刺孟篇
孟子見梁惠王,王曰:「叟!不遠千里而來,將何以利吾國乎?」孟子曰:「仁義而已,何必曰利。」
孟子が梁の恵王に会うと、王は言った。「ご老人、千里を遠いとせずに来られたのだから、これから何によって我が国を利してくださるのか。」孟子は言った。「仁義だけです。どうして必ず利とおっしゃるのですか。」
夫利有二,有貨財之利,有安吉之利。惠王曰「何以利吾國」,何以知不欲安吉之利,而孟於徑難以貨財之利也?《易》曰:「利見大人」,「利涉大川」,「《乾》,元享利貞」。《尚書》曰:「黎民亦尚有利哉。」皆安吉之利也。行仁義,得安吉之利。孟子(不)〔必〕且語問惠王何謂利吾國,惠王言貨財之利,乃可答。
そもそも利には二つある。貨財の利があり、安らかで吉いことの利がある。恵王が「何によって我が国を利するか」と言ったのに、安らかで吉いことの利を望んでいるのではないと、どうして分かって、孟子はいきなり貨財の利で問い詰めたのか。『易』に「大人に見るのが利い」「大川を渉るのが利い」「乾は元亨利貞である」とあり、『尚書』に「黎民にもなお利があろう」とある。どれも安らかで吉いことの利である。仁義を行えば、安らかで吉いことの利を得る。孟子は必ずまず恵王に、我が国を利するとはどういう意味かと尋ね、恵王が貨財の利を言ったのであれば、そこで答えればよかったのである。
若設令惠王問,未知何趣,孟子徑答以貨財之利。如惠王實問貨財,孟子(無)〔有〕以驗效也;如問安吉之利,而孟子答以貨財之利,失對上之指,違道理之實也。
仮に恵王が尋ねたとき、どういう趣旨か分からないまま、孟子がいきなり貨財の利で答えたとすれば、恵王が実際に貨財を尋ねたのであれば孟子には確かめる根拠があるが、安らかで吉いことの利を尋ねたのに孟子が貨財の利で答えたのであれば、上の者に答える趣旨を外し、道理の実に違ったのである。
齊王問時子:「我欲中國而授孟子室,養弟子以萬鐘,使諸大夫國人皆有所矜式。子盍為我言之。」時子因陳子而以告孟子。孟子曰:「夫時子惡知其不可也?如使予欲富,辭十萬而受萬,是為欲富乎?」
斉王が時子に言った。「私は国の中央に孟子に邸を与え、弟子を万鐘で養って、諸大夫や国の人々がみな仰いで手本とするものを持つようにしたい。おまえはどうして私のためにそれを言ってくれないのか。」時子は陳子を通して孟子に伝えた。孟子は言った。「そもそも時子はどうしてそれが不可だと分かろうか。もし私が富みたいと思うのなら、十万を辞して万を受けることが、富みたいと思うことになろうか。」
夫孟子辭十萬,失謙讓之理也。夫富貴者,人之所欲也,不以其道得之,不居也。故君子之於爵祿也,有所辭,有所不辭,豈以己不貪富貴之故,而以距逆宜當受之賜乎?
そもそも孟子が十万を辞したのは、謙譲の理を失ったのである。そもそも富貴は人の欲するものであるが、その道によって得たのでなければそこに居らない。だから君子は爵禄について、辞するものがあり辞しないものがある。どうして自分が富貴を貪らないという理由で、当然受けるべき賜りものを拒んで逆らうであろうか。
陳臻問曰:「於齊,王餽兼金一百鎰而不受;於宋,歸七十鎰而受;於薛,歸五十鎰而受。
陳臻が尋ねた。「斉では王が兼金百鎰を贈ったのを受けず、宋では七十鎰を贈られて受け、薛では五十鎰を贈られて受けられました。
取前日之不受是,則今受之非也。今日之受是,則前日之不受非也。夫(君)子必居一於此矣。」孟子曰:「皆是也。當在宋也,予將有遠行,行者必以贐,辭曰歸贐,予何為不受?當在薛也,予有戒心,辭曰聞戒,故為兵戒歸之備乎,予何為不受?若於齊,則未有處也,無處而歸之,是貨之也,焉有君子而可以貨取乎?」
先日受けられなかったのが正しいのであれば、今日受けられたのは誤りです。今日受けられたのが正しいのであれば、先日受けられなかったのは誤りです。そもそも先生は必ずこのどちらかにあるはずです。」孟子は言った。「どちらも正しい。宋にいたときは、私はこれから遠い旅に出ようとしていた。旅立つ者には必ず路銀を贈るもので、路銀を差し上げると言ったのだから、私がどうして受けないであろうか。薛にいたときは、私に警戒する心があった。警戒していると聞いたので、兵の備えのためにと言って贈られたのだから、私がどうして受けないであろうか。斉の場合は、拠るところがなかった。拠るところがないのに贈るのは、金で買うということである。どうして君子でありながら金で買われてよいであろうか。」
夫金歸或受或不受,皆有故。非受之時已貪,當不受之時己不貪也。金有受不受之義,而室亦宜有受不受之理。今不曰己無功,若己致仕受室非理;而曰己不貪富,引前辭十萬以況後萬。
そもそも金を贈られて受けたり受けなかったりしたのには、どちらにも理由がある。受けたときに自分が貪ったのでもなく、受けなかったときに自分が貪らなかったのでもない。金に受けると受けないの義があるのであれば、邸にも当然受けると受けないの理があるはずである。いま自分に功がないとも、自分が仕を辞して邸を受けるのは理でないとも言わずに、自分は富を貪らないと言って、前の十万を辞したことを引いて後の万にたとえた。
前當受十萬之多,安得辭之?
前に当然十万という多さを受けるべきであったのなら、どうしてそれを辞するのか。
彭更問曰:「後車數十乘,從者數百人,以傳食於諸侯,不亦泰乎?」孟子曰:「非其道,則一簞食而不可受於人;如其道,則舜受堯之天下,不以為泰。」
彭更が尋ねた。「後に従う車が数十乗、従う者が数百人で、諸侯のもとを巡って食を取るのは、また行き過ぎではありませんか。」孟子は言った。「その道でなければ、一椀の飯でも人から受けてはならない。その道であれば、舜が堯の天下を受けても行き過ぎとはしない。」
受堯天下,孰與十萬?舜不辭天下者,是其道也。今不曰受十萬非其道,而曰己不貪富貴,失謙讓也。安可以為戒乎?
堯の天下を受けることは、十万に比べてどうなのか。舜が天下を辞さなかったのは、それがその道であったからである。いま十万を受けることがその道でないと言わずに、自分は富貴を貪らないと言うのだから、謙譲を失っている。どうして手本とできるであろうか。
沈同以其私問曰:「燕可伐與?」孟子曰:「可。子噲不得與人燕,子之不得受燕於子噲。有士於此,而子悅之,不告於王,而私與之子之爵祿。夫士也,亦無王命而私受之,於子,則可乎?何以異於是。」齊人伐燕,或問曰:「勸齊伐燕,有諸?」曰:「未也。沈同曰:『燕可伐與?『吾應之曰:『可。』彼然而伐之。如曰:『孰可以伐之?『則應之曰:『為天吏則可以伐之。』今有殺人者,或問之曰:『人可殺與?『則將應之曰:『可。』彼如曰:『孰可以殺之?『則應之曰:『為士師則可以殺之。』今以燕伐燕,何為勸之也?」
沈同が私的な立場で尋ねた。「燕は討ってよいでしょうか。」孟子は言った。「よい。子噲は人に燕を与えることはできず、子之は子噲から燕を受けることはできない。ここに士がいて、あなたがその者を気に入り、王に告げずに私的にあなたの爵禄を与えたとしよう。そしてその士もまた王の命がないのに私的にあなたから受けたとしたら、あなたにとってそれはよいことか。これと何が違うのか。」斉の人が燕を討つと、ある人が尋ねた。「斉に燕を討つよう勧めたというのは、本当ですか。」孟子は言った。「違う。沈同が『燕は討ってよいでしょうか』と言ったので、私は『よい』と応じた。彼らはそうかと思って討った。もし『誰が討ってよいのですか』と言ったなら、『天の吏となればこれを討ってよい』と応じたであろう。いま人を殺した者がいて、ある人が『その人は殺してよいでしょうか』と尋ねれば、『よい』と応じるであろう。彼がもし『誰が殺してよいのですか』と言えば、『士師となれば殺してよい』と応じるであろう。いま燕のようなものが燕を討ったのであって、どうして私が勧めたことになろうか。」
夫或問孟子勸王伐燕,不誠是乎?沈同問「燕可伐與」,此挾私意欲自伐之也。知其意慊於是,宜曰:「燕雖可伐,須為天吏乃可以伐之。」沈同意絕,則無伐燕之計矣。不知有此私意而徑應之,不省其語,是不知言也。
そもそもある人が、孟子が王に燕を討つよう勧めたのかと尋ねたのは、まことに正しいのではないか。沈同が「燕は討ってよいか」と尋ねたのは、私意を抱いて自分たちで討とうとしたのである。その意がそこに向いていると分かっていたなら、当然「燕は討ってよいとはいえ、天の吏となってはじめて討ってよい」と言うべきであった。沈同の意が絶たれれば、燕を討つ計はなかったであろう。この私意があることを知らずにいきなり応じ、その言葉を省みなかったのだから、これは言葉を知らないということである。
公孫丑問曰:「敢問夫子惡乎長?」孟子曰:「我知言。」又問:「何謂知言?」曰:「辭知其所蔽,淫辭知其所陷,邪辭知其所離,遁辭知其所窮。生於其心,害於其政,發於其政,害於其事,雖聖人復起,必從吾言矣。」孟子知言者也,又知言之所起之禍,其極所致之(福)〔害〕,見彼之問,則知其措辭所欲之矣。知其所之,則知其極所當害矣。
公孫丑が尋ねた。「あえて伺いますが、先生は何に長じておられますか。」孟子は言った。「私は言葉を知っている。」また尋ねた。「言葉を知るとはどういう意味ですか。」孟子は言った。「偏った言葉からはその覆われているところを知り、淫らな言葉からはその陥っているところを知り、邪な言葉からはその離れているところを知り、言い逃れの言葉からはその窮しているところを知る。それはその心に生じて、その政を害し、その政に発して、その事を害する。たとえ聖人がまた現れても、必ず私の言葉に従うであろう。」孟子は言葉を知る者であり、また言葉が引き起こす禍と、それが極まって至る害とを知るのだから、相手の問いを見れば、その言葉の置き方が何をしようとしているのか分かったはずである。その向かうところが分かれば、それが極まって当然害するところも分かる。
孟子有云:「民舉安,王庶幾改諸!予日望之。」孟子所去之王,豈前所不朝之王哉?而是,何其前輕之疾而後重之甚也?如非是,前王則不去,而於後去之,是後王不肖甚於前;而去三日宿,於前不甚,不朝而宿於景丑氏,何孟子之操前後不同,所以為王,終始不一也?
孟子は「民はみな安らかになろう。王もおそらく改められよう。私は日々それを望んでいる」と言った。孟子が去ったその王は、以前に朝見しなかったあの王ではないのか。もしそうであれば、どうして以前は軽く憎み、後には重く思うことが甚だしいのか。もしそうでないなら、前の王のときは去らずに後になって去ったのだから、後の王の不肖が前より甚だしいということになるのに、去るにあたって三日泊まり、前の王のときは甚だしくなかったのに朝見せずに景丑氏のところに泊まったのだから、どうして孟子の身の行いは前と後とで同じでなく、王に対する態度が始めと終わりで一つでないのか。
且孟子在魯,魯平公欲見之,嬖人臧倉毀孟子,止平公。樂正子以告。曰:「行或使之,止或尼之,行止非人所能也。予之不遇魯侯,天也!」前不遇於魯,後不遇於齊,無以異也。前歸之天,今則歸之於王。孟子論稱竟何定哉?夫不行於齊,王不用,則若臧倉之徒毀讒之也。此亦止或尼之也,皆天命不遇,非人所能也。去,何以不徑行而留三宿乎?天命不當遇於齊,王不用其言,天豈為三日之間易命使之遇乎?在魯則歸之於天,絕意無冀;在齊則歸之於王,庶幾有望。夫如是,不遇之議一在人也。
しかも孟子が魯にいたとき、魯の平公が会おうとしたのに、側近の臧倉が孟子を謗って平公を止めた。楽正子がそれを告げた。孟子は言った。「行くのは何かがそうさせ、止まるのは何かがそれを妨げる。行くも止まるも人のできることではない。私が魯侯に遇わないのは、天である。」前に魯で遇わず、後に斉で遇わなかったことには違いがない。前には天に帰し、いまは王に帰した。孟子の論ずるところは、結局どこで定まるのか。そもそも斉で行われず王が用いなかったのは、臧倉の輩が謗ったのと同じである。これもまた止まるのを妨げるものであり、どちらも天の命が遇わせなかったのであって、人のできることではない。去るにあたって、どうしてまっすぐ行かずに三晩とどまったのか。天の命が斉で遇わないことになっていて王がその言を用いなかったのに、天がどうして三日のあいだに命を変えて遇わせるであろうか。魯では天に帰して意を絶ち望みを持たず、斉では王に帰しておそらく望みがあると思った。こうであれば、遇わないという議論は、結局一つに人のほうにあることになる。
或曰:初去,未可以定天命也,冀三日之間,王復追之,天命或時在三日之間故可也。夫言如是,齊王初使之去者,非天命乎?如使天命在三日之間,魯平公比三日亦時棄臧倉之議,更用樂正子之言,往見孟子,孟子歸之於天,何其早乎?如三日之間,公見孟子,孟子奈前言何乎?
ある人は言う。去ったばかりのときはまだ天の命を定められないので、三日のあいだに王がまた追って来るのを望んだのであり、天の命がもしや三日のあいだにあるかもしれないのだから、それでよいのだと。そもそも言葉がこうであれば、斉王が初めに去らせたことは天の命ではないのか。もし天の命が三日のあいだにあるのなら、魯の平公も三日に及んで臧倉の議を捨て、あらためて楽正子の言を用いて行って孟子に会ったかもしれないのだから、孟子が天に帰したのは、なんと早いことか。もし三日のあいだに公が孟子に会ったとしたら、孟子は前の言葉をどうしたであろうか。
孟子去齊,充虞塗問曰:「夫子若不豫色然。前日,虞聞諸夫子曰:君子不怨天,不尤人。」曰:「彼一時也,此一時也。五百年必有王者興,其間必有名世者矣。由周以來,七百有餘歲矣,以其數則過矣;以其時考之,則可矣。夫天未欲平治天下乎?如欲平治天下,當今之世,舍我而誰也?吾何為不豫哉?」
孟子が斉を去るとき、充虞が道で尋ねた。「先生は楽しくないお顔つきのようです。先日、虞は先生から、君子は天を怨まず人を咎めないと聞きました。」孟子は言った。「あれも一時のこと、これも一時のことだ。五百年には必ず王者が興り、その間に必ず世に名のある者がいる。周から以来、七百余年である。その数からすれば過ぎており、その時から考えればよいころである。そもそも天はまだ天下を平らかに治めようとしないのか。もし天下を平らかに治めようとするのであれば、今の世にあって、私を置いて誰であろうか。私がどうして楽しくないことがあろうか。」
夫孟子言五百年有王者興,何以見乎?帝嚳王者,而堯又王天下;堯傳於舜,舜又王天下;舜傳於禹,禹又王天下。四聖之王天下也,斷踵而興。禹至湯且千歲,湯至周亦然,始於文王,而卒傳於武王。武王崩,成王、周公共治天下。由周至孟子之時,又七百歲而無王者。五百歲必有王者之驗,在何世乎?云五百歲必有王者,誰所言乎?論不實事考驗,信浮淫之語;不遇去齊,有不豫之色;非孟子之賢效與俗儒無殊之驗也?五百年者,以為天出聖期也,又言以天未欲平治天下也,其意以為天欲平治天下,當以五百年之間生聖王也。如孟子之言,是謂天故生聖人也。然則五百歲者,天生聖人之期乎?如是其期,天何不生聖?聖王非其期,故不生。孟子猶信之,孟子不知天也。
そもそも孟子が五百年に王者が興ると言ったのは、何によって見たのか。帝嚳が王者であり、堯もまた天下に王たり、堯が舜に伝えると舜もまた天下に王たり、舜が禹に伝えると禹もまた天下に王たった。四人の聖人が天下に王たったのは、踵を接して興ったのである。禹から湯までおよそ千年、湯から周までもまた同様で、文王に始まってついに武王に伝わった。武王が崩じると、成王と周公がともに天下を治めた。周から孟子の時までまた七百年、王者はいない。五百年に必ず王者がいるという証しは、どの世にあるのか。五百年に必ず王者がいるというのは、誰が言ったことなのか。論ずるにあたって事を実際に調べ確かめず、浮いた淫らな言葉を信じ、遇わずに斉を去るにあたって楽しくない顔つきをする。これが孟子の賢さのあらわれが俗儒と変わらないという証しではないか。五百年というのは、天が聖人を出す期限だと考えたのであり、また天がまだ天下を平らかに治めようとしないと言うのだから、その意は、天が天下を平らかに治めようとするなら当然五百年のあいだに聖王を生むということである。孟子の言葉のとおりであれば、これは天が意図して聖人を生むということである。とすれば五百年は天が聖人を生む期限なのか。もしその期限がそうであるなら、天はどうして聖人を生まないのか。聖王はその期限でないから生まれないのである。孟子がそれでもこれを信じるのだから、孟子は天を知らない。
「自周已來,七百餘歲矣,以其數則過矣;以其時考之,則可矣。」何謂數過?何謂〔時〕可乎?數則時,時則數矣。數過,過五百年也。從周到今七百餘歲,逾二百歲矣。設或王者生,失時矣,又言時可,何謂也?
「周から以来、七百余年である。その数からすれば過ぎており、その時から考えればよいころである。」何を数が過ぎたと言い、何を時がよいと言うのか。数はすなわち時であり、時はすなわち数である。数が過ぎたとは、五百年を過ぎたことである。周から今まで七百余年、二百年を超えている。仮に王者が生まれても時を失っているのに、さらに時がよいと言うのは、どういう意味か。
云五百年必有王者興,又言其間必有名世,與王者同乎異也?如同,為再言之;如異,名世者謂何等也?謂孔子之徒、孟子之輩,教授後生,覺悟頑愚乎?已有孔子,己又以生矣。如謂聖臣乎,當與聖〔王〕同時。聖王出,聖臣見矣。言五百年而已,何為言其間?如不謂五百年時,謂其中間乎,是謂二三百年之時也。(聖)〔生〕不與五百年時聖王相得。夫如是,孟子言其間必有名世者,竟謂誰也?「夫天未欲平治天下也,如欲治天下,舍予而誰也?」
五百年に必ず王者が興ると言い、またその間に必ず世に名のある者がいると言うのは、王者と同じなのか違うのか。もし同じなら、重ねて言ったことになる。もし違うなら、世に名のある者とはどういう者を言うのか。孔子の徒や孟子の輩が後生を教え授け、頑なで愚かな者を目覚めさせることを言うのか。すでに孔子がいて、自分もまた生まれている。聖なる臣を言うのであれば、当然聖王と同じ時である。聖王が出れば、聖なる臣が現れる。五百年と言えばそれで足りるのに、どうしてその間と言うのか。もし五百年の時を言うのではなく、その中間を言うのであれば、これは二三百年の時を言うことになる。生まれても五百年の時の聖王と互いに出会えない。こうであれば、孟子がその間に必ず世に名のある者がいると言ったのは、結局誰を言うのか。「そもそも天はまだ天下を平らかに治めようとしない。天下を治めようとするなら、私を置いて誰であろうか。」
言若此者,不自謂當為王者,有王者若為王臣矣。為王者臣,皆天也。己命不當平治天下,不浩然安之於齊,懷恨有不豫之色,失之矣。
言葉がこうであれば、自分が当然王者になるというのではなく、王者がいればその王の臣になるということである。王者の臣になることも、すべて天である。自分の命が当然天下を平らかに治めることにないのに、大らかに斉に安んじることができず、恨みを抱いて楽しくない顔つきをしたのだから、取り損なっている。
彭更問曰:「士無事而食,可乎?」孟子曰:「不通功易事,以羨補不足,則農有餘粟,女有餘布。子如通之,則梓匠、輪輿,皆得食於子。於此有人焉,入則孝,出則悌,守先王之道,以待後世之學者,而不得食於子。子何尊梓匠、輪輿而輕為仁義者哉?」曰:「梓匠、輪輿,其志將以求食也。君子之為道也,其志亦將以求食與?」孟子曰:「子何以其志為哉?其有功於子,可食而食之矣。且子食志乎,食功乎?」曰:「食志。」曰:「有人於此,毀瓦畫墁,其志將以求食也,則子食之乎?」曰:「否。」曰:「然則子非食志,食功也。」
彭更が尋ねた。「士が事をしないで食べるのは、よいのですか。」孟子は言った。「功を通じ合わせ事を取り替えて、余るもので足りないものを補わなければ、農夫に余る粟があり、女に余る布がある。おまえがこれを通じ合わせるなら、大工も車作りもみなおまえのもとで食を得られる。ここに人がいて、家に入れば孝、外に出れば悌で、先王の道を守って後世の学ぶ者を待っているのに、おまえのもとで食を得られない。おまえはどうして大工や車作りを尊んで、仁義をなす者を軽んじるのか。」彭更は言った。「大工や車作りは、その志がこれから食を求めようとするものです。君子が道をなすのも、その志はやはりこれから食を求めようとするものなのですか。」孟子は言った。「おまえはどうしてその志を問題にするのか。おまえに対して功があり、食わせるに足るなら食わせるのだ。それにおまえは志に食わせるのか、功に食わせるのか。」「志に食わせます。」孟子は言った。「ここに人がいて、瓦を壊し壁に落書きをして、その志がこれから食を求めようとするものであったら、おまえはこれに食わせるか。」「いいえ。」「とすればおまえは志に食わせるのではなく、功に食わせるのである。」
夫孟子引毀瓦畫墁者,欲以詰彭更之言也。知毀瓦畫墁無功而有志,彭更必不食也。雖然,引毀瓦畫墁非所以詰彭更也。何則?諸志欲求食者,毀瓦畫墁者不在其中。不在其中,則難以詰人矣。夫人無故毀瓦畫墁,此不痴狂則遨戲也。痴狂人之志不求食,遨戲之人亦不求食。求食者,皆多人所(不)〔共〕得利之事,以作此鬻賣於市,得賈以歸,乃得食焉。今毀瓦畫墁,無利於人,何志之有?有知之人,知其無利,固不為也。無知之人,與痴狂比,固無其志。夫毀瓦畫墁,猶比童子擊壤於塗,何以異哉?擊壤於塗者,其志亦欲求食乎?此尚童子,未有志也。巨人博戲,亦畫墁之類也。博戲之人,其志復求食乎?博戲者尚有相奪錢財,錢財眾多,己亦得食,或時有志。夫投石超距,亦畫墁之類也。投石超距之人,其志有求食者乎?然則孟子之詰彭更也,未為盡之也。如彭更以孟子之言,可謂御人以口給矣。
そもそも孟子が瓦を壊し壁に落書きする者を引いたのは、それで彭更の言葉を詰めようとしたのである。瓦を壊し壁に落書きすることには功がなく志だけがあるので、彭更が必ず食わせないと分かっていたのである。しかしながら、瓦を壊し壁に落書きすることを引くのは、彭更を詰める手立てにはならない。なぜか。志が食を求めようとする者たちのうちに、瓦を壊し壁に落書きする者は入っていない。そのうちに入っていないのであれば、それで人を詰めるのは難しい。そもそも人が理由もなく瓦を壊し壁に落書きするのは、痴れて狂っているのでなければ、ふざけて遊んでいるのである。痴れ狂った人の志は食を求めず、ふざけて遊ぶ人もまた食を求めない。食を求める者はみな、多くの人がともに利を得る事柄によって、こうした品を作って市で売り、代金を得て帰り、そうしてはじめて食べるのである。いま瓦を壊し壁に落書きすることは人に利がないのだから、何の志があろうか。知のある人はそれが利のないことを知っているので、もとよりしない。知のない人は痴れ狂った者と並ぶので、もとよりその志がない。そもそも瓦を壊し壁に落書きすることは、童子が路で壌を打つのと比べて、何が違うのか。路で壌を打つ者は、その志もまた食を求めようとするのか。これはまだ童子であり、志がない。大人が博戯をするのも、壁に落書きする類である。博戯をする人は、その志がやはり食を求めるのか。博戯をする者は、なお互いに銭財を奪い合うことがあり、銭財が多ければ自分も食を得るのだから、時には志があるかもしれない。そもそも石を投げたり距を超えたりすることも、壁に落書きする類である。石を投げ距を超える人に、その志が食を求める者があろうか。とすれば孟子が彭更を詰めたのは、言い尽くしたことにはならない。もし彭更が孟子の言葉をもってしたのであれば、口のうまさで人をあしらったと言えるであろう。
匡章子曰:「陳仲子豈不誠廉士乎!居於於陵,三日不食,耳無聞、目無見也。井上有李,螬食實者過半,扶服往將食之,三咽,然後耳有聞、目有見也。」孟子曰:「於齊國之士,吾必以仲子為巨擘焉。雖然,仲子惡能廉?充仲子之操,則蚓而後可者也。夫蚓上食槁壤,下飲黃泉。仲子之所居室,伯夷之所筑與,抑亦盜蹠之所筑與?所食之粟,伯夷之所樹與,抑亦盜蹠之所樹與?是未可知也。」曰:「是何傷哉?彼身織屨,妻辟以易之也。」曰:「仲子,齊之世家,兄戴,蓋祿萬鍾。以兄之祿為不義之祿,而不食也。以兄之室為不義之室,而弗居也。辟兄離母,處於於陵。他日歸,則有餽其兄生鵝者也。己頻蹙曰:惡用是者為哉?他日,其母殺是鵝也,與之食之。其兄自外至,曰:是之肉也。出而吐之。
匡章子が言った。「陳仲子はまことに廉い士ではありませんか。於陵に住み、三日食べずに、耳に聞こえるものがなく目に見えるものがなくなりました。井の上に李があり、螬が実を食ったものが半分を超えていましたが、這って行ってそれを食べ、三度飲み込んでから、はじめて耳に聞こえるものがあり目に見えるものがあったのです。」孟子は言った。「斉国の士のなかで、私は必ず仲子を親指とする。しかしながら、仲子がどうして廉いといえよう。仲子の身の行いを満たそうとすれば、蚓になってはじめて可能である。そもそも蚓は上では枯れた土を食べ、下では黄泉を飲む。仲子が住む家は伯夷が築いたものか、それとも盗蹠が築いたものか。食べる粟は伯夷が植えたものか、それとも盗蹠が植えたものか。これは知りようがない。」匡章子は言った。「それが何の害になりましょう。彼は自ら履を織り、妻は麻を紡いでそれと取り替えているのです。」孟子は言った。「仲子は斉の世家で、兄の戴は蓋の禄が万鍾である。兄の禄を不義の禄として食べず、兄の家を不義の家として住まなかった。兄を避け母を離れて、於陵に住んだ。ある日帰ってみると、その兄に生きた鵝を贈った者があった。彼は顔をしかめて言った。このがあがあ鳴くものを何に使うのか。ある日、その母がこの鵝を殺して、彼に食べさせた。その兄が外から来て言った。それはあのがあがあ鳴いていたものの肉だ。彼は出て行ってそれを吐いた。
以母則不食,以妻則食之;以兄之室則不居,以於陵則居之。是尚能為充其類也乎?若仲子者,蚓而後充其操者也。」
母によるものなら食べず、妻によるものなら食べる。兄の家によるものなら住まず、於陵によるものなら住む。これでなおその類を満たせるであろうか。仲子のような者は、蚓になってはじめてその身の行いを満たす者である。」
夫孟子之非仲子也,不得仲子之短矣。仲子之怪鵝如吐之者,豈為在母不食乎?乃先譴鵝曰:「惡用者為哉?」他日,其母殺以食之,其兄曰:「是之肉。」仲子恥負前言,即吐而出之。而兄不告則不吐,不吐,則是食於母也。謂之在母則不食,失其意矣。使仲子執不食於母,鵝膳至,不當食也。今既食之,知其為鵝,怪而吐之。故仲子之吐鵝也,恥食不合己志之物也,非負親親之恩而欲勿母食也。
そもそも孟子が仲子をよくないとしたのは、仲子の短所を捉えていない。仲子が鵝を怪しんで吐いたことが、どうして母のもとだから食べなかったことになろうか。彼は先に鵝を責めて「があがあ鳴くものを何に使うのか」と言った。ある日、その母が殺して食べさせると、その兄が「それはあのがあがあ鳴いていたものの肉だ」と言った。仲子は前の言葉に背くことを恥じて、すぐに吐き出したのである。兄が告げなければ吐かなかったであろうし、吐かなければそれは母のもとで食べたことになる。それを母のもとだから食べないのだと言うのは、その意を取り損なっている。もし仲子が母のもとで食べないことを固く守っていたのなら、鵝の膳が出されたときに食べなかったはずである。いますでに食べて、それが鵝だと知って怪しんで吐いた。だから仲子が鵝を吐いたのは、自分の志に合わない物を食べたことを恥じたのであって、親を親しむ恩に背いて母の食を食べまいとしたのではない。
又「仲子惡能廉?充仲子之性,則蚓而後可者也」。夫蚓上食槁壤,下飲黃泉,是謂蚓為至廉也。仲子如蚓,乃為廉潔耳。今所居之宅,伯夷之所筑;所食之粟,伯夷之所樹。仲子居而食之,於廉潔可也。或時食盜蹠之所樹粟,居盜蹠之所筑室,污廉潔之行矣。用此非仲子,亦復失之。室因人故,粟以屨易之,正使盜之所樹筑,己不聞知。今兄之不義,有其操矣。操見於眾,昭晰議論,故避於陵,不處其宅,織屨辟,不食其祿也。而欲使仲子處於陵之地,避若兄之宅,吐若兄之祿,耳聞目見,昭晰不疑,仲子不處不食,明矣。今於陵之宅不見筑者為誰,粟不知樹者為誰,何得成室而居之,得成粟而食之?孟子非之,是為太備矣。仲子所居,或時盜之所筑,仲子不知而居之,謂之不充其操,唯蚓然後可者也。夫盜室之地中亦有蚓焉,食盜宅中之槁壤,飲盜宅中之黃泉,蚓惡能為可乎?在仲子之操,滿孟子之議,魚然後乃可。夫魚處江海之中,食江海之士,海非盜所鑿,士非盜所聚也。
また「仲子がどうして廉いといえよう。仲子の性を満たそうとすれば、蚓になってはじめて可能である」と言った。そもそも蚓は上では枯れた土を食べ、下では黄泉を飲むのだから、これは蚓を至って廉いとしたのである。仲子が蚓のようであってはじめて廉潔なだけだというのである。いま住む宅は伯夷が築いたものであり、食べる粟は伯夷が植えたものだとすれば、仲子が住んで食べるのは廉潔において問題ない。もし時に盗蹠が植えた粟を食べ、盗蹠が築いた室に住むのであれば、廉潔の行いを汚すことになる。これによって仲子をよくないとするのも、また取り損なっている。室は人のつてによるのであり、粟は履と取り替えたのだから、たとえ盗人が植え築いたものであっても、自分は聞いても知ってもいない。いま兄の不義には、その身の行いが現れている。身の行いが人々の目に現れ、議論に明らかであるから、於陵に避けてその宅に住まず、履を織り麻を紡いでその禄を食べなかったのである。それなのに仲子に、於陵の地に住みながら兄の宅のようなものを避け、兄の禄のようなものを吐くことを求めるのであるが、耳で聞き目で見て、明らかに疑いがなければ、仲子が住まず食べないのは明らかである。いま於陵の宅は築いた者が誰か見ておらず、粟は植えた者が誰か知らないのだから、どうしてできあがった室を得て住み、できあがった粟を得て食べずにいられようか。孟子がこれをよくないとするのは、備わりを求め過ぎである。仲子が住むところが時に盗人が築いたものであって、仲子が知らずに住んだからといって、その身の行いを満たしていないとし、ただ蚓になってはじめて可能だと言う。そもそも盗人の室の地中にも蚓はいて、盗人の宅のなかの枯れた土を食べ、盗人の宅のなかの黄泉を飲むのだから、蚓がどうして可能であろうか。仲子の身の行いにおいて孟子の議論を満たそうとすれば、魚になってはじめて可能である。そもそも魚は江海のなかに住み、江海の土を食べるが、海は盗人が掘ったものではなく、土は盗人が集めたものではない。
然則仲子有大非,孟子非之不能得也。夫仲子之去母辟兄,與妻獨處於陵,以兄之宅為義之宅,以兄之祿為不義之祿,故不處不食,廉潔之至也。然則其徒陵歸候母也,宜自齎食而行。鵝膳之進也,必與飯俱。母之所為飯者,兄之祿也。母不自有私粟,以食仲子,明矣。仲子食兄祿也。伯夷不食周粟。餓死於首陽之下,豈一食周粟而以污其潔行哉?仲子之操,近不若伯夷,而孟子謂之若蚓乃可,失仲子之操所當比矣。
とすれば仲子には大きな誤りがあるのに、孟子はよくないとしながらそれを捉えられなかった。そもそも仲子が母を去り兄を避け、妻とともに独り於陵に住み、兄の宅を不義の宅とし、兄の禄を不義の禄として、住まず食べなかったのは、廉潔の極まりである。とすれば彼が於陵から帰って母を見舞うときには、当然自分で食を携えて行くべきであった。鵝の膳が出されたときには、必ず飯とともであったはずである。母が飯を炊いたのは、兄の禄である。母が自分で私の粟を持って仲子に食べさせたのではないことは明らかである。仲子は兄の禄を食べたのである。伯夷は周の粟を食べず、首陽の下で餓死した。どうして一度でも周の粟を食べて、その潔い行いを汚したであろうか。仲子の身の行いは、近づいてみれば伯夷に及ばないのに、孟子はこれを蚓のようであってはじめて可能だと言ったのだから、仲子の身の行いが当然比べられるべき相手を取り損なっている。
孟子曰:「莫非天命也,順受其正。是故知命者不立乎岩牆之下。」盡其道而死者,為正命也。桎梏而死者,非天命也。
孟子は言った。「天の命でないものはないから、その正しいものを順に受ける。だから命を知る者は岩の牆の下に立たない。」その道を尽くして死ぬ者が正命であり、桎梏をつけられて死ぬ者は天命ではないというのである。
夫孟子之言,是謂人無觸值之命也。順操行者得正命,妄行苟為得非正〔命〕,是天命於操行也。
そもそも孟子の言葉は、人に行き当たって遭う命がないということである。身の行いを順にする者が正命を得、みだりに行い間に合わせに振る舞う者が正しくない命を得るのであれば、これは天が身の行いに応じて命ずるということである。
夫子不王,顏淵早夭,子夏失明,伯牛為癘。四者行不順與?何以不受正命?比干剖,子胥烹,子路菹,天下極戮,非徒桎梏也。必以桎梏效非正命,則比干、子胥行不順也。人稟性命,或當壓溺兵燒,雖或慎操修行,其何益哉?竇廣國與百人俱臥積炭之下,炭崩,百人皆死,廣國獨濟,命當封侯也。積炭與岩牆何以異?命不壓,雖岩崩,有廣國之命者猶將脫免。行或使之,止或尼之,命當壓,猶或使之立於牆下。孔甲所入主人〔之〕子(之),天命當賤,雖載入宮,猶為守者。不立岩牆之下,與孔甲載子入宮,同一實也。
孔子は王にならず、顔淵は早く死に、子夏は目を失い、伯牛は癘となった。この四人は行いが順でなかったのか。どうして正命を受けなかったのか。比干は胸を割かれ、子胥は煮られ、子路は塩漬けにされた。天下の極まった刑であって、ただの桎梏ではない。必ず桎梏によって正しくない命を確かめるというのであれば、比干と子胥は行いが順でなかったことになる。人が性命を受けるとき、押し潰され溺れ兵に斬られ焼かれるのが当然の者もあるのだから、たとえ身の行いを慎み行いを修めても、それが何の益になろうか。竇広国が百人とともに積んだ炭の下に臥していたとき、炭が崩れて百人はみな死んだが、広国ひとり助かった。命が当然侯に封じられるものであったからである。積んだ炭と岩の牆とは何が違うのか。命が押し潰されないものであれば、たとえ岩が崩れても、広国の命を持つ者はやはり脱して免れるであろう。行くのは何かがそうさせ、止まるのは何かがそれを妨げるのだから、命が当然押し潰されるものであれば、やはり何かがそうさせて牆の下に立たせるのである。孔甲が入った宿の主人の子は、天命が当然賤しいものであったので、車に載せて宮に入れても、やはり門を守る者となった。岩の牆の下に立たないことと、孔甲が子を載せて宮に入れたこととは、同じ一つの実である。