いにしえの文 › 論衡(虚と実を秤にかける書)

問孔篇

論衡(虚と実を秤にかける書) 論衡 · 王充 · 80年頃 · 段落 73 · 漢字 7,026字 · 朗読 28.1分

論衡(虚と実を秤にかける書) 後漢の人・王充が自ら明かしたこの書の意は四字である — 「疾虚妄」、虚しく妄りなものを憎む。天が人の事に応えて災いを下すとか、死ねば鬼神になって仇を返すとか、日を選ばなければ障りがあるとかいう、その時代の言い分を一つ一つ捕らえて論じる。 論じる肌合いが人とは違う。年長者の言葉だからといってそのままにしない — 孔子に問い(問孔)、孟子を刺し(刺孟)、韓非を否とする(非韓)。天が咎めて災いを下すという言い分には、それならば天はなぜ君主一人のために国中に旱を下すのかと問い返す。 「虚」の字が付いた九篇(書虚・変虚・異虚・感虚・福虚・禍虚・龍虚・雷虚・道虚)が一列に並び、古い書に記された不思議な話を順に捕らえる。「増」の字が付いた三篇(語増・儒増・芸増)は、言葉がどのように膨らんでいくのかを扱う。 吉験篇には、夫余の東明が弓をよく射たので王が殺そうとし、南へ逃れて掩淲水に至ったという話がある。今に残る東明の記録のうち最も早い形である。

世儒學者,好信師而是古,以為賢聖所言皆無非,專精講習,不知難問。夫賢聖下筆造文,用意詳審,尚未可謂盡得實,況倉卒吐言,安能皆是?不能皆是,時人不知難;或是,而意沉難見,時人不知問。案賢聖之言,上下多相違;其文,前後多相伐者。世之學者,不能知也。

世の儒者で学ぶ者は、師を信じ古を正しいとすることを好み、賢人や聖人の言ったことはすべて誤りがないと考え、ひたすら精しく講義し習うばかりで、問い詰めることを知らない。そもそも賢人や聖人が筆を下して文を作るときは、意を用いることが細かく慎重であっても、なお実際をすべて得たとは言えないのだから、まして急な場で吐いた言葉がどうしてすべて正しいであろうか。すべて正しいはずがないのに、当時の人は問い詰めることを知らず、あるいは正しくても意味が沈んで見えにくいのに、当時の人は尋ねることを知らなかった。調べてみると、賢人や聖人の言葉は上下で互いに食い違うものが多く、その文は前と後とで互いに打ち合うものが多い。世の学ぶ者はそれを知ることができない。

論者皆云:「孔門之徒,七十子之才,勝今之儒。」此言妄也。彼見孔子為師,聖人傳道,必授異才,故謂之殊。夫古人之才,今人之才也。今謂之英杰,古以為聖神,故謂七十子歷世希有。使當今有孔子之師,則斯世學者,皆顏、閔之徒也;使無孔子,則七十子之徒,今之儒生也。何以驗之?以學於孔子,不能極問也。聖人之言,不能盡解。說道陳義,不能輒形。不能輒形,宜問以發之;不能盡解,宜難以極之。皋陶陳道帝舜之前,淺略未極。禹問難之,淺言復深,略指復分。蓋起問難,此說激而深切、觸而著明也。

論じる者はみな「孔子の門下の徒、七十子の才は今の儒者に勝る」と言う。この言葉はみだりである。彼らは孔子が師となり、聖人が道を伝えるのだから必ず並外れた才の者に授けたはずだと見るので、格別だと言うのである。そもそも古人の才は今人の才である。今これを英傑と呼ぶものを、古には聖神と考えたので、七十子は世に稀であると言うのである。もし今の世に孔子のような師があれば、この世の学ぶ者はみな顔淵・閔子騫の徒であり、もし孔子がいなかったなら、七十子の徒は今の儒生である。何によってこれを確かめるか。孔子に学びながら、問いを究めることができなかったことによってである。聖人の言葉はすべて解きえない。道を説き義を述べるとき、すぐにすべてを形に表すことはできない。すぐに形に表せないのであれば、当然尋ねてそれを開くべきであり、すべて解きえないのであれば、当然問い詰めてそれを究めるべきである。皋陶が舜帝の前で道を述べたが、浅く略して究めていなかった。禹がこれを問い詰めると、浅い言葉はさらに深まり、略した指摘はさらに分かれた。思うに問い詰めを起こせば、その説は刺激されて深く切実になり、触れられて明らかに表れるのである。

孔子笑子游之弦歌,子游引前言以距孔子。自今案《論語》之文,孔子之言多若笑弦歌之辭,弟子寡若子游之難,故孔子之言,遂結不解。以七十子不能難,世之儒生,不能實道是非也。

孔子が子游の弦歌を笑うと、子游は以前の言葉を引いて孔子に抗した。いま『論語』の文を調べると、孔子の言葉には弦歌を笑ったような辞が多く、弟子には子游の問い詰めのようなものが少ないので、孔子の言葉はついに結ばれたまま解けないでいる。七十子が問い詰められなかったので、世の儒生は是非を実際どおりに語ることができないのである。

凡學問之法,不為無才,難於距師,核道實義,証定是非也。問難之道,非必對聖人及生時也。世之解說說人者,非必須聖人教告,乃敢言也。苟有不曉解之問,(迢)〔追〕難孔子,何傷於義?誠有傳聖業之知,伐孔子之說,何逆於理?謂問孔子之言,難其不解之文,世間弘才大知,(生)能答問解難之人,必將賢吾世間難問之言(是非)。

そもそも学問の法とは、才がないからではなく、師に抗することを難しがるからうまくいかないのであって、道を調べ義を実際に合わせ、是非を証して定めるものである。問い詰める道は、必ずしも聖人に面し、その生きている時でなければならないものではない。世に解釈して人に説く者も、必ずしも聖人が教え告げてはじめて語る勇気を持つわけではない。もし解しえない問いがあって、後から孔子を追って問い詰めたとして、義に何の害があろうか。まことに聖人の業を伝える知があって、孔子の説を打ったとして、理に何の逆らいがあろうか。孔子の言葉を尋ね、その解けない文を問い詰めるなら、世間の広い才と大きな知を持ち、問いに答え問い詰めを解くことのできる人は、必ずわが世間の問い詰める言葉を賢いとするであろう。

孟懿子問孝。子曰:「毋違。」樊遲御,子告之曰:「孟孫問孝於我,我對曰『毋違』。」

孟懿子が孝について尋ねた。孔子は言った。「違えてはならない。」樊遅が車を御していると、孔子は彼に告げて言った。「孟孫が私に孝を尋ねたので、私は『違えてはならない』と答えた。」

樊遲曰:「何謂也?」子曰:「生,事之以禮;死,葬之以禮。」問曰:孔子之言毋違,毋違者,禮也。孝子亦當先意承志,不當違親之欲。孔子言毋違,不言違禮。懿子聽孔子之言,獨不為嫌於無違志乎。樊遲問何謂,孔子乃言「生,事之以禮;死,葬之以禮,祭之以禮。」

樊遅は言った。「どういう意味でしょうか。」孔子は言った。「生きているあいだは礼によって仕え、死んだときは礼によって葬るのである。」尋ねたい。孔子の言う「違えてはならない」の違えてはならないとは、礼のことである。孝子はまた当然、親の意を先に察して志を承けるべきであり、親の願いを違えてはならない。孔子は違えてはならないと言い、礼を違えてはならないとは言わなかった。懿子が孔子の言葉を聞いて、ひとり志を違えてはならないという意味に取る疑いを持たなかったであろうか。樊遅がどういう意味かと尋ねたので、孔子はそこで「生きているあいだは礼によって仕え、死んだときは礼によって葬り、礼によって祭る」と言ったのである。

使樊遲不問,毋違之說遂不可知也。懿子之才,不過樊遲,故《論語》篇中不見言行。樊遲不曉,懿子必能曉哉?

もし樊遅が尋ねなかったなら、違えてはならないという説はついに知りえなかったであろう。懿子の才は樊遅を越えないので、『論語』の篇中にその言行が見えない。樊遅が解せなかったのに、懿子が必ず解しえたであろうか。

孟武伯問孝,子曰:「父母,唯其疾之憂。」武伯善憂父母,故曰「唯其疾之憂」。武伯憂親,懿子違禮。攻其短,答武伯云「父母,唯其疾之憂」,對懿子亦宜言難水火之變乃違禮。周公告小才敕,大材略。子游之大材也,孔子告之敕;懿子小才也,告之反略。違周公之志,攻懿子之短,失道理之宜。弟子不難,何哉?如以懿子權尊,不敢極言,則其對武伯亦宜但言毋憂而已。(但)〔俱〕孟氏子也,權尊鈞同,(形)〔敕〕武伯而略懿子,未曉其故也。使孔子對懿子極言毋違禮,何害之有?專魯莫過季氏,譏八佾之舞庭,刺太山之旅祭,不懼季氏增邑不隱諱之害,獨畏答懿子極言之罪,何哉?且問孝者非一,皆有御者,對懿子言不但心服、臆肯,故告樊遲。

孟武伯が孝について尋ねると、孔子は言った。「父母は、ただその病を憂える。」武伯は父母を憂えることに長けていたので、「ただその病を憂える」と言ったのである。武伯は親を憂え、懿子は礼を違えた。その短所を攻めるのであれば、武伯には「父母は、ただその病を憂える」と答えたのだから、懿子に対しても当然、水や火の変事を言い立てるのは礼を違えることだと言うべきであった。周公は才の小さい者には詳しく告げ、才の大きい者には略して告げた。子游は才の大きい者であるのに孔子は詳しく告げ、懿子は才の小さい者であるのに告げることはかえって略であった。周公の志に違い、懿子の短所を攻めたのであって、道理の当然を失っている。弟子が問い詰めなかったのはどうしてか。もし懿子の権勢が高いので言い尽くす勇気がなかったというのなら、武伯に答えるときにも当然ただ憂えるなと言うだけであったはずだ。どちらも孟氏の子で、権勢と身分の高さは等しく同じなのに、武伯には詳しくして懿子には略したのであり、その理由が分からない。もし孔子が懿子に対して礼を違えてはならないと言い尽くしたとして、何の害があろうか。魯の政を独占することにおいて季氏に過ぎる者はいないのに、八佾の舞を庭で舞わせたことをそしり、泰山に旅の祭りをしたことを刺し、季氏が邑を増やしたことを隠さずに言った害を恐れなかったのに、ひとり懿子に言い尽くす罪を恐れたのは、どうしてか。しかも孝を尋ねた者は一人ではなく、みな御者がいたのであり、懿子に言ったことが心から服し胸で肯うものではなかったので、樊遅に告げたのである。

孔子曰:「富與貴,是人之所欲也,不以其道得之,不居也;貧與賤,是人之所惡也,不以其道得之,不去也。」此言人當由道義得,不當苟取也;當守節安貧,不當妄去也。

孔子は言った。「富と貴とは人の欲するものであるが、その道によって得たのでなければ、そこに居らない。貧と賤とは人の憎むものであるが、その道によって得たのでなければ、そこを去らない。」この言葉は、人は当然道義によって得るべきで、間に合わせに取ってはならず、当然節を守って貧に安んじるべきで、みだりに去ってはならないということである。

夫言不以其道,得富貴不居,可也;不以其道,得貧賤如何?

そもそもその道によらずに富貴を得たならそこに居らないと言うのはよい。その道によらずに貧賤を得たというのはどういうことか。

富貴顧可去,去貧賤何之?去貧賤,得富貴也。不得富貴,不去貧賤。如謂得富貴不以其道,則不去貧賤邪?則所得富貴,不得貧賤也。貧賤何故當言得之?顧當言貧與賤是人之所惡也,不以其道去之,則不去也。當言去,不當言得。得者,施於得之也。今去之,安得言得乎?獨富貴當言得耳。何者?得富貴,乃去貧賤也。是則以道去貧賤如何?修身行道,仕得爵祿、富貴。得爵祿、富貴,則去貧賤矣。不以其道去貧賤如何?毒苦貧賤,起為奸盜,積聚貨財,擅相官秩,是為不以其道。七十子既不問,世之學者亦不知難。使此言意不解而文不分,是謂孔子不能吐辭也;使此言意結文又不解,是孔子相示未形悉也。弟子不問,世俗不難,何哉?

富貴は去ることができるが、貧賤を去ってどこへ行くのか。貧賤を去るとは富貴を得ることである。富貴を得られなければ貧賤を去れない。もし富貴を得ることがその道によらないのであれば貧賤を去らない、というのであろうか。それなら得たものは富貴であって、貧賤を得たのではない。貧賤をどうして得ると言うべきであろうか。むしろ当然、貧と賤とは人の憎むものであるが、その道によって去るのでなければ去らない、と言うべきである。当然去ると言うべきで、得ると言うべきではない。得るとは、得ることに対して用いる言葉である。いま去るのに、どうして得ると言えようか。ただ富貴だけを得ると言うべきなのである。なぜか。富貴を得て、はじめて貧賤を去るからである。それでは道によって貧賤を去るとはどういうことか。身を修め道を行い、仕えて爵禄と富貴を得る。爵禄と富貴を得れば貧賤を去る。その道によらずに貧賤を去るとはどういうことか。貧賤をひどく苦にして、立ち上がって悪事や盗みを働き、財貨を積み集め、官の秩を勝手にする。これがその道によらないということである。七十子はすでに尋ねず、世の学ぶ者もまた問い詰めることを知らない。もしこの言葉の意が解けず文が分かれないのであれば、それは孔子が言葉を吐くことができないということであり、もしこの言葉の意が結ばれ文もまた解けないのであれば、それは孔子が示したものがまだ詳らかに形になっていないということである。弟子が尋ねず、世俗が問い詰めないのは、どうしてか。

孔子曰:「公冶長可妻也,雖在縲紲之中,非其罪也。」以其子妻之。

孔子は言った。「公冶長には娘を嫁がせてよい。縄目のうちにあったとはいえ、その罪ではない。」そして自分の娘を彼に嫁がせた。

問曰:孔子妻公冶長者,何據見哉?據年三十可妻邪,見其行賢可妻也?如據其年三十,不宜稱在縲紲;如見其行賢,亦不宜稱在縲紲。何則?諸入孔子門者,皆有善行,故稱備徒役。徒役之中無妻,則妻之耳,不須稱也。如徒役之中多無妻,公冶長尤賢,故獨妻之,則其稱之宜列其行,不宜言其在縲紲也。何則?世間強受非辜者多,未必盡賢人也。恆人見枉,眾多非一,必以非辜為孔子所妻,則是孔子不妻賢,妻冤也。

尋ねたい。孔子が公冶長に娘を嫁がせたのは、何に拠って見定めたのか。年が三十で嫁がせてよいという点に拠ったのか、その行いが賢いので嫁がせてよいと見たのか。もしその年三十に拠ったのであれば、縄目のうちにあったと言うのはふさわしくなく、もしその行いが賢いと見たのであれば、やはり縄目のうちにあったと言うのはふさわしくない。なぜか。孔子の門に入った者はみな善い行いがあるので、門人の列に備わったと称されるのである。門人のうちで妻のない者であれば嫁がせるだけのことで、わざわざ言い立てる必要はない。もし門人のうちに妻のない者が多く、公冶長がとりわけ賢いので彼一人に嫁がせたのであれば、それを称するときは当然その行いを並べるべきで、彼が縄目のうちにあったと言うのはふさわしくない。なぜか。世間には無理に罪なく罰を受ける者が多いが、必ずしもみな賢人ではない。並の人が曲げられて罰を受けることは数多く一人ではないのに、罪のないことを必ず孔子が娘を嫁がせる理由とするのであれば、それは孔子が賢い者に嫁がせたのではなく、無実の者に嫁がせたということになる。

案孔子之稱公冶長,有非辜之言,無行能之文。實不賢,孔子妻之,非也;實賢,孔子稱之不具,亦非也。誠似妻南容云,國有道不廢,國無道免於刑戮,具稱之矣。

調べてみると、孔子が公冶長を称するのには罪がないという言葉はあるが、行いや能力についての文はない。実際に賢くないのに孔子が娘を嫁がせたのなら、それは誤りであり、実際に賢いのに孔子の称し方が備わっていなかったのなら、それもまた誤りである。まことに南容に娘を嫁がせたときのように、国に道があれば捨てられず、国に道がなければ刑戮を免れると言ったのであれば、備えて称したことになる。

子謂子貢曰:「汝與回也,孰愈?」曰:「賜也,何敢望回?回也,聞一以知十;賜也,聞一以知二。」子曰:「弗如也,吾與汝俱不如也。」

孔子が子貢に言った。「おまえと回とでは、どちらが勝っているか。」子貢は言った。「賜がどうして回を望めましょうか。回は一を聞いて十を知り、賜は一を聞いて二を知るだけです。」孔子は言った。「及ばない。私もおまえも、ともに及ばない。」

是賢顏淵試以問子貢也。

これは顔淵を賢いとして、子貢に試しに尋ねたのである。

問曰:孔子所以教者,禮讓也。子路,為國以禮,其言不讓,孔子非之。使子貢實愈顏淵,孔子問之,猶曰不如,使實不及,亦曰不如,非失對欺師,禮讓之言宜謙卑也。今孔子出言,欲何趣哉?使孔子知顏淵愈子貢,則不須問子貢。使孔子實不知,以問子貢,子貢謙讓亦不能知。使孔子徒欲表善顏淵,稱顏淵賢,門人莫及,於名多矣,何須問於子貢?子曰:「賢哉,回也!」又曰:「吾與回言終日,不違如愚。」又曰:「回也,其心三月不違仁。」

尋ねたい。孔子が教えたのは礼と譲である。子路が国を礼によって治めると言いながら、その言葉が譲らないものであったので、孔子はこれをよくないとした。もし子貢が実際に顔淵より勝っていて孔子が尋ねたとしても、やはり及ばないと答えたであろうし、実際に及ばないのであってもやはり及ばないと答えたであろう。答えを誤って師を欺くのではなく、礼と譲の言葉は当然へりくだって低くするものだからである。いま孔子が言葉を出したのは、何をしようとしたのか。もし孔子が顔淵が子貢より勝っていると知っていたのなら、子貢に尋ねる必要はない。もし孔子が実際に知らずに子貢に尋ねたのなら、子貢は謙譲するのだから、やはり知ることはできない。もし孔子がただ顔淵の善さを表そうとしただけなら、顔淵は賢くて門人の及ぶ者がないと称したことは名として十分多いのだから、どうして子貢に尋ねる必要があろうか。孔子は言った。「賢いことだ、回は。」また言った。「私は回と終日語っても、逆らわないことが愚かのようである。」また言った。「回は、その心が三月のあいだ仁を離れない。」

三章皆直稱,不以他人激。至是一章,獨以子貢激之,何哉?

この三章はどれも直に称したもので、他人を引いて刺激してはいない。この一章に至ってひとり子貢を引いて刺激したのは、どうしてか。

或曰:欲抑子貢也。當此之時,子貢之名凌顏淵之上,孔子恐子貢志驕意溢,故抑之也。夫名在顏淵之上,當時所為,非子貢求勝之也。實子貢之知何如哉?使顏淵才在己上,己自服之,不須抑也。使子貢不能自知,孔子雖言,將謂孔子徒欲抑已。由此言之,問與不問,無能抑揚。

ある人は言う。子貢を抑えようとしたのである。この時、子貢の名は顔淵の上を越えていたので、孔子は子貢の志が驕り意があふれることを恐れ、それで抑えたのだと。そもそも名が顔淵の上にあったのは当時の人がそうしたのであって、子貢が勝とうと求めたのではない。実際に子貢の知はどれほどであったのか。もし顔淵の才が自分より上にあれば、自分から進んで服するのだから抑える必要はない。もし子貢が自分で知ることができないのであれば、孔子がいくら言っても、孔子はただ自分を抑えようとしているのだと思うであろう。このことから言えば、尋ねても尋ねなくても、抑えたり持ち上げたりはできないのである。

宰我晝寢。子曰:「朽木不可雕也,糞土之牆不可圬也,於予予何誅。」是惡宰予之晝寢。

宰我が昼寝をした。孔子は言った。「朽ちた木は彫れず、糞土の牆は塗れない。予に対して私は何を責めようか。」これは宰予の昼寝を憎んだのである。

問曰:晝寢之惡也,小惡也;朽木糞土,敗毀不可復成之物,大惡也。責小過以大惡,安能服人?使宰我性不善,如朽木糞土,不宜得入孔子之門,序在四科之列。使性善,孔子惡之,惡之太甚,過也;人之不仁,疾之已甚,亂也。孔子疾宰予,可謂甚矣。使下愚之人涉耐罪(之),獄吏令以大辟之罪,必冤而怨邪?將服而自咎也?使宰我愚,則與涉耐罪之人同志;使宰我賢,知孔子責人,幾微自改矣。明文以識之,流言以過之,以其言示端而已自改。自改不在言之輕重,在宰予能更與否。

尋ねたい。昼寝の悪は小さな悪であり、朽ちた木や糞土は壊れ崩れて二度と作りなおせない物であるから大きな悪である。小さな過ちを大きな悪によって責めて、どうして人を服させられようか。もし宰我の性が善くなく、朽ちた木や糞土のようであったのなら、孔子の門に入り四科の列に序されるのはふさわしくない。もし性が善いのに孔子がこれを憎んだのであれば、憎むことが甚だしすぎるので過ちである。人の不仁を憎むことがすでに甚だしければ、それは乱である。孔子が宰予を憎んだのは、甚だしいと言ってよい。下愚の人が耐罪に触れたのに、獄吏が大辟の罪で処するとしたら、必ず無実を訴えて怨むであろうか、それとも服して自ら咎めるであろうか。もし宰我が愚かであれば、耐罪に触れた人と同じ心持ちであり、もし宰我が賢ければ、孔子が人を責めるのを知って、わずかな兆しのうちに自ら改めたであろう。文を明らかにして知らせ、言葉を流して責めるのは、その言葉で糸口を示すだけで、あとは自分から改めるのである。自ら改めるかどうかは言葉の軽重にあるのではなく、宰予が改められるか否かにある。

《春秋》之義,采毫毛之善,貶纖介之惡,褒毫毛以巨大,以巨大貶纖介。觀《春秋》之義,肯是之乎?不是,則宰我不受;不受,則孔子之言棄矣。聖人之言與文相副,言出於口,文立於策,俱發於心,其實一也。孔子作《春秋》,不貶小以大。其非宰予也,以大惡細,文語相違,服人如何?

『春秋』の義は、毛筋ほどの善を採り、ごくわずかな悪をそぎ落とす。毛筋ほどのものを巨大なものとしてほめ、巨大なものによってごくわずかなものをそぎ落とすのを『春秋』の義に照らして見れば、それを正しいとするであろうか。正しくないのであれば宰我は受け入れないし、受け入れなければ孔子の言葉は捨てられる。聖人の言葉は文と互いに合うもので、言葉は口から出て文は書き物に立つが、どちらも心から発するので、その実は一つである。孔子は『春秋』を作るとき、小さなものを大きなものによってそぎ落とすことはしなかった。その宰予をよくないとするときには、大きなものによって細かなものを憎んだのであって、文と語とが互いに食い違っている。これで人を服させることができようか。

子曰:「始吾於人也,聽其言而信其行;今吾於人也,聽其言而觀其行。於予予改是。」

孔子は言った。「初め私は人に対して、その言葉を聞いてその行いを信じた。いま私は人に対して、その言葉を聞いてその行いを見る。予によって私はこれを改めた。」

蓋起宰予晝寢,更知人之術也。

思うに宰予の昼寝から起こって、人を知る方法を改めたのである。

問曰:人之晝寢,安足以毀行?毀行之人,晝夜不臥,安足以成善?以晝寢而觀人善惡,能得其實乎?案宰予在孔子之門,序於四科,列在賜上。如性情怠,不可雕琢,何以致此?使宰我以晝寢自致此,才復過人遠矣。如未成就,自謂已足,不能自知,知不明耳,非行惡也。曉敕而已,無為改術也。如自知未足,倦極晝寢,是精神索也。精神索至於死亡,豈徒寢哉?

尋ねたい。人が昼寝をすることが、どうして行いをそこなうのに十分であろうか。行いをそこなう人が昼も夜も横にならなかったとして、どうして善を成すのに十分であろうか。昼寝によって人の善悪を見るとして、その実際を得られるであろうか。調べてみると、宰予は孔子の門にあって四科に序され、賜の上に並べられている。もし性情が怠けていて彫り磨くことができないのであれば、どうしてここまで至れたのか。もし宰我が昼寝をしながらこの地位に至ったのであれば、才はさらに人より遠く勝っているということになる。もしまだ成就していないのに自分ではもう十分だと思い、自分で分かっていなかったのなら、知が明らかでないだけで、行いが悪いのではない。諭して告げればよいだけで、方法を改める必要はない。もし自分で足りないと知りながら、疲れ果てて昼寝をしたのなら、それは精神が尽きたのである。精神が尽きれば死に至るのだから、どうして眠るだけで済むであろうか。

且論人之法,取其行則棄其言,取其言則棄其行。今宰予雖無力行,有言語。用言,令行缺,有一概矣。今孔子起宰予晝寢,聽其言,觀其行,言行相應,則謂之賢。是孔子備取人也。毋求備於一人之義,何所施?

また人を論ずる法は、その行いを取るならその言葉を捨て、その言葉を取るならその行いを捨てるものである。いま宰予に力をこめた行いがなくても、言語はある。言葉を用いるなら、行いが欠けていても一つの取り分はあるのである。いま孔子は宰予の昼寝から起こって、その言葉を聞きその行いを見、言葉と行いが互いに応じてはじめて賢いとした。これは孔子が人に備わりを求めて取るということである。一人に備わりを求めてはならないという義は、どこに用いるのか。

子張問:「令尹子文三仕為令尹,無喜色;三已之,無慍色;舊令尹之政,必以告新令尹。何如?」子曰:「忠矣。」曰:「仁矣乎?」曰:「未知,焉得仁?」子文曾舉楚子玉代己位而伐宋,以百乘敗而喪其眾,不知如此,安得為仁?

子張が尋ねた。「令尹子文は三たび仕えて令尹となっても喜ぶ色がなく、三たびやめさせられても怒る色がなく、前の令尹の政を必ず新しい令尹に告げました。いかがでしょうか。」孔子は言った。「忠である。」「仁でしょうか。」「分からない。どうして仁でありえようか。」子文はかつて楚の子玉を挙げて自分の位に代わらせ、宋を討たせたが、百乗で敗れてその兵を失った。こうしたことを見分けられなかったのに、どうして仁でありえようか、というのである。

問曰:子文舉子玉,不知人也。智與仁,不相干也。有不知之性,何妨為仁之行?五常之道,仁、義、禮、智、信也。五者各別,不相須而成。故有智人、有仁人者,有禮人、有義人者。人有信者未必智,智者未必仁,仁者未必禮,禮者未必義。子文智蔽於子玉,其仁何毀?謂仁,焉得不可?且忠者,厚也。厚人,仁矣。孔子曰:「觀過,斯知仁矣。」子文有仁之實矣。孔子謂忠非仁,是謂父母非二親,配匹非夫婦也。

尋ねたい。子文が子玉を挙げたのは、人を知らなかったのである。智と仁とは互いに関わらない。知らないという性があったとして、仁の行いをするのに何の妨げがあろうか。五常の道は仁・義・礼・智・信である。五つはそれぞれ別で、互いに待ち合って成るものではない。だから智のある人があり仁のある人があり、礼のある人があり義のある人がある。人で信のある者が必ず智があるわけではなく、智のある者が必ず仁があるわけではなく、仁のある者が必ず礼があるわけではなく、礼のある者が必ず義があるわけではない。子文の智が子玉のことで覆われたからといって、その仁が何をそこなわれるのか。仁であると言って、どうして不可であろうか。しかも忠とは厚いことである。人に厚ければ、それは仁である。孔子は言った。「過ちを観れば、そこに仁が知られる。」子文には仁の実がある。孔子が忠は仁ではないと言うのは、父母を二人の親ではないと言い、配匹を夫婦ではないと言うようなものである。

哀公問:「弟子孰謂好學?」孔子對曰:「有顏回者,不遷怒,不貳過,不幸短命死矣。今也則亡,未聞好學者也。」

哀公が尋ねた。「弟子のうちで誰が学を好むと言えますか。」孔子は答えた。「顔回という者がおり、怒りを移さず、過ちを二度繰り返しませんでしたが、不幸にも命が短くて死にました。今はもうおりません。学を好む者を聞きません。」

夫顏淵所以死者,審何用哉?令自以短命,猶伯牛之有疾也。人生受命,皆全當潔。今有惡疾,故曰無命。人生皆當受天長命,今得短命,亦宜曰無命。如(天)〔命〕有短長,則亦有善惡矣。言顏淵短命,則宜言伯牛惡命;言伯牛無命,則宜言顏淵無命。

そもそも顔淵が死んだ理由は、まことに何によるのか。もし自分から命が短いのだとするなら、伯牛に病があるのと同じである。人が生まれて命を受けるとき、みな当然まっとうで清いはずである。いま悪い病があるので、命がないと言ったのである。人が生まれればみな当然天の長い命を受けるはずなのに、いま短い命を得たのであれば、やはり命がないと言うべきである。もし命に短いものと長いものがあるのなら、やはり善いものと悪いものもあるはずである。顔淵は命が短いと言うのであれば、当然伯牛は命が悪いと言うべきであり、伯牛は命がないと言うのであれば、当然顔淵も命がないと言うべきである。

一死一病,皆痛云命。所稟不異,文語不同。未曉其故也。

一人は死に一人は病んだのに、どちらも痛んで命と言った。受けたものは違わないのに、文と語が同じでない。その理由が分からない。

哀公問孔子孰為好學。孔子對曰:「有顏回者好學,今也則亡。不遷怒,不貳過。」何也?曰:并攻哀公之性,遷怒、貳過故也。因其問則并以對之,兼以攻上之短,不犯其罰。

哀公が孔子に誰が学を好むかと尋ねた。孔子は答えた。「顔回という者が学を好みましたが、今はもうおりません。怒りを移さず、過ちを二度繰り返しませんでした。」なぜか。答える。あわせて哀公の性を攻めたのであり、怒りを移し過ちを二度繰り返すからである。その問いに乗じてあわせて答え、兼ねて主君の短所を攻めながら、その罰に触れなかったのである。

問曰:康子亦問好學,孔子亦對之以顏淵。康子亦有短,何不并對以攻康子?康子,非聖人也,操行猶有所失。成事,康子患盜,孔子對曰:「苟子之不欲,雖賞之不竊。」由此言之,康子以欲為短也。不攻,何哉?

尋ねたい。康子もまた学を好むことを尋ね、孔子もまた顔淵をもって答えた。康子にも短所があるのに、どうしてあわせて答えて康子を攻めなかったのか。康子は聖人ではなく、身の行いにはやはり失うところがある。実際にあったこととして、康子が盗みを憂えたとき、孔子は答えて「まことにあなたが欲しなければ、賞を与えても盗みはしません」と言った。このことから言えば、康子は欲を短所としていた。それを攻めなかったのは、どうしてか。

孔子見南子,子路不悅。

孔子が南子に会うと、子路は喜ばなかった。

子曰:「予所鄙者,天厭之!天厭之!」南子,衛靈公夫人也,聘孔子,子路不說,謂孔子淫亂也。孔子解之曰:「我所為鄙陋者,天厭殺我。」至誠自誓,不負子路也。

孔子は言った。「私が卑しいことをしたのであれば、天がこれを厭うであろう。天がこれを厭うであろう。」南子は衛の霊公の夫人で、孔子を招いたので、子路は喜ばず、孔子が淫乱であると思った。孔子はこれを解いて言った。「私のしたことが卑しいのであれば、天が厭って私を殺すであろう。」至誠から自ら誓って、子路に背かなかったのである。

問曰:孔子自解,安能解乎?使世人有鄙陋之行,天曾厭殺之,可引以誓;子路聞之,可信以解;今未曾有為天所厭者也,曰天厭之,子路肯信之乎?行事,雷擊殺人,水火燒溺人,牆屋壓填人。如曰雷擊殺我,水火燒溺我,牆屋壓填我,子路頗信之;今引未曾有之禍,以自誓於子路,子路安肯曉解而信之?行事,適有臥厭不悟者,謂此為天所厭邪?案諸臥厭不悟者,未皆為鄙陋也。子路入道雖淺,猶知事之實。事非實,孔子以誓,子路必不解矣。

尋ねたい。孔子が自分で解いたとして、どうして解けたであろうか。もし世の人に卑しい行いがあって、天がかつてそれを厭って殺したというのであれば、それを引いて誓うことができ、子路もそれを聞いて信じて納得できる。いま天が厭った者はこれまでいないのに、天がこれを厭うと言って、子路が信じようとするであろうか。実際にあることとして、雷が人を撃ち殺し、水や火が人を焼き溺れさせ、牆や家屋が人を押し埋める。もし雷が私を撃ち殺し、水や火が私を焼き溺れさせ、牆や家屋が私を押し埋めるであろうと言ったのなら、子路はかなり信じたであろう。いまこれまでなかった禍を引いて子路に自ら誓ったのだから、子路がどうして納得して信じようとするであろうか。実際にあることとして、たまたま寝て金縛りになって目覚めない者がいたとして、これを天が厭ったのだと言うのか。調べてみると、寝て金縛りになって目覚めない者たちはみな卑しいわけではない。子路は道に入ったのが浅いとはいえ、やはり事の実際は知っている。事が実際でないのに孔子が誓ったのだから、子路は必ず納得できなかったであろう。

孔子稱曰:「死生有命,富貴在天。」若此者,人之死生自有長短,不在操行善惡也。成事,顏淵蚤死,孔子謂之短命。由此知短命夭死之人,必有邪行也。子路入道雖淺,聞孔子之言,知死生之實。

孔子は称えて言った。「死生には命があり、富貴は天にある。」こうであれば、人の死生にはもともと長短があるのであって、身の行いの善悪にあるのではない。実際にあったこととして、顔淵が早く死ぬと、孔子はこれを命が短いと言った。このことから、命が短くて若死にする人に必ず邪な行いがあるからではないと分かる。子路は道に入ったのが浅いとはいえ、孔子の言葉を聞いて、死生の実際は知っていたはずである。

孔子誓以「予所鄙者,天厭之」!獨不為子路言:夫子惟命未當死,天安得厭殺之乎?若此,誓子路以天厭之,終不見信。不見信,則孔子自解,終不解也。《尚書》曰:「毋若丹朱敖,惟慢游是好。」謂帝舜敕禹毋(子)〔私〕不肖子也。重天命,恐禹私其子,故引丹朱以敕戒之。禹曰:「予娶若時,辛壬癸甲,開呱呱而泣,予弗子。」

孔子は「私が卑しいことをしたのであれば、天がこれを厭うであろう」と誓った。ただ子路に向かって、先生はただ命がまだ死ぬべき時でないのだから、天がどうして厭って殺せようか、とは言えなかったのである。こうであれば、子路に天がこれを厭うと誓っても、ついに信じてもらえない。信じてもらえなければ、孔子が自分で解いたことは、ついに解けないのである。『尚書』に「丹朱のように傲って、ただ怠けて遊ぶことばかりを好むな」とある。舜帝が禹に、不肖の子を私してはならないと戒めた言葉である。天命を重く見て、禹がその子を私することを恐れたので、丹朱を引いて戒め警めたのである。禹は言った。「私は妻を迎え、辛・壬・癸・甲の四日で啓がおぎゃおぎゃと泣きましたが、私は子として構いませんでした。」

夾注 1

開呱呱而泣

底本は「開」と記している。禹の子の啓を漢の時代に忌んで開と記したものなので、「啓」と読んだ。― 訳者

陳已行事以往推來,以見卜隱,效己不敢私不肖子也。不曰天厭之者,知俗人誓好引天也。孔子為子路(行)所疑,不引行事效己不鄙,而云天厭之,是與俗人解嫌引天祝詛,何以異乎?

すでに行った事を述べ、過ぎたことから来ることを推し、現れたことから隠れたことを見て、自分が不肖の子を私する気はないことを明らかにしたのである。天がこれを厭うと言わなかったのは、俗人が誓いに天を引きたがるのを知っていたからである。孔子は子路に疑われながら、行った事を引いて自分が卑しくないことを明らかにせず、天がこれを厭うと言った。これは俗人が疑いを解くときに天を引いて呪うのと、何が違うのか。

孔子曰:「鳳鳥不至,河不出圖,吾已矣夫。」夫子自傷不王也。己王,致太平;太平則鳳鳥至,河出圖矣。今不得王,故瑞應不至,悲心自傷,故曰「吾已矣夫」。

孔子は言った。「鳳鳥が至らず、河が図を出さない。私はもう終わりだ。」先生が自分で王になれなかったことを傷んだのである。自分が王となれば太平を成し、太平になれば鳳鳥が至り、河が図を出す。いま王になれないので、瑞祥の応えが至らず、悲しい心で自ら傷んだので、「私はもう終わりだ」と言ったのである。

問曰:鳳鳥、河圖,審何據始起?始起之時,鳥、圖未至;如據太平,太平之帝,未必常致鳳鳥與河圖也。五帝、三王,皆致太平。案其瑞應,不皆鳳皇為必然之瑞;於太平,鳳皇為未必然之應。孔子,聖人也,思未必然以自傷,終不應矣。

尋ねたい。鳳鳥と河図とは、まことに何に拠って初めて起こるのか。初めて起こる時には鳥も図もまだ至っていない。もし太平に拠るというなら、太平の帝であっても必ずいつも鳳鳥と河図を至らせたわけではない。五帝・三王はみな太平を成した。その瑞祥の応えを調べると、どれも鳳凰が必ずそうなる瑞であったわけではない。太平にとって鳳凰は、必ずそうとは限らない応えである。孔子は聖人であるのに、必ずそうとは限らないことを思って自ら傷んだのであり、ついに応じない。

或曰:孔子不自傷不得王也,傷時無明王,故己不用也。鳳鳥、河圖,明王之瑞也。瑞應不至,時無明王;明王不存,己遂不用矣。

ある人は言う。孔子は自分が王になれなかったことを傷んだのではなく、時に明王がいないので自分が用いられないことを傷んだのだと。鳳鳥と河図は明王の瑞である。瑞祥の応えが至らないのは時に明王がいないからで、明王が存在しないので自分はついに用いられないのである。

夫致瑞應,何以致之?任賢使能,治定功成;治定功成,則瑞應至矣。瑞應至後,亦不須孔子。孔子所望,何其末也!不思其本而望其末也。

そもそも瑞祥の応えを至らせるのは、何によって至らせるのか。賢者に任せ能ある者を使い、政が定まり功が成る。政が定まり功が成れば、瑞祥の応えは至る。瑞祥の応えが至った後には、もはや孔子は必要ない。孔子が望んだものは、なんと末であることか。その本を思わずにその末を望んだのである。

不相其主而名其物,治有未定,物有不至,以至而效明王,必失之矣。孝文皇帝可謂明矣,案其本紀,不見鳳鳥與河圖。使孔子在孝文之世,猶曰「吾已矣夫」。

その主君を見定めずにその物を名に挙げ、政にまだ定まらないところがあり物に至っていないものがあるのに、物が至ったことで明王を確かめようとすれば、必ず見誤る。孝文皇帝は明と言ってよいが、その本紀を調べても鳳鳥と河図は見えない。もし孔子が孝文の世にいたとしても、やはり「私はもう終わりだ」と言ったであろう。

子欲居九夷,或曰:「陋,如之何?」子曰:「君子居之,何陋之有!」孔子疾道不行於中國,志恨失意,故欲之九夷也。或人難之曰:「夷狄之鄙陋無禮義,如之何?」孔子曰:「君子居之,何陋之有?」言以君子之道居而教之,何為陋乎!

孔子が九夷に住もうとしたとき、ある人が言った。「鄙びているのに、どうなさるのですか。」孔子は言った。「君子が住めば、何の鄙びがあろうか。」孔子は道が中国で行われないことを憎み、志が恨めしく意を失っていたので、九夷に行こうとしたのである。ある人が問い詰めて言った。「夷狄の卑しく鄙びて礼義のないのを、どうなさるのですか。」孔子は言った。「君子が住めば、何の鄙びがあろうか。」君子の道をもって住み、これを教えるなら、どうして鄙びているであろうか、という意味である。

問之曰:孔子欲之九夷者,何起乎?起道不行於中國,故欲之九夷。夫中國且不行,安能行於夷狄?「夷狄之有君,不若諸夏之亡」。言夷狄之難,諸夏之易也。不能行於易,能行於難乎?且孔子云以君子居之者,何謂陋邪,謂修君子之道自容乎,謂以君子之道教之也?如修君子之道苟自容,中國亦可,何必之夷狄?如以君子之道教之,夷狄安可教乎?禹入裸國,裸入衣出,衣服之制不通於夷狄也。禹不能教國衣服,孔子何能使九夷為君子?或孔子實不欲往,患道不行,動發此言。或人難之,孔子知其陋,然而猶曰「何陋之有」者,欲遂已然,距或人之諫也。

尋ねたい。孔子が九夷に行こうとしたのは、どこから起こったのか。道が中国で行われないことから起こったので、九夷に行こうとしたのである。そもそも中国でさえ行われないのに、どうして夷狄で行えようか。「夷狄に君があるのは、諸夏に君がないのに及ばない」とある。夷狄は難しく、諸夏は易しいという意味である。易しいところで行えないのに、難しいところで行えようか。しかも孔子が君子が住めばと言ったのは、何を鄙びているとしているのか。君子の道を修めて自ら身を容れることを言うのか、君子の道でこれを教えることを言うのか。もし君子の道を修めて間に合わせに自ら身を容れるのであれば、中国でもよいのだから、どうして必ず夷狄に行く必要があろうか。もし君子の道でこれを教えるのであれば、夷狄をどうして教えられようか。禹が裸国に入ったとき、裸で入って衣を着て出たのであり、衣服の制度は夷狄には通じない。禹が裸国に衣服を教えられなかったのに、孔子がどうして九夷を君子にできようか。あるいは孔子は実際には行く気がなく、道が行われないことを憂えて、心が動いてこの言葉を発したのである。ある人が問い詰めると、孔子はその鄙びていることを知りながら、なお「何の鄙びがあろうか」と言ったのであり、すでに口にしたことを通そうとして、ある人の諫めを拒んだのである。

實不欲往,志動發言,是偽言也。君子於言無所苟矣。如知其陋,苟欲自遂,此子路對孔子以子羔也。子路使子羔為費宰,子曰:「賊夫人之子。」子路曰:「有社稷焉,有民人焉,何必讀書,然後為學?」

実際には行く気がないのに、志が動いて言葉を発したのであれば、これは偽りの言葉である。君子は言葉において間に合わせにすることがない。もしその鄙びているのを知りながら、間に合わせに自分の言を通そうとしたのであれば、これは子路が子羔のことで孔子に答えたのと同じである。子路が子羔を費の宰にすると、孔子は言った。「あの人の子を害するものだ。」子路は言った。「社稷があり、民人がおります。どうして必ず書を読んでからでなければ学となりましょうか。」

子曰:「是故惡夫佞者。」子路知其不可,苟對自遂,孔子惡之,比夫佞者。孔子亦知其不可,苟應或人。孔子、子路,皆以佞也。

孔子は言った。「だからこそ、あの口達者な者を憎むのだ。」子路はそれが不可であることを知りながら、間に合わせに答えて自分の言を通したので、孔子はこれを憎んで、あの口達者な者になぞらえた。孔子もまたそれが不可であることを知りながら、間に合わせにある人に応じた。孔子と子路は、どちらも口達者であったのである。

孔子曰:「賜不受命而貨殖焉,億則屢中。」何謂不受命乎?說曰:受當富之命,自以術知數億中時也。

孔子は言った。「賜は命を受けないで財を増やし、推し量ればしばしば当たる。」命を受けないとは何を言うのか。説いて言うには、当然富むべき命を受けていないのに、自分の術と知で推し量って時を当てたということである。

夫人富貴在天命乎,在人知也?如在天命,知術求之不能得;如在人,孔子何為言「死生有命,富貴在天」?夫謂富不受命而自知術得之,貴亦可不受命而自以努力求之。世無不受貴命而自得貴,亦知無不受富命而自得富得者。成事,孔子不得富貴矣,周流應聘,行說諸侯,智窮策困,還定《詩》、《書》,望絕無(異)〔翼〕,稱「已矣夫」自知無貴命,周流無補益也。孔子知己不受貴命,周流求之不能得,而謂賜不受富命,而以術知得富,言行相違,未曉其故。

そもそも人の富貴は天の命にあるのか、人の知にあるのか。もし天の命にあるのなら、知や術で求めても得られないし、もし人にあるのなら、孔子はなぜ「死生には命があり、富貴は天にある」と言ったのか。そもそも富は命を受けずに自分の知と術で得られると言うのなら、貴もまた命を受けずに自分の努力で求められるはずである。世に貴くなる命を受けないで自分で貴さを得た者はいないのだから、富む命を受けないで自分で富を得た者もいないと分かる。実際にあったこととして、孔子は富貴を得られず、各地を巡って招きに応じ、諸侯に説いて回ったが、知は窮し策は困り、帰って『詩』と『書』を定め、望みは絶えて翼もなく、「もう終わりだ」と言った。自分に貴くなる命がなく、巡り歩いても益がないと知ったのである。孔子は自分が貴くなる命を受けておらず、巡り歩いて求めても得られないと知っていながら、賜は富む命を受けないで術と知によって富を得たと言うのであり、言葉と行いが互いに食い違っていて、その理由が分からない。

或曰:欲攻子貢之短也。子貢不好道德而徒好貨殖,故攻其短,欲令窮服而更其行節。夫攻子貢之短,可言賜不好道德而貨殖焉,何必立不受命,與前言富貴在天相違反也?

ある人は言う。子貢の短所を攻めようとしたのである。子貢は道徳を好まずにただ財を増やすことを好んだので、その短所を攻めて、窮して服させ、その行いと節操を改めさせようとしたのだと。そもそも子貢の短所を攻めるなら、賜は道徳を好まずに財を増やしていると言えばよいのであって、どうして必ず命を受けていないと立てて、さきに言った富貴は天にあるという言葉と互いに食い違わせる必要があろうか。

顏淵死,子曰:「噫!天喪予!」此言人將起,天與之輔;人將廢,天奪其佑。孔子有四友,欲因而起,顏淵早夭,故曰「天喪予「」。

顔淵が死ぬと、孔子は言った。「ああ、天が私を滅ぼした。」この言葉は、人が立ち上がろうとするときには天が助けを与え、人が倒れようとするときには天がその助けを奪うということである。孔子には四人の友があり、それによって立ち上がろうとしていたのに、顔淵が早く死んだので、「天が私を滅ぼした」と言ったのである。

問曰:顏淵之死,孔子不王,天奪之邪,不幸短命自為死也?如短命不幸,不得不死,孔子雖王,猶不得生。輔之於人,猶杖之扶疾也。人有病,須杖而行;如斬杖本得短,可謂天使病人不得行乎?如能起行,杖短能使之長乎?夫顏淵之短命,猶杖之短度也。且孔子言「天喪予」者,以淵賢也。案賢者在世,未必為輔也。夫賢者未必為輔,猶聖人未必受命也。為帝有不聖,為輔有不賢。何則?祿命、骨法,與才異也。由此言之,顏淵生未必為輔,其死未必有喪。孔子云「天喪予」,何據見哉?且天不使孔子王者,本意如何?本稟性命之時,不使之王邪,將使之王,復中悔之也?如本不使之王,顏淵死,何喪?如本使之王,復中悔之,此王無骨法,便宜自在天也。且本何善所見而使之王?後何惡所聞,中悔不命?天神論議誤不諦也。

尋ねたい。顔淵の死は、孔子が王になれないように天が奪ったのか、それとも不幸に命が短くて自然に死んだのか。もし命が短く不幸で死なずにいられなかったのなら、孔子がいかに王になっても、やはり生かすことはできない。人を助けることは、杖が病人を支えるのと同じである。人が病めば杖をついて歩く。もし杖の根元を切って短くなったからといって、天が病人を歩けないようにしたと言えようか。もし立って歩けるのなら、短い杖を長くできるであろうか。そもそも顔淵の短い命は、杖の短い丈と同じである。しかも孔子が「天が私を滅ぼした」と言ったのは、淵が賢かったからである。調べてみると、賢者が世にあっても、必ずしも輔けとなるわけではない。そもそも賢者が必ず輔けとならないのは、聖人が必ず命を受けるわけではないのと同じである。帝となっても聖でない者があり、輔けとなっても賢でない者がある。なぜか。禄命と骨法とは、才とは別のものだからである。このことから言えば、顔淵が生きていても必ず輔けとなったとは限らず、その死によって必ず失うものがあったとも限らない。孔子が「天が私を滅ぼした」と言ったのは、何に拠って見定めたのか。しかも天が孔子を王にしなかったのは、もともとの意はどうであったのか。もともと性命を授けるときに王にしないつもりであったのか、それとも王にしようとして、途中で思い直したのか。もともと王にしないつもりであったのなら、顔淵が死んで何を失うのか。もともと王にしようとして途中で思い直したのなら、この王位には骨法がなく、都合次第で天のもとにあるということになる。しかももともとどんな善を見て王にしようとし、後にどんな悪を聞いて途中で思い直して命じなかったのか。天の神の論議は誤っていて、詳らかでない。

孔子之衛,遇舊館人之喪,入而哭之,出使子貢脫驂而賻之。子貢曰:「於門人之喪,未有所脫驂。脫驂於舊館,毋乃已重乎?」孔子曰:「予鄉者入而哭之,遇於一哀而出涕,予惡夫涕之無從也,小子行之。」

孔子が衛に行き、昔の宿の主人の喪に遭い、入って哭し、出てから子貢に添え馬をはずして香典にさせた。子貢は言った。「門人の喪にも添え馬をはずしたことはありません。昔の宿の主人に添え馬をはずすのは、重すぎはしませんか。」孔子は言った。「私はさきほど入って哭し、ひとつの哀しみに触れて涙が出た。私は涙に従うものがないのを憎むのだ。おまえ、やりなさい。」

孔子脫驂以賻舊館者,惡情不副禮也。副情而行禮,情起而恩動,禮情相應,君子行之。顏淵死,子哭之慟。門人曰:「子慟矣。」「吾非斯人之慟而誰為?」

孔子が添え馬をはずして昔の宿の主人に香典としたのは、情が礼に伴わないのを憎んだのである。情に伴わせて礼を行い、情が起こって恩が動く。礼と情が互いに応ずるのを、君子は行う。顔淵が死ぬと、孔子は哭して身をよじるほど悲しんだ。門人が言った。「先生は悲しみが極まっておられます。」「私がこの人に悲しまないで、誰のために悲しむのか。」

夫慟,哀之至也。哭顏淵慟者,殊之眾徒,哀痛之甚也。死有棺無槨,顏路請車以為之槨,孔子不予,為大夫不可以徒行也。吊舊館脫驂以賻,惡涕無從;哭顏淵慟,請車不與,使慟無副。豈涕與慟殊,馬與車異邪?於彼則禮情相副,於此則恩義不稱,未曉孔子為禮之意。

そもそも慟は哀しみの極まりである。顔淵を哭して慟したのは、他の弟子たちとは別にして、哀しみと痛みが甚だしかったのである。その死に棺はあったが槨がなく、顔路が車を請うてそれで槨を作ろうとしたが、孔子は与えなかった。大夫となった者は歩いて行くわけにはいかないからである。昔の宿の主人を弔って添え馬をはずして香典としたのは、涙に従うものがないのを憎んだのであり、顔淵を哭して慟しながら車を請われて与えなかったのは、慟に伴うものがないままにしたのである。いったい涙と慟とが別のもので、馬と車とが違うものであろうか。あちらでは礼と情が互いに伴い、こちらでは恩と義が釣り合っていない。孔子が礼を行った意が分からない。

孔子曰:「鯉也死,有棺無槨,吾不徒行以為之槨。」鯉之恩深於顏淵,鯉死無槨,大夫之儀,不可徒行也。鯉,子也;顏淵,他姓也。子死且不禮,況其禮他姓之人乎?

孔子は言った。「鯉が死んだとき、棺はあったが槨はなかった。私は歩いて行くことにしてまで槨を作りはしなかった。」鯉への恩は顔淵より深いのに、鯉が死んだとき槨がなかったのは、大夫の儀では歩いて行くわけにはいかないからである。鯉は子であり、顔淵は他姓である。子が死んでさえ礼を尽くさなかったのに、まして他姓の人に礼を尽くすであろうか。

曰:是蓋孔子實恩之效也。副情於舊館,不稱恩於子,豈以前為士,後為大夫哉?如前為士,士乘二馬;如為大夫,大夫乘三馬。

答える。これは孔子の実際の恩のあらわれである。昔の宿の主人には情に伴わせ、子には恩に釣り合わなかったのは、どうして前は士で後は大夫になったからだと言えようか。もし前が士であったのなら、士は馬二頭を用いる。もし大夫であったのなら、大夫は馬三頭を用いる。

大夫不可去車徒行,何不截賣兩馬以為槨,乘其一乎?為士時乘二馬,截一以賻舊館,今亦何不截其二以副恩,乘一以解不徒行乎?不脫馬以賻舊館,未必亂制。葬子有棺無槨,廢禮傷法。孔子重賻舊人之恩,輕廢葬子之禮。此禮得於他人,制失〔於〕親子也。然則孔子不粥車以為鯉槨,何以解於貪官好仕恐無車?而自云」君子殺身以成仁「,何難退位以成禮?

大夫が車を捨てて歩いて行けないのであれば、どうして二頭の馬を切り離して売って槨を作り、残りの一頭に乗らなかったのか。士であった時は馬二頭を用い、一頭を切り離して昔の宿の主人に香典としたのだから、いまもまたどうしてその二頭を切り離して恩に伴わせ、一頭に乗って歩いて行かずに済ませなかったのか。馬をはずして昔の宿の主人に香典としなくても、必ずしも制を乱すことにはならない。子を葬るのに棺はあって槨がないのは、礼を廃し法をそこなうことである。孔子は昔なじみに香典する恩を重く見て、子を葬る礼を軽く廃したのである。これは礼を他人において得て、制を実の子において失ったのである。とすれば孔子が車を売って鯉の槨を作らなかったことは、官を貪り仕えることを好んで車がなくなるのを恐れたという非難から、どう解くのか。それでいて自分では「君子は身を殺して仁を成す」と言うのだから、どうして位を退いて礼を成すことを難しがるのか。

子貢問政,子曰:「足食,足兵,民信之矣。」曰:「必不得已而去,於斯三者何先?」

子貢が政を尋ねると、孔子は言った。「食を足らせ、兵を足らせれば、民はこれを信じる。」子貢は言った。「どうしてもやむをえず捨てるなら、この三つのうち何を先にしますか。」

曰:「去兵。」曰:「必不得已而去,於斯二者何先?」曰:「去食。自古皆有死,民無信不立。」信最重也。

孔子は言った。「兵を捨てる。」子貢は言った。「どうしてもやむをえず捨てるなら、この二つのうち何を先にしますか。」孔子は言った。「食を捨てる。昔から誰にも死はあるが、民は信がなければ立たない。」信が最も重いということである。

問:使治國無食,民餓,棄禮義;禮義棄,信安所立?傳曰:「倉稟實,知禮節;衣食足,知榮辱。讓生於有餘,爭生於不足。」今言去食,信安得成?春秋之時,戰國飢餓,易子而食,析骸而炊,口飢不食,不暇顧恩義也。夫父子之恩,信矣。飢餓棄信,以子為食。孔子教子貢去食存信,如何?夫去信存食,雖不欲信,信自生矣;去食存信,雖欲為信,信不立矣。

尋ねたい。国を治めるのに食がなく、民が飢えれば礼義を捨てる。礼義を捨てれば、信はどこに立つのか。伝に「倉が満ちてこそ礼節を知り、衣食が足りてこそ栄辱を知る。譲りは余りあるところから生じ、争いは足りないところから生じる」とある。いま食を捨てると言うのだから、信がどうして成るであろうか。春秋の時代、戦う国々が飢えて、子を取り替えて食い、骸を割いて炊いだ。口が飢えて食えなければ、恩や義を顧みる余裕はない。そもそも父と子の恩は信である。飢えれば信を捨てて子を食い物とする。孔子が子貢に食を捨てて信を保てと教えたのは、どういうことか。そもそも信を捨てて食を保てば、信を求めなくても信はおのずから生じ、食を捨てて信を保てば、信を成そうとしても信は立たないのである。

子適衛,冉子仆,子曰:「庶矣哉!」曰:「既庶矣,又何加焉?」曰:「富之。」曰:「既富矣,又何加焉?」曰:「教之。」語冉子先富而後教之,教子貢去食而存信。食與富何別?信與教何異?二子殊教,所尚不同,孔子為國,意何定哉?

孔子が衛に行くとき、冉子が車を御していると、孔子は言った。「人が多いことだ。」冉子は言った。「すでに多ければ、さらに何を加えますか。」「富ませる。」「すでに富めば、さらに何を加えますか。」「教える。」冉子には先に富ませて後に教えると言い、子貢には食を捨てて信を保てと教えた。食と富とは何が違い、信と教とは何が違うのか。二人に教えを異にして尊ぶところが同じでないのだから、孔子が国を治めるにあたって、意はどこに定まっていたのか。

蘧伯玉使人於孔子,孔子曰:「夫子何為乎?」對曰:「夫子欲寡其過而未能也。」使者出,孔子曰:「使乎!使乎!」非之也。說《論語》者,曰:「非之者,非其代人謙也。」

蘧伯玉が孔子のもとに人を遣わすと、孔子は言った。「ご主人は何をしておられるか。」使者は答えた。「主人はその過ちを少なくしようとしていますが、まだできません。」使者が出ると、孔子は言った。「使者よ、使者よ。」これをよくないとしたのである。『論語』を説く者は「よくないとしたのは、彼が主人に代わって謙遜したことをよくないとしたのだ」と言う。

夫孔子之問使者曰「夫子何為」,問所治為,非問操行也。如孔子之問也,使者宜對曰「夫子為某事,治某政」,今反言「欲寡其過而未能也」,何以知其對(不)失指,孔子非之也?且實孔子何以非使者,非其代人謙之乎?其非乎對失指也?所非猶有一實,不明其過,而徒云「使乎使乎」,後世疑惑,不知使者所以為過。韓子曰:「書約則弟子辨。」孔子之言「使乎」,何其約也?

そもそも孔子が使者に「ご主人は何をしておられるか」と尋ねたのは、治めている事柄を尋ねたのであって、身の行いを尋ねたのではない。孔子の問いのとおりであれば、使者は当然「主人はこれこれの事をし、これこれの政を治めております」と答えるべきであったのに、いま逆に「その過ちを少なくしようとしていますが、まだできません」と言ったのだから、その答えが趣旨を外して孔子がよくないとしたのだと、どうして分かるのか。しかも実際に孔子は何によって使者をよくないとしたのか。彼が主人に代わって謙遜したことをよくないとしたのか、その答えが趣旨を外したことをよくないとしたのか。よくないとした点には何か一つの実があるはずなのに、その過ちを明らかにせず、ただ「使者よ、使者よ」と言うだけだから、後世は疑い惑って、使者が過ちとされた理由が分からない。韓子は言った。「書が簡略であれば弟子が言い争う。」孔子の「使者よ」という言葉は、なんと簡略であることか。

或曰:「《春秋》之義也,為賢者諱。蘧伯玉賢,故諱其使者。」夫欲知其子視其友,欲知其君視其所使。伯玉不賢,故所使過也。《春秋》之義,為賢者諱,亦貶纖介之惡。今不非而諱,貶纖介安所施哉?使孔子為伯玉諱,宜默而已。揚言曰「使乎使乎」,時人皆知孔子之非也。出言如此,何益於諱?

ある人は言う。「『春秋』の義は賢者のために言葉を避ける。蘧伯玉は賢いので、その使者について言葉を避けたのだ。」そもそもその子を知ろうとすればその友を見、その君を知ろうとすればその遣わす者を見る。伯玉が賢くないので、遣わした者が過ちを犯したのである。『春秋』の義は賢者のために言葉を避けるが、同時にごくわずかな悪もそぎ落とす。いまよくないとせずに言葉を避けるのなら、ごくわずかなものをそぎ落とすことは、どこに用いるのか。もし孔子が伯玉のために言葉を避けたのであれば、当然黙っているだけであるべきだ。声を上げて「使者よ、使者よ」と言ったので、当時の人はみな孔子がよくないとしたことを知った。言葉を出すことがこうであれば、避けることに何の益があるのか。

佛召,子欲往。子路不說,曰:「昔者,由也聞諸夫子曰:『親於其身為不善者,君子不入也。』佛以牟畔,子之往也如之何?」子曰:「有是〔言〕也。不曰堅乎?磨而不磷;不曰白乎?涅而不淄。吾豈匏瓜也哉,焉能繫而不食也?」

佛肸が招くと、孔子は行こうとした。子路は喜ばず、言った。「以前、由は先生からこう聞きました。『自ら身をもって善くないことをする者のところには、君子は入らない。』佛肸は中牟によって叛いたのに、先生が行かれるのはどういうことですか。」孔子は言った。「そういう言葉はある。堅いと言わないか、磨いても薄くならない。白いと言わないか、染めても黒くならない。私はひょうたんではないのだから、どうして掛けられたまま食われずにいられようか。」

子路引孔子往時所言以非孔子也。往前孔子出此言,欲令弟子法而行之,子路引之以諫,孔子曉之,不曰「前言戲」,若非而不可行,而曰「有是言」者,審有當行之也。「不曰堅乎?磨而不磷;不曰白乎?涅而不淄」,孔子言此言者,能解子路難乎?「親於其身為不善者,君子不入也」,解之,宜〔曰〕:佛未為不善,尚猶可入。

子路は孔子が以前に言った言葉を引いて孔子をよくないとしたのである。以前に孔子がこの言葉を出したのは、弟子にこれを手本として行わせようとしたのであり、子路がそれを引いて諫めたので、孔子は諭したのだが、「前の言葉は戯れだった」とも、よくないから行えないとも言わず、「そういう言葉はある」と言ったのだから、まことに行うべきものがあるのである。「堅いと言わないか、磨いても薄くならない。白いと言わないか、染めても黒くならない」――孔子がこの言葉を言ったことで、子路の問い詰めを解けるであろうか。「自ら身をもって善くないことをする者のところには、君子は入らない」を解くのであれば、当然、佛肸はまだ善くないことをしたのではないから、やはり入ってよいと言うべきである。

而曰「堅磨而不磷,白涅而不淄」。如孔子之言,有堅白之行者可以入之,君子之行軟而易污邪,何以獨不入也?孔子不飲盜泉之水,曾子不入勝母之閭,避惡去污,不以義恥辱名也。盜泉、勝母有空名,而孔、曾恥之;佛有惡實,而子欲往。不飲盜泉是,則欲對佛非矣。「不義而富且貴,於我如浮雲」,枉道食篡畔之祿,所謂「浮雲」者非也?或權時欲行道也?即權時行道,子路難之,當云「行道」,不〔當〕言食。有權時以行道,無權時以求食。「吾豈匏瓜也哉,焉能繫而不食」,自比以匏瓜者,言人當仕而食祿。我非匏瓜繫而不食,非子路也。孔子之言,不解子路之難。子路難孔子,豈孔子不當仕也哉?當擇善國而入之也。孔子自比匏瓜,孔子欲安食也。且孔之言,何其鄙也!

ところが「堅いから磨いても薄くならず、白いから染めても黒くならない」と言った。孔子の言葉のとおりであれば、堅く白い行いのある者は入ってよいのだから、君子の行いは軟らかくて汚れやすいのか、どうしてひとり入らないのか。孔子は盗泉の水を飲まず、曾子は勝母の里に入らなかった。悪を避け汚れを去って、義でないことで名を辱めなかったのである。盗泉と勝母はただ名が空しくあるだけなのに孔子と曾子はこれを恥じ、佛肸には悪の実があるのに孔子は行こうとした。盗泉を飲まなかったことが正しいのなら、佛肸のところへ行こうとしたことは誤りである。「義でなくて富み貴いのは、私にとって浮雲のようなものだ」と言ったのだから、道を曲げて簒奪し叛いた者の禄を食べることが、いわゆる「浮雲」ではないのか。あるいは時に応じて道を行おうとしたのか。もし時に応じて道を行おうとしたのであれば、子路が問い詰めたとき当然「道を行う」と言うべきで、食べると言うべきではない。時に応じて道を行うことはあっても、時に応じて食を求めることはない。「私はひょうたんではないのだから、どうして掛けられたまま食われずにいられようか」と自分をひょうたんになぞらえたのは、人は当然仕えて禄を食べるべきだという意味である。私はひょうたんではないから掛けられたまま食われずにはいられないというのは、子路をよくないとしたのである。孔子の言葉は子路の問い詰めを解いていない。子路が孔子を問い詰めたのは、どうして孔子は仕えるべきでないということであろうか。当然善い国を選んで入るべきだということである。孔子が自分をひょうたんになぞらえたのは、孔子が安らかに食べようとしたのである。しかも孔子の言葉は、なんと卑しいことか。

何彼仕為食哉?君子不宜言也。匏瓜繫而不食,亦繫而不仕等也。距子路可云「吾豈匏瓜也哉,繫而不仕也」。今吾繫而不食,孔子之仕,不為行道,徒求食也。人之仕也,主貪祿也。禮義之言,為行道也。猶人之娶也,主為欲也;禮義之言,為供親也。仕而直言食,娶可直言欲乎?孔子之言,解情而無依違之意,不假義理之名,是則俗人,非君子也。儒者說孔子周流,應聘不濟,閔道不行,失孔子情矣。

どうしてあの仕えることが食べるためであろうか。君子は当然そう言わないはずである。ひょうたんが掛けられたまま食われないのは、掛けられたまま仕えないことと同じである。子路を拒むのであれば「私はひょうたんではないのだから、掛けられたまま仕えずにいられようか」と言えばよい。いま私は掛けられたまま食われずにいられようかと言ったのだから、孔子の仕えることは道を行うためではなく、ただ食を求めることである。人が仕えるのは、主には禄を貪るからである。礼義の言葉では、道を行うためだとする。人が妻を迎えるのは主には欲のためで、礼義の言葉では親に供えるためだとするのと同じである。仕えるにあたって直に食べるためと言うのなら、妻を迎えるにあたって直に欲のためと言えるであろうか。孔子の言葉は情をそのまま出して、頼ったり違えたりする意がなく、義理の名を借りてもいない。これでは俗人であって、君子ではない。儒者が、孔子は各地を巡って招きに応じたが成らず、道が行われないことを憂えたのだと説くのは、孔子の情を取り損なっている。

公山弗擾以費畔,召,子欲往。子路曰:「未如也已,何必公山氏之之也?」子曰:「夫召我者,而豈徒哉?如用我,吾其為東周乎。」

公山弗擾が費によって叛き、招くと、孔子は行こうとした。子路は言った。「行くところがなければそれまでのこと、どうして必ず公山氏のところへ行かれるのですか。」孔子は言った。「そもそも私を招く者が、どうして意味もなくそうしようか。もし私を用いるなら、私は東周を作るであろう。」

為東周,欲行道也。

東周を作るとは、道を行おうとすることである。

公山、佛俱畔者,行道於公山,求食於佛,孔子之言無定趨也。言無定趨,則行無常務矣。周流不用,豈獨有以乎?陽貨欲見之不見,呼之仕不仕,何其清也。公山、佛召之欲往,何其濁也!公山不擾與陽虎俱畔,執季桓子,二人同惡,呼召禮等。獨對公山,不見陽虎,豈公山尚可,陽虎不可乎?子路難公山之(名)〔召〕,孔子宜解以尚及佛未甚惡之狀也

公山と佛肸はどちらも叛いた者であるのに、公山のもとでは道を行い、佛肸のもとでは食を求めるというのだから、孔子の言葉には定まった向かうところがない。言葉に定まった向かうところがなければ、行いに常に努めるものがない。各地を巡っても用いられなかったのは、どうしてひとりだけ理由があろうか。陽虎が会おうとしても会わず、仕えよと呼んでも仕えなかったのは、なんと清いことか。公山と佛肸が招くと行こうとしたのは、なんと濁っていることか。公山不擾は陽虎とともに叛いて季桓子を捕らえたのであり、二人は悪が同じで、招く礼も等しい。それなのにひとり公山には応じて陽虎には会わなかったのだから、どうして公山はまだよくて陽虎はいけないのか。子路が公山の招きを問い詰めたのだから、孔子は当然、佛肸の場合のようにまだ甚だしく悪くはないという有様をもって解くべきであった。

夾注 1

陽貨

底本はこの箇所を陽貨とし、同じ節の後では陽虎と記している。同一人物なので、言毒篇に出る「陽虎」に合わせた。― 訳者