めていない『春秋』には、雨のように降る星が地まで一尺に及ばずまた戻った、とある。君子がこれを修めて、星が雨のようであったとした」とある。

不修《春秋》者,未修《春秋》時魯史記,曰「雨星不及地尺如復」。君子者,謂孔子也。孔子修之,「星如雨」。如雨者,如雨狀也。山氣為雲,上不及天,下而為(雲)〔雨〕。雨星,星隕不及地,上復在天,故曰如雨。孔子正言也。夫星或時至地,或時不能,尺丈之數,難審也。史記言尺,亦以太甚矣。夫地有樓台山陵,安得言尺?孔子言如雨,得其實矣。孔子作《春秋》,故正言如雨。如孔子不作,不及地尺之文,遂傳至今。

修めていない『春秋』とは、『春秋』を修める前の魯の史記で、「雨のように降る星が地まで一尺に及ばずまた戻った」と言ったものである。君子とは孔子を指す。孔子がこれを修めて「星が雨のようであった」とした。雨のようとは、雨の降るさまのようだということである。山の気が雲となり、上は天に及ばず、下りて雨となる。雨のように降る星とは、星が落ちて地に及ばず、上ってまた天にあるので、雨のようと言ったのである。孔子の正しい言い方である。そもそも星はあるときは地に至り、あるときは至れないので、尺や丈の数は確かめがたい。史記が一尺と言ったのも、行き過ぎが甚だしい。そもそも地には楼台や山や丘陵があるのに、どうして一尺と言えようか。孔子が雨のようと言ったのは、その実際を得ている。孔子が『春秋』を作ったから、正しく雨のようと言ったのである。もし孔子が作らなかったなら、地まで一尺に及ばなかったという文が、そのまま今日まで伝わっていたであろう。

光武皇帝之時,郎中汝南賁光上書,言孝文皇帝時居明光宮,天下斷獄三人。頌美文帝,陳其效實。光武皇帝曰:「孝文時不居明光宮,斷獄不三人。」積善修德,美名流之,是以君子惡居下流。夫賁光上書於漢,漢為今世,增益功美,猶過其實,況上古帝王久遠,賢人從後褒述,失實離本,獨已多矣。不遭光武論,千世之後,孝文之事載在經藝之上,人不知其增,居明光宮斷獄三人,而遂為實事也。

光武皇帝の時、郎中である汝南の賁光が書を上って、孝文皇帝の時には明光宮に住み、天下の裁かれた獄が三人であったと言った。文帝をほめ称え、その功と実際を述べたのである。光武皇帝は言った。「孝文の時に明光宮に住んではいなかったし、裁かれた獄も三人ではなかった。」善を積み徳を修めれば美しい名が流れるもので、だからこそ君子は下流にいることを憎む。そもそも賁光は漢に書を上ったのであり、漢は今の世であるのに、功と美点を付け足し増すことがなおその実際を行き過ぎた。まして上古の帝王は遠く久しく、賢人が後から称え述べるので、実際を失い根本から離れることは、それだけでもすでに多い。光武が論じるのに遭わなければ、千世の後には孝文の事が経芸の上に載せられ、人々はその付け足しを知らず、明光宮に住み裁かれた獄が三人であったということが、ついに実際の事となっていたであろう。